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O plus E VFX映画時評 2023年6月号
 
その他の作品の短評
  (注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)  
 
   『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(6月2日公開):今年のアカデミー賞で,作品賞・脚本賞にノミネートされ,脚本賞を受賞した作品である。題名からすぐに女性監督映画だと分かる。実話ベースの物語,2010年の出来事,「性被害にあった女性たちの話し合い」だというので,またまた流行の#MeTooものかと思ったが,もっと壮大で重厚な物語であった。
 キリスト教信仰者が自給自足する特殊な村で起きた連続強姦事件で,犯人は捕まったが,事後処理をどうするかで,女性達は投票で未来を決める道を選ぶ。選択肢は「赦す」「男達と戦う」「村を去る」の三択であったが,結果は「赦す」は少数で,残り2案が全くの同数であった。意見が拮抗するというのは現代社会の象徴のようで,米国大統領選,英国のブレグジット,大阪都構想の住民投票を思い出す。それで村民が分断され,確執が起きると想像するのは素人考えだ。決着は3家族,計8人の女性達に託され,彼女らは男達が不在の2日間,納屋の屋根裏部屋で徹底議論するという筋立てである。各人の主張での議論が延々と続くので,少し退屈するが,言い分は論理的であり,倫理観に基づいていた。その最終的な意思決定に女性全員が従うというのが驚きだ。いかに宗教心の篤い均質な社会とはいえ,見事な代議制であり,西洋式民主主義の神髄を見る思いがした。
 映像で見る限り,電話や電気もない住居なので,まるで中世社会かと見まがうが,実際に南米のボリビアで2005〜2009年の長期間にわたり数百人が被害者となった強姦事件だという。この自給自足の宗派はアーミッシュかと思ったが,ほぼ同系統のメノナイトだそうだ。この出来事をカナダ人作家のリアム・トウズが小説にし,女優のサラ・ポーリーが脚本・監督を担当して映画化したという訳である。これが10年ぶりの長編監督4作目であるが,脚色も演出も明らかに上達している。とりわけ,3人の美女,オーナ(ルーニー・マーラ),サロメ(クレア・フォイ),マリチェ(ジェシー・バックリー)の描き分けが見事だった。
 映像的には,のどかで美しい屋外シーンがあるかと思えば,屋内や夜のシーンは極端に彩度を落とした,モノクロに近い映像である。ランプの光だけは明るい色彩なので,19世紀風の生活を象徴したかったのかもしれない。音楽で印象的だったのは,劇中とエンドロールで2度もThe Monkeesの“Daydream Believer”が使われていたことだ。1967年のヒット曲で,CMにもよく使われている明るい曲である。歌詞が内容に関係しているわけでもないのに,なぜこの能天気な曲を選んだのだろう? エンドシーンで生まれたばかりの赤ん坊の姿にこの曲を重ねるというのは,女性達の未来が明るくあって欲しいという願いからだろうか。原作では,The Mamas & The Papasの“California Dreamin'”が物語中で流れる記述になっているという。であれば,劇中ではこちらを流し,楽観的な“Daydream Believer”はエンドソングの一度だけにした方が座りが良いのにと感じてしまった。
 『Rodeo ロデオ』( 6月2日公開):女性監督の映画が続く。ジェンダーニュートラルの時代に突如現れた新星ローラ・キボロンの長編監督デビュー作で,「女性映画新世紀」だそうだ。女性監督作品が充実し,新風を吹き込んでいることは当欄でも再三述べているので,これは見逃す訳には行かない。プレスシートに監督の経歴や顔写真がなかったので,どんな人物か分からなかったが,髪をなびかせ,バイクで疾走する主人公の爽やかな顔がダブってしまう。監督の実年齢は30年代前半のようなので,自分の若き日の姿なのか,少なくともバイク好きであることは間違いない。この監督は既に自らが「ノンバイナリー」であることを公言していて,「ダート・バイクは特別な存在であり,ライダーたちとも友好を深めて来た」と言う。これには少し説明を要する。
「ダート・バイク」とは,小型軽量のマウンテンバイクであり,未舗装道路や林道のようなオフロード走行に適しているようだ。映画中では,このバイクで爆音を立てて公道を走り,アクロバット的な走行をする集団が描かれている。一方,「ノンバイナリー (Non-Binary)」とは,「(身体的特性と関係なく)男性/女性という従来の枠組みに当てはまらないセクシャリティ」だそうだ。「トランスジェンダー」と異なることは分かるが,「ジェンダーレス」とはどう違うのか,筆者には理解できなかった。2分法(Binary)で分類されることを嫌っているなら,「女性監督映画」として扱うことも望ましくない。
 フランス人の少女ジュリアは,好奇心が強く,冒険好きのライダーであったが,ヘルメットも被らず,ハイウェイで危険な走行を繰り返す集団と出会い,その仲間に加わる。同じようなライダー女性が登場するのかと思ったら,彼女1人であり,この集団は男性中心の危険な秘密結社であった。次第に自分の居場所がないことに気づいたジュリアは自らの尊厳を誇示するために荒々しく振る舞うが,やがて強盗事件に巻き込まれてしまう……。今や自転車でもヘルメット着用を求められる時代に,バイクでヘルメットなしは危険極まりなく,ましてや強盗映画となると,これは少年少女に見せてはいけない映画の典型である。その半面,前輪を浮かせての危険な走行は面白そうで,筆者もティーンエイジャーならやりたくなったに違いないと感じてしまった。
