O plus E VFX映画時評 2026年5月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から![]()
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(5月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)
■『EPiC/エピック エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート』(5月15/22日公開)![]()
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IMAXは先行上映され,通常版拡大公開はその1週間後だというので,今月のPart 2はこの映画から始めることにした。4年前の伝記ドラマ『エルヴィス』(22年Web専用#4)を手がけたバズ・ラーマン監督が再度Elvis Presleyを取り上げ,今度はコンサートドキュメンタリーだというので,待ち遠しかった。当初,カタカナ表記の題名しか知らなかった。「エピック(Epic)」は1990年代に生まれた音楽ジャンルで,「最高!」を意味する俗語でもあるという。今度はその視点から,1950代後半〜70年代中盤に活躍した「King of Rock ‘n’ Roll」が最高だと再評価するのかと思った。その後,「i」だけ小文字の「EPiC」だと分かり,「Elvis Presley in Concert」の頭文字だと知った。かつての「Elvis on Stage」の方が良いのに思っていたのに,見事なアクロニム(頭字語)だと畏れ入った。
前作によって若者への知名度は上がり,ファンも増えているというが,それでもBeatlesやQueenほどではない。そんな若者など,どうでも良い。筆者が飛び切りのElvisファンであることはバレているので,今回も客観的な作品紹介はせず,全く主観的/個人的な論評に徹する。それを愉しんで下さる年配の読者だけを対象にしている。
前作の公開後,ラーマン監督はワーナー・ブラザースの地下倉庫で,59時間にも及ぶElvis関連の未使用フィルムを見つけたという。『エルビス オン ステージ』(70)『エルビス オン ツアー』(72)用に集められていた未公開映像素材や録音素材であった。それらをすべてデジタル変換し,約2年間かけて監督独自の見事な再編集で生み出されたのが,長年のファンも感激する本作である。
まず驚いたのは,冒頭でElvis自身がなぜステージに拘ったかを語る。こんな語りは聴いたことがない。この言葉は何度も登場する。幼少期の映像も貴重であったが,これまで観たことがない初期のステージ映像もかなりあり,これは殊更嬉しかった。楽屋裏,ステージへのイン/アウトの様子も旧作とは趣きが違う。リハーサルシーンは各種あり,かなりの時間が費やされていた。とりわけBeatlesの“Yesterday”と“Something”がお宝ものである。ラーマン監督の独自の斬新な試みは,リハーサルや複数のステージで歌う同じ曲を繋いで,1曲に仕上げていたことであった。映像はその繋ぎ目で切り替わるが,音楽は見事に繋がっている。撮影&録音時期が違うと,音量やテンポは異なるはずだが,それを芸術的とも思える技で接合している。こんな音楽映像は見たことがない。
劇中で流れる曲は70曲に及ぶが,筆者が知らなかったのは1曲だけで, 駄作映画での使用曲らしい。ステージシーンは主に1970年のラスベガスと72年のツアー公演から選ばれていた。70年夏のラスベラス公演が圧倒的に素晴らしい。ハワイ公演のTV中継,晩年の公演の映像を知っていると,相対的に痩せていた頃のElvisが実に恰好よく,ジャンプスーツ姿が精悍だ。これだけ激しく動き回っていたのかと驚くシーンが多数選ばれていた。それらはアップテンポの曲中心で,しかも尺は短めだった。1曲くらい切々歌うバラード曲のフルコーラスも入れておいて欲しかったところだ。
