O plus E VFX映画時評 2025年6月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から,
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の順で,その中間に
をつけています)
■『ザ・コンサルタント2』(6月5日配信開始)
8年前に当欄で絶賛した『ザ・コンサルタント』(17年1月号)の続編である。原題『The Accountant』(「会計士」の意)を少し意訳していたため,続編の本作もそれを踏襲している。監督:ギャヴィン・オコナー,主演:ベン・アフレックのコンビだけでなく,主要登場人物や製作・脚本・撮影・編集等のスタッフも続投であったので,前作並みの痛快クライムアクション映画が期待できた。欧米では4月最終週に公開され,北米のTop10に長くライクインしていた。ところが,国内では劇場公開はなく,ようやく6月上旬になってから,Amazon Prime Videoでのネット配信が始まった。早速眺めて観たのだが,アクション映画としては楽しめたものの,今一つ納得できない箇所が多々あった。そこで,改めて前作と本作をじっくり見直してから,紹介することにした。
時代設定は前作の8年2ヶ月後で,米国財務省金融犯罪取締局の元局長レイモンド・キング(J・K・シモンズ)は辣腕女性スナイパーのアナイス(ダニエラ・ピネダ)と会い,両親と少年が写った家族写真を見せ,彼らの居所調査を依頼する。そこにアナイス殺害を狙った一味が乱入し,彼は巻き添えで射殺される。元部下で副局長のメリーベス・メディナ(シンシア・アダイ=ロビンソン)は捜査に乗り出し,キングの遺体の腕に「会計士を探せ」の文字が残されていたので,以前の事件でキングが利用した裏社会の会計士クリスチャン・ウルフ(B・アフレック)に連絡をとる。クリスはたちまちキングが収集していた資料を繋ぎ合わせ,写真の家族はエルサルバドルからメキシコ経由で米国に入り,母親の勤務先のピザ会社が人身売買に関与していたことを突き止める。
その背後に大掛かりな人身売買計画が進行していることを察知したクリスは,しばらく疎遠であったプロ暗殺者の弟ブラクストン(ジョン・バーンサル)に応援を求める。クリスの作戦協力者ジャスティーン(声:アリソン・ライト)の情報で少年アルベルトがまだ生きていることを知り,ウルフ兄弟は多数の少年少女が収監されているメキシコのファレスに乗り込む……。
前作でクリスとコンビを組んだ経理職員ディナ(アナ・ケンドリック)が登場しないのが,少し残念だった。本作の戦闘能力の高いアナイスは謎の女性であり,役割が異なる。その分,前作にも登場したメディナと弟ブラクストンの出番が飛躍的に増えている。とりわけ,法を遵守したい行政官のメディナが,破天荒で暴力的なウルフ兄弟の行動に呆れるシーンは抱腹絶倒ものであった。
脚本的には大きな見どころが2つあった。ジャスティーンはハーバー神経科研究所の少年少女チームを率い,世界中のPCやデータセンターをハッキングして,恐るべきスピードで貴重な映像を盗み出す。その見せ方が魅力的だ。所詮,映画ならではの絵空事と思いつつも,米国やロシアの諜報機関なら,現実にこれに類したことをやっているのではと感じさせる。もう1つは,記憶喪失になった人物が,「後天性サヴァン症候群」によって,超人的なパターン認識や問題解決能力,高度な戦闘能力を得るという描写である。脳損傷をきっかけに,前頭葉と頭頂葉の働きが活性化し,脳内の配線がやり直されたという解釈である。この症候群自体は,実際に自閉症スペクトラムの発達障害者に見られる現象であり,それをアクション映画の脚本の盛り込むセンスに脱帽した。
さて,筆者が初見では,本作に少し違和感を感じ,しっくりしなかった点である。主要キャストの特性や人間関係は本作だけで理解できるようになっていたが,軽口として登場するセリフや仕草,何げなく登場する小道具類は,前作の細部の描写に基づいていると感じた。主人公のクリスが高度な数学的能力と狙撃能力の両方をもっているゆえ,このシリーズの面白さがあることは記憶していたが,それ以上は覚えていなかった。クリスは子供時代から高機能自閉症であり,戦闘能力は軍人の父親に鍛えられたこと,絵画と音楽に大きな関心があること,子供時代から友人と呼べるのは弟だけであったこと,クリス,ブラクストン,ジャスティーンは同じ自閉症児童施設で育ったこと等々は,前作を見直して思い出した。地味な分析官のメディナは,彼女の秘密を握る上司のキングに脅迫されて,犯罪捜査に従事する調査官に転属させられたことも知っておいた方が本作を理解しやすい。その一方,独身のクリスは女性扱いが苦手で,婚活にも失敗続きであることは,本作で新登場である。
