O plus E VFX映画時評 2024年1月号掲載

その他の作品の短評 Part 2

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


(1月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)

■『僕らの世界が交わるまで』(1月19日公開)
 例によって,予備知識なしにこの題名から想像できる映画を列挙してみた。キーワードは「世界」で,それが交わるとなると……。流行のマルチバース間の交差の訳はないとして,留学生間での文化の違いの実感,移民と原住民の心の触れ合い,北と南の貧富格差問題の緩和,大都会と過疎の村出身の男女が恋に落ち…といくらでも思いつく。最後に世代間ギャップもあるかなと思ったら,それだった。米国在住で比較的裕福な家庭の母と息子の意識や価値観の「すれ違い」を描いたドラマである。主演の母親役はオスカー女優ジュリアン・ムーアだが,監督・脚本は『ソーシャル・ネットワーク』(11年1月号)のジェシー・アイゼンバーグで,彼の監督デビュー作であることが話題を呼んでいた。
 母エヴリンはDV被害者の駆け込み場所「安らぎの家」を運営し,社会福祉活動と人々との交流を生き甲斐にしていた。彼女が全く制御できない高校生の息子ジギー(フィン・ウォルフハード)はシンガーソングライターであり,YouTuberである。典型的な自己中人間で,ネット配信で2万人のフォロワーがいることが大の自慢だ。母は,お節介で過干渉,親切の押し売り人間で,熱心に大学進学を勧めた男子高校生に断られ,落ち込む。一方,息子ジギーが恋した女性は硬派の活動家で,彼女の気を引きたい彼は,背伸びして政治を盛り込んだ歌を作るが,思い通りには行かず,自己嫌悪に陥る。要するに母子とも自己達成感重視の似た者同士だ。いかにも実際にいそうな人間で,なかなか人間観察力が鋭い脚本であった。
 堅物の父親ロジャー(ジェイ・O・サンダース)は,妻と息子を冷ややかな目で見ているが,時々味のある発言をする。そーか,自分は彼の目線でこの映画を観ていたのだと気がついた。やはり,J・ムーアの演技力は突出していて,さすがと褒めたいレベルだった。J・アイゼンバーグの監督&脚本家としての才能も本物だ。ベン・アフレックやブラッドリー・クーパーとはタイプが違うが,ぜひ監督として大成してもらいたい。

■『緑の夜』(1月19日公開)
 こちらは色が気になり,まず予告編を見てしまった。髪の毛,手足の爪のマニキュア,タトゥーをこの色にしている女性は登場するが,空や街の灯りが緑色という訳ではなかった。予告編だけで退廃的な雰囲気に溢れていたが,本編もそうだった。韓国映画で,女性主人公2人が織りなすノワール映画である。1人は,中国人人気女優で,ハリウッド映画にもしばしば登場するファン・ビンビン(范冰冰)だ。既に40代だが,今でも美しい。久々に見るなと思ったら,脱税疑惑騒ぎでしばらく消息不明だったが,本作が俳優復帰作だそうだ。もう1人は,韓国人女優のイ・ジュヨンで,ネット配信ドラマ『梨泰院クラス』のトランスジェンダー役で人気を博し,是枝裕和監督作品『ベイビー・ブローカー』(22年Web専用#4)では,ブローカー達を追う女刑事を演じていた。范冰冰より10歳以上若く,個性的な顔立ちである。
 ジン・シャ(范冰冰)は苦難の過去から逃れるため韓国に来た女性で,仁川港の保安検査場で働いていた。ある日,フェリーで出国しようとした緑の髪の女(イ・ジュヨン)の手荷物検査を使用としたところ,彼女は出国を取り止め立ち去ってしまう。不審に感じたジン・シャが彼女を追ったところ,逆に親しげに話しかけられ,不思議な関係の陥ってしまう。緑の髪の女は運び屋であり,ジン・シャも非合法の闇社会に足を踏み入れる。最初から額に傷があるように,ジン・シャもかなりの訳ありの女性であった…。
 ライター,スプレー,はさみ等々が重要な役割を果たすというのは尋常ではなく,ホラー映画を思わせるダークムービーであった。途中まではワクワクする展開で,この2人が何をするのか楽しみだったが,尻切れで終わってしまう。スタイリッシュな映画であるが,踏み込みが足りない。男性なら戦闘能力が高い人物に設定できたのに,女性主人公ではそれも叶わなかったのだろう。全体としては着想倒れで,終わり方が見つけられず,途中で放り出した感が否めない。監督・脚本は,中国人女性のハン・シュアイで,デビュー作『Summer Blur』(20)が注目を集めた。最後に登場する犬が頗る可愛かったのだが,闇社会を描くにはまだ力量不足だと感じた。

