O plus E VFX映画時評 2026年5月号掲載
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■『サンキュー,チャック』(5月1日公開)![]()
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怪訝な題名で,先月の『これって生きてる?』ほどではないが,一体誰が誰に語りかけ,感謝しているのかが気になる映画だった。原題は『The Life of Chuck』で,原作はスティーヴン・キング作の短編小説「チャックの数奇な人生」だという。疑問符は入れなかったものの,短編の第3章の題名を映画の邦題にしている。この大人気作家の場合,ベストセラーの長編だけでなく,短編の映画化も数多い。最近は,『THE MONKEY/ザ・モンキー』(25年9月号)がそうだった。S・キングの名前だけで集客力はあるし,短編を2時間弱の映画に引き伸ばすのだから,監督の腕の見せどころである。
同じS・キング原作の『シャイニング』(80)の40年後を描いた『ドクター・スリープ』(19)の監督に抜擢されたマイク・フラナガンが,本作でも監督・脚本・製作を担当している。本作は「ヒューマン・ミステリー」で,お得意のホラーではなさそうだ。非ホラー小説の映画化作品には,『スタンド・バイ・ミー』(85)『ショーシャンクの空に』(94) 『グリーンマイル』(00年4月号)があるが,名作揃いである。そのため,本作がどんなミステリーなのかを愉しみに,細部もじっくり観ることにした。
映画は,何と第3章「サンキュー,チャック」から始まった。カリフォルニアで大地震が発生,フランスは津波に襲われ,メキシコでは大規模な森林火災,イタリアのトスカーナでは街が水没した。ネットや SNS が繋がらなくなる中で,高校教師のマーティー・アンダーソン(キウェテル・イジョフォー)だけは冷静で,淡々と毎日授業を続けていた。ある日,別れた妻のフェリシア・ゴードン(カレン・ギラン)から電話が入る。看護師の彼女は,絶望のあまり自殺を選ぶ人々への対処に疲れ切っていた。翌朝,道路の陥没で学校に通勤できなくなり,フェリシアへの電話も通じなくなったので,彼は歩いて彼女の家まで歩いた。すっかり夜になり,街灯が消えた街は真っ暗だったが,2人は再会を悦び合った。
そんな中,ずっと続いていたのは街頭看板やラジオ・TV放送に登場する「チャールズ・クランツに感謝します。素晴らしい 39 年間に,ありがとう,チャック」なる不可解な広告だった。誰に尋ねても,誰もこのチャックなる人物を知らなかった。そして,チャックの死の予兆とともに宇宙の終焉を思わせる現象が起こる……。
極めて分かりやすい描写の映画だったが,この先がある訳ではなく,後は第2章,第1章と時間軸を遡る。第2章「大道芸人サイコー」の主人公が,当のチャールズ・クランツ(トム・ヒドルストン)で,生真面目な会計士である。背広姿で街を歩いていたチャックは,ストリートミュージシャンが叩くドラムの音に魅せられ,その場にいた女性ジャニス・ハリデー(アナリース・バッソ)を誘い,2人でダンスを踊る。このダンスシーンが文字通り最高だった。小説では味わえない映画ならではのシーンで,このダンスだけで記憶に残る映画である。
第1章「私の中には無数の人が存在する」は,チャックの少年時代から大学進学前までの物語だった。父母を交通事故で亡くしたチャックは,祖父母に育てられる。明るい祖母のサラからダンスの楽しさを教わるが,厳しい祖父は,ダンスに興じずに,自分と同じ会計士になれと諭す。祖父の死後,チャックが屋根裏部屋で見た光景が何を意味するかは,観てのお愉しみとしておこう。
この祖父を演じる老優の名前は,エンドロールを観るまで分からなかった。何と『スター・ウォーズ』シリーズでルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルだった。フラナガン監督が彼を起用したのは,この映画を宇宙の終焉と関係づけるためだったのかと,勝手に解釈してニヤリとした。ともあれユニークな物語で,さすがS・キングだと感心したが,電気が途絶えた中,どうやってあのCMが流れたのかは謎のままだった。
■『幸せの,忘れもの。』(5月1日公開)![]()
