O plus E VFX映画時評 2024年4月号掲載

その他の作品の短評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『パスト ライブス/再会』(4月5日公開)
 今月のトップバッターは,GG賞に5部門,アカデミー賞に2部門ノミネートの本作にした(いずれも受賞はしなかったが)。女性監督が描くラブストーリーに興味は湧かないのだが,オスカーの作品賞候補を無視する訳には行かない。しかも,授賞式前に視聴したので,予想記事にはどう反映するか,少し構えて観てしまった。では,素直に観ていれば高評価したかと言えば,そうでもない。
 かつて恋人同士であった韓国生まれの男女がNYで再会する物語で,12歳,24歳,36歳の三幕ものである。12歳で愛し合った2人は,少女がカナダに移住して離れ離れとなる。24歳のヘソンは,NYに出て劇作家となったノラの行方を突き止め,Facebookで互いに心を癒し合う。36歳まで独身を通したヘソンは,既に白人男性と結婚していたノラに会うために,遂にNYまでやって来る。2人は数日を共に過ごし,ノラは夫アーサーにありのままを話す。ヘソンの帰国便までの間,3人はバーのカウンターで夜を明かし,別れの時が来る……。
 黄昏時も夜も美しく,音楽もそれを助長していた。どこにでもありそうな男女関係を詩情豊かに描いているが,なぜこの映画がこんなに高評価を受けるのか,筆者には理解できなかった。元々恋愛映画は,性別,年齢,過去の恋愛体験によって受ける印象や評価が分かれるのは当然だが,本作は特にそれが顕著だ。ソウル出身のセリーヌ・ソン監督の長編デビュー作だが,自伝的作品というより,彼女の体験そのものを美化して描いていると感じた。本人は意図的でなかっただろうが,大都会に住む高学歴の知識階級,それも苦労の末,現在の地位を得た準富裕層(即ち,各映画祭の審査員や批評家など)が自らの恋愛体験を投影するのに最適だったのだと思う。彼らは,ノラが最終的に2人のどちらを選ぶのかが気になったに違いない。その意味での演出は抜群だった。
 筆者はと言えば,ヘソンでなく,一貫して夫アーサーの視点で物語を追った。ノラが現在の地位を捨てるとは思えず,自分ならラストシーンのように出迎えには行かない。もし男女が逆転していたら…とも考えながら眺めていた。即ち,韓国人の未婚女性が,既婚者の元カレに会いにNYまで来るかである。その確率はかなり低く,やって来たとしても相手の妻は夫が彼女と会うことを許さないだろう。その場合は,女性同士のバトル炸裂のコメディになってしまうこと必定だ。

■『ブルックリンでオペラを』(4月5日公開)
 こちらもNYが舞台で,女性監督の作品だ。NYといっても,題名通り,ブルックリンの住人だけを描いた映画だ。NY市の5区の1つで,マンハッタン区からはイースト川を渡った南東の川向こうにあり,クイーンズ区からは陸続きの南西にあたる。大谷翔平が移籍したLAドジャースは1950年代まではこのブルックリンにあり,映画『ブルックリン』(16年7月号)はその時代を描いていた。なぜこの地名にこだわるかと言えば,小説・演劇・映画の舞台になることが多く,『アニー・ホール』(77)等のウディ・アレン作品にも再三登場する。知識階級,文化人の住人が多く,本作の主人公たちは,まさにそういった階層の人物で,彼らが織りなすロマンティック・コメディだからである。
 主演のカップルは人気精神科医のパトリシア(アン・ハサウェイ)と現代オペラ作曲家のスティーブン(ピーター・ディンクレイジ)夫妻だ。パトリシアが大スランプに陥ったスティーブンの担当医になったことから,再婚したという関係だ。5年間も新曲を出せないスティーブンが愛犬を連れて散歩に出かけたところ,曳船の女性船長のカトリーナ(マリサ・トメイ)と知り合い,彼女の船に乗る。恋愛依存症のカトリーナに誘惑され,ベッドを共にする寸前に逃げ出したスティーブンには,突如として新曲の構想が溢れ出し,一気に書いたオペラが大傑作で成功を収める。ここまでが前半だ。後半は,人生に疑問を感じ始めた潔癖症のパトリシアが修道女になりたいと言い出し,スティーブンは困惑する。一方,パトリシアの連れ子の18歳のジュリアンは16歳のテレサと恋愛関係にあったが,テレサの義父がジュリアンを訴えると言い出し,一家は大混乱に陥る。そこに,2人の一途な恋を成就させようとカトリーヌが加わって……。
 これだけ読むと変哲のないホームコメディだが,P・ディンクレイジを知らない観客は,この夫妻を一目見て,その不釣り合いに驚くだろう。彼は所謂小人俳優で,これまでの役柄は奇人変人か悪人の手先の小者が大半だった。本作の彼は実に魅力的な男性で,これが彼の代表作となるだろう。大切なのは人間性と才能であり,外見ではないとのメッセージを監督が発しているように思えた。その一方,M・トメイは当たり役の恋多き女性だ。
 脚本・監督は,『50歳の恋愛白書』(10年2月号)のレベッカ・ミラー。女優兼作家でもあり,本作は自身の短編小説の映画化である。父親は米国を代表する劇作家でマリリン・モンローの夫であったアーサー・ミラー,夫はアカデミー賞主演男優賞3回受賞の名優ダニエル・デイ=ルイスという飛び切りのセレブである。その分,少し上から目線を感じるところがある脚本だが,嫌味はなく,楽しく,微笑ましいヒューマンドラマであった。