 いかにもカンヌ好みの映画だ。「ある視点」部門で,本作のために特別に設けられた「クー・ド・クール・デュ・ジュリー賞」(審査員の心を射抜いたの意)を受賞したのは,男性中心主義社会と戦う少女の姿ゆえのことだろう。主人公が少年なら,この映画は成立しない。それは,「ノンバイナリー」の精神に反するのではないか。真のノンバイナリー人物なら,一々公言せず,男女差を意識させない映画を作っているべきではないかと感じた。その点を気にしなければ,思わず物語の行方が気になる語り口,衝撃的な結末等,演出力は確かであり,次作が楽しみな監督である。
 『怪物』(6月2日公開):ここから邦画が4本続く。既に,本作が今年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で「脚本賞」を受賞したことが大きく報じられている。これまで余り登場しなかった脚本家・坂元裕二の名前が,日頃映画を報じないメディアにも登場している。一昨年の『ドライブ・マイ・カー』(21年7・8月号)と同様,快挙だと騒ぎ,絶賛が続くに違いがない。当欄で是枝裕和監督作品を最初に取り上げたのは,『花よりもなほ』(06年6月号)であった。『奇跡』(11年6月号)以降は全作品を紹介し,そのほぼ全てで高評価を与えているので,当然この最新作には注目していた。主演が安藤サクラで,音楽は坂本龍一の遺作となると期待は膨らんだ。その期待が大き過ぎたのか,試写を見て,少し失望した。過熱報道に反発しているからではなく,以下は初見での失望をそのまま素直に語ることにする。
 前宣伝もかなりあったので,珍しく是枝監督自身の脚本でないことは分かっていた。小学校を舞台とした羅生門型の映画であることも知っていた。そのためもあり,映画の冒頭から,登場人物の行動や発言もしっかり把握した。字幕で区切りは出ないが,3部構成であり,第1部:母親(安藤サクラ)の視点,第2部:保利先生(永山瑛太)の視点,第3部:少年の視点,であることは誰でもすぐ分かる。「怪物」とは何か,普通に解釈すれば,大人が気づかない少年達の心に潜むものだろうが,別の解釈もあるとの含みも持たせた脚本だと感じた。
 なるほど,名のあるプロの脚本家が書いた凝ったシナリオであるが,人物像は物語が進むにつれ別の側面が見えるよう,作為が過ぎると感じた。もっと言うなら,是枝監督が脚本家に遠慮し過ぎているのか,いつもの是枝ワールドの切れがなく,感動を覚えなかった。そのまま描いたら,上映時間が数倍になるので,かなりエピソードを削減したというから,それが説明不足を引き起こしていると思う。例えば,坂本龍一の音楽には耳を凝らすだろうが,第2部のある部分でブラスバンド演奏が聞こえるものの,ほぼ誰もそれを意識しないだろう(筆者は2度目に観て,やっと気がついた)。第3部を見て初めてその意味が理解できるが,これは羅生門型の映画としてはフェアではない。明らかに映画祭狙いであり,脚本家中心の製作サイドが自己満足できる映画を作っただけだというのが,最初の素直な印象だった。
 筆者が最も気に入らなかったのは,第1部での保護者に対する学校側の対応の描き方だ。これは被害者である少年の母親の視点に過ぎず,第2部以降で別の視点が提示されるという言い訳なのだろう。それを考慮しても,校長(田中裕子)や教頭の答弁の描写は,あまりに酷すぎる。真摯な学校改革に取り組む教育者も少なくないはずなのに,それを愚弄するかのような演出だ。この映画は,凡作ではないが,秀作でもない。既にカンヌではビッグネームである是枝監督の最新作が,パルムドールやグランプリに値しなかったゆえに,苦肉の策で「脚本賞」を落とし処にしたのではないかと想像している。
 『渇水』(6月2日公開):同じく漢字2文字の映画だが,当欄の評価は先月の『波紋』(23年5月号)と上記『怪物』の中間である。少なくとも『怪物』よりは上で,人がよく描けていて,ずっと心を打つ演出だ。監督・髙橋正弥はこれまで知らなかったが,森田芳光,阪本順治,宮藤官九郎らの助監督を務めた人物のようだ。企画プロデュース・白石和彌,主演・生田斗真というのが,目に付いた。生田斗真主演作はこれまでも数多く取り上げていて,これが9作目である(そんなに多いとは,数えるまで気づかなかった)。本作のように,正義感の強い主人公が似合う。原作は河林満が書いた同名小説で,1990年に文学界新人賞を受賞し,芥川賞候補にもなったという。30年以上経って,ようやく映画化された訳だが,全く古さを感じさせないテーマだった。
 時代は現代に設定し直し,舞台は群馬県前橋市である。主人公の岩切俊作は市水道局の停水執行係で,毎日料金不払いの店舗や家庭に出向いて,水道栓を閉じる業務を担当している。常に人に嫌がられる損な仕事だ。同僚で後輩の木田拓次(磯村勇斗)とのバディものとして物語は展開する。給水制限が発令される厳しい暑さの中,母親から見捨てられて育児放棄状態にある幼い姉妹と出会った岩切は,業務を逸脱して,姉妹に救いの手を差し伸べる。妻子との関係がうまく行かない彼は,ある日,山中で滝から落ちる大量の水を目にしたことから,思い切った行動を起こして,周囲を驚かせてしまう……。
 何よりも,未納者それぞれの人間模様の描写が秀逸だった。原作者は立川市職員時代にこの小説を書いたというから,リアリティが高いのも頷ける。相棒役の磯村勇斗も注目すべき若手男優で,前出の『波紋』や『東京リベンジャーズ2 血のハロウィン編』2部作にも出演していて,全く異なる役柄を見事に演じ分けている。他の助演陣は,姉妹の母親役が門脇麦,岩切の妻役が尾野真千子で,宮藤官九郎が水道料金滞納者として顔を出している。製作陣の思い入れの強さは『怪物』に勝るとも劣らないと感じたが,主人公に感情移入しやすいという点で,本作に軍配を上げたい。
