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O plus E VFX映画時評 2023年4月号
 
その他の作品の短評
  (注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)  
 
   『ザ・ホエール』(4月7日公開):メイン画像の超肥満顔の男性から,なるほどクジラ並みの巨漢なのだろうなと想像がつく。主人公のチャーリーは,過食のせいで体重が272kgもあり,まだ40代だというのに,重い心臓病を患っている。彼の愛読書がメルヴィルの『白鯨』ということから付けた題名とのことだが,巨体を連想させる意図があったことも確かだろう。
 では,演じている俳優は誰かと尋ねられ,この画像だけで答えられる人はまずいない。顔面は特殊メイクであることを考慮しても思いつかない。今年のアカデミー賞主演男優賞受賞と聞き,調べてようやくブレンダン・フレイザーだと分かる訳だ。いや,若い映画ファンなら,その名前すら知らない可能性が高い。かつてVFX大作『ハムナプトラ』シリーズで大スターとなり,3D映画『センター・オブ・ジ・アース』(08年11月号)でも主演であったが,その後全く名前を聞かなかった。本邦未公開作品が続いた上に,心身のバランスを崩して,何年間も俳優業から退いていたらしい。
 原作は劇作家サム・D・ハンターによる舞台劇で,『ブラック・スワン』(11年5月号)のダーレン・アロノフスキーが監督,ハンター自身が脚本を担当している。チャーリーはゲイで,恋人のアランをなくした絶望感から過食症の引きこもり生活となり,独力で立ち上がることも出来ない。看護師リズ(ホン・チャウ)の介護なしでは暮らせない状態だ。既に死期を悟り,一切の治療を拒否して,自然死を待っているように見える。ゲイ生活のため家庭を捨てて以来,疎遠になっている娘エリーとの絆を取り戻そうとする男の末期を描いている。
The Son/息子』(23年3月号)のヒュー・ジャックマン同様,GG賞に続いてアカデミー賞でも主演男優賞候補になっていたが,両作とも演技は評価できるが映画は今イチだという世評であったため。ついついその視点で試写を観てしまった。本作の場合,元が舞台劇だけあって,全編ほぼワンシチュエーションドラマであり,会話が多く,そこでかなり退屈する。見どころは,手足だけで45kg,全身で135kgの肥満スーツを着用しての演技だった。当欄の予想通り,メイクアップ&ヘアスタイリング賞部門でもオスカーを得るところとなった。
 助演女優賞部門にノミネートされたホン・チャウの演技も印象に残った(受賞は逃した)。男女関係でもないのに,看護師リズがなぜそんなに献身的に介護するのか,当初不思議だったが,途中でアランの妹と分かり,疑問は氷解する。なるほどB・フレーザーの演技は真に迫っていたが,主人公チャーリーには全くシンパシーを感じなかった。彼の苦悶する姿に,心身を病んでいたB・フレーザーの姿が重なり,カムバック賞の意味を込めて,彼にオスカーが与えられたのだと感じた。
 『パリタクシー』(4月7日公開):楽しい映画だ。見終わって幸せな気分になる映画だと言ってもいい。こういう映画評を書いていると,知人からしばしば「最近のお勧め映画は?」と尋ねられる。多数観ていると,なかなか1本には絞りにくい。好みの個人差を考えるとさらに答えにくいのだが,誰にも勧められるという意味で,本作は推奨の筆頭候補だ。
 題名通り,パリを満喫できる映画でもある。主人公は無愛想な46歳のタクシー運転手シャルルで,『ミックマック』(10年9月号)のダニー・ブーンが演じている。ある日,無線で呼び出され,これから終活に向かう92歳の老女マドレーヌを乗せ,高齢者施設まで送り届ける役目となる。パリ市内を横断して向こう側まで行く長距離運転だが,途中何度も寄り道をして,彼女の想い出の地を訪れる。このため,観客もパリ観光を楽しめるという仕掛けだ。最初はスカッとした青空で爽快,施設に着く頃には夜になっていて,夜のパリも美しかった。
 道中で,彼女の数奇で壮絶な人生が語られ,2人が次第に打ち解けて行く。通常,90才以上の老女が登場する場合,70代後半かせいぜい80代前半の女優を配しているが,本作でマドレーヌを演じるのは実年齢92歳(出演時)のリーヌ・ルノーだった。フランスの国民的歌手であり,94歳の現在も「エイズと闘う芸術家協会」や「尊厳死権利の会」に活躍する活動家だという。本作で初めて彼女の名前を知ったが,こういう女性にお目にかかれる映画だという点でも,本作はオススメの逸品だ。
 監督・脚本は,『戦場のアリア』(05)のクリスチャン・カリオン。途中から結末は読めるが,本作のラストはこれでいい。そうでないと観客は承知しない。音楽は,英語の歌詞のジャズ中心だが,典型的なフランス語のシャンソンより,こちらの方がフィットしていた。
