O plus E VFX映画時評 2026年5月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から![]()
![]()
,![]()
,
,
の順で,その中間に
をつけています)
(5月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)
■『EPiC/エピック エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート』(5月15/22日公開)![]()
![]()
![]()
IMAXは先行上映で,通常版の拡大公開はその1週間後である。今月のPart 2はこの映画から始めることにした。4年前の伝記ドラマ『エルヴィス』(22年Web専用#4)を手がけたバズ・ラーマン監督が再度Elvis Presleyを取り上げ,今度はコンサートドキュメンタリーだという。
当初,カタカナ表記の題名しか知らなかった。「エピック(Epic)」は1990年代に生まれた音楽ジャンルで,「最高!」を意味する俗語でもあるという。今度はその視点から,1950代後半〜70年代中盤に活躍した「King of Rock ‘n’ Roll」が最高だと再評価するのかと思った。その後,「i」だけ小文字の「EPiC」だと分かり,「Elvis Presley in Concert」の頭文字だと知った。かつての「Elvis on Stage」の方が良いのに思っていたのに,見事なアクロニム(頭字語)になっていて,畏れ入った。
前作によって若者への知名度は上がり,ファンも増えたそうだが,それでもBeatlesやQueenほどではない。そんな若者など,どうでも良い。筆者が飛び切りのElvisファンであることはバレているので,今回も客観的な作品紹介はせず,全く主観的/個人的な論評に徹する。それを愉しんで下さる年配の読者だけを対象にしている。
前作の公開後,ラーマン監督はワーナー・ブラザースの地下倉庫で,59時間にも及ぶElvis関連の未使用フィルムを見つけたという。『エルビス オン ステージ』(70)『エルビス オン ツアー』(72)用に集められていた未公開映像素材や録音素材であった。それらをすべてデジタル変換し,約2年間かけて監督独自の見事な再編集で生み出されたのが,長年のファンも感激する本作である。
まず驚いたのは,冒頭でElvis自身が「僕は歌手になった訳を話そう」と語り出す。彼自身のこんな語りは聴いたことがなかった。さらに,なぜステージに拘ったかも話している。この彼自身の語りは何度も登場する。幼少期の映像も貴重であったが,これまで観たことがない初期のステージ映像もかなりあり,これは殊更嬉しかった。楽屋裏,ステージへのイン/アウトの様子も旧作とは趣きが違う。リハーサルシーンは各種あり,かなりの時間が費やされていた。とりわけBeatlesの“Yesterday”と“Something”がお宝ものだ。
この映画でのラーマン監督独自の斬新な試みは,リハーサルや複数のステージで歌う同じ曲を繋いで,1曲扱いしていたことである。50年代,68年のTV特番,69年以降のライヴステージ等,異なる時代の複数音源を,時間軸を無視して1曲に再構成(コラージュ)している。映像はその繋ぎ目で切り替わるが,音楽は見事に繋がっている。撮影&録音時期が違うと,音量やテンポは異なるはずだが,それを芸術的とも思える技で接合している。こんな音楽ドキュメンタリーは見たことがない。