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しばしば題名と内容の関係に拘る当映画評であるが,本作ほどこの題名のおかげで安心して観ていられた映画も珍しい。ポスター画像は,仲睦まじく見つめあう男女で,男性が乳児を抱きかかえている。淡橙色の服を着ているから女児だろう。そこに黄色の文字で書かれた原題は,たった一言『Deaf』だ。聴覚障害者(聾者)が主人公のスペイン映画なのである。この類いの映画は過去に何本も紹介して来たが,この数年だけでも『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』(21年Web専用#1)『ケイコ 目を澄ませて』(22年11・12月号)『ぼくの名前はラワン』(26年1月号)があった。当然,年齢・性別・職業等で状況は異なるが,聾者が悲惨な結末で終わることはまずなく,大半は心暖まるヒューマンドラマである。そうと分かっていても,どんな差別を受け,どんな苦難に耐えるのかは気になる。そこにこの表題がついているだけで,心穏やかに安心して見ていられた。
アンヘラ(ミリアム・ガルロ)は生まれつきの聾者であったが,田舎町の陶芸工房で働き,視覚と触覚を頼りに陶芸品を作っていた。健聴者の夫エクトル(アルバーロ・セルバンテス)は,手話を通じてアンヘラと心を通わせ合っていた。アンヘラは訓練を受けたのか,少しだけ言葉を話せる。また補聴器をつけることで,音の有無を感じることはできるようだ。映画は,そんなアンヘラの聾者としての日常生活を丁寧に描いていた。
アンヘラは第一子を妊娠したが,喜びよりも,不安が募り始めた。「母として必要な瞬間を聞き逃してしまうのではないか」という恐れだった。経過は順調だったか,生まれて来る子が「聴者」か「聾者」かは生まれるまで分からないらしい。『コーダ あいのうた』(22年1・2月号)では,健聴者の女子高生が聾者の両親と兄の手話通訳をしていたので,有り得ることなのだろう。
出産の場では,夫エクトルが医師との通訳をすることになり,アンヘラは必死で助産師の唇を読み取ろうとする。産まれた女児は聴者だと判明し,「オナ」と名付けられる。その後の日々の生活の中で,アンヘラは「断絶」を感じ始める。娘の泣き声は聞こえず,夫と娘の音声でのやり取りの姿を目にする。アンヘラは娘オナを「聾者のコミュニティの一員として育てたい」と願い,エクトルは「社会に適応しやすいように聴者として育てること」を希望する。2人の間の「埋められない距離」は,この先,縮めることができるのか……。
題名に『幸せの…』がついていなければ,アンへラが海辺に向かうシーンで,最悪の結果を思い浮かべるところであった。やはり,手話中心の映画を字幕で観るのは疲れる。映画観客は,登場人物の誰かに感情移入して観ていることが多い。筆者の場合,当然夫の視点で本作を観ていたが,出産シーンでは自分も手話で語りかけねばと感じてしまった。これまで,聾者の主人公の揺れ動く心をこれほど繊細に捉えた映画はなかった。
音のモード切り替えも見事だった。アンへラとエクトルの衝突では音量が一気に増す。その一方,ある場面では音がなくなり,全くの無音となる。アンヘラが補聴器の電源を入れると,彼女が嫌う甲高いノイズ音が押し寄せる。アンヘラの心の揺らぎを代弁しているかのようだ。本作の監督は,劇作家・社会学者のエバ・リベルタで,これが長編デビュー作である。この監督は聴者だが,主演のミリアム・ガルロは聾者女優で,実の妹だという。なるほど,彼女の人生に常に付き添って来た立場ゆえ,これだけの映画を作れたのだと納得した。
■『プラダを着た悪魔2』(5月1日公開)![]()
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この種の映画評を長年続けていると,どんな映画がヒットするのか,批評家の評価,熱心な映画ファンの感想投稿も大体読める。それでも予想外の反応に驚くことがある。また,日頃あまり映画を観ない知人から,「最近のお勧め映画は何ですか?」と問われることがしばしばある。相手のレベルを考えて選んだ結果に対して,後日,感謝の意を伝えられた時の喜びは格別である。20年前の大ヒット作も,その続編である本作も,それを味合わせてくれたので,本稿ではその予想外の反応と,個人的体験について語ろう。これだけの話題作となると,もはや当欄が通り一遍の紹介をする意味などないからである。
先に20年前のことから語る。当時,人々が話題作を知るのは新聞夕刊での広告かTVスポットであり,映画の感想・評価でSNSが炎上することなどない時代だった。CG/VFX多用作中心の当映画評では,前作の短評(06年11月号)は誌面で僅か8行である。「若い女性向きの映画だが,オヤジ世代が観てもかなり楽しめる痛快譚だ」と書いていた。某国立大学の有名教授の研究室を訪問した際,女性秘書から推奨作を問われた。職員組合が福利厚生策で全員に映画の入場券をくれるので,教員も事務員も止むなく何かを選ぶのだと言う。そんなことで映画館に来る観客もいるのかと半ば呆れつつ,素直に前作を勧めた。果せるかな,真っ先に同作を観て気に入った彼女が口コミでそれを周囲に伝えたため,多数の事務職員も堅物の教授たちもこの映画を観たそうだ。筆者は同作の広報宣伝に寄与したことになる。