 『ガール・ピクチャー』(4月7日公開):文字通り,若い女性が主人公の映画だ。いわゆるZ世代の中でも,北欧フィンランドのティーンエイジャーの少女3人が,人生を揺るがす運命の恋や未知の性的快感を求めて冒険する物語だという。フィンランドと言えば,パーティー好きの女性首相が,激しく歌って踊る動画で話題になった国だ。その国の若い女性が,ありのままの自分と向き合う姿を描いているとなると,興味も倍増する。いつの時代も,等身大の自分たちを描いた青春映画を若者たちは好むが,筆者のような高齢者にとっても,年の離れた若い世代を客観的に眺められる機会は貴重だ。
 まず登場するのは,クールでシニカルなミンミと素直でキュートなロンコで,2人は同じ学校に通う親友であり,放課後にスムージースタンドでアルバイトしている。その勤務時間中に,恋愛やセックス,将来への不安や期待についての会話を楽しんでいるのは,まずまず予想通りだった。ある金曜日の夜,理想の出会いを求めてロンコがパーティーに繰り出すが,付き添いでやって来たミンミはフィギュアスケーターのエマと急接近し,2人は恋人同士となる。きっとLGBTQのLが登場するとは想像していたが,主人公3人の内の2人だった。2人の同性愛の他に,ミンミは母親との関係に,ロンコは男性との距離感に,エマは欧州選手権の選考のプレッシャーに悩む姿が描かれ,「2度目の金曜日」「3度目の金曜日」に運命的な出来事に遭遇する…。
 筆者が最も気になったのは,トリプルルッツに挑む氷上のエマの美しい姿だった。演じるリンネア・レイノは,若き日の「いしだあゆみ」に似ている。そう言えば,歌手・俳優でのデビュー前,彼女もフィギュアスケートの選手だった。もっとも,その頃の顔立ちはふっくらしていたので,細面のエマは『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』(82)の頃の彼女に近い。
 本作の監督は,本作の監督は,勿論フィンランド出身の女性監督のアッリ・ハーパサロ。現在は40代の半ばだが,自らが10代の頃に直面していた思春期の問題を改めて振り返り,今の若者に向けたメッセージとして描いたようだ。
 『仕掛人・藤枝梅安2』(4月7日公開):言うまでもなく,『仕掛人・藤枝梅安』(23年2月号)の続編で,「池波正太郎 生誕100年記念企画」の一環として製作された2部作の後編である。2作連続で撮影されたので,当然,監督・河毛俊作,脚本・大森寿美男,藤枝梅安役の豊川悦司,彦次郎役の片岡愛之助はじめ主要キャストは同じである。江戸から京へと旅する2人が遭遇する出来事から始まり,彦次郎の目の前で彼の妻子の命を奪った武士への復讐,梅安を敵と狙う浪人の仕掛人との対決が中心となっている。従って,2作目だけに登場する敵役として,前者に椎名桔平,後者に佐藤浩市が配されている。池波小説ではお馴染みの大坂道頓堀の元締・白子屋菊右衛門役で石橋蓮司も顔を見せる。
 人物関係の骨格,時代劇としての出来の良さは,1作目と同じなので,2作目で感じた要点だけを述べておこう。CGで描いた京都の町は上々で,とりわけ鴨川べりが見事だった。それをバックにした殺陣も楽しめた。梅安の愛人・おもん(菅野美穂),手伝いのおせき婆さん(高畑淳子)との会話,1人での料理姿,針治療の様子等は,うまくシリーズ中のエピソードを盛り込んでいると感じた。バディものとしての完成度は1作目よりも増し,池波ワールドの美点ばかりが目立つ。さすが時代劇専門チャンネルが製作しただけのことはある出色の時代劇だ。
 ではなぜ,1作目同様の評価ではないかと言えば,強いて言えば,原作小説の完成度の差だろう。前作が原点である「おんなごろし」が基であったのに対して,本作はシリーズのエピソードの寄せ集めと新規脚本で構成されている。2部作で残念だったのは,ファンが多い小杉十五郎が登場しないことだ(エピソード的に盛り込めなかったのだろうが)。ここまで格調の高い作品でなくてもいいので,今回の梅安,彦次郎,おもん,おせき役の俳優で,新たな小杉十五郎を加えて,シリーズ化できないものか。池波ファンは切望していると思う。
 『Air/エア』(4月7日公開):予想通り,期待通りのワクワクする映画だった。マット・デイモンとベン・アフレックの親友コンビの久々の共演作であり,共に製作に名を連ねているが,M・デイモンが主演で,B・アフレックが監督・助演という役割分担である。監督としても成功を収めているB・アフレックの7年ぶりの監督5作目だが,前作『夜に生きる』(16)の出来映えが今イチだったので,本作での巻き返しに期待した。
 極めてシンプルな題名だが,元々「Air」はナイキ社の人気運動靴シリーズの名称であり,抜群の跳躍力を誇るバウケットボール選手マイケル・ジョーダン(MJ)の愛称でもあったが,この両者を結びつけた大ヒット商品「エア・ジョーダン」の誕生秘話を描いた映画である。社員もライバル会社名も選手名も,すべて実名で登場する。実在の一私企業の経営戦略をドキュメンタリータッチで劇映画化しているが,1990年代には人気商品の争奪戦や盗難事件が頻発した等,一大社会的現象となったことは,NBAファンでなくとも記憶に残る出来事だった。