全く個人的な経験と感想を語っておく。長い間Elvisのステージ風景を観ると,マクドナルドのバニラシェイクが飲みたくなった。1971年2月は横浜片田舎の独身寮にいたが,『エルビス オン ステージ』を観に有楽町の丸の内ピカデリーまで出向いて来た。まだ有楽町マリオンはなく,日劇の隣りのビルにあった。その感激を再度と,翌年暮の『エルビス オン ツアー』も同じ劇場まで足を運んだ。入場前に銀座4丁目角の三越にあったマクドナルド1号店でBig Macを買って行った。丁度,『ゴジラ-1.0』(23年11月号)のゴジラと同じルートを歩いた訳だ。映画を観ながら初めて飲んだバニラシェイクが感激の味だった。爾来,Elvisの衝撃のカムバックとバニラシェイクは筆者の中でリンクしているのである。
今回の映画では,Elvisの姿にジャンボ尾崎が重なって見えた。2人は一回り違うが,同じく亥年1月の生まれである。現役生活の時期は重なっていないが,華々しいデビューで音楽界/ゴルフ界に衝撃を与え,数年以上の低迷期の後,見事なカムバックで簡単に破られない生涯記録を残したことが酷似している。多数のファンがいたことも,次第に体重が増えたことも似ている。丁度,1週間前に彼の追悼番組を見ていたことも一因だが,最後に気がついた。リハーサルでElvisが来ていた細かな柄のシャツが,コースを歩くジャンボ尾崎の定番のゴルフウェアとそっくりだったのである(笑)。
本作のサントラ盤は映画を観る前に入手していた。Elvisのアルバムは121枚,ライヴ公演は15枚保有しているが,そのどれとも異なる素晴らしいサウンドだ。これは,後日「サントラ盤ガイド」のページで紹介する。
■『ヴィヴァルディと私』(5月22日公開)![]()
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音楽関連映画が続く。バロック期のヴァイオリン協奏曲「四季」は,ほぼ誰もが知っている名曲だ。その作曲家アントニオ・ヴィヴァルディの伝記映画ではなく,彼が指導し,恋する「私」が主人公のヒューマンドラマである。時代は1716年,舞台はイタリアの北部ヴェネティアだった。日本では徳川吉宗の「享保の改革」の時代で,水の都ヴェネティアとの交流など全くない頃だから,当時の国民性や価値観は現代の日本人には全く馴染みがない。
物語の舞台となるピエタ院は実在した孤児の養育院で,ヴィヴァルディがヴァイオリン教師に選ばれ,少女たちに音楽を教えていたのは史実のようだ。当時,貧困家庭の子供,特に私生児を「赤ちゃんポスト」で孤児院に託すことが横行していた。常に満員で経済的破綻状態の孤児院は,貴族の寄付に頼り,少しでも売れ行きが良いよう音楽教育を施していた。少女らが外の世界に出るには,母親が迎えに来るのを待つか,貴族と結婚するか下女となるしか方法がなかったのである。
主人公のチェチリア(テクラ・インソリア)はそんな少女の1人で,毎晩,母親の姿を想像し,宛名のない手紙を綴っていた。格安の音楽教師に雇用されたヴィヴァルディ(ミケーレ・リオンディーノ)は厳しいが情熱的な教育を与え,チェチリアはめきめき上達する。ヴィヴァルディは彼女を特別扱いし,やがて2人は心を通わせ合い,チェチリアは新曲の着想にも協力するようになる。ところが,ピエタ院の修道院長らは一番の美形であったチェチリアを,貴族の将校サンフェルモの結婚相手に選んでしまった。結婚すると音楽を続けることはできず,結婚には処女であることが必須条件であること知ったチェチリアは,野菜売りのミケーレと性的関係をもつ。それを知ったサンフェルモは尊厳を傷つけられたと激怒し,チェチリアの左手の指を折ってしまった。もはやヴァイオリンは弾けないと悟ったチェチリアは,愛するヴィヴァルディが指揮する演奏会を側廊から見守るが……。
監督・脚本はオペラ演出家のダミアーノ・ミキエレットで,今年のミラノ・コルティナ冬季五輪の開・閉会式でクリエイティブディレクターを務めた人物である。当然,劇中音楽はヴィヴァルディ作曲のクラシック音楽で,格調高く,美しかった。18世紀初頭のイタリアの景観,修道院の厳しい規律の描き方も見事で,一見に値する。その一方,この時代の貴族は傲慢な俗物で,聖職者も腐敗していて,庶民,特に女性は抑圧され,不平等に耐えざるを得なかったという歴史観である。そんな中で,才能ある女性が自意識に目覚め,自立を目指すという物語展開はステレオタイプに思えた。
チェチリアを演じる女優は確かに美しかったが,それゆえ男性の慰みものになるという設定も安易すぎる。むしろ,さほど美しくない女性が精神的に成長し,自由を得るという物語の方が現代にアピールする。当時は名声を得たはずのヴィヴァルディも貧しく,200年間忘れられていたのが,偶然楽譜が見つかり,再評価されるようになったという。この史実を中心の物語の方が映画化の題材に適していたと思う。