■『カラフルな魔女〜角野栄子の物語が生まれる暮らし〜』(1月26日公開)
 魔女といっても魔法が使えたり,霊感がある人物ではない。「魔女の宅急便」の作者である童話作家/絵本作家の角野栄子に関するドキュメンタリー映画だ。現在は88歳,鎌倉在住だが,4年間に渡って密着取材したNHK Eテレの全10回の番組を再編集し,映画化している。ナレーターは宮﨑あおいで,監督はTV版の構成・演出を担当した宮川麻里奈である。
 幼少期から始まる伝記映画ではなく,彼女の自宅の日常生活から始まる。なるほど,衣装だけでなく,壁の色も家具も小物もカラフルだ。赤,橙,ピンクなど,すべて暖色系で,童話作家に相応しい。週7日間,規則正しい執筆生活を送り,町や海岸の散歩,食事作り,旅行などの合間に童話制作について語る。ベストセラー,ロングセラーの多数の著書がある。絵が描けるので,何でも絵日記風にメモしている。知的で優しい人柄が滲み出ている老女だ。
 小学生相手のトーク,児童文学のノーベル賞である国際アンデルセン賞の授賞式(日本人で3人目)あたりから佳境に入る。1959年,新婚旅行を兼ねた自費移民で2年間ブラジルに滞在する。当時はかなりの美人だ(今も品は良いが)。34歳の時,恩師の勧めで執筆活動を始め,ブラジル時代に知りあったルイジェンニョ少年を主人公した著作でデビューする。クライマックスは,彼が夫妻で来日し,62年ぶりに再会を果たすシーンだ。そして,2023年11月にオープンした「江戸川区角野栄子児童文学館」の「いちご色」で溢れる館内と1万冊に児童書が留めをさす。
 こういう人生を生き,こんな素敵な晩年を過ごしたいと感じる女性観客は少なくないはずだ。どんな童話なのかも気になる。筆者は彼女の童話を真剣に読んだり,子供に語り聞かせる年齢でもないから,一番下の孫娘(今夏で3歳)のために買ってみようかと思う。