 バスケットボール・シューズの新製品「エア・ジョーダン1」は1984年11月に登場しているが,本作はナイキ社がジョーダン一家を口説き落として,専属契約に漕ぎ着けるエピソードに絞って,物語を構成している。当時,ナイキはバスケットボール分野で業界第3位であったが,立て直しを命じられた社員ソニー・ヴァッカロ(M・デイモン)は, MJの類い稀なる才能を見抜き,社運を賭け,彼1人に絞ったマーケーティング戦略と専用シューズの開発に専心する。ライバル社との契約を翻意させるため,MJの母親デロリス(ヴィオラ・デイヴィス)と交渉する彼の信念と言動が素晴らしい。今日の我々は,「エア・ジョーダン」が凄まじいヒット商品となり,MJがNBA史上最高のプレイヤーとなったことを知っているが,当時は大学を出たばかりで,まだNBAデビュー前だったMJの将来を見抜いた彼の眼力に驚く。
 本作は,スポーツ映画というより,ビジネス・サクセス・ストーリーに属する映画だ。結果は分かっているので,ややもすると平板で,退屈になりがちな物語を,見事な脚本と演出で迫真のドラマに仕上げている。娯楽作品とはかくあるべしの見本のような映画だ。
 『この小さな手』(4月8日公開):題名からはほのぼのとしたファミリー映画を想像したが,少し違っていた。妻が事故で意識不明となってしまったため,慣れない子育てに奔走する父親の苦闘を描いた邦画である。おふざけやラブコメ的要素は一切なく,純粋に子供との絆,男性の子育てはいかにあるべきかに限って描いてある。仕事中心で家庭を顧みない男性には,少し耳の痛い物語となっている。ただし,女性監督の作品ではなく,原作者も監督も男性だった。原作は郷田マモラ作のコミックで,TVドラマ出身の中田博之監督の初長編映画である。主人公のイラストレーター・吉村和真を演じるのは武田航平だが,これまでTVドラマの出演が大半で,当欄で名前が出るのは初めてだ。
 主人公の和真は,自分の仕事にだけ専念し,我が子と向き合わなかったため,妻・小百合が不在になって後も,3歳の娘・ひなからは嫌われ,娘は児童養護施設預かりになってしまう。この主人公の態度には,観客も苛立つこと必至だから,娘引き取ることは簡単には許可されなかった。そこから娘の信頼を得て,2人で暮らせるようになるまでの過程が,本作の主題である。大真面目で,真直ぐに描いていて,馬鹿馬鹿しいくらい単純な映画だ。登場人物は皆いい人ばかりで,こちらも少しお節介気味な大家夫妻の視点になってしまう。脚本も演出も淡泊だが,問題の本質に切り込んでいる点は評価すべきかと感じた。明らかに低予算映画であるが,それでも劇場公開で採算が取れるのかと,いささか心配になってしまった。
 『ハロウィン THE END』(4月14日公開):待ち遠しかった映画が,ようやく公開される。ホラー映画の中でも特別な存在である『ハロウィン』シリーズの完結編だ。不死身のシリアルキラー「ブギーマン」が,今度こそ本作で倒されて消滅してしまうのか,それとも何か大きな謎があって,それが明らかになるのかが興味の的である。これまで未見であったが,噂に聞く人気シリーズが完結したとなると,まとめて見てみたいというホラー映画ファンのために,シリーズの要点と予習すべき映画を列挙しておこう。
 鬼才ジョン・カーペンターズ監督が生み出した『ハロウィン』(78)が原点で,その後,続々と作られたスプラッター映画の嚆矢とされている。舞台は米国イリノイ州ハドンフィールドで,6歳のマイケル・マイヤーズ少年がハロウィンの夜に姉を殺害し,少年院送りとなる。15年後の1978年に精神病院から脱走したマイケルが,同じハロウィンの日に驚くべき手口で連続殺人を犯し,街中を震撼させる。担当医に射殺され,バルコニーから落ちて死んだと思われたのに,なぜか死体は見当たらなかった……。その後,多数の続編や関連作品が9本も作られたが,それらはすべて無視して良い。2018年に第1作の正統な続編『ハロウィン』(18)が作られた。リブート作ではなく,1作目と同じ俳優を起用し,主要登場人物の40年後を描いた意欲作だった。ここからが新3部作と呼ばれ,本作がその最終章である。よって,本作のためにDVD等で予習するのには,1978年の原点作品と,新3部作の前2作の計3本だけで十分である。
 監督・脚本は引き続きデヴィッド・ゴードン・グリーンで,主演も同様に78年版でマイケルと戦い,九死に一生を得た妹のローリー(ジェイミー・リー・カーティス)である。新3部作では,娘カレン,孫のアリソン(アンティ・マティチャック)がいて,この親子3代でマイケルと対決した。前作でカレンもマイケルの犠牲になったため,本作では孫のアリソンと2人で暮らしている。必ずマイケルが復活し,彼女らを襲うことは確実だが,本作では新たにコーリーなる男性(ローハン・キャンベル)が登場する。彼がマイケルと接触したことから,新たな恐怖が生まれ,物語を複雑にしている……。
 毎度不死身で,すぐに復活するブギーマンであるから,本当にこれが完結編なのかと訝る観客も少なくないだろうが,「マイケルとローリー,44年の戦いについに決着がつく」と謳われているように,新3部作としては間違いなく最終章となっている。もっとも,前作『ハロウィン KILLS 』(21年9・10月号)の最後に筆者が立てた予想は全く当たっていなかった。大ヒットシリーズの完結編らしい重厚感はなく,個人的には少し物足りなさを感じたが,これはこれで一先ずの完結だと言える。