さて,続編の本作である。5〜6年後ならともかく,20年後に続編を作るのが意外だった。『トップガン』の続編や『インディ・ジョーンズ』シリーズのように主演男優1人だけならまだしも,主要キャストの4人が揃って同じ役で再出演というのが珍しい。女優3人の容色の衰えをカバーできるだけの物語なのか気になった。
記録を残すため,最低限の概要を記しておく。有名ファッション誌「ランウェイ」の名物鬼編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のアシスタントだったアンディ・サックス(アン・ハサウェイ)は,当初の希望通り,報道記者として名を成していた。所属会社の経営不振から編集部全員が解雇されるが,元のランウェイの特集エディターとして復帰する。ミランダの皮肉な発言や忠実な右腕ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の親切な助言は相変わらずだったが,時代の流れでミランダのパワハラは激減していた。一方,先輩アシスタントだったエミリー(エミリー・ブランド)は退職し,業界大手のDiorの要職に就いて敏腕を振るっていた。雑誌業界の構造的不況の中,さらにオーナーの急死により,改革を進めようとしていたミランダの立場か危うくなる。彼女とランウェイの窮地を救おうと,アンディとエミリーは対策を提案するが,ミランダはその計画に激怒する……。
この続編の完成披露試写には招待されていたが,日程が合わず,公開日翌日の午後,シネコンで観ざるを得なかった。予想外の出来事は,大きく2つあった。まず,この続編で感じたのは,4人の20年後の姿である。S・トゥッチは元々スキンヘッドだったが,それでもかなり老人になったなと感じた。一方,女性3人は,女優という職業はここまで容色の衰えを感じさせず,魅力を維持できるのかと驚いた。M・ストリープは実年齢76歳,劇中では75歳の役だが,今もその気品と美しさは変わらない。A・ハサウェイとE・ブラントは同年齢で,既に四十路である。相対的に前作よりも美しくなり,オーラを感じたのはE・ブラントの方だった。この20年間でトップ女優の地位を得たのも彼女だが,よくぞかつてと同じ悪役を引き受けたなと感心した。
もう1つは,邦高洋低の日本での映画興行の中で,もはや絶望的な立場の洋画の実写映画だが,本作は別格的な扱いを受けていた。公開前から前作の解説投稿が多数あったが,公開日夜には私的な感想記事がSNS上で溢れていた。その大半は,それぞれの視点での絶賛記事である。ここまで愛されている作品なのかと驚いた。また,上映終了後のシネコンの会場では,観客の多くが声高に同伴者に感想を口にしていた。それぞれが,自分なりの解釈を披露したくなる映画なのである。
ファッションよりもビジネスに偏り過ぎ,予定調和の結末で新鮮味がないとの意見もあった。同感ではあるが,これだけの人気作となると,全く意外な結末にはできない。また,雑誌業界の構造不況を嘆きながら,その解決になっていないとも批判もあったが,構造不況の特効薬など有りはしない。娯楽映画の役割はこれで十分だ。
筆者が気に入ったのは,ミラノ市内の美しい景観とレディ・ガガが本人役で出演し,この映画のために作った自作曲を歌っていたことだった。いずれも,前作の大ヒットにより,格段に高額の製作費を使えたゆえの大盤振舞いである。前作のヒットにささやかな貢献をしたので,この扱いは格別に嬉しかった(笑)。
■『花様年華 25周年特別版』(5月1日公開)![]()
ウォン・カーウァイ監督の代表作として知られる香港映画『花様年華』(00)の日本公開が翌2001年で,当時話題になっていたことは記憶している。まだ短評欄を設けていない頃で,中年男女のラブストーリーは当欄の管轄外だったので,見ていなかった。何度かリバイバル上映されているし,既にネット配信でも見られるが,「25周年特別版」には,同作の4K版に同監督が同じ主演男女優を起用して撮った未公開短編『花様年華2001』が付されているというので,この機会に観ることにした。
改めて本編も短編もどんな評判なのか,「花様年華」でネット検索したところ,何と「BTS版 花様年華」がトップで出て来た上に,「人生で最も輝く青春時代」を意味する「四字熟語」だという。日本語版もあるらしい。K-POPアイドルグループには全く興味はなく,彼らの音楽は聴いたこともないが,既に三十路に入った彼らが香港映画をリメイクしたのか? 7組の男女の恋愛劇に拡張したのか? 日本ではそんな「四字熟語」は日常使わないが,漢字を廃したはずの韓国では使っているのか?