劇中で流れる曲は70曲以上に及ぶが,筆者が知らなかったのは1曲だけで, 駄作主演映画での使用曲らしい。ステージシーンは主に1970年のラスベガスと72年のツアー公演から選ばれていた。70年夏のラスベラス公演が圧倒的に素晴らしい。ハワイ公演のTV中継,晩年の公演の映像を知っていると,相対的に痩せていた頃のElvisが実に恰好よく,ジャンプスーツ姿が精悍だ。これだけ激しく動き回っていたのかと驚くシーンが多数選ばれていた。それらはアップテンポの曲中心で,しかも尺は短めだった。1曲くらい切々歌うバラード曲のフルコーラスも入れておいて欲しかったところだ。
全く個人的な経験と感想を語っておく。長い間Elvisのステージ風景を観ると,マクドナルドのバニラシェイクが飲みたくなった。1971年2月は横浜片田舎の独身寮にいたが,『エルビス オン ステージ』を観に有楽町の丸の内ピカデリーまで出向いた。まだ有楽町マリオンはなく,日劇の隣りのビルにあった。その感激を再度と,翌年暮の『エルビス オン ツアー』も同じ劇場まで足を運んだ。入場前に銀座4丁目角の三越にあったマクドナルド1号店でBig Macとシェイクを買って行った。丁度,『ゴジラ-1.0』(23年11月号)のゴジラと同じルートを歩いた訳である。映画を観ながら初めて飲んだバニラシェイクが感激の味だった。爾来,Elvisの衝撃のカムバックとバニラシェイクが筆者の中でリンクしているのである。
今回の映画では,Elvisの姿にジャンボ尾崎が重なって見えた。2人は一回り違うが,同じく亥年1月の生まれである。現役生活の時期は重なっていないが,華々しいデビューで音楽界/ゴルフ界に衝撃を与え,数年以上の低迷期の後,見事なカムバックで簡単に破られない生涯記録を残したことが酷似している。多数のファンがいたことも,次第に体重が増えたことも似ている。丁度,1週間前に彼の追悼番組を見ていたことも一因だが,最後に気がついた。リハーサルでElvisが来ていた細かな柄のシャツが,コースを歩くジャンボ尾崎の定番のゴルフウェアとそっくりだったのである(笑)。
本作のサントラ盤は,映画を観る前に入手していた。Elvisのアルバムは121枚,ライヴ公演は15枚保有しているが,そのどれとも異なる素晴らしいサウンドだ。これは,後日「サントラ盤ガイド」のページで紹介する。
■『ヴィヴァルディと私』(5月22日公開)![]()
![]()
![]()
音楽関連映画が続く。バロック期のヴァイオリン協奏曲「四季」は,ほぼ誰もが知っている名曲だ。その作曲家アントニオ・ヴィヴァルディの伝記映画ではなく,彼が指導し,恋する「私」が主人公のヒューマンドラマである。
時代は1716年,舞台はイタリアの北部ヴェネティアだった。日本では徳川吉宗の「享保の改革」の時代で,水の都ヴェネティアとの交流など全くない頃だから,当時の国民性や価値観は現代の日本人には全く馴染みがない。物語の舞台となるピエタ院は実在した孤児の養育院で,ヴィヴァルディがヴァイオリン教師に選ばれ,少女たちに音楽を教えていたのは史実のようだ。当時,貧困家庭の子供,特に私生児を「赤ちゃんポスト」で孤児院に託すことが横行していた。常に満員で経済的破綻状態の孤児院は,貴族の寄付に頼り,少しでも孤児の貰い手が増えるよう音楽教育を施していた。少女らが外の世界に出るには,母親が迎えに来るのを待つか,貴族と結婚するか,下女となるしか方法がなかったのである。
主人公のチェチリア(テクラ・インソリア)はそんな少女の1人で,毎晩,母親の姿を想像し,宛名のない手紙を綴っていた。格安の音楽教師に雇用されたヴィヴァルディ(ミケーレ・リオンディーノ)は厳しいが情熱的な教育を与え,チェチリアはめきめき上達する。ヴィヴァルディは彼女を特別扱いし,やがて2人は心を通わせ合い,チェチリアは新曲の着想にも協力するようになる。ところが,ピエタ院の修道院長らは一番の美形であったチェチリアを,貴族の将校サンフェルモの結婚相手に選んでしまった。結婚すると音楽を続けることはできず,結婚には処女であることが必須条件であること知ったチェチリアは,野菜売りのミケーレと性的関係をもつ。それを知ったサンフェルモは尊厳を傷つけられたと激怒し,チェチリアの左手の指を折ってしまった。もはやヴァイオリンは弾けないと悟ったチェチリアは,愛するヴィヴァルディが指揮する演奏会を側廊から見守るが……。