 1作目の泣き虫ローリーはまだ女子高生であり,演じたJ・L・カーティスの映画デビュー作であった。おかげでホラー映画の常連となり,「絶叫クイーン」「悲鳴の女王」と呼ばれるようになった。 10〜20年後,新たな俳優を起用したリブート作が作られる可能性はあるが,年齢的に彼女が登場することはないだろう。ホラー作品での受賞はなかったが,今年『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(23年3月号)の国税庁監察官役でアカデミー賞助演女優賞を得たのが記憶に新しい。1つの時代が終わったとの感がある。
 『聖地には蜘蛛が巣を張る』(4月14日公開):題名だけで身構えてしまうおぞましさだ。こちらの連続殺人鬼は「スパイダー・キラー」と呼ばれ,娼婦だけを16人も殺害する。2000年代初めにイランの聖地マシュハドで実際に起きた事件だが,町を浄化するという殺害目的を公表し,宗教上の理由から市民の支持を得ていて,英雄視された犯人のサイード・ハナイはなかなか捕まらなかったという。この事件に着想を得て映画化したのは,『ボーダー 二つの世界』(19年9・10月号)のアリ・アッバシ監督だ。現在はデンマーク在住だが,イラン出身の彼がイラン人俳優を起用して製作したとなると,当然マシュハドの街で撮影したと思ったのだが,イラン政府から許可が下りなかったという。そのため,ヨルダンのアンマンで撮影し,映画の国籍はデンマーク,ドイツ,スウェーデン,フランスとなっている。全編がペルシャ語で語られ,我々日本人にはイランで撮影したとしか思えないリアリティの高さである
 殺人鬼サイード・ハナイ役のメフディ・バジェスタニは現役のイラン人男優だ。もう一方の主人公は事件を追う女性記者ラヒミで,ザーラ・アミール・エブラヒミが演じている。元はイランを代表する女優だったが,ある事件からフランスに亡命中だという。真相究明のため,聖地の街にやって来たラヒミは,現地警察が全く当てにならないため,自らが囮となる危険を冒して,犯人逮捕に執念を燃やす……。映画の前半で困ったのは,主人公の女性も殺された娼婦も同じ顔に見えてしまうことだ。ようやく少し美形のラヒミだけは見分けがついたが,何人かの娼婦役は区別できなかった。この殺人犯の家庭の描き方,特に父親を信奉する息子の態度はフィクションだろうが,この監督の語り口は見事だ。イラン人監督の訴えだけに,宗教の恐ろしさを一層感じてしまう。
 犯人が捕まったゆえの映画化と分かっていたが,死刑執行シーンには固唾を飲んだ。その一方で,娼婦の殺害方法や犯人逮捕の場面は淡泊に感じてしまった。もっと凄い殺害方法や,囮となったラヒミに迫る危機に過激なアクションを期待してしまうのは,アクション映画を見過ぎているためかと自己分析し,少し反省した。
 『幻滅』(4月14日公開):フランス映画で,原題は『Illusions perdues』で,英題は『Lost Illusions』だ。原作は1843年に文豪オノレ・ド・バルザックが上梓した「幻滅―メディア戦記」である。彼の「人間喜劇シリーズ」の一作だが,知っていたのは「谷間の百合」と「ゴリオ爺さん」だけで,この原作は知らなかった。舞台劇化やTVドラマ化はされたが,映画化はこれが初めてのようだ。カンヌ国際映画祭で2度パルムドールにノミネートされ,フランスのセザール賞の常連のグザビエ・ジャノリ監督がメガホンをとっている。本作もセザール賞は最優秀作品賞を含む7冠で,まさに映画らしい映画だ。新作と知らされなければ,かつてフランス映画の全盛であった半世紀前の映画かと思ってしまう。
 時代は19世紀の前半で,恐怖政治の時代が終わり,宮廷貴族が復活し,自由と享楽的な生活を謳歌していた時代が描かれている。主人公は,文学を愛し,詩人としての成功を夢見る田舎の純朴な青年リュシアン(バンジャマン・ヴォワザン)だ。貴族の人妻で年長のルイーズ(セシル・ド・フランス)と恋に落ち,2人でパリに駆け落ちする。彼が花の都パリでの社交界やマスメディアの世界に翻弄される様が見どころだ。王党派と自由派の権力争いにも巻き込まれ,両派から見捨てられ,失意のまま故郷に帰るまでが描かれている。
 リュシアンには,間違いなく文才があり,それだけで一目置かれる存在だが,当時既に文学の地位は下がり,新聞報道が世論を支配し初めている。その評価がすぐに社交界にも反映されてしまう。生活のため,新聞記者になった彼は,当初の文学への志を失い,虚飾と快楽にまみれた世界へと身を落として行く……。現代の我々には貴族中心の社交界などクソ喰らえと感じてしまうが,「現代と酷似したメディアの状況」という本作の宣伝文句は,まさにその通りだと感じてしまった。既にフェイクニュースは当たり前で,サクラを組織化して一儲けする様は,まるで最近の芸能界やTV業界だ。偽の拍手機械まで作られていたのに呆れた。新聞報道に著名人が一喜一憂する姿は,週刊誌報道やSNSでの炎上で慌てふためく現在の政界と酷似している。その様を小説にした200年前のリアリストであるバルザックの眼力に敬服する。