■『アイアンクロー』(4月5日公開)
 一転してリング上で戦う男の世界が描かれる。息子3人を世界チャンピオンにした男とその家族の物語と聞くと,我が国の亀田三兄弟(興毅・大毅・和毅)を思い出すが,こちらはボクシングではなく,米国プロレス界の名物一家である。父親の名はフリッツ・フォン・エリック。プロレス通でなく,題名がカタカナなのですぐに分からなかったが,「Iron Claw」=「鉄の爪」と聞いて思い出した。大きな手で敵の頭を掴んで締め上げ,ギブアップさせる必殺技で,この得意技を「鉄の爪」と名付けた命名者であり,ジャイアント馬場の全盛期のプロレスラーである。
 実際,次男ゲビン,三男デビッド,四男ケリーの3人が世界チャンピオンになった。後にミュージシャンであった五男マイクもプロレスラーに転じるところまでは,妹・姫月がファッションモデルからプロボクサーに転じた亀田家とそっくりだ。実際のフォン・エリック家は6人兄弟(六男クリスは映画には登場しない)で,長男は子供時代に事故死,三男は日本滞在中に急死,四男以下の3人は自殺するといった驚くべき悲劇に見舞われ,「呪われた一族」と呼ばれていたことは今回初めて知った。
 映画で描かれているのは,1970年代後半から80年代で,悪役であった父フリッツ(ホルト・マッキャラニー)は息子達のために自らのプロレス団体を設立する。主人公は最後まで生き残る次男ゲビン(ザック・エフロン)で,まずテキサス州ヘビー級のチャンピオンになり父の期待に応える。その後デビューした弟たちの活躍を応援しつつ,父の関心が自分から離れていることも感じていた。相次ぐ不幸な出来事の中で,ケビンは一族を支えながら,父親との確執も生じ,遂に重大な決断をする……。
 ボクサーが主人公の映画ほどではないが,レスラー映画にも良作は多く,ミッキー・ローク主演の『レスラー』(09年5月号)は心に沁みる映画だった。悲劇が続くだけに,本作も重厚さにかけては負けてはいない。監督・脚本は,『マーサ,あるいはマーシー・メイ』(13年3月号)でデビューしたショーン・ダーキン。男性中心の映画ではあるが,ケビンの妻パ厶(リリー・ジェームズ)や母ドリス(モーラ・ティファニー)の役割も丁寧に描いている。L・ジェームズの出演作は,当欄で10本以上紹介しているが,あのお姫さま女優がもう母親なのかと感慨新ただった(既に35歳だから当たり前なのだが…)。
 もっと驚いたのは,主人公ゲビンを演じた男優だ。エンドロールで確認するまで,Z・エフロンであるとは信じられなかった。10数年前,『ハイスクール・ミュージカル』シリーズのイケメン高校生役で若い女性の心をときめかせたあの貴公子が,筋骨隆々としたレスラー役とは驚いた。体形は勿論,顔立ちも見違えるように男っぽくなった。先日,新日本プロレスの社長が自社に引き抜きたいと発言している記事があった。勿論,ジョークだろうが,広告塔としてこれ以上の存在はない。