 『スパイスより愛を込めて。』(6月2日公開):ここでいう「スパイス」とは,カレーの命である香りや辛味を与える香辛料のことだ。当然,様々なカレーが登場し,そのレシピまでが公開されるグルメ映画であり,学園もの青春映画であり,ご当地映画であり,少しバカバカしい設定のウイルス感染のパンデミック映画でもある。ご当地映画だというのは,カレー店の多さで都道府県ランキング3年連続第1位に輝いた石川県の古都・金沢が舞台であり,しっかり石川県,金沢市,小松市,加賀市等の後援・協賛を得ている。当然,ご当地の「金沢カレー」も登場する。一方,ウイルス感染に関しては,SARSをもじった「ナーズ」なる新型ウイルスが世の中に蔓延する。カレーのスパイスがこのウイルス退治の特効薬という噂が流れたため,世界的にカレースパイスが貴重品となり,あらゆるスーパー,食料品の店頭からカレー食材が姿を消し,レストランでもカレーライスを提供できなくなった時代を描いているという訳だ。同じ邦画でも,上記2作が少し重いテーマであっただけに,こういう軽いノリのお手軽映画の方が心が和む。
 監督は瀬木直貴。この監督の作品は初めてだが,過去作に『ラーメン侍』(12)『カラアゲ☆USA』(14) があるところを見ると,食通のようだ。主人公は,母親がカレー料理得意の山本家の長男・蓮(中川翼)とウイルス治療の研究者の父と兄をもつ端目家の長女・莉久で,ともに高校生だ。この両家を中心に物語が展開し,スパイス不足の謎を追う。厚生労働大臣(加藤雅也)の陰謀,死んだ端目陽一が遺した研究データの行方,父と兄の反目の原因等々,盛り沢山の内容になっているが,ちょっと欲張り過ぎで,中途半端な映画になってしまった。本格的な謎解き映画にすれば見応えがあったのだろうが,そこまでの脚本力はない。ストーリーはお粗末でも,何とかグルメ映画としては合格点だ。見終わって,カレーが食べたくなることだけは確かだと言っておこう。
 『逃げきれた夢』(6月9日公開):名脇役の光石研の12年ぶりの主演映画だという。そう言えば,彼の主演作は見たことがない。上述の生田斗真とは大きな違いだ。助演なら,もう数限りない。直近では,『波紋』(23年5月号)での主人公のダメ夫役で観たばかりだ。監督・脚本は,光石をリスペクトする二ノ宮隆太郎で,彼自身も現役の脇役俳優である。既に監督作の数本も海外の映画祭で一定の評価を受けているが,劇場公開の商業用映画はこれが初めてとのことだ。脚本賞の『怪物』と役所広司がドイツ人監督の『Perfect Days』で男優賞を受賞したことばかりが話題になっているが,本作も同じ今年のカンヌ国際映画祭の正式出品作品である。ただし,話題の上記2作が最もメジャーなコンペティション部門であるのに対して,こちらは歴史も浅く,少しマイナーなACID部門(インディペンデント映画普及協会が運営する部門)での上映であった。それでも,約600件の投稿作品から選ばれた9本の出品作の1つであるから,まだ知名度の低い監督としては立派なものである。
 最初から光石研を想定して書かれた脚本は,彼の出身地である北九州市が舞台で,ほぼ全編を同市内で撮影している。光石が演じる主人公・末永周平は,定時制高校の教頭を務める初老の男だ。まだ定年前なのに,しばしば記憶が薄れる自分に愕然としている。人生のターニングポイントに差しかかり,これまでの人間関係を見つめ直すことを決意するが,周囲の反応は冷淡であった。既に冷え切った夫婦関係の妻(坂井真紀)には接触を拒否され,語りかけた娘はスマホを眺めるだけで振り返りもせず,何でも相談して欲しいと持ちかけた生徒達には「先生の人生に自分は関係ない」と一蹴される……。午後からの登校後に教室をくまなく見て回り,生徒が捨てた煙草の吸い殻を拾い集める姿がいじらしい。この彼の可笑しくも切ない行動に,身につまされる男性が多いに違いない。少し下の世代は,「いや,まだ自分はここまでではない」と言い張るかも知れない。娘息子の世代は,ウチの親父もこの通りだと思うことだろう。
 キーとなる登場人物が2人いて,主人公とのやりとりの描き方が見事だった。1人は,旧友でバイク屋を営む旧友の石田啓司(松岡豊)で,久々に酒を酌み交わす2人の会話,帰路に口論する様が微笑ましい。もう1人は,毎日昼食に通う定食屋で働く元教え子の平岡南(吉本実憂)で,彼女から「店員を辞め,手軽に稼げる職に就く」と告げられ,「自分の娘が同じことをしたら?」と問われて,周平は答えに窮してしまう……。松岡豊は九州出身,吉本実憂は同じ北九州市出身であるため,方言丸出しの会話が絶妙の味付けとなっている。特に大きな出来事も起こらない映画であるが,この語り口と人物描写は,単館系作品としては成功している。この監督には,もう少し豪華キャストでのヒューマンドラマを撮らせてみたい。
 『プチ・ニコラ パリがくれた幸せ』(6月9日公開):一転して,ここからはフランス映画2本で,パリ情緒を堪能できる映画だ。「プチ・ニコラ」とは,フランス製の絵本シリーズの人気キャラあり,いたずら好きの少年ニコラが級友たちと織りなす物語を収録した国民的愛読書の題名でもある。その共同作者2人が登場する誕生秘話であり,伝記映画にもなっている。通常なら,俳優2人が作者2人を演じる実写映画として制作するところだが,本作は「プチ・ニコラ」自体の描画タッチのアニメーション映画として作られている。即ち,プチ・ニコラ世界の中に,作者2人の創作風景が描かれ,彼らの回想が盛り込まれ,そこに漫画のニコラが登場して語りかけるという複雑な構成となっている。