 リュシアン役のB・ヴォワザンのイケメンぶりが際立っていた。志の高い作家ナタンは映画だけに登場するオリジナル人物で,フランス映画界の俊才グザヴィエ・ドランが演じている。本作では俳優兼ナレーターだが,『たかが世界の終わり』(17年2月号)では監督としての才能を披露していた。その彼を色気と知性を併せ持った文壇の新星として登場させ,リュシアンと対比させている。200年前の文豪の作品を見事に脚色していて,「フランス文芸映画の王道」の香りを感じた。
 『ベネシアフレニア』(4月21日公開):スペイン製のホラー映画だが,イタリアの「ジャーロ映画」へのオマージュを鏤めていることがセールスポイントとなっている。「ジャーロ」とはイタリア文学のジャンル名であり,犯罪小説,ホラー小説,エロティック文学を指す言葉だが,1960年代から70年代に作られた過激な暴力シーンを含むサスペンス映画,ホラー映画を「ジャーロ映画」と呼んでいた。久々にこの言葉を聞いたが,なるほど,そう分類するに相応しい映画だった。スペインからの観光客が,イタリアのベネチアを訪れた際に遭遇する恐怖の出来事を描いているから,まさにスペイン×イタリアの組み合わせで展開する暴力的ホラーである。
 結婚を間近の控えたスペイン人のイサ(イングリッド・ガルシア・ヨンソン)と友人の5人組が,独身最後の休暇で羽目を外そうとカーニバルで賑わうベネチアにやって来る。観光用クルーズ船に乗った途端に,奇妙な衣装の道化師リゴレットが乗り込んで来て,乗客を次々と殺害する。映画のタッチとしてはB級ホラーなのだが,これが結構楽しい。過激さには呆れつつも,思わず見入ってしまう類いの映画だ。映画のポスターに描かれていたのは,鋭い嘴をもつ醜悪な鳥の仮面を被った人物であったから,この道化師以外にもっと強烈な殺人鬼が登場するのかと期待(?)してしまう。
「観光客は帰れ」というプラカードが再三出てくるが,全編で貫かれているのは,近年社会問題化している「オーバーツーリズム」への警鐘だ。筆者自身,京都生まれであるから,「観光客公害」に対する住民の反発はよく理解できるが,ベネチアではもっと深刻であるようだ。主人公ら5人組はどう見てもバカばかりで,これじゃ被害に遭うのも自業自得と感じてしまう。殺人鬼側には少し訳ありの事情があって,物語として見応えがある。クライマックスは廃虚と化した古い劇場のシーンで,ビジュアル的にも秀逸だった。監督は,クエンティン・タランティーノも絶賛したという鬼才アレックス・デ・ラ・イグレシアで,彼の得意とする「絵画のように美しく悪意に満ちたホラー」が存分に発揮されている。
 『レッド・ロケット』(4月21日公開):お調子者の無責任男が織りなすハチャメチャ映画で,「有害なほど利己的で,破壊的にナルシスト」「成功は自分のおかげ。失敗はいつも誰かのせい」とも形容されている。元ポルノスターのマイキーは文無し状態で,17年ぶりに故郷に帰って来て,別居中の妻が老母と2人で暮らす家に何とか転がり込む。真面目に働こうとしても職がなく,結局は昔手を染めたマリファナ販売を再開する。ある日,ドーナツ店で働く17歳の美少女ストロベリーを見初めて,口説き落とし,彼女をポルノスターにしようと画策する…。主人公を演じるサイモン・レックス自身が過去にポルノ出演経験があるというから,ハマり役に違いない。愛すべき存在ではないが,憎めない男である。
 そう感じるのは洋画だからで,これが邦画なら,まるで嘘っぽく,人間関係も非現実的で,腹立たしく感じるはずだ。いや,邦画でも演じられる俳優はいるが,こんな映画を作れる監督がいないだけだ。本作の監督・脚本・編集はショーン・ベイカーだった。米インディペンデント界の俊英で,『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(17)ではウィレム・デフォーがアカデミー賞助演男優賞にノミネートされていた。本作でも,底辺の人々を演じる助演陣を活き活きと描いている。
 すっかり気に入って観ていたが,時代背景と場所を確認し忘れていた。製油所がある労働者の町で,暗くはないが,少し荒んでいる。市中の看板に「Make America Great Again」と書いてあったから,前大統領を支持する土地柄のようだ。そんな町からも追い出される主人公の物語をどう表現しようかと思ったが,他誌の評の「愉快でエッジーでセクシーで大雑把」「最高に楽しくて,野蛮なほどスマート,まぶしいほど風刺的で,最後には心をつかまれる」を引用するのが最適だと思い至った。
 描かれていたのは,2016年夏のテキサスシティだった。なるほど,コロナ禍を経験した社会は,もはやこんな状態に戻れるか分からない。そんな意味を込め,監督が切り取った分断社会アメリカの2010年代の1コマである。題名の意味はラストで分かる。
 『高速道路家族』(4月21日公開):韓国映画で,オスカー受賞作の『パラサイト 半地下の家族』(19年Web専用#6)に次ぐ大傑作との触れ込みである。なるほど,家族ぐるみの詐欺行為で笑わせてくれる手口は似ている。貧しいながらも,高速道路のサービスエリアを渡り歩く,テント暮らしのホームレス家族もそれなりに幸せそうだった。物語展開のテンポは快調で,『パラサイト…』と同等かそれ以上の傑作に思えた。