そこまで知った上でないと,続編を満喫できないのかと言えば,答えはほぼYESである。シリーズの過去作のトリビアに拘るファンが一層楽しめるような仕掛けになっている。幸い,Amazon Prime Videoでは追加料金なしで前作が観られるので,まず前作を観てから本作を観るか,筆者と同じように本作→前作→本作再見の過程を経ることをオススメする。
■『テルマがゆく! 93歳のやさしいリベンジ』(6月6日公開)
題名だけで,わくわくする映画である。一瞬,『テルマ&ルイーズ 4K』(24年2月号)は1991年の映画の4K版であったから,あのテルマが30年以上経って93歳で登場するのかと思ったが,2人でグランドキャニオンに飛び込んだのだから,生きている訳はない。年齢的にもまだ93歳ではない。もう1本ノルウェー製の極上サイコホラー『テルマ』(18年Web専用#5)があり,ハリウッドリメイクされるとのことだったが,大学生の主人公テルマはもっと年齢が合わない。
『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(14年3月号)でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされたジューン・スキッブが,まさに93歳にして映画初主演を果たしたという映画である。『九十歳。何がめでたい』(24年6月号)の草笛光子も題名通りの90歳であったが,今年の『アンジーのBARで逢いましょう』』(25年4月号)の主演は91歳のはずだ。J・スキップの方が2歳勝っている(現在は95歳)。元々は舞台女優で,1960年代にブロードウェイ・デビューを果たし,映画出演は60歳を過ぎた1990年代からのようだ。そんな老女優版の「ミッション:インポッシブル」というので,どんなアクション場面が登場するのか楽しみだった。
テルマは夫に先立たれ,寂しくも気楽なひとり暮らしを送っていたが,気心が合う可愛い孫のダニエル(フレッド・ヘッキンジャー)とは一緒に外出したり,PCの使い方も教わっていた。ある日,ダニアルから電話が入り,妊婦相手に交通事故を起こしてしまい,逮捕されたので保釈金1万ドルを払って欲しいと訴える。一刻を争うと焦ったテルマはタクシーで郵便局に向かい,指定された宛先に札束入りの封筒を投函してしまった。やがてダニエルや彼の母のゲイル夫婦とも連絡が取れ,「オレオレ詐欺」に騙されたことが判明する。落ち込んだテルマは,トム・クルーズが「ミッションはポッシブル」と語る新聞記事を読んで一念発起し,お金を取り戻す決意をする。高齢者ホームに住む旧友のベン(リチャード・ラウンドトゥリー)を伴い,彼の電動スクーターでLAの街を疾走し,詐欺師の自宅を突き止めるが……。
そう言えば,『ネブラスカ…』も,詐欺だと知らず,当選した懸賞金を受け取りに老人が息子と一緒に旅する物語であった。J・スキップは途中からバスで駆けつける主人公の老妻役だったが,家族ぐるみのハートフル・コメディという点では共通点を感じた。最も笑ったのは,孫と一緒に『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』を観ていて,「これはスタントマンでしょ」と語るシーンだった。さすがに93歳の老女に危険なアクションを演じさせることはなかったが,それでも彼女が電動スクーターを自ら運転し,親友の銃を持ち出して,詐欺師たちに突きつけ,さらに発砲するのには驚いた。
果たして1万ドルを取り戻せるのかは,観てのお愉しみとしておこう。監督・脚本・編集はジョシュ・マーゴリンで,本作が長編デビュー作である。テルマ・ポストは彼の祖母の実名で,「オレオレ詐欺」に遭遇したのは実話だが,送金せずに未然に防げたという。ベン役のR・ラウンドトゥリーは1970年代の『黒いジャガー』シリーズの主演でデビューしたが,その後は『大地震』(74)『セブン』(95)『スピード・レーサー』(08年7月号)等,多数の映画に脇役として出演したベテラン男優だが,2023年に81歳で他界したので,本作が遺作となった。
■『We Live in Time この時を生きて』(6月6日公開)
既に何度か難病ものの恋愛映画は苦手だと書いた。単なる若い男女のラブストーリーでいいのに,途中から突如として難病で余命僅かと言い出す場合は,無理に悲恋に仕立てる作為を感じるからだ(特に,韓国映画)。一方,良作で,感動もののヒューマンドラマの場合,感情移入してしまい,何とかならないものかとやきもきしてしまう(コメディやSFでない限り,有り得ないが)。そう思いつつ,また観ることになってしまった。渋々でなく,積極的に観ようとしたので,言い訳をしておく。