 物語は1955年のパリから始まる。イラスト画家のジャン=ジャック・サンペが友人である小説家のルネ・ゴシニに,それまで地方紙に書いていた少年漫画を共同制作で本格化することを持ちかける。即ち,物語をゴシニが,作画をサンペが担当する形で生まれたのが「Le Petit Nicolas」である。全222話が創られ,単行本としては1960年から5巻が発行された。日頃2Dアニメに冷淡な当欄であるが,このアニメ映画の絵柄に,たちまち魅了された。素朴なイラスト画に水彩画風の彩色がなされ,ほのぼの感に浸れている。1960〜60年代のパリがノスタルジックなタッチで登場する。アトリエでの制作風景だけでなく,「プチ・ニコラ」シリーズの代表的エピソードも挿入されるが,元の絵本(漫画本)はモノクロの静止画であるから,この彩色した動画自体は初のアニメ化である。その一方で,両親の愛を得られなかったサンペの過酷な少年時代やナチに蹂躙されたゴシニの親族の物語部分は濃い彩色で描かれ,楽しく,明るい「プチ・ニコラの世界」とはビジュアル的に一線を画している。
 最大の見どころは,1977年に逝去したゴシニを失って悲しむサンペを,少年ニコラが慰め,励ますシーンだろう。この形式のアニメゆえ実現できたシーンだ。監督はアマンディーヌ・フルドンとバンジャマン・マスブルの男女コンビだが,脚本はルネ・ゴシニの娘のアンヌが担当している。一方,長寿であったサンペは,本作で自らグラフィック・クリエーターを務め,2022年6月のアヌシー国際アニメ映画祭でのクリスタル賞(最高賞)受賞を見届けた後,8月に89歳で永眠したという。最期は幸せな人生であったと感じたことだろう。
 『テノール! 人生はハーモニー』(6月9日公開):今度は音楽映画で,パリ・オペラ座(ガルニエ宮)を満喫できる。ここではオペラ公演も行われるが,どちらかと言えば,「世界最高峰のバレエの殿堂」の方が正しい。当欄で紹介した『パリ・オペラ座のすべて』(09年11月号)『新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり』(22年7・8月号)等は,すべてバレエ団の歴史やダンサー達の練習・公演風景を描いた映画であった。ところが,本作のテーマは文字通りのオペラであり,オペラ座を舞台に,オペラ教師やオペラ歌手を目指す練習生たちを描いた物語である。それも単なるオペラ練習生でなく,何とラップ・バトルに明け暮れるフリーターの青年が主役だ。それをプロのラッパーが演じ,美声でオペラ歌唱も披露するというから,その歌唱力も興味の的だ。
 両親を亡くし,ボクサーの兄に育てられているラップ好きの青年アントワーヌ(MB14)は,寿司の出前をオペラ座に届けたところ,練習生たちにからかわれ,オペラの歌真似で美声を披露してしまう。それが一流オペラ教師のマリー(ミシェル・ラロック)に見初められ,2人で秘密のレッスンを続ける内に,ラッパー青年もプロのオペラ歌手に憧れるようになる……という筋立てだ。それだけなら,定番の音楽ものサクセスストーリーなのだが,オペラ一直線ではなかった。ラブロマンスもあれば,兄弟愛も含まれる欲張りな脚本である。何よりも,ラッパーとオペラの組み合わせが面白い。その反面,欲張り過ぎて,物語の盛り上げは少し淡泊だった。
 いや,物語以上の見どころは,特別撮影が許されたというオペラ座内部の壮大さや絢爛豪華さであった。有名な大階段やシャガールが描いた天井画をはじめ,滅多に撮影できないグランド・ホワイエや皇帝のロワンダも登場する。他作品にも登場しなかったシーン,筆者が見学ツアーで訪れた際にも見られなかった光景が続々と登場し,物語展開よりも,こちらに目を奪われてしまった。さて,ビートボクサーのMB14のオペラ歌唱はと言えば,さほどの美声とは思えなかった。世界的テノール歌手のロベルト・アラーニャが本人役で出演するので,どうしてもそれと比べてしまう。それでも,クライマックスのオーディションで歌う「誰も寝てはならぬ」は,しっかり声が出ていて,オペラ歌手の卵程度には感じられた。
 『カード・カウンター』(6月16日公開):マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(76) の脚本担当だったポール・シュレイダーが,本作の監督・脚本を務めている。脚本家としての実績が光るが,監督としても,これが20作目となる。当欄では,彼が50年以上前から構想していた代表作『魂のゆくえ』(19年3・4月号)を紹介した。イーサン・ホークが神父を演じ,自らの信仰心に疑問を感じ始めるという映画であった。
 本作の主演はオスカー・アイザックで,当初はその神父役の候補だったという。ジョージ・クルーニーを悪人面にしたような顔立ちで,脇役・悪役での出演作は数多い。『X-MEN:アポカリプス』(16年8月号)では古代エジプトのミュータントで,現代に蘇り,大騒動を引き起こす凄まじい悪役を演じていた。当欄では,数少ない主演作の『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(14年5月号)と 『アメリカン・ドリーマー 理想の代償』(15年10月号)の両方を紹介している。この両作では多数の映画祭で主演男優賞を,『エクス・マキナ』(16年4月号)では助演男優賞を受賞している。重い役に配された時には,かなりの演技派である一面を見せていることが分かる。