■『インフィニティ・プール』(4月5日公開)
 実話に基づく重厚な物語の次は,真逆の映画だ。徹底したフィクションで,人間の本性を浮き彫りにしたグロテスクな作品である。観る前から,スタッフ&キャストで,気になった人物が1人ずついた。1人は監督・脚本のブランドン・クロネンバーグで,もう1人は主演男優ではなく,共演の女優ミア・ゴスである。
 前者は,独自の世界観の『アンチヴァイラル』(12)『ポゼッサー』(20)でカルト的人気を得た監督で,これが長編3作目とのことである。前2作とも観ていないが,父があのデヴィッド・クロネンバーグだと知って,一気に興味が湧いた。奇妙な味付けと手の込んだ小道具類で,どれだけ異色の世界を描いてくれるか,父親直伝の映画的才能を期待した。一方,女優ミア・ゴスの名前は覚えていなくても,『X エックス』(22年Web専用#4)で殺人鬼夫妻の老婆を演じ,その前日譚の『Pearl パール』(23年7月号)で狂気の殺人鬼となる若妻を演じた女優と聞けば,すぐに思い出す読者も多いはずだ。筆者は,物語が進むにつれ,このテーマなら,この女優をキャスティングしたのは当然のことだと納得した。
 いきなりカラフルなオープニングで,美しいリゾート地の光景がグルグルと回転する。舞台となるのは,高級リゾートの「リ・トルカ島」。場所は不明だが,南洋の島で,雨期の前の「ウンブラマク」なる地元の行事が開催され,楽団も観光客も顔に奇妙なメイクを施している。主人公は,スランプ中の作家ジェームズ(アレクサンダー・スカルスガルド)と資産家の家に育った妻エム(クレオパトラ・コールマン)だ。バカンスで来た孤島で彼の小説のファンだという女性ガビ(ミア・ゴス)とその夫に出会う。意気投合した2組の夫婦は,出入り禁止の敷地外へと出てしまい,食事後の帰路,飲酒運転のジェームズがクルマで村人を轢き殺してしまった。翌朝彼は逮捕され,島の法律で死刑を宣告される。ところが,警察と取引してクローンを製造すれば,観光客はそれで死刑執行を済ますことができた。観光立国とはいえ,何たる島だ。このルールを知った彼らの理性とモラルは崩壊し,やがて本人達とそのクローンが入り乱れ,語るもおぞましい悪夢の夜を体験することになるが……。
 なるほど,カルト的な世界観だ。眉がうすいミア・ゴスは,お得意の魔性の女ぶりを遺憾なく発揮していた。奇異な映画であるが,顔のメイク以外はさほど醜悪ではなかった。暗く陰鬱な映画でなく,色彩感覚に溢れている。新境地を開拓しているという点では,見事に家業を継いでいる。「お父さんはきっと誇りに思っているでしょう」なる他誌の評は,言い得て妙で,笑ってしまった。

■『オーメン:ザ・ファースト』(4月5日公開)
 言うまでもなく,ホラーオカルト映画の金字塔『オーメン』(76)の前日譚である。『エクソシスト』(73)に始まるオカルト映画の一大ブームについては,昨年暮の『エクソシスト 信じる者』(23年12月号)の記事中で触れた。同作はライバルシリーズの第1作の半世紀後の正統な続編扱いで,前日譚は『エクソシスト ビギニング』(04)として既に公開されていた。本作は,題名通り,当シリーズのビギニングもので,シリーズのアイコンである「悪魔の子:ダミアン」が,どのようにして生まれたのかを描いた物語となっている。筆者は今回改めて第1作を観直したが,当時感じたほどは怖くなかったものの,映画史に残るブームの記念碑に相応しい秀作だと感じた。
 時代設定は,第1作の5年前の1971年である。アメリカ人の若い女性マーガレット(ネル・タイガー・フリー)が,ローマのヴィッツァル修道院にやって来るところから物語は始まる。故郷で問題を抱えた彼女は,この地で新たな人生を歩み始め,教会内の孤児院での奉仕をして,誓願式を経て修道女になる計画であった。孤児院はシルヴァ院長(ソニア・ブラガ)の監督下で多数の孤児の少女がいたが,やがて不可解な連続死事件が発生する。そして,カソリック教会から破門されたブレナン神父(ラルフ・アイネソン)がマーガレットに近づいて来て,教会による陰謀を暴露しようと持ちかける。教会は人々を恐怖で支配するため,悪の化身を誕生させるのに,その「母体」を必要としているとのことだった。孤児の最年長で問題児のカルリータ(ニコール・ソラス)がその候補に思えたが,マーガレットは旧知のローレンス枢機卿(ビル・ナイ)から恐るべき計画を知らされ,全く予想できなかった戦慄の結末へと向かう……。
 監督・脚本はアルカシャ・スティーブンソンで,長編デビュー作である。主演のN・T・フリーはなかなかの美形で,これはホラー映画の定番だ。第1作の登場人物で本作にも登場するのは,1作目に串刺しになって死亡するブレナン神父だけだった。前日譚で5年前の設定とはいえ,映画は約半世紀後の製作ゆえ,俳優は違っている。ゴシック風の恐怖を演出するため,不穏で格調高い音楽を基調とするのは妥当だが,突然大きな音を出して脅すシーンが何度もあった。これはB級ホラーの手口であり,本格派ホラーとしては邪道ゆえ,感心しなかった。
 映像的には,ドローンやCG製の火炎を利用して,スケール大きく描いている。1点だけネタバレをしておこう。ダミアン誕生を描く前日譚ゆえ,クライマックスは双子を宿した妊婦の帝王切開のシーンで,迫力満点だった。新生児が本物かCGかの区別がつかなかった。一方がダミアンで,予定通り外交官の子供とすり替えることが語られる。生き残ったもう1人はどうなるのだろう? 本作をBeginningとせず,The First Omenとしたゆえ,The Second Omenも作るのかが気になった。