 ところが,言葉巧みに高速道路利用者から金銭を引き出していた行為がバレて,父親ギウ(チョン・イル)が逮捕されてしまう。通報者であった中古家具商のヨンソン(ラ・ミラン)は残された母子3人を不憫に思い,自宅に引き取り面倒を見る。ここから展開する擬似家族の様子からは,是枝裕和監督の『万引き家族』(18年5・6月号)を思い出す。隙を見て脱獄したギウは家族を取り戻そうとするが,安定した生活を体験した妻ジスク(キム・スルギ)と気持ちがすれ違うようになる。果たして,「2つの家族の出逢いが,予測不可能な展開を巻き起こす」は,どんなエンディングを迎えるのか……。
 本作は,「衝撃の結末」もウリにしていたが,想像したよりも遥かに不愉快な結末であった。韓国でも「観客・批評家の熱狂」「社会を二分して賛否両論」だというが,本当か? ほぼすべてが「否」であり,「賛」があるとは思えない。百歩譲って,「家族という当たり前な存在を考え直す機会」というイ・サンムン監督のメッセージを認めるとしても,どういう別の結末にするかの意見が分かれただけだろう。意外性は,不快な驚きであってならない。サブライズで観客を喜ばせる映画と,入場料を払って観る観客に不快な思いをさせる映画では,根底から意味が違う。本作は,未熟な新人監督の表現力不足の産物であり,同じ思いは別の結末でも示せたはずだ。よほど最低点の評価にしようかと思ったが,前半のストーリーテリング力を評価し,評価に留めた。
 『ゲネプロ★7』(4月21日公開):ここから邦画が3本続く。最初は,堤幸彦監督が描くミステリー映画で,新作舞台劇に挑む7人の俳優たちの13日間を追い,何者かが仕掛けた「罠」を追う物語である。題名中の「ゲネプロ」なる言葉を知らなかったので,話題のChatGPTで調べたら,舞台劇,オペラ,バレエ,演奏会等の「最終リハーサル」を意味していて,「General Probe」の略語とのことだ。映画は新作舞台劇に起用される新人俳優のオーディションから始まる。絶大な人気を誇る7人組ユニット「劇団SEVEN」のメンバーが新作の「シェイクスピア・レジェンズ」中で,ハムレット,オセロ,マクベス,ロミオ等,シェイクスピア劇の主役を演じ,その出来映えを競うという設定である。劇中の設定とはいえ,イケメンのアイドルタレントの演技力で,シェイクスピア劇の主役のセリフを満足にこなせるのか疑っていた。ところが,どうしてどうして,いずれも結構サマになっていた。これは,どうしたことか…。
 まず,映画としての成り立ちがユニークだった。元は舞台劇制作のネルケプラニングとIT大手のサーバーエージェントの共同企画でオーディション番組「主役の椅子はオレの椅子」を制作し,その優勝者にある舞台の主役に与えるという構想であった。ところが,瓢箪から駒で,いっそ舞台劇がテーマの映画を作ってしまおうとなったそうだ。それゆえ,同オーディションに優勝者・三浦海里が,本作の主役の山井啓介を演じている。他の6人,和田雅成,荒牧慶彦,佐藤流司,染谷俊之,黒羽麻璃央、高野洸は,既に演劇界で活躍する人気実力俳優とのことだ。筆者がTVドラマに出演する若手タレントに疎いため,ただのアイドル達と勘違いしただけで,演劇界のホープ達なら,この程度のセリフは語れて当然だ。それにしても演劇界もジャニーズ系並みのイケメン揃いなのに驚いた。ほぼ同じような顔立ちばかりで,区別がつかないのが,本作の最大の欠点である。もっと個性的な顔立ちの男優を混ぜて欲しかったところだ。
 物語は,「劇団SEVEN」のカリスマ的存在のリーダー・蘇我が急死してしまい,彼を失った劇団の歯車が狂い始める。相互不信で迎えたゲネプロで,驚くべき事件が起きてしまう……。シュイクスピア劇の主人公を見比べるという企画は面白かったものの,純然たるミステリーではないため,謎解きの要素はなく,娯楽映画として出来映えは今イチだった。企画が先走っていて,脚本と演出が追いついていないとも感じた。唯一の救いは,劇団を主宰する大物政治家役の竹中直人で,彼の登場場面だけがピリッと引き締まっていた。
 『ヴィレッジ』(4月21日公開):この題名で思い出すのは,M・ナイト・シャマラン監督の同名映画『ヴィレッジ』(04)だが,同作のリメイク作ではなく,本作は全くのオリジナル脚本作品だ。強いて共通項を探すならば,閉鎖的な「村社会」の陋習がテーマで,そこで起こる不幸な事件を描いている。ただし,純然たる邦画で,神秘的な薪能を登場させている本作が,なぜ英語のカタカナ表記を題名にしたのか理解できない。もう少しマシな題名を付けて欲しかった。
 監督・脚本は,『新聞記者』(19) 『ヤクザと家族 The Family』(21年1・2月号)の成功で注目を集めた藤井道人。両作品の製作総指揮はスターサンズの河村光庸プロデューサーだが,同氏の原案・企画が機軸となっていた。本作も同じ構図だが,撮影終了を見届けた後,完成を待たずに河村氏は逝去されたので,これが同氏の遺作というのがドラマ性を帯びている。
 時代は現代社会で,舞台となるのは山間部にある集落・霞門村なる架空の村で,土着の能を守り続ける半面,最新の大規模ゴミ処理施設の建設を受け入れていた。主人公はそこで働く青年・片山優(横浜流星)で,ギャンブル依存症の母親(⻄田尚美)が作った多額の借金に苦しんでいる。幼馴染みの美咲(黒木華)が都会生活に失敗して村に戻ってきたことから,優にも新たな人生が開けるが,横恋慕する村長の息子(一ノ瀬ワタル)との確執が起きる。さらに村の誰もが知りながら,見ぬふりをしていたゴミの不法投棄が発覚し,大騒動となる…。