 久々の主演の本作での役柄は,孤独なギャンブラーのウィリアム・テルで,彼の“復讐と贖罪”がテーマとなっている。軍人であった時代に捕虜収容所で罪を犯して投獄され,8年間の服役後,独学でカードゲームを学んでギャンブラーとなったという経歴の持ち主だ。「カード・カウンティング」とは,既出のカードを全て記憶しておき,それ以降のカードを予測して勝負する技法で,それを身に付けてカジノを渡り歩いているという設定である。ギャンブル映画は何本も観たが,こういう役柄は初めてだ。いつもの悪人面ではなく,本作ではク−ルなイケメンとして登場する。共演は,彼を師として慕い,やがて擬似親子のような関係になる青年カーク役に『レディ・プレイヤー1』(18年3・4月号)のタイ・シェリダン,ウィリアムに大金稼ぎを持ちかけるギャンブル・ブローカーのラ・リンダ役にティファニー・ハディッシュ,物語の鍵を握る元上官ゴード役の名優ウィレム・デフォーという布陣で,この4人を中心に物語が展開する。
 主人公のナレーションでカジノの仕組みの解説が入り,不慣れな観客にも分かりやすい。少し小銭を稼いだ経験がある筆者は,またラスベガスに行きたくなった。ライヴショーのライトアップ,ムードを盛り上げる音楽,まさに大人の映画だ。終盤の意外な展開に,なるほど凝った脚本だなと感じる。ただし,観賞後の爽快感はなかった。「贖罪」はこの脚本家の永遠のテーマのようだが,軍隊時代の罪への贖罪意識というのがピンと来なかった。
 『探偵マーロウ』(6月16日公開):この題名を見ただけで嬉しくなった。『メグレと若い女の死』(23年3月号)で「メグレ警視」が約60年ぶりに映画化されたことに感激したが,本作もそれに匹敵する。と言っても,メグレ同様,若い世代は「探偵マーロウ」など知らないだろう。オールドファンなら誰もが,レイモンド・チャンドラーが生み出した私立探偵フィリップ・マーロウを知っているはずだ。謎解きの名探偵ではなく,「ミスター・ハードボイルド」と言うべき存在だった。チャンドラーがマーロウを描いたのは1939〜59年で,長編はたった7作だが,数々の名セリフに痺れた。21世紀になってから,村上春樹が全長編を改題して新訳を発表したので,熱心なハルキストならマーロウも知っているだろう。村上春樹は団塊の世代であるから,若い頃にチャンドラーを愛読していたのだと思われる。
 映画化は戦前からなされていて,ハンフリー・ボガートが演じていた(TVでしか見ていないが)。ジェームズ・ガーナー主演の『かわいい女』(69)は映画館で観た覚えがある。ロバート・ミッチャム主演の『大いなる眠り』(78)が一番新しいようだ。それから半世紀近く経った今,誰がマーロウを演じるのかと思えば,我らがリーアム・ニーソンで,これが出演作100本目だという。少し年齢が上過ぎると思うが,クールでダンディな長身であるから,フィリップ・マーロウと思えなくもない。
 原作は一体何なのだろうと思ったら,2014年に書かれた「黒い瞳のブロンド」だという。何だ,それは? そんな原作は知らない上に,2014年作とはどういうことだ!? この原作小説は,アイルランド人作家のジョン・バンヴィルがベンジャミン・ブラック名義で執筆した「長いお別れ」の続編で,マーロウものの公認作品の1つだそうだ。パッチものの感はあるが,それでもスクリーンでマーロウが観られるのは嬉しいことだ。
 監督・脚本は,『クライング・ゲーム』(92)『ことの終り』(99)のニール・ジョーダンで,村上春樹と同世代である。監督もL・ニーソンもアイルランド出身なので,この原作を選んだのかも知れない。舞台となるのは1939年のロサンゼルスで,ある日裕福そうなブロンド美女(ダイアン・クルーガー)がマーロウの事務所を訪れ,姿を消した元愛人ニコを探してくれと依頼する。彼女がハリウッドの大女優の娘であり,警察ではニコは既に事故死したと扱われていたことから,英国大使やハリウッド映画界も巻き込んだ複雑な展開となる……。1930年代末のハリウッドの描写は興味深かったが,時代の空気まで再現しようとしたのか,少しかったるく,盛り上がりに欠けていた。軽口中心の会話も楽しくなく,かなり脚色されているのか,「長いお別れ」の続編らしくなかった。やはりリーアム・ニーソンは,無敵の戦闘能力を発揮する最近のアクション映画の方が似合っている。
 『世界が引き裂かれる時』(6月17日公開):この映画の原籍は「ウクライナ&トルコ」になっているが,実質ウクライナ映画と考えてよい。題名から,昨年2月24日以来のロシアのウクライナ侵攻のことを描いていると想像するだろうが,そうではない。いくら何でも日々変化し,停戦のきざしすらない現状を劇映画としてまとめられる訳はない。本作は,2014年の東部ドネツク州での状況を,あるウクライナ人妊婦の物語として描いている。即ち,今回の軍事進攻の源流となった出来事がテーマだが,それでも十分悲惨であり,悲憤慷慨してロシア=プーチンを糾弾したくなる映画である。
 2014年7月に起きたマレーシア航空17便撃墜事件を覚えておられるだろうか? アムステルダム発クアラルンプール行きの民間旅客機が地上からの攻撃を受け,乗客乗員298人の命が奪われた事件である。被害者の大半はオランダ人であったことは記憶しているが,墜落場所がこのドネツク州のロシア国境付近であったことは知らなかった。親ロシア派(分離主義者という)と反ロシア派が対立して戦争状態にある地域だが,墜落現場は本作の主人公たちの村の至近距離であった。劇中では親ロシア派による誤射であったとされている(2014年当時はそう考えられていた)が,その後の調査でプーチンの指示であったことが明らかになっている。観客は,そのことも知っておいて観た方が良い。