1にも2にも,主演がフローレンス・ピューであったことだ。今最も輝いている女優で,どの出演作も観たくなる。元々,作品毎に違った顔を見せる女優で,出世作の『ミッドサマー』(19)でのパニック障害の女子学生は強烈な印象を残し,一方『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(同)では,四姉妹の美しい末娘で,映画としては次女の引き立て役であった。最近では,『デューン 砂の惑星 PART2』(24年3月号)でほんの少しだけ登場する可憐な皇女であり,マーベル映画『サンダーボルツ*』(25年5月号)では超人の悪漢たちを率いるしっかり者の主人公である。この落差が際立っていた。本作は,予告編だけ見ても別の人物かと思う様々な表情を見せていたので,余計に興味深かった。
主人公は,新進気鋭の女性シェフのアルムート(F・ピュー)とシリアル会社勤務の夫・トビアス(アンドリュー・ガーフィールド)である。離婚同意書に署名する筆記用具を探して夜中に道路を渡ろうとしたトビアスを,アルムートが車で撥ねてしまったという奇縁である。意気投合した2人は恋に落ち,結婚して一女をもうける。この運命的な出会いが分かるのは,映画が始まってからしばらくしてからだ。まずアルムートが朝食を作っていて夫を起こすシーンから始まり,妊娠中の姿,一旦は寛解したはずの卵巣癌が再発したことを主治医から告げられる場面が先に登場する。かく左様に,時間が何度も往き来するので,頭の整理が必要だ。時間順に並べ直すと,交通事故,恋愛,結婚,初期癌の治癒,出産,再発,余命宣告の順である。過酷な癌治療で延命して1年間を過ごすより,投薬せず,楽しく有意義な半年間を送る決断をする女性の物語である。末期癌である彼女は,世界最高峰の料理コンクール「ボキューズ・ドール」への参加を勧められ,欧州予選を勝ち抜く特訓を始める…。
監督は『ブルックリン』(16年7月号)で3部門ノミネートを果たしたジョン・クローリーだった。時間軸上の移動はかなり頻繁であったが,美形のF・ピューを凝視していたので,髪形やメイクの違いから,どの時代であるかは特定できた。恋愛から結婚まではまるで10代かと思う愛らしさだ。妊娠・出産時,育児期,闘病の苦しさで,それぞれ別の顔を見せる。終盤,坊主頭にしてコンクールに挑戦する姿は,さらに別人である。
行動派のアルムートと慎重派のトビアスの対比は,最近の男女関係の縮図のように見えた。明確な意志と目標をもった現代女性の姿である。涙なしで観られるラストシーンも爽やかだった。本作は,単なる難病映画でなく,「ボキューズ・ドール」のシーンは予想外の嬉しいオマケであった。時間に追われつつ,必死で予定した料理を作り終えるコンクールの模様は,さながら欧州版「料理の鉄人」あった。
■『MaXXXine マキシーン』(6月6日公開)
原題『MaXXXine』だけだと,何と読んで良いか分からないが,しっかり読み方も付されている。本作だけでなく,タイ・ウェスト監督&ミア・ゴス主演の過去作は,『X エックス』(22年Web専用#4)『Pearl パール』(23年7月号)と,どれも片仮名表記が付されていたから,親切心で付いたのではない。実は本作は,3部作の完結編であり,XXXは3本目であることを暗示している。
題名『X エックス』だとシンプル過ぎて覚えておられない読者のために少しおさらいしておこう。大ヒットしたTVシリーズ『X-ファイル』とは無関係で,「史上最高齢の殺人鬼夫婦」の映画と言えば,思い出されるだろうか。俳優とスタッフの6人が斬新なポルノ映画を製作しようとテキサスの農場にやって来たが,老夫婦が彼らを次々と惨殺する映画であった。女優志望であった老婆Pearlの若き日を描いたのが2作目であり,1人だけ逃げ出して生き残った女優Maxineが,本作の主人公なのである。それを全部ミア・ゴスが1人で演じていられるのは,第1作で,特殊メイクの老婆Pearlと若いポルノ女優Maxineの二役を演じていたからである。
本作の舞台は,『X エックス』から6年後,1985年夏のハリウッドで,マキシーンは33歳になっていた。ストリッパー出身でポルノ映画界のトップ女優となったが,ハリウッドスターへの夢を実現すべく,まずホラー映画への転身を図る。ヒット作『ピューリタン』の続編のヒロイン・オーディションから物語は始まり,マキシーンは見事に主役の座を射止める。厳しい女性監督ベンダー(エリザベス・デビッキ)の演出の下,『ピューリタンII』の撮影は順調に進むかと思えたが,関係者が次々と連続殺人鬼ナイト・ストーカーの犠牲になる。マキシーンはFBI捜査官ウィリアムズ(ミシェル・モナハン)からマークされ,6年前の惨殺事件の真相を追う私立探偵ラバット(ケヴィン・ベーコン)につきまとわれ,さらに連続殺人犯の正体を知ってしまったことから……。
3部作全てで映画に関係しているが,1985年と言えば,俳優出身のレーガンが大統領に就任した年である。本作では,有名なハリウッド大通りを1985年風に装飾して撮影しているかと思えば,ユニバーサル・スタジオ内の随所で撮影し,ヒッチコックの名作『サイコ』(60)に登場する伝説のベイツ・モーテルにマキシーンを逃げ込ませている。連続殺人鬼ナイト・ストーカーも当時のハリウッドを震撼させた実在の事件だ。劇中では過去の名作のシーンが多数登場し,セリフの中に当時の大スターの名前が次々と出てくる。そして,劇中歌とエンドソングで「グレタ・ガルボの溜め息,ベティ・デイヴィスの瞳」なる歌詞が繰り返される。いくら何でも,サイレント時代のこの両女優は古過ぎないかと思ったが,この曲は1981年に大ヒットした年間代表曲「ベディ・デイヴィスの瞳」であった。知らなかった。