もう少し調べると,元々の中国でも「花のような美しい時代」「10代後半から20代前半の青春時代」を指す言葉だった。中年ではない。転じて「女性の最も美しい盛り」を表わす使い方となり,香港映画はその部分を強調したのだろう。BTSが映画リメイクするはずはなく,2015〜16年に出したアルバム3部作のコンセプトとのことだった。音楽だが,一応ストーリーはあるらしい。映画『花様年華』(00)は韓国でも大ヒットし,「伝説的な恋愛映画」として愛されていたので,それに便乗して「切なくも美しい過去」を指す「花様年華」を,日頃韓国では使わない漢字のままアルバムタイトルにしたようだ。世界的人気のBTSにまで影響を与えた恋愛映画として,本作を観賞・分析・評価することにした。
舞台は英国領時代の1962年の香港で,ジェーナリストの男性チャウ(トニー・レオン)は香港でのアパートを探し,妻と共に転居した。偶然にも同日,隣室に日系企業勤務の夫チャンと商社勤務で秘書の妻スー(マギー・チャン)も引っ越して来た。それぞれの大家の部屋の間借りである。チャンの妻とスーの夫は残業が多かった上に,スーの部屋は大家の麻雀の音が煩かったため,スーがチャンの部屋で過ごすことが多くなり,食事も共にする。スーはチャンの武侠小説執筆の助手をすることになり,2人は恋心を抱き始める。やがて,お互いの配偶者同士が不倫していることを知る。同じ過ちを犯さないようプラトニックな関係を続けたが,2人の愛の深さは強まり,ホテルの部屋を借りて逢瀬を重ねた。チャンのシンガポール転勤が決まり,スーに同行を求めたが,彼女は即答できなかった。そして,心決めたスーがホテルの部屋を訪れた時,既にチャンの姿はなかった…。
物語としては1年後,4年後も登場するが,それは観てのお愉しみとしよう。1960年代の香港の再現のため,タイで撮影したという。製作年を知らなければ,映像も音楽もそのまま60年前の映画かと思う古くささだった。ナット・キング・コールの曲を使用するとは,意図的に古さを誇張している。マギー・チャンは長身で,チャイナドレス姿は美しかったが,さほどの美人ではない。物語が美しかったかと言えば,余りの緩さに苛立ちを覚えた。当然この2人も情交関係になると期待(?)したのに,何も起こらない。それが当時の道徳心だというのなら,シンガポール同行を決心するのは,結局不倫前提じゃないかと反論したくなる。「報われない想いや孤独」「過ぎ去った時代への後悔」を美しく感じるのは,既に毒された時代に生きているという証拠だと受け取れた。
さて,オマケの『花様年華2001』は,たった9分の短編だった。トニー・レオンは,清潔好きのコンビニ店長役で登場する。一方,マギー・チャンは常連客で,いつも空腹を満たすためにやって来て,ケーキを店内で食べる。奔放な彼女が別の女と殴り合いをして,血を流して戻って来るところから,物語は急転する。まさに2001年に撮った映画で,音楽もファッションも食べ物も現代的だった。彼女はケーキを爆食いして,爆睡するが,その後の2人の関係は容易に想像できる。前年の長編を不満足に感じた筆者のような観客に,「こんな映画でいいなら,いくらでも撮れますよ」という監督のメッセージである。その通り,こちらの方が断然面白かった。
■『シンプル・アクシデント/偶然』(5月8日公開)![]()
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イランの名匠ジャファル・パナヒ監督の最新作である。監督名だけで是非観なければ…と思う1人だ。イラン政府を批判した映画を作り,禁固刑判決,映画制作&海外渡航禁止の上に,収監と保釈を繰り返したことは既に述べた。前作『熊は,いない 』(23年9月号)では服役中かどうか不明と書いたが,その時点では保釈されていて,制作禁止・渡航禁止も解かれていた。ところが,昨年12月にまたしも懲役1年,2年間の渡航禁止を宣告されている(現在,控訴中)。米国大統領の無節操無定見な戦闘の標的となったイラン国には同情するが,自国民に対する政府の理不尽ぶりには憤りを感じる。
本作は今年のアカデミー賞国際長編映画賞部門のノミネート作(ただし,フランス代表扱い)であったので,授賞式前に観ていた。ようやく紹介の時期になったので,いざ書き始めようとして,記憶が曖昧なことに気付いた。同じノミネート作で,急いで観た『シラート』(6月号で紹介予定)との区別がつかなくなっていた。両作とも「砂漠の中にバンが停まっている光景」が印象的であり,主人公以外に複数名が関与していたので,どちらの登場人物であったかを混同しがちであった。