監督・脚本はオペラ演出家のダミアーノ・ミキエレットで,今年のミラノ・コルティナ冬季五輪の開・閉会式でクリエイティブディレクターを務めた人物である。当然,劇中音楽はヴィヴァルディ作曲のクラシック音楽で,格調高く,美しかった。18世紀初頭のイタリアの景観,修道院の厳しい規律の描き方も見事で,一見に値する。その一方,この時代の貴族は傲慢な俗物で,聖職者も腐敗していて,庶民,特に女性は抑圧され,不平等に耐えざるを得なかったという歴史観である。そんな中で,才能ある女性が自意識に目覚め,自立を目指すという物語展開はステレオタイプに思えた。
チェチリアを演じる女優は確かに美しかったが,それゆえ男性の慰みものになるという設定も安易すぎる。むしろ,さほど美しくない女性が精神的に成長し,自由を得るという物語の方が現代にアピールする。当時は名声を得たはずのヴィヴァルディも貧しく,200年間忘れられていたのが,偶然楽譜が見つかり,再評価されるようになったという。この史実を中心にした物語の方が映画化の題材に適していたと思う。
■『名無し』(5月22日公開)![]()
![]()
凄まじい映画だった。衝撃度では,今年観た映画のNo.1だ。主演は佐藤二朗,役柄は坊主頭の無差別殺人者で,「名無し」と言いながら「山田太郎」という名前がある。当欄で絶賛した『爆弾』(25年10月号)での怪演に惚れ込んだが,その時の役名は「スズキタゴサク」だったから,正に好一対だ。『爆弾』は同名のミステリーが原作小説だったが,本作の原作は同名のコミック(全3巻)のようだ。その原作者名を知って驚いた。何と佐藤二朗自身である。原作者が映画脚本を担当することは多々あるが,コミックの原作者が映画で主演するのは珍しい。
映画の冒頭は昼下がりのファミレスで,中年男の主人公が宗教勧誘してきた女性客や店員を惨殺する。店を出た彼は,商店街を歩く人々を次々と殺害する。恐るべきシーンだ。警察が防犯カメラを点検しても,全く凶器が映っていなかった。手を突き出すか振り回すだけで殺せるとは,彼はフォースをもったジェダイかと思った(図らずも,SWシリーズ最新作と同じ公開日)。この謎は,劇中で明かされる。彼が右手で触れた物は透明になり,他人には見えなくなるのだった。即ち,実際は鋭利なナイフを凶器として使っていたのだ。その後,見えない金属バットや拳銃を使っての無差別殺人シーンも登場する。
映画は,中年男の「現在」と彼の少年時代からの「過去」が交互に描かれる。数十年前,路頭に迷う名前のない少年と少女を保護した巡査・照夫(丸山隆平)は,彼らを児童養護施設ひいらぎに預け,「山田太郎」「山田花子」なる名前を与えた。太郎は自分の右手が触れた物は視界から消え,名前が分かる人間や動物の命を奪ってしまうこと知っていて,常に右手を縛って生活していた。
凶器は不明でも,殺人犯の顔は判明していたので,警察は11年前にコンビニで万引きを働いた山田太郎であると断定する。国枝刑事(佐々木蔵之介)らが太郎の自宅に踏み込むと,部屋は悪臭で溢れていて,浴室には腐敗した女性の遺体があった。遺体は花子であり,見つかった指紋は,花子の両手と太郎の左手の指紋だけだった。
過去シーンでは,大人になった太郎と花子(MEGUMI)は同棲していて,花子は妊娠していた。太郎は出産予定日を心待ちにしていたが,花子は「げんかい バイバイ」の書き込みを残して,姿を消した。それから10年後,太郎は花子を見つけるが,花子は「産んでいない…堕した」と語った。絶望感から太郎は髪を切り,世の中を恨む殺人鬼となって,物語は「現在」と繋がる。終盤は養護施設ひいらぎのバザーのシーンで,ここでも殺戮を繰り返す太郎は,自分に似た少年と出会う……。