「ポルノ映画撲滅,ホラー映画は低俗」のデモ行進まで盛り込んでいて,笑ってしまった。連続殺人犯の危機がマキシーンに迫るホラーは,適当に書いた脚本に過ぎない。タイ・ウェスト監督は1980年生まれの44歳で,幼児期のことまで覚えていないだろうが,嬉々として1985年のハリウッドを再現することに徹していた。
■『リロ&スティッチ』(6月6日公開)
『リトル・マーメイド』(23年6月号)『白雪姫』(25年3月号)に続く,人気ディズニーアニメの実写リメイク作である。かつてのセル調2DアニメがCG/VFX導入で生まれ変わっているから,メイン欄で語るべきなのだが,本作は文字だけの論評に留めた。最近のメイン記事は,資料性を重視して,長文&多数の画像入りで解説しているため,かなり時間がかかる。既に積み残しが生じているため,何作かはVFX解説抜きで済まそうとしたのが最大の理由である。初見での筆者の評価が最低レベルに近かったため,早速、本作をその対象にした次第だ。
前2作は,有色人種の主演女優を起用したため,世界中で酷評に晒された。当欄もディズニー製作陣の事なかれの政治的配慮を残念に思い,実写リメイクに対する安易な考えにも批判的立場を表明した。ところが,本作に関しては,元々2002年製作のアニメ版を観ていない。それなら,純粋にCG/VFX多用作の新作と見做して評価できると思ったのだが,第一印象は最悪に近かった。全くの子供だましの駄作であり,宇宙から来た生物兵器のスティッチも地球人の登場人物も「醜悪」に感じた。CGで描いた他の宇宙人もお粗末極まりがなかった。
もう少し正確に背景を述べておこう。当欄では,ディズニーアニメ(WDA作品)の第41作から第45作までを取り上げていない。同じディズニーブランドで配給されるピクサーのフルCG作品が快進撃を続ける中で,依然として2Dアニメから脱却できないWDAに目を向ける余裕がなかった。1970年代から80年代中盤までの「第1次暗黒期」につぐ,ディズニーアニメの「第2次暗黒期」と言われていた。そんな中で,第42作の『リロ・アンド・スティッチ』(02)は予想外に高評価を得て,興行的にも検討していた。それゆえ,今回のリメイク対象になったのだろう。アニメ版の監督・脚本担当を調べて驚いた。後に,筆者のお気に入りの『ヒックとドラゴン』シリーズを生み出し,今年絶賛した『野生の島のロズ』(25年2月号)のクリス・サンダース監督ではないか。それなら観るに値すると考え,Disney+でアニメ版を視聴したところ,これなら☆☆+以上の評価を与えて好いと思える佳作だった。ただし,C・サンダースは,本作では引き続きスティッチの声を担当しただけである。
アニメ版は,地球人も宇宙人もかなり誇張した画調であった。舞台はハワイのカウアイ島であるので,少女リロも姉のナニも原住民の有色人種であり,これなら実写リメイク版が政治的配慮で酷評される心配はない。米国では,アニメ版を知る親世代も家族連れで足を運ぶかと予想したが,日本より1週間早い公開で,今年No.1のメガヒットとなっている。そこまでとは,別の驚きであった。さりとて,筆者の本作に関する評価は変わらない。
内容紹介は最小限に留める。違法な遺伝子操作で生まれた凶暴な生物兵器の試作品626号は銀河系から追放扱いになるが,地球のハワイ・カウアイ島に漂着する。両親を事故で失った孤独な少女リロ(マイア・ケアロハ)が犬と間違えて626号をもらって帰り,「スティッチ」と名付ける。予測不能なスティッチの行動は騒動を引き起こし,リロは失業した姉ナニ(シドニー・アグドン)と離れ離れにされることになる。スティッチを追って来た宇宙人たちとの一連の出来事の結果,リロとスティッチの深い絆が認められ,ハッピーエンドに終わる。ハワイ語の「アロハ」「オハナ(家族)」をテーマとした物語なので,それに感激する観客がいても不思議ではない。
筆者が嫌ったのは,お子様映画でありながら,登場人物のルックスが爽やかでなかったからだ。リロ役の少女はおよそ可愛くないし,隣人のトゥトゥや社会福祉局員のケコア夫人は「醜女」とまでは行かないが,どちらかと言えば「嫌な顔」である(演技なのかも知れないが)。リメイク作ではディズニー流の美女は登場させないという方針を強く出しているだけでなく,本作では有色人種の先住民を低く見ている上から目線に思えた。