 事前キャンペーンからも分かるように,邦画としては多額の製作費を投じ,それに見合った力作となっている。茅葺き屋根をもつ集落には京都府中部にある「かやぶきの里」を利用して長期ロケを敢行し,ゴミ処理施設や大量のゴミの描写にもリアリティがあった。他の助演陣には中村獅童,古田新太,杉本哲太らの個性派俳優を配し,藤井道人監督の演出にも熱がこもっている。来年の日本アカデミー賞の何部門かにノミネートされることだろう。敬意を表してそう予想しつつも,個人的には本作に以下のようなネガティブな印象をもってしまった。
 まず,主演の横浜流星と黒木華が釣り合わない。年齢的にも演技力でも黒木華が圧倒的に上で,幼馴染みには見えない。薪能と最新のゴミ処理施設もアンバランスだ。この映画に「能」の演目を入れたのは,必然性がなく,製作サイドの趣味で入れたかっただけとしか思えない。河村氏の「今の日本人の間にはびこる同調圧力や事なかれ主義に,一石を投じたい」という思いはある程度理解できたが,自分の意見をもち,反発しながらも従わざるを得ない「村社会」と,自分の意見をもたずSNSの風潮に迎合する現代の若者の無気力とは異なると感じた。
 『せかいのおきく』(4月28日公開):邦画連続3本のトリは当欄が外せない阪本順治監督作品だが,これが初のオリジナル脚本作品だという。今まで原作のある映画ばかりだったとは知らなかった。その阪本監督が,自らの脚本の中心たる「おきく」役に選んだのは黒木華で,上記『ヴィレッジ』の準主役よりも圧倒的に存在感のある役だ。途中から声を失うので,表情と仕草だけの演技という難役である。既に主演作も映画賞受賞も多数ある彼女であっても,これが最高の演技と言われることだろう。阪本作品としても,近年の佳作『半世界』(19年1・2月号)『冬薔薇』(22年5・6月号)よりも出来が良く,こちらも最高傑作と言われるに違いない。
 時代は幕末で,江戸の貧しい長屋と川向こうの葛西が舞台である。おきくは浪人の父・源兵衛(佐藤浩市)と貧乏長屋に住み,寺子屋で子供たちに読み書きを教えていた。ある日,紙屑拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)と知り合い,貧しい中を必死に生きる3人は心を通わせて行く。物語の鍵は,矢亮に誘われて中次も糞尿売買を始めること,源兵衛の暗殺に巻き込まれ,おきくが喉を切られて声を失うこと,そんな中で中次とおきくの微笑ましいラブストーリーが展開すること等々だ。佐藤浩市の娘役が黒木華で,実子の寛一郎がその恋の相手役であり,源兵衛が中次に恋愛指南をするというキャスティングと筋書きに,思わずニヤリとしてしまう。黒木華と寛一郎の年齢差や俳優としての格の違いは,上記の横浜流星とほぼ同じだが,あまり違和感を感じなかったのは,凛とした武家の娘と貧民で文字も書けない青年という身分違いのためかも知れない。
 映像的に特筆すべきは,ほぼ全編がモノクロ,スタンダードサイズでの上映であり,昭和30年代の映画を彷彿とさせる。映画は複数の章に分かれていて,第五章までの各章の終わりの数秒間だけがカラーになる。もし全編カラーであれば,再三登場する肥汲みシーンはとても見ていられなかっただろう(笑)。89分の短尺だが,見事な脚本,絶妙の演出で,まさに言葉を失う。黒木華の和服姿の美しさに見惚れる。おきくが中次の名前を紙に何度も書いて恥ずかしがり,身悶えるシーンが最高だ。
 『アダマン号に乗って』(4月28日公開):題名からは航海映画かと思うのが当然だが,外洋には出ない。日仏共同製作映画で,パリのセーヌ川が登場するが,セーヌ川遊覧のクルーズ船でもない。セーヌ川右岸に係留された木造建築の船で,サン=モーリス総合病院付属のデイケアセンターだそうだ。毎日沢山の人が短い橋を渡り,この船に通って来る。アダマンは,精神疾患のある人々が創造的活動を通して社会との繋がりをもてるようサポートする施設として使われている。本作は,『ぼくの好きな先生』(02)のニコラ・フィリベール監督が,約7ヶ月かけてこの施設の活動を撮影したドキュメンタリー映画である。
 厳密に言えば,川に浮かぶ船ではなく,川の中に建てられた木造建築物のようだ(そうとしか見えない)。デッキに浮き輪を配して船のようになぞらえているのは,同じ船に乗り合わせた船客のように,人々が打ち解けて交流できるようにとの配慮からだろう。ケアチームには,看護師,心理士,作業療法士,精神科医らが参加している。裁縫,音楽,読書,雑誌,映画上映会,作文,絵画,革細工などに関するワークショップが頻繁に開かれている。毎週月曜日に患者と介護人が一堂に会するミーティングがあり,誰でも新たな活動(観劇,森の散策,展覧会参加等)を提案できる。少し重度に見える精神疾患者もいれば,陽気で気さくで,ケアチームと区別がつかない人物もいる。彼らが描いた絵画,演奏,朗読に接すると,なるほどこういう精神医学療法もあるのかと感心する。読書,映画,音楽,哲学に関する議論を聞いていると,彼らの知識の豊富さ,教養の深さに驚く。日本で同じような施設を作っても,こうは行かないだろう。さすがフランスのパリだと感心する。