原作との最も大きな違いは,「名前を知った相手に触れると命を奪ってしまう」というルールが増えたことである。監督・共同脚本は,ピンク映画出身の城定秀夫。近作の『恋のいばら』(23年1月号)は社会派映画,『嗤う蟲』(25年1月号)はさらにホラー要素も加わっていたので,本作の監督には相応しい。一見SF風の設定であるが,人との繋がりを求める社会的弱者が「怪物」と化して行く過程を見事なタッチで描いている。前半の無差別大量殺人は正に狂気の沙汰であったが,後半,太郎が父親になる歓びを発露する姿は可愛く感じる。生きていれば10歳の誕生日を祝うバースディケーキの準備もいじらしい。それでいて,ネタバレになるので結末を書けないのが,全くもどかしい。1つだけヒントを書いておこう。臨月近くで疾走した花子が堕胎したとは,どう考えても有り得ないことだった。
『爆弾』の「スズキタゴサク」はかなり饒舌であったが,対照的に本作の「山田太郎」は言葉数が極端に少ない。ぼそぼそと話す,そのセリフが聴き取れないのが,最大の欠点であった。それを割り引いても,佐藤二朗渾身の大力作であることは間違いない。ただし,当欄は本作に高評価を与えることはできなかった。太郎の生い立ちや神の救済を求める姿に同情の念を抱く観客も少なくないと思うが,こんな無差別殺人の映画を作るべきではない。犠牲となった人々の人生や家族の失意への配慮が全く感じられない。最近,勝手に社会への恨みを抱いた人物が平気で無差別殺人を起している。それを助長するような映画があってはならない。
■『箱の中の羊』(5月29日公開)![]()
![]()
邦画が続く。今月号Part 1のジャファル・パナヒ監督の『シンプル・アクシデント/偶然』を,「監督名だけで是非観なければ…と思う」と書いたが,邦画での筆頭格が是枝裕和監督作品だ。数えてみると,当欄での紹介はこれが11本目となる。『奇跡』(11年6月号)以降の9本は欠かさず紹介していて,すべてギャガ配給であった。内3本が東宝・ギャガの共同配給,6本がカンヌ,2本がヴェネチアへの出品作品という比率である。今年のカンヌの長編コンペティション部門には日本映画が3本も選出されていたが,しっかり常連の是枝映画はその中に入っている。東宝・ギャガの共同配給作であるので,その分,製作費も高額で,豪華キャストも期待できた。
主演は『海街diary』(15年6月号)以来の綾瀬はるかで,期待を裏切らなかった。時代はそう遠くない未来で,ヒューマノイドが登場するらしい。是枝作品には珍しいSFもので,これは意外だった。かつての『花よりもなほ』(06年6月号)は江戸時代の長屋を舞台としたラブストーリーで,これも意外であったが,「新感覚の時代劇」と評価した。本作は亡き息子の姿をしたヒューマノイドを迎え入れた夫婦の物語であるので,是枝監督お得意の家族映画である。そこに題名の『箱の中の羊』の「羊」が一体どう絡むのかと思ったが,これは著名なサン=テグジュペリの「星の王子さま」の一節であり,本作はそれに着想を得たストーリーだという。SF仕立ての家族ドラマを名作童話で味付けしているとなると,これはもう愉しみでしかない。カンヌで2度目のパルムドールもあり得るなと期待が膨らんだ。
主人公は自ら設計した家に住む建築家の甲本音々(綾瀬はるか)で,夫は工務店二代目社長の健介(大悟)だった。空飛ぶドローンの1台が彼らの家の庭に降りて来て,SAGAWAと書かれた宅配便が届く。近未来の佐川急便の宅配サービスはこの形態らしい。送り主は RE birth Ltd.で,家族を亡くした遺族への「最新型ヒューマノイドの無償レンタル案内」であった。この夫妻は2年前に7歳の息子「翔(かける)」を亡くしていた。