■『サイレントラブ』(1月26日公開)
 当映画評の短評欄は,基本は洋画中心で,音楽映画,伝記もの,ドキュメンタリーは歓迎,想定読者は熟年以上の映画通,ということは既にご存知だろう。必然的に,邦画はかなり篩にかけ,選択理由を書くようにしている。そうしないと数が増え過ぎるのと,自分が解説すべきか迷うからだ。本来は観ない若者のラブストーリーだが,本作を残したのは,ヒロインが『ゴジラ−1.0』(2023年11月号)の浜辺美波だったからだ。監督・原案・脚本が『ミッドナイトスワン』(20年9・10月号)の内田英治であることも,プラス要因に働いた。難病ものは御免だが,「声を捨てた青年と視力を失った音大生」では何が起こるのか,少し興味をもった。相手役が山田涼介であることは,余り気にしなかった。
 音大生の甚内美夏が大学の校舎屋上から飛び降り自殺を図るのを,作業員の沢田葵が阻止するところから物語は始まる。ピアニスト志望だった彼女は,自動車事故で視力を失い,絶望していたのだった。ある日,日頃は施錠している旧講堂で葵が作業していると,美夏が入って来て,葵がいることには気付かず,古いピアノを弾き始めた。その後も葵は彼女のためにこっそり鍵を開けておく。彼から彼女への意思伝達は指と鈴の音だけだったが,葵は美夏の目となり,一緒に通学路を歩くようになる。その後は,ラブストーリーに有りがちな嫉妬と誤解で,物語は不幸な出来事へと進んでしまう……。
 互いの身体的ハンデが物語の鍵なら,裕福な家庭のお嬢様と前科ありの労働者なる身分格差まで入れる必要はないと思ったが,物語を盛り上げるスパイスなのだろう。若い女性観客は主人公の葵が可哀想でハラハラするだろうが,親父族は歯の浮くようなロマンスを見ているのが気恥ずかしくなり,少し苛立ちも感じた。『ゴジラ−1.0』や『マイ・エレメント』(23年8月号)の男女は素直に見守ることができ,応援したくなったのに,どうしてなのだろう? ラストで結ばれる予定調和は承知の上だったが,やはり物語を作り過ぎで,現実味に乏しかったからだと思う。浜辺美波は単なる美女で本作では個性がなかったが,年齢を重ねてイケメンでなくなった山田涼介は労働者役が似合っていた。『映画 暗殺教室(15年4月号)の頃に比べると,容色の衰えに反比例して,演技力が増してきた。少し驚いたが,滅法喧嘩に強い無敵ぶりは楽しめた。アクションスターに変貌するかも知れない。
 本作で最大の魅力は,音楽だった。選ばれたピアノ曲や(多分プロが弾いている)その演奏が素晴らしかった。他の劇伴曲のレベルも邦画の遥か水準以上だったが,音楽担当が久石譲だと知って納得した。本作での起用はもったいないくらいだ。

■『白日青春-生きてこそ-』(1月26日公開)
 今月3本目の香港映画である。『シャクラ』ではお得意のカンフーアクションを堪能し,『燈火は消えず』では香港の夜景を支えたネオン職人への哀悼の意を強く感じた。3作目の本作は,これが香港の別の姿かと驚く描写で,観ているのが辛くなる映画であった。現地タクシー運転手とパキスタンからの難民家族との間でのヒューマンドラマであり,下層階級や底辺社会の人々の実態を描いている。また,香港が各国からの難民の国際中継地であったのが,年々規制が厳しくなることを描いた社会派映画でもある。
 主人公の1人チャン・バクヤッ(アンソニー・ウォン)は1970年代に本土から海を泳いで香港島に着いた中国人で,密航中に妻を亡くしている。苦労してタクシー運転手の営業権を得たものの,追って香港にやって来て警察官となった息子とはソリが合わず,孤独な晩年を送っていた。一方,パキスタンからやって来たアフメド(インダジート・シン)の一家は,10年になるというのに難民の認定が得られず,生活は困窮を極めている。この地で生まれた息子のハッサン(サハル・ザマン)は家族でカナダに移住することを夢見ていた。ある日,交通渋滞で苛立つチャンがアフメドのクルマにぶつけ,その後も2人の間は険悪になり,思わぬ事故でアフメドは落命してしまう。急に父を失ったハッサンは,途方に暮れ,難民のギャング団に加わる。事故原因を作った良心の呵責から,チャンは自らの職を捨て,ハッサンの国外脱出を助けようとするが……。
 永住権を得て商店を経営するパキスタン人,中国人ではタクシー営業権のブローカー,密航を手配する漁師らが生々しく,これは実話なのかと思ってしまう。「誰もが香港を目指した」の重みも感じる。監督・脚本は,若手のラウ・コックルイで,これが長編デビュー作である。中華系マレーシア人の4世で,故郷離れて暮す人々に囲まれて育った経験と,高校生で香港に来て以降,父親とは疎遠になったことから,この物語を書いたという。即ち,父の愛を渇望する息子と息子を理解しようともがく父親がテーマなのである。題名の「白日青春」の「白日」と「青春」は,詩人・哀枚の五言絶句「苔」の最初の2句「白日不到処 青春恰自来」に登場し,「日のあたらないところにも,生命力のあふれる春は訪れる」を意味している。チャン・バクヤッの漢字表記は「陳白日」,ハッサンの香港名が「莫青春」で,彼らの名前にも織り込んでいることから,監督の強い思いが伝わって来る。心に沁みるいい映画だ。こういう辛い映画の場合,結末は少し明るいことは予想がついたが,果たしてハッサン少年が向かう先で本当に未来は開けているのかが心配になった。