本作は不条理劇「ゴドーを待ちながら」を彷彿とさせる映画と聞いていたが,その評判通り,手放しで愉しめる映画ではなかった。なるほど,カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作だけのことはある。監督の三大映画祭の最高賞制覇はめでたいが,筆者とカンヌの相性が悪いことはご存知の通りだ。過去のパナヒ作品とは作風が異なり,当欄で正しくその価値を語れるか怪しいが,それでも紹介対象として残した。以前もカンヌ受賞作を「全く面白くない。主人公に感情移入できない」と正直に述べたところ,「やっぱりそうか。自分もそう感じた。安心した」という読者が何人もおられたからである。
主人公のワヒド(ワヒド・モバシェリ)は平凡な自動車整備士である。ある夜,彼の勤務する整備工場に妻と娘を連れた中年男(エブラヒム・アジジ)が修理依頼にやって来た。夜道で野良犬を撥ね,故障したのだと言う。その男の義足が軋む音を聞いて,ワヒドは血相を変えた。バイクに飛び乗って後を追い,彼の自宅を突き止めた。翌朝,自宅から出て来た義足の男をバンで尾行し,市街地で襲撃して拘束した。かつてワヒドは賃金支払いを要求しただけで政治犯と見做され,刑務所に収監された。監獄内で執拗な拷問を加えたのは,エクバルなる非情な看守で,シリア内戦で片足を失った男だった。ずっと目隠しされていたので顔は見ていないが,ワヒドの尊厳を踏みにじった男の義足が発する音を鮮明に覚えていた。
報復として,ワヒドは砂漠に穴を掘り,義足男を生き埋めにしようとする。男はエクドルではないと否定し,昨年事故で脚を失っただけだと訴え,助命を懇願した。身分証には全く違う名前が書かれていた。ワヒドの心には迷いが生じ,バンの荷台に義足男を押し込んで,かつての囚人仲間を集めて相談をもちかけた。
エクドルかどうかの判定に立ち会ったのは,カメラマンのシヴァ(マルヤム・アフシャリ)と元パートナーのハミド(モハマッド・アリ・エリヤスメール),結婚式を控えたゴリ(ハディス・パクバテン)と花婿となるアリ(マジッド・パナヒ)であった。全員エクドルの暴行の犠牲者であったが,誰も顔を知らない。目の前の義足男をエクドルと決めつける強硬派と自白を引き出そうとする慎重派が織りなす言葉の応酬は,舞台劇を思わせる物語進行であった。勿論,観客の関心事は彼がエクドルであるかどうかだが,そのネタバレは書く訳には行かない。ラストシーンには一捻りあるとだけ言っておこう。
義足の看守という設定はフィクションだろうが,理不尽な政府の扱い,不条理な判決,投獄中に加えられる暴行等は,いずれも監督の体験によるものだ。釈放された後の身の振り方や,政権や社会に対する見方の変化は,2度目の収監時に得た囚人仲間からの情報によるという。ただし,本作で起用された出演者たちに反体制主義者はいるものの,実際の囚人経験者ではない。
■『幕末ヒポクラテスたち』(5月8日公開)![]()
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一瞥しただけでワクする題名の映画だった。例によって,予備知識なしから始め,小出しの情報で映画ジャンルやテーマを予想したくなった。「幕末」というからには,邦画の時代劇であることは確実だ。「ヒポクラテス」はよく知らないが,多分,ギリシャかローマの哲学者か数学者だろう。「たち」があるから,彼とその仲間が日本の幕末にタイムスリップして来る映画だろうと,まず考えた。
「ヒポクラテス」は古代ローマの医師で,「医学の父」「医聖」「疫学の祖」と呼ばれた人物だった。本作は京都府立医科大学の創立 150 周年記念映画で,かつて医大生を描いた群像劇「ヒポクラテスたち」(80)も創ったという。となると,同学の教員か医大生が幕末にタイムスリップし,現代医学の知識を利用して幕末の医学教育に貢献する映画を想像した。次のステップで,タイムスリップはなく,佐々木蔵之介演じる幕末の蘭方医が主人公で,京都のはずれの村を舞台に奮闘する映画だと判明した。ならば,松竹映画で,無知な村人を説き伏せながら,疫病と闘うヒューマンドラマだと推測した。
テーマは,ほぼこれで正解だったが,配給はギャガだった。「タイムスリップ」に拘ったのは,東宝の『テルマエ・ロマエ』シリーズを意識してしまったのだろう。松竹配給だと思ったのは,松坂桃李主演の『雪の花 ―ともに在りて―』(25年1月号)の印象が強かったからだ。同作も時代は幕末,京都の蘭方医の奮戦記であった。
本作の監督は,前作の大森一樹の続投だと思ったのだが,コロナ禍で撮影延期となり,さらに彼が2022年に逝去した。計画は頓挫しかけたが,かつて彼の助監督であった緒方明が遺志を継ぎ,完成に漕ぎ着けたという。京都出身の筆者としては,この映画を応援しない訳には行かない。自分では眼科治療に通っただけだが,府大病院に入院中の親族や友人を見舞ったことは何度もある。