説明会に参加した音々に声をかけたのは,翔と同世代の少年で,これが同社のヒューマノイドだった。人間としか見えない少年に感激した音々は,翔のデータを使ったヒューマノイドを発注する。自宅に届いた「ヒューマノイド<翔>」(桒木里夢)に,音々は思わず「おかえり,翔」と声をかけた。<翔>は音々を「ママ」と呼んだが,導入に否定的だった健介は,自分を「おじさん」としか呼ばせなかった。彼は今も翔の死を事故ではなく,不審者に襲われた事件だと信じていた。
その後,健介経営の工務店タマケンの職員が<翔>の扱いに気遣う様子や,音々の母・信代(余貴美子)が機械の息子と暮すことを「みっともない」と非難し,妹・亜利寿(清野菜名)が慰めの言葉をかけるエピソード等が描かれる。さすが是枝監督らしい細やかな演出である。
その一方,工務店のベテラン木工職人の山懸昭男(田中泯)から檜の破片を貰った<翔>は,樹や家造りに興味を持ち始め,自分の部屋で模型の家を組み立て始める。さらにヒューマノイド仲間を集め,音々との契約を解除し,家を出ることを申し出る……。
期待が大き過ぎたのだろうか,大好きなはずの是枝作品のはずが,本作はピンと来なかった。むしろ違和感だらけで,この映画に溶け込めなかった。物語もまるで面白くなく,綾瀬はるかと大悟の組み合わせはミスマッチとしか思えなかった。演技力はあるが,お笑い芸人にこの役は似合わない。それを素直に失敗作だと書くべきかと迷った。試写を観終えた翌日にカンヌの発表があり,結果は無冠に終わった。自分の評価を正当化する訳ではないが,この結果に少し安心感を覚えた。
改めて,なぜ違和感を感じたかと自己分析してみた。大きく2つに大別できる。第一は,<翔>に生身の子役俳優を起用していたことである。いくら技術が進んでも,人間と区別がつかないヒューマノイドなど作れるはずはない。石黒浩教授の「ジェミノイド」程度であれば許せるし,せめてCG描画にして多少不自然なルックスの<翔>の方が物語のリアリティが高かったかと思う。過去の『ターミネーター』『ブレードランナー』シリーズも本物の俳優が演じていたのに,なぜ本作が強い違和感を感じたのだろう? かなり先の未来で,荒唐無稽なSFほど素直にフィクションだと受け取れるのに,なまじ近未来で,細やかな人間関係を描いているゆえ,余計にこんなヒューマノイドは有り得ないと感じるのだと思う。
もう1つは,終盤の<翔>が自我に目覚め,仲間を集めて自然の世界に向かおうとする行動である。どれだけAIが進歩しても,AIやロボットが意識を持つことは有り得ない。所詮は人間が書いたプログラムに基づく判断や行動であり,教師なし学習機能,環境変化に適応する自律型動作まで含めても,「意識」をもつことはない。まるで機械が心や意識をもったかのように,人間側が感じるだけのことである。文系の作家/脚本家が書いた小説/脚本は,他の部分のリアリティが高いほど,人工(機械)知能の描写が「嘘」に思えてしまう。
■『TOKYO BURST -犯罪都市-』(5月29日公開)![]()
![]()
『犯罪都市』シリーズと言えば,マ・ドンソク主演の韓国映画で,圧倒的な身体能力をもつ破天荒なマ・ソクト刑事が悪党どもを一網打尽にする痛快クライムバイオレンス映画である。文句なしに「最も観たくなる韓国映画」と言える。既に4作品が作られていて,当欄では3作目以降を紹介した。1作目『犯罪都市』(17) はソウル南部・衿川警察署管内が舞台だったが,2作目『同 THE ROUNDUP』(22)は犯人引渡しで向かったベトナムで大暴れした。3作目『同 NO WAY OUT』(24年2月号)では日本のヤクザ組織「一条組」がソウルに送り込んだ殺し屋リキ(青木崇高)を返り討ちにし,4作目『同 PUNISHMENT』(同年9月号)はサイバー犯罪がテーマで,フィリピンの国際IT犯罪組織を壊滅させた。