 では,なぜこの映画が日仏共同製作なのかと言えば,フィリベール監督作品を継続して配給しているロングライド社が製作時点から関わったからのようだ。こういう試みは嬉しい。本作は,同社が広報を担当した上記の『パリタクシー』(配給は松竹)と併せて観ることを勧めたい。「1人の老女の数奇な人生を描いたヒューマンドラマ」vs.「10年以上の実績をもつデイケアセンターの実録映画」,「パリの数々の名所を巡る観光映画」vs.「市中から人々が集まって来る施設内だけの映像」を対比して,花の都パリの別の姿を楽しむことができる。
 『不思議の国の数学者』(4月28日公開):数学者を描いた映画は多数あるが,大抵は天才的な数学の才能の持ち主で,変人が殆どだ。『ビューティフル・マインド』(01)『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』(15年3月号)『奇蹟がくれた数式』(16年10月号)等がその代表作であり,いずれも実在の数学者を描いている。本作を少し異色に感じたのは,韓国映画であり,天才数学者イ・ハクソンが脱北者であるという設定だ。フィクションであることは明らかだが,韓国内でも厚遇されることはなく,身分を隠して高校の警備員として働いている。ある出来事から,彼は落ちこぼれ高校生のハン・ジウに数学を教えることになり,やがて2人は心を通わせることになる。よくある物語展開だが,ヒューマンドラマとしては上々の出来映えであった。
 韓国映画の男優は,超イケメンか悪人面に二分できるが,この映画の2人はイケメンではなかった。主役の数学者ハクソンを演じるのは『オールド・ボーイ』(04年11月号)のチェ・ミンシクだった。演技力で選ばれたのだろうが,いかにも労働者風の顔であり,警備員には見えるが,天才的頭脳の持ち主なら,もう少し知的に見える俳優を配して欲しかった。一方のハン・ジウ役の若手俳優キム・ドンフィは,美男でも醜男でもない平凡な顔立ちで,この役に似合っていた。なぜ面相まで気にするかと言えば,南北問題や受験地獄の話題ばかりが強調されていて,数学映画だというのに,ハクソン博士が天才的頭脳を披露する痛快なシーンがなかったからだ。
 彼は未解決の「リーマン予想」の証明を完成できる人物であり,朝鮮半島始まって以来の快挙と扱われている。その他,ドイツのオーバーヴォルファハ数学研究所の研究環境,クレイ数学研究所からの賞金100万ドル,数学者ポール・エルデシュが子供を「イプシロン」と呼んだこと等,数学界に詳しい者しか分からないトリビアも盛り込まれている。韓国映画をヒットさせるには北朝鮮を持ち出すのが一番なのだろうが,もう少し政治色を弱めて,数学に徹した映画にした方が良かったと思う。
 『私,オルガ・ヘプナロヴァー』(4月29日公開):今月のトリは,かなり強烈な印象の映画であった。チェコ(当時はまだチェコスロバキア)の首都プラハで大量殺人事件を起こし,同国で最後に死刑執行された女性オルガ・ヘプナロヴァーの犯行を描いた映画である。1973年年7月10日,市内中心部で路面電車を待つ群衆に向けて22歳のオルガはトラックで突っ込み,8人が死亡し,12人が負傷するというテロ事件を起している。彼女は事前に新聞社に自らの犯行予告声明を送り付けていた。その後,謝罪の言葉も反省の色もなく,法廷では自己弁護に徹し,1974年に死刑判決が確定した。1975年3月12日 に絞首刑に処され,彼女は23歳の生涯を閉じている。2010年に原作となる書籍が発行され,この映画は2016年に公開された。それがようやく本邦でも公開される。
 全編がモノクロ映像であり,ナレーションも劇伴音楽も一切なく,オルガの日常生活,犯行計画と実行,裁判から死刑執行までが描かれるが,その後の家族の動向や社会的反応を語る字幕解説もなかった。即ち,ドキュメンタリータッチのこの映像だけですべて感じてもらいたいという監督のメッセージである。監督は,チェコ映画界の新鋭トマーシュ・ヴァインレプ&ペトル・カズダで,これが長編デビュー作だ。オルガ役には,ホーランドの人気女優ミハリナ・オルシャニスカが起用されている。『ゆれる人魚』(15)で肉食の人魚姉妹の妹を演じていた女優で,本作で多数の主演女優賞を受賞している。
 オルガは,銀行員の父,歯科医の母の裕福な家庭に育ち,(主演女優ほどではないが)容姿も悪くなかった。両親の無関心に反発し,酒や煙草,同性愛に溺れ,自らを「性的障害者」と称している。犯行理由を,社会から受けた虐待,いじめへの報復と説明しているが,全く身勝手な被害者意識であり,これなら死刑判決も当然だと思えてしまう。半世紀前なら,精神病理学者にとっては格好の研究材料であったかも知れないが,現代社会には,こうした犯罪者は何人もいるし,類似した犯行も多数ある。犯行内容よりも,なぜ新人監督たちが彼女の事件を映画にしたのかに興味をもった。最後の死刑執行対象者だからだろうか? 監督は死刑制度の復活を望んでいるのか,尋ねてみたくなった。

 
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