CGクリーチャーのスティッチは,アニメ版よりもかなり醜悪で不気味に感じた。子役俳優に比べて,顔が大きく,リアルな体毛も気味が悪い。一方,エイリアンの1つ目小僧や銀河連邦議長の稚拙なCGデザインは,アニメ版をほぼ忠実に3D-CG化したためと分かったが,単独の映画として観た場合には,やはりお粗末と言わざるを得ない。当初,本作は評価であったが,それを
まで引き上げたのは,挿入歌の歌唱である。リロはエルヴィス・プレスリーが大好きの少女という設定だが,アニメ版では他の似せた歌手のカバー歌唱で済ませていた(低予算のため?)。それが本作では,しっかりエルヴィス本人のオリジナル歌唱を使っていた(計5曲?)。
もう1点,本作のマスコミ試写は「日本語吹替版」で観たことを断っておきたい(字幕版を観る機会がなかった)。『ソニック・ザ・ムービー/ソニック VS ナックルズ』(22年7・8月号)『ソニック × シャドウ TOKYO MISSION』(24年12月号)でも語ったように,日本語吹替版のセリフは余りにも幼稚過ぎる。その違和感が単独の実写映画としての質を落としていると感じる。アニメ版なら許せた誇張が,実写リメイク(吹替版)ではマイナス要因になっているのである。前2作と同様,本作も「実写+CG/VFX」でなく,フルCGアニメ化した方が,ずっと好い映画になったと思う。
■『国宝』(6月6日公開)
前評判通りの凄い映画であった。4月号の『花まんま』を本年度邦画のBest 1と書いたのだが,早速その言を修正せざるを得ない超弩級の傑作である。原作・吉田修一,監督・李相日の組み合わせに興味をもった。人気作家・吉田修一の小説は映画化されることが多く,本作で12本目となる。当欄では,『パレード』(10年3月号)『横道世之介』(13年3月号)『楽園』(19年9・10月号)『太陽は動かない』(21年Web専用#1)の4本を取り上げたが,作品の評価はかなりバラつきがあった。一方,李相日監督作品も長編はこれが12本目となるが,当欄で紹介した3本『フラガール』(06)『許されざる者』(13年10月号)『流浪の月』(22年Web専用#3)はすべて評価であった。既に『悪人』(10)『怒り』(14)のノワールもので成功していたが,この監督なら,ジャンルの異なる本作も秀作に仕上げるに違いないと期待したのである。
加えて,主演・吉沢亮,共演・横浜流星という組み合わせも頗る魅力的であった。ただし,歌舞伎の女形として芸の道に人生を捧げた男の物語であるので,歌舞伎界出身でない若手男優がどこまでそれらしい演技ができるのかに疑問をもった。ところが,2人とも下準備に1年半もの時間をかけたという。今年のNHK大河ドラマの主演・横浜流星に,よくそんな時間があったものだ。吉沢亮に至っては「俳優人生を賭けた」と発言している。助演陣も超豪華キャストであり,上映時間175分という長尺からも,製作・配給会社の本気度が伝わってきた。
物語は1964年から始まる。立花喜久雄は九州の仁侠一家に生まれた15歳の少年であったが,上方歌舞伎の名優・二代目花井半次郎(渡辺謙)を招いた宴席で,女形としての舞を舞ったところ,半次郎に絶賛される。その夜,極道間の抗争で,父・権五郎(永瀬正敏)の壮絶な最期を見た喜久雄には,その姿が目に焼き付く。翌年,喜久雄は大阪の半次郎の家に引き取られ,跡取り息子・俊介と兄弟のように育てられる。一日も休まず厳しい修業に堪え,大人になった喜久雄こと花井東一郎(吉沢亮),俊介こと花井半弥(横浜流星)が2人で踊る「二人道成寺」は見事な美しさで,東半コンビは一躍人気者となる(歌舞伎に詳しくない筆者には,これがどの程度本物に近いのか,見定められなかったが)。
ある日,交通事故で入院し,舞台に立てない半次郎は,自分の代役に丹波屋の跡取りの半弥でなく,部屋子の東一郎を指名した。代役・東一郎の「曾根崎心中」の舞台を見た俊介は,芸では喜久雄に勝てないと悟り,そのまま失踪してしまう。その後,喜久雄は三代目・半次郎を襲名するが,伝統の血を引き継いでいないことへの揶揄,10年後に戻って来た俊介との確執等々が描かれ,最後は人間国宝に選ばれた喜久雄の舞台「鷺娘」となる。
歌舞伎にとって重要なのは「伝統の血」か「芸の才能」なのかを問う原作のエッセンスは残しているものの,映画としてはカラフルな舞台の魅力を見せ,結末は大幅に変更されている。細かな点では,いくつか不満もあった。まず,2人の子役が主演の2人に余り似ていない(これは邦画の大きな欠点だ)。喜久雄に恋心を抱く春江(高畑充希)が失踪する俊介に同行する下りはまだしも,喜久雄が伴侶とする彰子(森七菜)とその父・千五郎(中村鴈治郎),京都の芸妓・藤駒(見上愛)やその子供・綾乃の描写が希薄で,喜久雄の心情がよく分からない。それらにもう少し時間を割いていれば,分かり易かったはずだ。人間国宝になるまでの円熟期の描写も殆ど省略されていた。また,上方歌舞伎の世界であるのに,それに該当する俳優の関西弁もお粗末だった。