そして本作は「TOKYO」を冠した題名で,韓国の敏腕刑事が犯罪集団を追って新宿・歌舞伎町にやって来るという。そう聞くと,いよいよマ刑事が不夜城の歌舞伎町で快刀乱麻の活躍をし,ことによると世界一のゲイタウン新宿2丁目まで描いたLGBTQ映画になっているかと勝手な想像をした。ところが,出演者名一覧のどこを見てもマ・ドンソクの名前がない。主演は若手の水上恒司,敵役は福士蒼汰,監督・脚本は内田英治というから,それじゃ全くの邦画ではないか。「犯罪都市」の名前をパクっただけのヤンキー映画なのかと失望した。
それは早トチリで,『犯罪都市』シリーズの世界観をベースにした日韓合作のスピンオフ作品という扱いだった。アソシエイトプロデューサーとしてマ・ドンソクの名前もあった。韓国側からはソウル特別市警察庁のエース刑事役で「東方神起」のユンホが出演している。多作な内田英治監督作品は粗製乱造で,『異動辞令は音楽隊!』(22年7・8月号)の主人公は熱血刑事だったが,音楽映画であった。『ミッドナイトスワン』(20年9・10月号)『サイレントラブ』(24年1月号)『マッチング』(同 2月号)は,いずれも☆+評価しか与えていない。ところが,昨秋の『ナイトフラワー』(25年11月号)はなかなかの秀作で,夜の街で働く女性を見事に描いていた。本作も歌舞伎町が舞台なので,その手腕が発揮されていることを期待して観始めた。
主人公の相葉四郎(水上恒司)は,生まれも育ちも新宿・歌舞伎町の暴走族長で,腕っぷしの強さが自慢だった。そんな彼が新宿中央署の組織犯罪対策課の刑事として採用されたことで,周りの人々も驚いた。新宿が縄張りのヤクザたちにも顔が利くことが認められたようだ。早速始まった不良相手の立ち回りでは,無類の喧嘩上手ぶりを発揮する。なるほど「犯罪都市ユニバース」に相応しいが,マ刑事ほどの重量感はない。
ある日,韓国警察庁のチェ・シウ刑事(ユンホ)が国際手配犯を追って新宿中央署にやって来た。犯罪集団を仕切る村田蓮司(福士蒼汰)と右腕のキム・フン(オム・ギジュン)が歌舞伎町に潜伏しているとの情報があったからだ。即席のコンビを組んだ相葉とチェはことごとく対立するが,やがてバディとして共同捜査を始める。ある集団強盗事件が契機となり,武闘派ヤクザとホストグループの大抗争に発展する。そこに韓国の実業家,韓国ヤクザ,日本の政権政党の黒幕までが絡んで……。
前半はバイオレンス映画そのものだったが,中盤で小休止があり,仕切り直しでラストバトルに向かう。きちんと起承転結がある分かりやすい映画だった。「新宿では警察と悪人が<縁>で結ばれている」というのが,本作の相葉刑事の基本マインドである。全くバカバカしいが,エンタメ映画はこれでいい。カーチェイスならぬ,自転車チェイスシーンは素直に楽しかった。
助演陣では,岩城組組長役のピエール瀧がハマり役で,良い味を出していた。かつて彼が麻薬取締法違反で逮捕・起訴された時,多数の番組から下ろされ,過去の出演作までが放映自粛になった。その中で,撮影済みのシーンを代役で再撮影しなかった映画『引っ越し大名!』(19年7・8月号)や『宮本から君へ』(同9・10月号)を当欄では支持した。やはり味のある助演俳優の起用は映画が引き締まる。一方,主演の水上恒司のアクション演技は一応合格点だが,線が細過ぎる。急に体重は増えないから,ワンパンチで敵は倒せない。『犯罪都市』シリーズと名乗るからには,チェ刑事の上司役としてマ刑事にカメオ出演して欲しかったところだ。。
■『シャオ・メイ/ローマ大決戦』(5月29日公開)![]()
![]()
主人公の戦闘能力とアクションシーンの痛快さでは,本作も負けていない。好一対と言いたいところだが,上記の相葉四郎が我流の喧嘩上手に過ぎないのに対して,本作のシャオ・メイは幼い頃から本格的なカンフーを学んでいたので,サシで勝負すれば彼女が勝つに違いない。