■『プリシラ』(4月12日公開)
 エルヴィス・プレスリーの元妻プリシラが1985年に出版した回想録「私のエルヴィス」の映画化作品である。14歳の時に西独で従軍生活を送る彼と知り合い,17歳で両親を説得して彼の住むメンフィスの邸宅で暮すようになり,21歳で結婚して一女を設けたが,やがて「籠の鳥」状態に疲れ果てた彼女が家を出て行くところまでが描かれている。通常のエルヴィスの伝記映画ではプリシラは添え物程度にしか登場しないが,彼女の視点から見た「エルヴィス像」と2人の生活の実態が,本作のポイントである。
 監督・脚本は,ソフィア・コッポラ。『ロスト・イン・トランスレーション』(03)『マリー・アントワネット』(07年1月号)等で女性の描き方に定評のある監督だが,本作では玉の輿生活を捨てた「女性の自立と再出発」を淡々とした語り口で映像化している。主演は,『パシフィック・リム:アップライジング』(18)で孤児の少女を演じたケイリー・スピーニー。本作でヴェネツィア国際映画祭の主演女優賞を受賞している。
 というのが,予備知識のない一般読者への平凡な解説である。筆者のような60年以上のエルヴィス・ファンの目からは当然評価が異なる。以下,そのモードに切り替えて論評する。エルヴィスの恋人が西独在住の米軍将校の娘プリシラ・ボーリューであることは,彼に引き取られて共同生活を始めた頃から公知であった。ただし,顔立ちはよく知られた数枚の写真でしか見たことがなかった。厚化粧の老け顔で,およそ魅力的でなかった。
 本作で驚いたのは,14歳のプリシラの可憐さで,エルヴィスが一目惚れしたのも納得できた。それが豪邸グレイスランドに住むにつれ,タマネギ頭,強烈なアイメイクと大きな付け睫毛のプリシラ顔に変貌して行く。すべてエルヴィスの指示通りだったとは,全く彼の美意識を疑う。彼の死後,女優業を始めた頃の彼女の写真はなかなかの美形であるから,いかにエルヴィス好みになることを強制され,溺愛された愛玩動物並みの生活であったかが理解できる。その他,ファンにとって目新しいことは何もなかった。彼がメンフィスマフィアと呼ばれた取り巻きとばかり戯れ,薬漬けの生活であったことは,やはりそうだったのかと再確認できたに過ぎない。
 エルヴィス役は,豪州人男優のジェイコブ・エロルディ。頭髪と目元のメイクでお決まりのポーズの時だけエルヴィスに見え,素顔は余り似ていないのは『エルヴィス』(22年Web専用#4)のオースティン・バトラーと同等だ。ただし,セリフを語る声色はエルヴィスそっくりで驚いた(多分,物真似しやすい口調なのだろう)。
 ファンにとって残念だったのは,当然多数流れると思っていたエルヴィスの歌声が全く聞けなかったことだ。一見エルヴィスのヒット曲風のそれらしい曲が流れるのは詐欺に近い。彼がカヴァーした他人の曲が少しあったが,ヒット曲では唯一“Love Me Tender”が演奏だけで登場する。エンドロールには原曲のアメリカ民謡“Aura Lea”がクレジットされていたので,確信犯でのエルヴィス排除だと言える(歌曲使用料をケチった?)。
 実際のプリシラは空手教師と駆け落ちしたのだが,本作のラストでは自ら運転して家を出る。ここでエンドソングとして流れるのはDolly Partonの“I Will Always Love You”だった。Whitney Houstonが自らの主演作『ボディガード』(92)で歌って世界的に大ヒットしたが,元はカントリー界の大御所Dollyの自作曲である。エルヴィスがこの曲を歌うことを熱望したが,マネージャーのトム・パーカー大佐が版権の半分を譲るよう強要したため,Dollyが拒否して,エルヴィスの歌唱も実現しなかったと言われている。そうした曲を採用するのは嫌味に思えるが,破局はしても,プリシラはずっとエルヴィスを愛していたというメッセージだとも受け取れる。
[付記:エルヴィスの楽曲不使用は,許諾が下りなかったためだそうだ。映画の内容がどうであれ,使われたら版権保持者は得するだけなのに,なぜだろう?]