時代は1840年,舞台は洛南の黒川村で,好奇心旺盛な蘭方医・大倉太吉(佐々木蔵之介)は,貧富や身分を問わず市井の人々を救っていたため,人望が厚かった。何事につけ蘭方医を見下す漢方医・玄斎(内藤剛志)とは犬猿の仲だが,この2人の諍いはコメディタッチで楽しかった。妻フミ(真木よう子)の描き方は『雪の花』と大差なかったが,最も大きな違いは,裕福な商家の放蕩息子で博打好きの新左(藤原季節)の物語への関与であった。ある夜,ヤクザ内の抗争で重傷を負った新左が,太吉が食事中の飯屋に運び込まれてきた。太吉はすぐに手術しないと落命すると診断したが,恩師・日野鼎斎が不在であったため,自ら未経験の外科手術を飯屋の食卓の上で敢行する。この腎臓摘出手術の描写が極めてリアルで,前半のハイライトであった。
すっかり回復した新左は心を入れ替え,太吉の弟子となることを懇願する。彼の情熱が本物であると知った太吉は長崎で西洋医術を学ぶことを勧める。それから15年後,新左改め新三郎が京都に戻って来た。温かく迎えた太吉であったが,新三郎からの指摘で,村で広まる感染症を見逃していたことを知り,愕然とする……。
感染症対応の奮戦ぶりは『雪の花』と少し異なるものの,真面目な医学映画であった。斬首後の死体を老侍・弾蔵(柄本明)が解剖する様子を蘭方医たちが真剣に見守るシーンは,さすが学内の医学生に見せることを前提とした映画である。東映京都撮影所での撮影だけに,時代劇セットも万全だった。それでいて,市中見回りで登場する新撰組の描き方が滑稽で,娯楽映画の要素も含んでいた。終盤がハッピーエンド過ぎて,いささか緊迫感に欠けるが,医大のプロモーション映画であることを考えれば,目くじら立てるほどのことではない。
ちなみに,京都における京大・医学部と府立医大の関係は,東京における東大・医学部と旧・東京医科歯科大の関係と相似形である。京都には,慶應大・慈恵医大・順天堂大・東京女子医大クラスの医大/医学部がないどころか,上記2大学しかない。その分,市民からの信頼度は高いと言える。この映画を観て同大学の志望受験生が増えれば,本作の役目は十分果せたことになる。
■『スマッシング・マシーン』(5月15日公開)![]()
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先月の『ハムネット』,上記の『シンプル・アクシデント/偶然』と同様,アカデミー賞授賞式前に観ていたが,ようやく紹介する時期になった映画だ。GG 賞では主演男優賞(D)と助演女優賞部門に,アカデミー賞ではメイキャップ&ヘアスタイリング賞部門にノミネートされていた作品である(いずれも,受賞は逃した)。「Smashing Machine」とは「壊し屋」であり,「総合格闘技」のチャンピオンの再生と葛藤を描いている。監督・脚本は『アンカット・ダイヤモンド』(20年Web専用#1)のサフディ兄弟の弟ベニー・サフディである。
主人公は,日本発の総合格闘技の祭典「PRIDE」の初期に活躍したマーク・ケアーで,「霊長類ヒト科最強の男」と呼ばれていたという。PRIDEは名前だけ知っていた程度で,TV番組を見たことはなく,興味もなかったので,彼の名前も顔も知らなかった。そんな最強の男を演じられる俳優などいるのかと思ったが,元プロレス界のチャンピオン「ザ・ロック」ことドウェイン・ジョンソンが製作・主演だというので安心した。彼以上の適役はない。その上,同名のドキュメンタリーに感激したD・ジョンソンが,自ら映画化権を得たという。今や,ハリウッド有数のマネーメイキング・スターであるから,楽しく,迫力あるリング上のファイトを見せてくれるに違いない。
そう思って,ポスターや予告編を観たが,D・ジョンソンがどこにもいない。筋肉隆々であるが,主人公はD・ジョンソンほどの巨漢でも禿頭でもない。別の俳優に交替したのか,彼の主演作は別の映画だったのを勘違いしたのかと思った。ようやく,「メイキャップ…」賞の候補作であることを思い出した。そーか,この顔は特殊メイクで,鬘をつけているだけなのか。担当が日本人メイクアップアーティストでオスカー2度受賞の「カズ・ヒロ」だと知って納得した。彼ならこのレベルのメイクはお手のもので,別人に見せることなど容易にできる。
映画は,1997年のUFC王者のマーク・ケアーの試合前インタビューから始まる。絶頂期の彼は自信満々で勝利の快感を語っていた。1999年,彼は恋人のドーン(エミリー・ブラント)と暮らしていた。連勝は続けていたが,慢性的な痛みと敗北への恐怖心から麻薬性鎮痛剤を常用していた。盟友マーク・コールマン(ライアン・ベイダー)のサポートでPRIDEに向かうが,イゴール・ボブチャンチンに惨敗し,控室で涙を流した。ケアーは敵の反則行為を主催者・榊原信行(大沢たかお)に訴え,無効試合に認定されたが,初めての敗北のショックから立ち直れなかった。ドーンとの関係も悪化し,彼女はチームを去った。ケアーは鎮痛剤過剰接種で意識を失い,病院に運ばれる。コールマンから叱責され,心を入替えたケアーはリハビリを始め,再起を期すが……。