 監督は,キーウ出身で,ポーランドのアンジェイ・ワイダ映画学校を卒業した女性監督のマリナ・エル・ゴルバチだ。これが監督3作目で,現在もウクライナで映画作りを続けている。まさに,ウクライナ人を代表しての「怒り」をぶつけている映画である。ラスト15分の出産シーンには息を呑み,親ロシア派兵士の振舞いには憤りを感じる。当然,世界にウクライナの惨状,ロシアの暴挙を伝えるために描かれたのだろうが,当のドンバスで撮影できるはずはないので,いつ,どこで撮影されたのかが気になった。本作は,2021年ウクライナ南部のオデーサ地方での撮影だという。2022年2月2日にサンダンス映画祭,2月14日にベルリン国際映画際で上映されているから,2月24日の侵攻以前の映画なのである。現在なら,撮影はおぼつかないし,ウクライナの「怒り」や「惨状」はこんなレベルで済む訳がない。どの国にも内部紛争,意見の対立はあるものだが,自国を愛する反ロシア派を「ネオナチ」と呼んで軍事進攻を決行したプーチンに対して,経済制裁と口先の非難しかできない我が国の首脳にも苛立ちを感じてしまった。
 『To Leslie トゥ・レスリー』(6月23日公開):今年の第95回アカデミー賞主演女優賞部門のノミネート作品で,対象となったのは英国人女優のアンドレア・ライズボローだ。この女優を知らなかった上に,授賞式時点で本作の日本公開は未定で,配給会社も決まっていなかった。残る4候補作は錚々たる顔ぶれで,本作はノミネート自体がサプライズとも言われていた。ところが,ようやく5月下旬に試写を観て,やはりノミネートに値する,かなりの秀作だと感じた。
 ハリウッドの有名な女優たち,グウィネス・パルトロウ,シャーリーズ・セロン,エイミー・アダムス,ケイト・ブランシェット,ケイト・ウィンスレット,ジェーン・フォンダ,ローラ・ダーンらが,本作の彼女の演技を激賞したという。この顔ぶれ自体が凄い。オスカーを得ていない女優を探すのに苦労するほどだ(受賞経験がないのは,7人中ただ1人で,その彼女も主演・助演で計6回もノミネートされている)。それでは,女性ウケする,典型的な女性映画で,監督も脚本家も女性なのかと言えば,全くそうではない。しっかり男性の眼で観ても,深く感じ入るヒューマンドラマである。監督も脚本家もれっきとした男性だ。監督のマイケル・モリスは英国のTV畑出身で,これが劇場用長編のデビュー作である。この監督が子供の頃に見た母親の姿を,脚本担当のライアン・ビナコが包み隠さず,素直に物語に投影させたのだという。
 舞台は米国テキサス州西部の街で,主人公のレスリーは酒浸りのシングルマザーだ。彼女が宝くじに当たって19万ドル(日本円で約2,500万円)を得るところから物語は始まる。それを6年間で使い果たし,今や職なし,宿無しのフーテン生活で,息子のジェームズ(オーウェン・ティーグ)や旧友のナンシー(アリソン・ジャネイ)からも見捨てられてしまう。行き場のないレスリーに,親切なモーテルの管理人スウィーニー(マーク・マロン)が清掃係の仕事をくれるが,前借りした給料をすぐに酒代に使ってしまう有り様だった……。
 自堕落で救いのない人間が登場する映画はいくらでもあるが,レスリーの乱れ方,ダメ人間振りは,超一級品だ。同年代の女性観客も同情はせず,ナンシーのように毛嫌いするだろう。息子や娘の世代からは,母親失格の烙印を押され,口も利いてもらえないはずだ。筆者もスウィーニーのように優しい言葉をかける自信はない。どんな立場の観客も,自分の立場で一言言いたくなる映画となっている。そう感じさせるA・ライズボローの迫真の演技が見事だ。途中で物語の行方,結末の人間模様は読めてしまうが,この映画はそれでいい。途中が悲惨な映画ほど,観客が望む結末であって欲しいものだ。
 音楽はいきなりDolly Partonの歌で始まり,その後も大半はカントリーソングのオンパレードだった。大物はWillie Nelson,故人はWaylon Jenningsも含まれている。カントリーは米国の演歌のようなものだから,人間ドラマにフィットするのは当然とも言える。シンガーソングライターのLinda Perryが,劇中で“The Girl I Am”を,エンドソングとして“Never Say Goodbye”を歌っているが,いずれも歌詞が見事に映画の場面にマッチしていた。それもそのはず,この2曲はこの映画のために書き下ろされた曲のようだ。
 『大名倒産』(6月23日公開):一転して,コミカルで明るい邦画だ。松竹配給でこの題名となると,『武士の家計簿』(10年12月号)の系譜を引く経済学路線を想像するが,『超高速!参勤交代』シリーズのようなコメディ要素をたっぷり含んだ娯楽時代劇も期待してしまう。その後の『殿,利息でござる!』(16年5月号)『決算!忠臣蔵』(19年11・12月号)は,まさにその両方のテイストを盛り込んだ時代劇であった。ただし,本作は経済学者や歴史学者が著した教養書が原典ではなく,原作は人気作家・浅田次郎が週刊誌に連載した長編小説である。それに見合った豪華キャストとなっている。
 舞台となるのは「越後・丹生山藩」で,実在しない架空の藩である。神君・家康公の血を引くとはいえ,幕末近くともなると,地方の3万石の小藩は財政が困窮している。主人公の間垣小四郎(神木隆之介)は,父・作兵衛(小日向文世)の鮭売りを手伝う青年だったが,ある日,先代藩主・一狐斎(佐藤浩市)のご落胤であったことを告げられ,急遽登城して,藩主・松平小四郎になることを命じられる。庶民からお殿様への大出世のシンデレラストーリーかと思いきや,丹生山藩には25万両(現在価値で100億円)の借財があり,期限までに返済できない時は,藩主が切腹をせざるを得ない状況だった。これは,「大名倒産」をし,藩を天領にして逃げ切ろうという先代藩主とその黒幕との陰謀であった。現代風に言えば,計画倒産して会社更生法を申請し,国策会社として政府の買い取らせようという魂胆である。現代ならCEOは退任だけで済むが,江戸時代であるから,藩主が責任をとって切腹する訳である。俄か藩主の小四郎は,この危機を切り抜けることができるのか?