そんな不満は,吉沢亮と横浜流星の舞台の華麗さに吹っ飛んでしまう。「二人道成寺」「曾根崎心中」は2度ずつ登場する。よくぞ,全くの素人がここまで歌舞伎の所作や口上までも自分のものにしたと感心する。まさに「100年に一度の芸道映画」であり,「シネマ歌舞伎」そのものだ。助演陣では,伝説の女形・万菊を演じる田中泯が絶品だった。プロの舞踊家だけのことはある。半次郎の妻・幸子は「伝統の血」を重んじ,喜久雄を疎んじるが,名門・音羽屋の血を引く寺島しのぶに演じさせたゆえ,説得力があった。二代目半次郎役の渡辺謙は,李相日作品には『許されざる者』『怒り』の主演以来,3度目の出演である。風格ある演技であったが,本作に限っては,現役のしかるべき歌舞伎役者を配して欲しかった。
■『フロントライン』(6月13日公開)
邦画が続く。上記『国宝』は既に大きな話題になっているが,本作も大変な力作で,見応えでは負けていない。題名の「フロントライン」とは,新型コロナウイルスCOVID-19による感染対応の「最前線」で奮闘した医師や看護師の物語であることを意味している。いずれこのテーマを題材としたヒューマンドラマが多数出て来ると予想したが,その一番手は,まさにコロナ騒動の国内での最初期,2020年2月3日横浜港に入港した豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス号」の船内で起きた集団感染の実話を,ドキュメンタリータッチで描いた映画であった。
実はテーマも監督も主演も知らず,マスコミ試写会場に来たのだが,受付で渡されたプレスシートの充実ぶりに驚いた。最近は手抜き資料が多い中で,カラフルで立派な冊子である上に,船内での集団感染の経緯が乗員・乗客の全員が下船するまでの経緯,国内でのCOVID-19感染への3年半の経緯が表形式で整理されていた。これは綿密な取材に基づく社会派映画だと理解した。
上映前の5分間,企画・脚本担当の増本淳プロデューサーと関根光才監督からの挨拶があった。顔を見るのは初めてだったが,これがあの関根監督かと少し心が騒いだ。まずドキュメンタリー『太陽の塔』(18年9・10月号)で注目し,続く初監督作品『生きてるだけで,愛』(同Web専用#5)を「魂を揺さぶられた映画」「脚色も演出も見事だ」と評し,さらに2作目『かくしごと』(24年6月号)では「美意識の高さを感じる。(略)この監督は次作以降も注目したい」と書いた。この監督の最新作なら間違いはないと,姿勢を正して観てしまった。
映画の冒頭は,DMAT (Disaster Medical Assistance Team)の解説から始まる。阪神・淡路大震災を機に設けられた「災害派遣医療チーム」のことで,医師・看護師・医事事務職から構成される医療班だそうだ。この制度は全く知らなかった。COVID-19報道では,感染症対策専門家会議や県知事の発言ばかりが注目され,メジャーなTV報道ではDMATの名前は出て来なかった。この冒頭だけで,貢献度の割に知名度の低いDMATに焦点を当てようとしていることが分かった。
主人公は,神奈川県のDMATを統括する結城英晴(小栗旬)で,3,711人を乗せて横浜港に着いた豪華客船では既に100人以上が感染していたため,緊急出動要請を受ける。地震・洪水等の自然災害対応の訓練を受けた医療チームであるが,未知のウイルス対応の知識も経験もなかった。止むなく,県庁での大人数の対策会議に出席したが,早速,初期対応を巡って,厚労省医政局の官僚・立松信貴(松坂桃李)と対立する。結城の信念と立松の柔軟な対応により,やがてこの2人は肝胆相照らす関係になる。この2人は県庁内に詰めていたが,乗船組の中では,現場指揮のトップ・仙道行義(窪塚洋介),隊員・真田春人(池松壮亮)が重い役である。他の助演陣には,光石研,滝藤賢一,森七菜,桜井ユキ,美村里江らが配されていた。役名はいずれも仮名で,実在の複数の人物を1人に集約しているようだ。
その一方,豪華客船名,行政組織名や,多数の乗客を受け容れる藤田医科大学岡崎医療センターは実名で登場する。とりわけ,物語後半の横浜港から同センターにバスを連ねての移動は白眉であった。開業前にこの対応をしてくれた同大学への敬意が感じられた。物語の大半は,日々増加する感染者の検査・治療,不安を募らせる乗客への対応が描かれていて,まさに記録に残すべき実話である。その半面,米国人ブラウン夫妻への乗務員の接遇,12歳と6歳のノア&ジャック兄弟,糖尿病の母と海好きの息子の日本人母子の描写は,上質のヒューマンドラマであった。バランスの好い見事な脚本である。
3,711人の内訳は,乗客2,666名,乗務員1,045名である。クルー間の士気や統制,隔離収容中も食事を作って届けた厨房の様子も描いて欲しかったところだ。それを正確に描くために,豪華客船を借り切るのも忠実に再現するのも現実的でなく,断念したのだろう。ダイヤモンド・プリンセス号の外観は,CG描画だと思われる。