王者としての爽快な試合を期待したのに,いきなり敗北で,ガッカリした。その後,再起しての鮮やかな勝利もあったが,もはや連戦連勝ではなく,元王者の心の弱さと繊細さを描いた映画であった。同系統の映画として,ミッキーローク主演の『レスラー』(09年5月号)を思い出した。恋人ドーン役のE・ブラントの演技力は今更言うまでもないが,D・ジョンソンの演技力も一級品になったと感じさせる一作であった。いつもの明るく,パワフルなルックスでなく,憂いを感じる特殊メイクであったことが奏効していたのかも知れない。
最後に2025年の食料品店のシーンで,実在のマーク・ケアー本人が買い物をしている姿が登場する。まさに顔面相似形であった。それだけでなく,D・ジョンソンを小さく見せていることにも感心した。マーク・ケアーが身長185cm, 体重114kgであることは,劇中で何度も言及されていた。格闘技選手としては小柄だ。一方,D・ジョンソンは196cmで,10cm以上も差がある。大きく見せることは靴底を上げればできるが,小さく見せるのは容易ではない。CG/VFXで縮小した形跡はなく,同じ構図に入る他の俳優の選択で,相対的に小さく感じさせたり,D・ジョンソンの姿勢や首を傾げる素振り等で,小柄に見せる工夫をしていたのかと思われる。
■『ザ・コラール 希望を紡ぐ歌』(5月15日公開)![]()
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原題はシンプルに『The Choral』。「choral」は「合唱(団)の」なる形容詞であり,名詞形は「chorus」だ。劇中で登場する合唱団は「Choral Society」と形容詞になっているが,映画の題名を「The 形容詞」にしたのは,「この合唱団の人々」といったニュアンスなのだろう。実際,アマチュア合唱団の老若男女の様々な人々が登場し,彼らが織りなすヒューマンドラマなのである。
時代は第一次世界大戦中の1916年で,舞台はイングランド北部ヨークシャーの小さな町ラムズデンであった。徴兵された多くの団員が死亡し,合唱団は存続の危機にあった。市会議員バーナード・ダックスベリー(ロジャー・アラム)と写真家ジョー・フリットン(マーク・アディ)」は「こんな時代こそ,歌の力で町を活性化したい」と新人団員の募集に力を入れる。退役軍人や売春婦ビショップ夫人 (リンドジー・マーシャル)まで招き入れ,入団テストが実施された。会場では,早速,階級によって席は違うと労働者階級を蔑む古参会員の老婦人もいた。従軍中で生死不明の恋人を待つベラ(エミリー・フェアン),信心深く澄んだ歌声をもつ黒人歌手メアリー(アマラ・オケレケ)らが選ばれた。
ところが,合唱団指揮者のポラードが志願して出征してしまったため,ダックスベリーは後任にドイツでの指揮経験のあるヘンリー・ガスリー博士(レイフ・ファインズ)を選ぶ。彼は信仰心が薄く,同性愛者であったが,音楽を対する情熱は人一倍で,合唱練習にも妥協を許さなかった。敵国ドイツでの滞在経験だけで彼を拒否する市民は多く,部屋には煉瓦が投げ込まれた。ガスリーが合唱用に選んだ「マタイ受難曲」も作曲がドイツ人のバッハであるというだけで嫌われる。ベートーベン,ヘンデル,ブラームス,誰を選んでもドイツ出身であったので,止むなくガスリーは演目を英国人の現役作曲家エドワード・エルガーのオラトリオ「ゲロンティアスの夢」に変更する。そのエルガー(サイモン・ラッセル・ビール)が近くのマンチェスター大学の名誉音楽博士号授与式の日に,招かれて合唱団を訪れる。彼は自分の曲が歌いやすいように変更されていたことに激怒し,使用許可を取り消して帰ってしまう。果たして,合唱団は予定の公演を無事開催できるのか……。
最近,第一次世界大戦時の描いた映画が多いが,その大半で塹壕や戦車を描いた殺伐とした戦争シーンが続く。それに対して,本作は音楽映画に徹していて,戦争場面は微塵もない。ただし,歌曲は格調高く,皮肉交じりの会話の言葉も洗練されていて,イントネーションまでKing’s Englishだった。監督・製作は『ミス・シェパードをお手本に』(16年12月号)のニコラス・ハイトナーだったが,教養ある作家の文学作品を映画化したのだろうと思った。実際は,英国を代表する劇作家・脚本家のアラン・ベネットのオリジナル脚本で,ハイトナー監督とはこれが4度目のタッグである。その主演に,『ザ・メニュー』(22年11・12月号)『教皇選挙』(25年3月号)『28年後…』(同年6月号)と話題作が続くレイフ・ファインズを配しただけで,拡張高さと話題性を両立させた成功作だと言える。