 財政危機,節約,新規ビジネスへの挑戦,その裏にある不正経理,中間搾取も描かれている。現代に通じるテーマで,為政者の心得,経営再建者のマインド等,まるでビジネス映画だ。前半は,原作者も驚くほどの爆笑コメディだが,後半は次第にヒューマンドラマの様相が強くなる。設定は原作と同じだが,終盤から結末は,かなり映画用に脚色されている。
 上記の2人の他,石橋蓮司,浅野忠信,キムラ緑子といった豪華助演陣が毎度お馴染みのハマり役で登場する。小四郎の育ての母役の宮﨑あおい,幼馴染みのさよ役の杉咲花が可愛い。2人とも現代風女性に描かれている。驚きは,小四郎の次兄・新次郎を演じる松山ケンイチである。普通ならお笑いタレントが演じる破天荒な人物だが,これは見てのお愉しみだ。監督は,『そして,バトンは渡された』(21年Web専用#5)『ロストケア』(23)の前田哲。この監督が時代劇を撮るとは思わなかった。若い頃は撮影所の大道具,美術担当だったというだけあって,松竹,東映の両京都撮影所の時代劇セット,二条城,知恩院等の見慣れた光景を巧みに使い分けていて,時代劇としての体裁はしっかり整えられていた。
 『小説家の映画』(6月30日公開):ベルリン国際映画祭の銀熊賞受賞作の韓国映画で,ほぼ全編がモノクロ映像での上映である。題名からは,作家が主人公で,その伝記か代表作の誕生秘話を描いた映画なのかと想像してしまうが,本作は「ある小説家が監督として撮った映画」という意味であった。時代は現代,首都ソウル郊外の河南市が舞台となっている。主人公は,著名作家だが,スランプで長らく執筆していないジュニ(イ・へヨン)で,音信が途絶えていた後輩の女性(ソ・ヨンファ)が経営する書店を訪れる。その帰路,旧知の映画監督ヒョジン(クォン・ヘヒョ)夫妻を見かけ,3人で公園を散歩中に,人気女優であったギルス(キム・ミニ)と出会う。その場で,ジュニはギルスが登場する短編映画を撮ってみたいと申し出て,快諾される。そして,ギルスの義甥で映画制作を学ぶギョンウ(ハ・ソングク)の助力を得て映画は完成し,その上映会が開かれる……。
 小説家,映画監督,俳優,詩人,書店主という,言わば知識人,有名人が会話するシーンが大半なので,知的で,趣味や人生を深く語る会話を想像するが,取り留めのない日常会話ばかりだった。大きな出来事もサプライズもなく,ゆったりと物語は進行する。速いテンポでセリフに無駄のない映画を見慣れていると,違和感を感じてしまう。その一方,ジュニがヒョジン監督の言動を糾弾し,論破するシーンには思わずたじろぐ。女性たちの飲酒,喫煙シーンも多く,こういう強い主張の女性が主人公の映画は,女性監督の作品と思ってしまうが,多作で知られる男性監督ホン・サンスの第27作目であった。第24作『逃げた女』(21年5・6月号)と同様,最近は女性主人公の心理描写にご執心のようだ。第26作『あなたの顔の前に』(22年5・6月号)も姉妹が主人公だったが,年下の男性映画監督がかつての人気女優に「あなたの映画を撮りたかった」と懇願する長回しシーンがあった。本作はその裏返しの演出なのか,映画撮影の約束があっという間に成立する。
 それなら,テーマやシナリオを語る場面,映画の撮影風景が登場すると思ったが,全く何もなく,いきなりの上映会だった。劇中で上映されるのは,47分の映画のラスト4分間だけで,それが途中から鮮やかなカラーに転じる。ここをカラーしたかったゆえに,残りをすべてモノクロ映像にしたのだろう。銀熊賞を3年連続4度目の受賞らしいが,この監督がなぜこれほど高評価を受けるのか理解できない。どの映画も,狐につままれたような気分になる。何とか,この監督の意図するところを読み取ろうと挑戦したのだが,今回も完敗であった。
 『オレンジ・ランプ』(6月30日公開):39歳でアルツハイマー型認知症と診断された夫と妻の9年間の奮闘を描いている。原作は実在の人物・丹野智史氏をモデルにした同名小説で,作者の山岡秀幸が企画・プロデュース・脚本も担当している。介護・医療・地域創生などをテーマとした映画をプロデュースし,市民ホールや学校での非劇場公開を続けている同氏の活動の一環だが,本作を劇場公開に踏み切ったのは,それだけ広く知ってもらいたい素材なのだろう。『あしたはきっと…』(01)『あしたになれば。』(15)の三原光尋監督がメガホンをとっている。
 只野晃一(和田正人)は,カーディーラーのトップ営業マンで,妻・真央(貫地谷しほり)や2人の娘と円満な家庭を築いていた。ある日から,顧客との約束や名前さえも忘れてしまう異変が生じ,困惑する。まだ40歳に満たない彼に医師が下した診断は「若年性アルツハイマー型認知症」だった。驚きと不安の日々の中でも症状は進行する。周りの理解が得られぬまま,仕事にも支障を来すようになり,一旦は退職を決意する。ある時「人生を諦めなくていい」と気付いて,只野夫妻の意識が変わり,周りの支援も得られるように環境も変化する……。認知症は高齢者のものと思われているゆえ,若年でも有り得ると知っても,同世代には他人事としか思えない。既に高齢者に分類されている筆者の世代とて大差はない。過度の同情は禁物で,避けて通ったり,哀れに思うのでもなく,正しく理解した上で,サポートすることの大切さを教えてくれる映画である。ある種の啓蒙映画であり,映画としての出来映えや演出,演技を論じる対象ではないと思いつつも,以下で少しだけ触れておこう。