余談だが,実は1つだけ大きな欠点を指摘しようと思っていた。主演の小栗旬が格好良過ぎて,およそ医師らしく見えなかったことである。ところが,「DMAT“指揮官”が語る 〜新型コロナ最前線で闘う隊員を苦しめた差別と偏見」なるWeb記事を見て驚いた。語り手は結城英晴のモデルとなった神奈川県DMAT調整官の阿南英明医師である。何と,小栗旬の兄かと思うイケメンで,黒ずくめのコスチュームは劇中の結城英晴よりも格段にダンディである。これを見て,増本プロデューサーが結城役に一択で小栗旬を選んだことが理解できた。
本作の上映終了時には,試写室内から大きな拍手が起こった。マスコミ試写でこんなことは珍しい。既に増本プロデューサーも関根監督も会場にいなかったが,よくぞこんな映画を作ってくれたとの敬意と感謝の表われだったと思われる。筆者はと言えば,この日(6月6日)の午前中にシネコンで『国宝』を観てから,午後に本作の最終試写会に駆けつけた。『国宝』の175分はあっという間に過ぎたのに,本作の129分は時間以上の中身の濃さを感じた。こんな映画を続けて2本観て,もう満腹状態で,改めて邦画も捨てたものじゃないなと感じた。
■『ラ・コシーナ/厨房』(6月13日公開)
原題はシンプルな『La Cocina』で,副題から意味は分かったが,何語だか知らなかった。スペイン語で「キッチン」のことのようだ。原作は,英国の劇作家アーノルド・ウェスカーが25歳で書いた戯曲で,邦題が「調理場」とされているから,ここはレストランの「厨房」のことである。そのレストランの場所はスペインかイギリスかと言えば,そうでもない。原作者が意図したのはフランスのレストランで,本作の監督・脚本のアロンソ・ルイスパラシオスはメキシコ人だ。ところが,本作の舞台となるのはフランスやメキシコでもなく,光や輝く大都会のニューヨークで,しかもその中心地タイムズ・スクエアにある観光客相手の大型レストラン「ザ・グリル」であった。
時代設定は明らかにされていないが,現代ではない。舞台初演時の1959年に近い時代,せいぜい1960年代か70年代だろう。その厨房で働くのは,メキシコ人の他,コロンビア,プエルトリコ,モロッコ,ウクライナ等からの不法移民たちで,彼らは夢を求めてこの街にやって来た。米国人の経営者は,何年か働けばビザが得られると称して,彼らを低賃金で長時間重労働させている。これが現代なら,現職米国大統領によって国外追放されているところだ。
物語は,メキシコ人の少女エステラ(アンナ・ディアス)が,コックとして働く同郷のペドロ(ラウル・ブリオネス)を頼って,この店にやって来るところから始まり,彼女の目で見た厨房の様子が描かれる。各料理担当のコックと客席に料理を運ぶウェイトレスが入り乱れ,彼らは英語とスペイン語で怒鳴り合い,噂話や喧嘩も絶えない。エステラの初出勤の朝,会計係が前日の売り上げの内,828ドル78セントが行方不明だと騒ぎ出し,スタッフ全員が犯人探しの面談を受ける破目になる。仕込みに忙しい彼らの愚痴が停まらない中,壊れたドリンクピッチャーから大量のチェリーコークが溢れ出し,床は水浸しになる。そんな喧騒の中,ペドロと米国人ウェイトレスのジュリア(ルーニー・マーラ)は恋愛関係にあり,そこに元カレのマックスが絡んだり,妊娠したジュリアが中絶のため,産婦人科医を訪れるエピソード等々が挿入されている。
大半はこの厨房内だけの出来事で,ほんの少し客席や裏通りが登場するだけだった。映像的に圧巻だったのは,ラインタイム直前からの約14分間の手持ちカメラによる長回しワンショットだった。厨房の喧騒のほぼすべてが凝縮されていた。午後の束の間の休息時間,裏通りの壁に一列にもたれて,従業員の1人ずつが自分の未来の夢を語るシーンも印象的だった。本編の大半は鮮やかなモノクロ映像であり,唯一,大型の冷凍室でペドロとジュリアが語り合うシーンだけが,(なぜか)ブルーのモノトーンであった。それなら,多彩な料理をカラーで見せて欲しかったのにと感じた。そう思ったところ,ラストに別のモノトーンシーンが登場する。それが何色で,どんな意味を持つのかは観てのお愉しみとしておこう。監督はこの部分を描きたかったため,他を白黒のモノトーンにしたのだと理解した。
本作のテーマは,企業資本主義によって生じた格差ループや分断に対する痛烈な批判だとされている。筆者は必ずしも,そうは感じなかった。格差ループを資本主義のせいにできたのは,原作が描いた半世紀以上前の欧州か,メキシコから見た富裕国の米国のイメージに過ぎないと思う。西洋流資本主義下でなくても,既に世界各国で市民生活の格差や分断は生じている。人種や宗教による差別や偏見は,古今東西存在していた。第二次世界大戦後の偉大な国アメリカは自浄能力を失い,既に没落しつつある。