■『コット,はじまりの夏』(1月26日公開)
 ようやくこの映画を観ることができた。パズルで残った最後のピースがやっと埋まったという思いだ。アイルランド映画で,同国での公開は2022年5月,昨年の第95回アカデミー賞国際長編映画賞部門にノミネートされたが,その5本の中で唯一本邦未公開であったからだ。1980年代初頭のアイルランドを舞台に,9歳の少女が過ごす夏休みを描いたヒューマンドラマだという。灼熱の太陽の下,多数の少年少女との交わりの中で,コットなる少女が成長して行く姿を描いた明るい映画を想像した。キービジュアルは明るい日差しの緑の中を駆ける少女の姿で,キャッチコピーは「やっと見つけた わたしの居場所」だったからだ。
 舞台設定は1981年,アイルランドの田舎町である。貧乏で子沢山の家庭で,弟と思しき幼児の泣き声が,観客の耳にも煩わしく感じる。少女コットは寡黙で,学校にも馴染んでいない(想像と全く違っていたが,楽しい夏休みはまだこれからだと思い直した)。コットは粗野な父親の運転で,親戚のキンセラ家(母親の従姉の家らしい)に送り届けられる。母親が出産間近のため,夏休み期間,里子に出された形だ。ショーンとアイリンの中年夫婦の家で,子供はなく,乳牛を飼う農家だった。アイリンは優しかったが,躾けに厳しい夫ショーンからの叱責に,コットは戸惑う(そんな映画なのか…と感じてしまった)。やがて,夫妻が事故で1人息子を亡くしていたことを知る。日常生活にも慣れ,井戸の水汲み,郵便受けまでの全力疾走,牛舎の清掃,等々を経験する内に,夫妻の深い愛情を受け,コットは生きる歓びを実感して行く……(なるほど,これが「わたしの居場所」の意味だったのか)。
 母の出産が終わり,学校も再開することから,コットは自宅に呼び戻される。乳児が増えた自宅は以前に増して居心地が悪かった(またまた子供の泣き声にイライラする)。そして,キンセラ夫妻が去ると,コットはそのクルマを追って駆け出す……。終始,ショーンの視点でこの映画を観ていた筆者にとって,ラストシーンは感激ものだった。映画が終わっても,しばし誰も席を立たず,声もなかった。すすり泣きも聞こえた。
 コットを演じたキャサリン・クリンチの実年齢は出演時11歳だが,繊細な演技と清楚な存在感に心が洗われた。監督・脚本はドキュメンタリー出身のコルム・バレードで,これが長編劇映画のデビュー作である。このPart 2の6本中の3本が監督デビュー作で,Part 1を合わせると計6本にもなる。インディペンデント系映画は若手に門戸を開いているとはいえ,この比率の高さに驚いた。映画人を志す有能な若手が,溢れる才能と渾身の情熱で描いたデビュー作は,特別な光を発しているからだろうか。
 本作の英題は『The Quiet Girl』である。それも内容を的確に表わしているが,邦題がその直訳ではつまらない。その意味では,見事な邦題だと思うが,「はじまりの」はどういう意味なのだろう? 少女コットにとって,こうした夏がこれから毎年続くことを,あるいは夏だけでなく,ずっとそうなることを願っての題名なのだろうか。

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