 筆者の注目は,主演の貫地谷しほりであった。珍しい名前ゆえ,以前から知っていたが,「琴ちゃん役の貫地谷しほりも魅力的」と書いて,強く意識し始めたのは行定勲監督の『パレード』(10年3月号)だった。初主演作の『くちづけ』(13年6月号)の知的障害のある娘役では,「役者人生で最高の演技の1つだろう」「泣ける映画の歴史にも名を残す佳作」と評している。この数年,重い役での出演作を観ていなかったが,本作で容色も体型もかなり変わっていることに気付き,少し驚いた。年齢を考えれば当り前のことだが,こうした妻役,母親役も結構似合っている。本作は余り個性的な演技を要求される映画ではなかったが,若い頃から演技力は確かであり,年齢相応の役で好演する女優になるだろうと感じた。一方,別の認知症の夫をもつ妻役の中尾ミエは,この何十年も全く印象が変わらない。声も若々しい。化け物だ。他の共演者では,職場の社長役の赤井英和,認知症の先輩役の山田雅人の関西弁が本物であるため,激励,助言等の言葉にリアリティがあり,映画全体が和んでいた。そう言えば,原作者も監督も大阪人だった。
 『東京リベンジャーズ2 血のハロウィン編 -決戦-』(6月30日公開):人気コミックの映画化作品『東京リベンジャーズ』(21年Web専用#3)の続編2部作の後編である。半グレのヤンキー青年たちを描いたコミックは数多いが,前作はなかなかの快作で,当欄でも高評価した。原作を知らなくても楽しめる映画化の成功例で,興行的にも大ヒット作となった。そうなると,続編は2部作にして二重に稼ごうというのはお決まりのパターンであるから,それは特筆に値しない。困ったのは前編『…血のハロウィン編 -運命-』が,単独で紹介するに値しない映画であったので,前後編をまとめて紹介できるまで待たざるを得なかった。加えて,後編の試写を観る機会を逸したので,公開日に映画館で観るまで本稿を書けずに出遅れてしまった次第である。
 少し復習しておこう。主人公はフリーターのタケミチ(北村匠海)で,偶然,自分が10年前にタイムリープできる特殊能力の持ち主であることを知る。前作は,彼女のヒナタ(今田美桜)とその弟・ナオト(杉野遥亮)が犯罪集団「東京卍會(東卍)」の抗争に巻き込まれたことから,タイムリープを繰り返して彼らを救う物語だった。ヤンキー青年たちはいずれも個性的で,彼らのバトルアクションの描写にもキレがあった。とりわけ,東卍の総長・マイキー(吉沢亮)と副総長・ドラケン(山田裕貴)が魅力的に描かれていた。
 続編の前編では,タケミチの目の前で東卍の手により,再び東卍の手によりヒナタが殺されてしまう。タケミチは現在と過去を往復してその原因を探る内に,東卍の巨悪化の原因や敵対する組織「芭流覇羅(ばるはら)」との抗争や複雑な関係が浮かび上がる……。この前編でまず困ったのは,場地(永山絢斗),一虎(村上虹郎),千冬(高杉真宙)等々の物語の鍵を握る登場人物が一挙に増えて,物語の構成がさっぱり分からなくなったことだ。原作コミックは個性的なルックスで描き分けているが,近い年代の男優ばかりなので,簡単に見分けがつかない。しかも,悪意をもって陰謀を企む人物であったり,かつては東卍の設立メンバーの親密な関係がなぜか敵対する関係になっていたりで,原作コミックの熱心な読者でない限り,とても把握できない。ようやく,少し識別できるようになったところで,クライマックスも決着もなく,思わせぶりに前編が突然終わってしまった。
 さて,後編の本作である。前編でアクションは殆どなかったが,その分,後編の大半は看板の「血のハロウィン」のバトルが延々と続く。東卍と芭流覇羅の数十人ずつが巨大な廃車倉庫内で対決する。すさまじい闘いと言いたいところだが,じっくり見るとチンタラ戦っている俳優もいた(笑)。因縁の対決や裏切りもあっての決着パートのドラマもやたらと長い。原作の重要エピソードなので1本に押し込むには無理があるが,2本にするには引き伸ばすしかなく,監督も脚本担当も苦労したことだろう。原作やアニメ版のファンは,映画版でどれだけの改変があるのか気にしたようだが,ほぼ原作通りだと言っておこう。原作コミックの単行本は現在33巻まで発行されているが,この映画では第8巻69話までしかカバーできていない。シリーズはまだまだ続くので,そう大きく逸脱する訳には行かなかったのだろう。
 そうそう,大きな注目ポイントがあった。公開2週間前に大麻取締法違反の容疑で警視庁に逮捕され,現在収監中の永山絢斗の扱いである。東京卍會結成時のメンバーで壱番隊隊長であったのに,芭流覇羅に寝返った「場地圭介」なる重要人物を演じている。彼を芭流覇羅から連れ戻すというのが本作のテーマであるから,公開中止も出演シーンのカットもできない。彼の暴力的で破滅型の役柄に「薬物逮捕」は何の違和感もなかった。むしろいい宣伝材料になったのではないかと思えてしまった。
 
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