その反面,戦争の敵国とはいえ,過去にドイツ滞在したというだけで,ここまで同じ英国人を嫌うのかと不思議だった。また,恋人クライド(ジェイコブ・ダッドマン)を待っていたはずのベラが,右腕を失いながらも生きて戻って来た彼を見捨て,若い17歳のエリス(テイラー・アットリー)との新しい恋愛に興じる精神性が全く理解できなかった。この彼女の態度だけで,映画全体を不愉快に感じてしまった。戦争は人々の価値観や倫理観までも狂わせてしまうということなのだろうか。
■『廃用身』(5月15日公開)![]()
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初めて聞く言葉だった。プレス資料にも公式サイトにも
【廃用身】(はいよう-しん)(名) 脳梗塞などの麻痺で回復の見込みがない手足のこと
と,辞書風の書き方がされているが,どの国語辞典にもこんな項目はない。久坂部羊の作家デビュー作の映画化作品というので,この原作者の造語と思われる。
原作者は大阪大学・医学部卒,同大学病院で外科医・麻酔医として研修,大阪国際がんセンター等で勤務後,外務省医務官としてサウジアラビア,オーストリア,パプアニューギニアの在外公館で勤務というから,堂々たる医療従事経歴だ。『白い巨塔』(66)『風に立つライオン』(15年4月号)の世界の実体験者なのである。既に小説は約30冊,医療系で10冊以上の新書判があるので,元医師の作家かと思ったら,現役医師も続けている。
物語の主人公は,デイケア医療の「異人坂クリニック」の院長・漆原糾(染谷将太)で,WHO海外派遣研究員としてニューギニアでマラリア防疫研究に従事したというから,正に原作者の経歴と重なる。彼はまだ35歳であったが,外科医として老年期医療で高齢患者やその家族と接する内に,終末期患者が満足し,家族や看護師の負担を軽減する秘策を思いついた。それは,麻痺して治癒の見込みのない四肢(廃用身)の切除であった。
始まりは,左腕と両脚の自由を失った患者・岩上(六平直政)だった。重い体重で重度の床ずれを起し,左脚の「ガス壊疽」のため,敗血症で落命する危険性もあった。漆原は左脚切断を提案し,本人の同意を得て切除手術を敢行した。左脚の重さがなくって床ずれは解消した。岩上は「心も軽くなった」と感激し,左腕や右脚の切除も希望した。彼は他の患者たちの前で得意げにその効果を吹聴した。続いて2人の女性患者が同様な処置を希望し,老人性鬱や認知症の改善効果もあった。漆原は,切断の「Amputation」の頭文字をとって「Aケア」と名づけ,積極的な介護医療の一環とする決断をした。
医療系雑誌を読んで興味を抱いた編集者の矢倉俊太郎(北村有起哉)はAケア体験者を取材し,さらに漆原と面会し,治療例の出版をもちかける。彼には寝た切りの母がいて,老老介護に疲弊した父を見ていて,老年期医療の常識を覆す「Aケア」に期待を抱いた。ところが,Aケアに対する内部告発があり,週刊誌が「患者の手足を切る悪魔の所業」と書き立てた。その上,患者宅で発生した衝撃の事件により,漆原は追い詰められて……。
監督・脚本は吉田光希。当欄で取り上げるのは初めてだが,長編監督は6作目で,かなり硬派の監督のようだ。勿論,小説も映画も全くのフィクションであり,原作者がこの医療行為を日常的に行っていた訳ではない。それでも,現場で「切って楽になれるなら切って欲しい」と言われたという。「Aケア」には賛否両論との声もあるが,本当にそうか? いくら終末医療が話題になっても,『PLAN 75』(22年5・6月号)や本作の判断が,医事法で法制化されることはないだろう。ただし,現場での個別案件で類似行為が行われている可能性は十分ある。また,この作家の小説は,今後多数映画化されて行くと思われる。
正直なところ,この映画は一旦途中で観るのを止めてしまった。不愉快だったからではなく,観ていて辛かったからである。それでも改めで再開したのは,漆原の妻・菊子役が最近お気に入りも瀧内公美であったからだ(笑)。オンライン試写であったので,結末だけ先に観て,後は彼女の出番だけを探した。漆原の結末は容易に想像できたが,想像以上に衝撃的な描き方であった。この「Aケア」の賛否について,配偶者の両親がこの状態で,妻や娘が介護疲れしているなら,文句なしに勧めるだろう。ところが,自分自身の廃用身が対象なった場合,切除に同意できるかどうか自信がない。
(5月後半の公開作品はPart 2に掲載しています)
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