■『劇場版 再会長江』(4月12日公開)
 文句なしに素晴らしいドキュメンタリー映画だ。中国の歴史・自然遺産・近代化を描いた映像は多数あるが,日本人が触れたことのない中国の姿を伝えてくれる良作である。題名の意図するところから説明しよう。「長江」はチベット高原から,雲南・重慶・武漢・南京を経て,上海に至るアジア大陸最長6,300kmの大河で,学校の地理や世界史に授業では下流の「揚子江」の名前で教えられた。本作の監督・竹内亮は千葉県出身,この分野では実績のある若手有望株で,2011年NHKプレミアムで放映された『長江 天と地の大紀行』(全3回)の監督に抜擢された。豊かな自然景観,流域の人々の生活,近代化の影響を克明に描いていたようだ。
 ところが,源流の最初の一滴を撮れなかったことに後悔が残り,2021年から2年かけた再挑戦を記録した映像作品が『再会長江』(23)で,ネット配信され,中国では高い評価を得た。未公開映像を加え,劇場公開用に再編集した新版が本作である。前作当時,全く中国語を話せなかった彼は,南京生まれの趙萍夫人と共に同市に転居し,本作では流暢な中国語を話している。現在までにSNSのフォロワー数1,031万人を誇るインフルエンサーで,中国で絶大な人気を博す中国在住日本人である。
 10年前と現在の上海の対比から始まり,前半では,再訪した「三峡」の圧倒的な景観,三峡ダムの威容や大型船舶昇降機で中国のスケールの大きさを見せる。その一方,巨大都市・重慶ではクルーズ船の船長や荷物運び労働者と直接会話し,川底に沈んだ村の住民の移住先を探して,近代化10年間の変容をあぶり出す。後半,上流に近づくと,美しい湖のほとりに住む母系社会の少数民族・モソ人の集落を訪れ,現代化に取り残されたはずの人々が環境保護や女性の生き方で時代を先取りしていると語る。全体では女性ナレーターがいるが,映画の大半で監督が前面に出て人々と語り,MCとして素直な感想を述べる。前回はカメラの後にいたが,今回は前に出たと言う。政治的文脈はゼロ,博識でもなく,語り口も素人っぽい。その素朴さに好感が持てる。難しく考えず,肩が凝らずに,ずっと生の中国の姿を観ていられる。
 極め付きは,雲南省シャングリラに住むチベット族女性の茨姆(ツームー)の描き方だ。本作の冒頭は,前作時に18歳で,生まれて以来,村を出たことがない彼女を上海まで連れて行った映像で始まり,今回,彼女が前作の出演俳優とビデオ会話して涙するシーンで終わる。前回の体験が彼女の人生を前向きに変えたらしく,念願だった民宿経営で成功している姿が延々と映る。10年前も現在も飛び切りの美人で,赤い民族衣装がよく似合う。明らかに,監督やスタッフが彼女に惚れ込んでいる。美人は得だ。それを臆面もなく,隠そうとしないのが微笑ましい。源流の最初の一滴の撮影は口実であり,実はツームーに再会したかったのが本音だろう。源流から上海まで逆に辿る一連の映像は頗る美しかったが,ツームーの成功を心から喜ぶ監督の表情の方がより印象的だった。

(4月後半の公開作品は, Part 2に掲載しています)

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