■『名無し』(5月22日公開)![]()
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凄まじい映画だった。衝撃度では,今年観た映画のNo.1だ。主演は佐藤二朗,役柄は坊主頭の無差別殺人者で,「名無し」と言いながら「山田太郎」という名前がある。当欄で絶賛した『爆弾』(25年10月号)での怪演に惚れ込んだが,その時の役名は「スズキタゴサク」だったから,正に好一対だ。『爆弾』は同名のミステリーが原作小説だったが,本作の原作は同名のコミック(全3巻)のようだ。その原作者名を知って驚いた。何と佐藤二朗自身である。原作者が映画脚本を担当することは多々あるが,コミックの原作者が映画で主演するのは珍しい。
映画の冒頭は昼下がりのファミレスで,中年男の主人公が宗教勧誘してきた女性客や店員を惨殺する。店を出た彼は,商店街を歩く人々を次々と殺害する。恐るべきシーンだ。警察が防犯カメラを点検しても,全く凶器が映っていなかった。手を突き出すか振り回すだけで殺せるとは,彼はフォースをもったジェダイかと思った(図らずも,SWシリーズ最新作と同じ公開日)。この謎は,劇中で明かされる。彼が右手で触れた物は透明になり,他人には見えなくなるのだった。即ち,実際は鋭利なナイフを凶器として使っていたのだ。その後,見えない金属バットや拳銃を使っての無差別殺人シーンも登場する。
映画は,中年男の「現在」と彼の少年時代からの「過去」が交互に描かれる。数十年前,路頭に迷う名前のない少年と少女を保護した巡査・照夫(丸山隆平)は,彼らを児童養護施設ひいらぎに預け,「山田太郎」「山田花子」なる名前を与えた。太郎は自分の右手が触れた物は視界から消え,名前が分かる人間や動物の命を奪ってしまうこと知っていて,常に右手を縛って生活していた。
凶器は不明でも,殺人犯の顔は判明していたので,警察は11年前にコンビニで万引きを働いた山田太郎であると断定する。国枝刑事(佐々木蔵之介)らが太郎の自宅に踏み込むと,部屋は悪臭で溢れていて,浴室には腐敗した女性の遺体があった。遺体は花子であり,見つかった指紋は,花子の両手と太郎の左手の指紋だけだった。
過去シーンでは,大人になった太郎と花子(MEGUMI)は同棲していて,花子は妊娠していた。太郎は出産予定日を心待ちにしていたが,花子は「げんかい バイバイ」の書き込みを残して,姿を消した。それから10年後,太郎は花子を見つけるが,花子は「産んでいない…堕した」と語った。絶望感から太郎は髪を切り,世の中を恨む殺人鬼となって,物語は「現在」と繋がる。終盤は養護施設ひいらぎのバザーのシーンで,ここでも殺戮を繰り返す太郎は,自分に似た少年と出会う……。
原作との最も大きな違いは,「名前を知った相手に触れると命を奪ってしまう」というルールが増えたことである。監督・共同脚本は,ピック映画出身の城定秀夫。近作の『恋のいばら』(23年1月号)は社会派映画,『嗤う蟲』(25年1月号)はさらにホラー要素も加わっていたので,本作の監督には相応しい。一見SF風の設定であるが,人との繋がりを求める社会的弱者が「怪物」と化して行く過程を見事なタッチで描いている。前半の無差別大量殺人は正に狂気の沙汰であったが,後半,太郎が父親になる歓びを発露する姿は可愛く感じる。生きていれば10歳の誕生日を祝うバースディケーキの準備もいじらしい。それでいて,ネタバレになるので結末を書けないのが,全くもどかしい。1つだけヒントを書いておこう。臨月近くで疾走した花子が堕胎したとは,どう考えても有り得ないことだった。
『爆弾』の「スズキタゴサク」はかなり饒舌であったが,対照的に本作の「山田太郎」は言葉数が極端に少ない。ぼそぼそと話す,そのセリフが聴き取れないのが,最大の欠点であった。それを割り引いても,佐藤二朗渾身の大力作であることは間違いない。ただし,当欄は本作に高評価を与えることはできなかった。太郎の生い立ちや神の救済を求める姿に同情の念を抱く観客も少なくないと思うが,こんな無差別殺人の映画を作るべきではない。犠牲となった人々の人生や家族の失意への配慮が全く感じられない。最近,勝手に社会への恨みを抱いた人物が平気で無差別殺人を起している。それを助長するような映画があってはならない。
(以下,5月後半の公開作品を順次追加します。)
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