映画は1995年の中国・福建省から始まる。幼い姉妹ユンとメイが庭で父親から厳しいカンフー訓練を受けている。誰かが家に訪ねて来たと察知した途端,母親が妹メイを隠し部屋に閉じ込める。この時代,中国ではまだ「一人っ子政策」が続いていて,原則として2人目以降は戸籍もなく,こうして隠れて暮さざるを得なかった。
一転して時代は2025年のイタリア・ローマに移る。イタリアで行方不明になった姉ユンを探しに,妹メイもローマにやって来た。副題通り,姉の救出大決戦にカンフーパワーが炸裂するのだなと想像できた。となると,てっきり中国映画だと思ったのだが,本作は純然たるイタリア映画だった。先々月の『ヴィットリア 抱きしめて』(26年4月号)でイタリア映画への思い入れを書いたが,同作は養子縁組がテーマの実話ベースの心温まる映画だった。それが,今回はイタリア製のカンフー映画である。かつてイタリア製西部劇のマカロニ・ウェスタンが流行したように,今度は香港流カンフー映画をイタリア風に味付けするらしい。それはそれで楽しみだ。
さて主人公のシャオ・メイ(リウ・ヤーシー)である。中華料理店「紫禁城」は密入国者に売春をさせる犯罪組織の根城で,姉ユンはそこで働いていたが,中年男性アルフレード(ルカ・ジンガレッティ)と恋仲であったことを知る。メイは犯罪組織のボスのワン(チュンユー・シャンシャン)の手下を脅し,アルフレードの息子マルチェッロ(エンリコ・ボレッロ)と2人の行方を探したが,2人は死体となって地中に埋められていた。
姉の死を知ったメイは「燃える復讐の女神」となり,ワン一味との「ローマ決戦」の火ぶたが切って落とされる。マーシャルアーツとしては香港映画だが,単身敵地に乗り込む様は,かつての東映・仁侠映画のテイストで,まるで「女・健さん」か2代目「緋牡丹博徒 お竜」であった。一気呵成に復讐を果すのかと思いきや,物語展開はもう少し複雑であった。料理人のマルチェッロがなかなかのイケメンであったので,メイとラヴラヴ関係になることは容易に想像できた。2人のデートシーンは,夜のローマ観光映画となっていた。加えて,アルフレードの親友で移民街を仕切るヤクザのアンニバレ(マルコ・ジャリーニ)が,マルチェッロの母に想いを寄せていることが物語を複雑にし,意外な結末となる。少なくとも単なるカンフー映画ではなく,少し高級なエンタメ映画であり,「一人っ子政策」が生んだ弊害を糾弾する社会派映画のフレーバーも振りかけられていた。
監督・原案・脚本は,ガブリエーレ・マイネッティ。まだ長編3作目だが,既にイタリア映画界の異才と認知されているようだ。主演に自国の女優を起用せず,抜群の身体能力をもつ中国人女優のリウ・ヤーシー【劉亜西】を起用したのが偉い。彼女はディズニーの実写版『ムーラン』(20年9・10月号)で主演のリウ・イーフェイのスタントダブルを務め,ジャッキー・チェン主演の『プロジェクト V』(20)でもスタント演技を披露している。クリント・イーストウッドがマカロニ・ウエスタンの『荒野の用心棒』(64)『夕陽のガンマン』(65)『続・夕陽のガンマン』(66)の3部作で大ブレイクし,大スターの地位を築いたように,リウ・ヤーシーも中国に凱旋し,カンフー映画界の新星として輝くかも知れない。
■『マテリアリスト 結婚の条件』(5月29日公開)![]()
![]()
楽しい映画だった。結果的にもそうだったが,観る前から大いに興味をそそられる映画だった。それには,いくつも理由があった。最大の理由は,主演女優がダコタ・ジョンソンであったことだ。彼女に入れ込む理由は,『ドライブ・イン・マンハッタン』(25年2月号)を読んで頂ければすぐに分かる。この映画でのタクシー運転手と同様,大いにこの美人女優に興味をもち,次に彼女が主演するラブストーリーは絶対に観ようと決めたからだ。