本作の厨房内の縦社会構造をメタファーとした描写は辛辣であり,ユーモアにも溢れていた。所謂娯楽映画ではないが,新しい才能が描く単館系映画のファンが喜ぶ映画であることは保証できる。本作のアロンソ・ルイスパラシオスを,同じメキシコ出身のギレルモ・デル・トロ,アルフォンソ・キュアロン,アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥに匹敵する才能とするのは少し褒め過ぎと思うが,なかなかの実力者であることは間違いない。
筆者のお目当ては,ルーニー・マーラであった。かつての『ドラゴン・タトゥーの女』(12年2月号)『キャロル』(16年2月号)のような若さと凛々しさはなくなったが,近作の『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(23年6月号)では中堅女優としての落ち着いた魅力に溢れていた。本作では,大勢の無名俳優の中で,唯一の看板俳優の役割であったが,それに相応しい演技を見せてくれていた。
■『おばあちゃんと僕の約束』(6月13日公開)
昨年『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』(24年6月号)を紹介した際に,タイ映画は3本目で,ほぼ年1本のペースだと書いた。その後,ホラー映画『バーン・クルア 凶愛の家』(24年11月号)を取り上げ,そして本作であるから,倍のペースである。これは偶然でなく,当欄が扱う以外にも,国内公開のタイ映画は確実に増えている。過去10年間にタイの映画産業は着実に成長し,国際的に認められやすいジャンルが増え,タイ政府は国策として文化輸出を支援している。日本国内の映画配給ルートも「低コストで良質」との評価で,タイ映画を積極的に輸入し始めたのが実状である。コスト的には,ハリウッド映画,欧州映画よりも圧倒的に廉価で,韓国映画やインド映画よりも少し安く入手できるようだ。
『バーン・クルア…』の時に「タイ映画の本流はホラーやスリラー」と書いたので,輸入作品もそれが増えるかと思ったのだが,本作は全く違っていた。さりとて,若者の青春ドラマに戻った訳でもなく,題名からすぐ分かるように「祖母と孫の心温まる交流」を描いたヒューマンドラマである。ただし,この孫は可愛い幼児ではなく,いかにも現代風の安直な青年であった。
主人公のエム(プッティポン・アッサラッタナクン)は,中国系タイ人の青年で,スーパーで働いて家計を支える母シウとの2人暮らしである。母が止めるのに耳を貸さず,大学を中退して,毎日ゲームに興じていた。ゲームの実況者となって金持ちになることが人生の目標だった。従妹のムイが父方の祖父を健気に介護しているのを見て嘲笑していたが,彼女が祖父の遺言で豪邸を相続したのを知って,自分も楽をして暮したいと考える。そんな折,母方の祖母メンジュ(ウサー・セームカム)がステージ4の末期癌で余命僅かであることを知る。エムは遺産目当てで祖母の介護役を志願して同居するが,早起きすらできないエムは,厳格な祖母に叱責される。
何という不埒で,ダメ男の孫かと呆れた。この中国系住民(タイ華人)の大家族の生活様式や価値観が克明に描かれていたが,他の男たちも五十歩百歩だった。母シウの兄の長男キアンは投資で成功し,裕福な生活を送っていたが,自分たちの幸せしか考えていない。母の弟で末っ子のソイは定職がなく,借金まみれの貧困生活で,時々祖母の金を盗んでいた。利己的な家族に負担をかけまいと,早朝からお粥売りをしてつつましい生活を続けてきたメンジュは,今も粗末な自宅に住み続けていた。そんな家族想いの祖母を見て,エムの気持ちに変化が生じ,すれ違いながらも祖母との心の絆を深めて行く…。
筆者にとって大きな収穫であったのは,過去のタイ映画のどれよりも,現在のタイ人の様々なレベルの生活実態を知り得たことだ。とりわけ,仏教文化に深く根ざしていることである。筆者がタイのバンコクに仕事で滞在したのは,約30年前の2回だけである。その後,経済的にも発展し,街はかなり様変わりしていると聞いていた。それはごく一部の富裕層だけで,祖母メンジュが住む一帯の貧しさは,今もさほど変わらない。ベトナムに近い生活レベルだと感じた。
彼らの仏教文化は,中国系住民独自のものではなく,既にタイ人の平均的文化に同化しているようだ。中国や日本に伝わった「大乗仏教」ではなく,東南アジアに浸透している「上座部仏教」であるから,日本とはかなり違う。著名な寺院で様式の違いは知っていたが,本作で墓の大きさに拘ること,貧しい人々に棺桶を寄贈する伝統を知った。外国映画見る意義は,現地の文化に触れることであるから,その目的は十分に果たせる映画である。表題の「約束」は,孫から祖母への約束だけでなく,祖母から孫への約束も含まれ,その返礼が大きな意味をもっている。本作がアジア各国で大ヒットしたのは,この仏教文化に基づく家族愛を描いていたからだと思う。
(6月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)
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