2番目は,題名の「Materialist=物質至上主義者,唯物論者」と婚活市場との関係である。最近,日本の若者たちもマッチングアプリや斡旋業者を活用することが多く,NYが舞台のこの映画で,日米での違いも把握したくなった。そこに「物質至上主義」がどこまで通用するのかが興味の的であった。
3番目は,監督・脚本が『パスト ライブス/再会』(24年4月号)のセリーヌ・ソンであったことだ。同作の一般的評価は高かったが,筆者にはその高評価が理解できなかった。女性監督が描く身勝手でご都合主義的な映画の典型であった。本作も男女の三角関係がテーマのようだが,まだ無名時代に結婚相談所に勤務していたというので,前作よりはリアリティが高いことを期待した。
主人公のルーシー(D・ジョンソン)は,かつては女優になる夢をもっていたが,現実を受け入れ,NYの結婚相談所で「天性の婚活カウンセラー」と絶賛されるマッチメーカーとなっていた。大抵のクライアントは,自らのことは棚に上げ,紹介される相手には高水準を求めた。48歳の男性が27歳の美女を望み,女性は男性側に年収10万ドル,身長180cm以上を条件とする。貧乏な家庭に育ったルーシー自身も実利主義のマテリアリストであり,「資産価値」を冷静に判断し,多数のカップルを成約させていた。その9組目の結婚披露宴に出席したところ,新郎の兄のハリー(ペドロ・パスカル)に見初められ,求愛される。彼は高身長で裕福な投資家であった。その披露宴会場では,元カレのジョン(クリス・エヴァンス)がウェイターとして働いていた。俳優を目指す彼は20代の頃に愛し合った相手であり,貧困生活に耐えられず,2人の共同生活は破局したのだった。
ハリーは資産も家柄も人柄もパーフェクトだった。ルーシーは釣合いが取れないと一旦は固辞したが,「賢さと愛情」いう形がない資産を指摘され,真剣交際を受け容れる。豪華マンションの合鍵を渡され,憧れのアイスランド旅行の計画と,まさに夢のような玉の輿である。その一方で,ジョンからは彼が出演する舞台に招待され,若き日の夢に邁進する彼の純粋な姿に,彼への想いも再燃する……。その結末は容易に想像でき,書く必要もないだろう。キャプテン・アメリカのC・エヴァンスを起用しただけで,勝負は最初からついている。
またしても,この監督の典型的な三角関係映画であった。それでも実体験ベースだけあって,ルーシーが担当する女性会員が巻き込まれる事件等の描写はリアリティがあった。物質至上主義に形のない資産や社会的名声も入るのかと思ったが,豪華マンションやその調度類を見せられると,金さえあればどんな物質も手に入ると納得した。もっと驚いたのは,ハリーは高額の外科手術で身長を15cmも高くしていたことだった(俳優のP・パスアカルは本当に180cmだが)。一旦,脚の骨を外して,金属で骨を固定し,骨の隙間に新しい骨が再生させる「四肢延長術」で,最大20cmまで背を高くできるのだという。まさに「物質至上主義」の極みである。
それでいて,「条件マッチング」とは無縁の古代人のシーンを登場させ,「愛は計算ではない」を落し所としていた。映像は美しく,音楽も軽快だった。この映画でも多数の挿入曲があり,先日の『ソング・サング・ブルー』(26年4月号)で注目したNeil Diamondの“Sweet Caroline”も使われていた。極め付きは,エンドロールの後半で流れる男女デュエットの“In Spite of Ourselves”で,その歌詞には大笑いした。John Prine & Iris DeMentが歌う1999年の曲で,男女が互いの欠点を次々と並べ立てながら,それでも「なぜか上手くやっている」というラブソングである。この選曲には感心した。
(
)