O plus E VFX映画時評 2024年10月号掲載

その他の作品の論評 Part 2

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


(10月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)

■『ソウX』(10月18日公開)
 題名は「ソウエックス」と読む。意味的には「ソウ10」で,シチュエーションホラーの人気シリーズの10作目である。1作目の『ソウ』(04)はジェームズ・ワン監督の長編デビュー作であったが,その後,『インシディアス』シリーズ『死霊館』シリーズでホラー映画界の寵児となり,今やハリウッド大作のヒットメーカーの1人である。最近は製作側に回っているが,本作でも製作総指揮を務めている。
 1作目からもう20年になるのかと懐かしい反面,当映画評では1本も取り上げて来なかったことに気付いた。9作目までの国内配給会社は,他の洋画や邦画のマスコミ試写案内はくれるのに,なぜかこの『ソウ』シリーズだけは案内は届かなかったからだ。それでも個人的には4作目まではしっかり観ていたと思う。シリーズも長期化すると,さすがに質も製作費も低下するのが普通で,いつの間にか観なくなってしまった。
 さて,節目となる10作目である。配給会社が変わって,オンライン試写でじっくり観る機会を得た。本作は単なる続編ではなく,原点帰りに近い荒療治がなされていた。と言っても,リブートや前日譚のビギニングものではなく,シリーズの1作目と2作目の中間の時代設定である。最近この手口が流行だ。先月の『エイリアン:ロムルス』(24年9月号)も同様に1作目と2作目の間であったが,時代をそこに設定しただけで,出演者の身分も俳優も一新していた。それに対して,本作はシリーズの顔と言える連続猟奇殺人犯のジグソウことジョン・クレイマーと彼を敬愛する助手のアマンダを,そっくりそのまま1作目からのトビン・ベルとショウニー・スミスが演じている。それだけでなく,殺人ゲームを仕掛けるだけで余り姿を見せなかった黒幕のジグソウが,ファンの熱望に答えて,本作では全編で姿を見せている。
 2人とも3作目で死亡したが,死後も彼の遺品が殺人を繰り返すというのが4作目以降の前提だった。今回は2作目より前の設定なので,余命僅かであってもまだジグソウは生きている訳である。物語は,ジョンが脳腫瘍の検査を受け,末期ガンの余命宣告を受けるところから始まる。高額だが,非認可の特別な治療法があることを知った彼は,藁をも掴む思いで医療設備のあるメキシコに向かう。主治医のセシリア(シヌーヴ・マコディ・ルンド)のしかるべき手術を受け,一命を取り留めたかと思ったのも束の間,これが手の込んだ詐欺であったことが判明する。ジグソウともあろうものがと思うが,それだけ説得力のある見事なイカサマだった訳である。
 主犯格の4人を突き止めたジョンは,当然,綿密な復讐計画を立て,彼らを誘い出す。ここからはアマンダも参加し,彼女も最後まで出ずっぱりだった。例によって,奇抜な装置を使った報復はかなり残虐で,見応えがあった。もはや陳腐な仕掛けでは,ファンは許さない。単純に1人ずつの復讐では済まさず,一捻り,二捻りある展開で,しっかりカタルシスを感じる結末であった。新規性はないが,シリーズのファンなら満足し,これが初見の観客なら,1作目から見直したくなるに違いない。
 ところで,T・ベルは現在82歳,S・スミスは55歳のはずなのに,ジグソウやアマンダに見えたのかと言えば,あまり不自然に感じなかった。末期ガンの患者という設定のため,老け顔でもおかしく感じなかったのだろう。監督・編集は,6作目,7作目のケヴィン・グルタートの再登板で,シリーズ全作の編集を担当して来ただけあって,本作の盛り上げ方を熟知していた。

■『ジョイランド わたしの願い』(10月18日公開)
 余り取り上げたことのないパキスタン映画である。パキスタンから英国への移民たちが主人公の『きっと,それは愛じゃない』(23年12月号)『ポライト・ソサエティ』(24年8月号)では,故国との交流も描かれていたが,英国映画であった。ノーベル平和賞受賞者のパキスタン人の少女マララ・ユスフザイを描いたドキュメンタリー映画『わたしはマララ-』(15年12月号)は,彼女が教育を受ける権利を訴え,タリバンに撃たれたことを描いていた。映像的にはパキスタン国内が再三登場するが,監督は米国人のデイヴィス・グッゲンハイムであったため,映画国籍は米国である。どうやら,純然たるパキスタン製の映画を語るのはこれが初めてのようだ。同国の映画では初めてカンヌ国際映画祭の受賞作品となり,アカデミー賞では国際長編映画賞部門のショートリストにも残ったというので,心して観ることにした。
 舞台となるのはパキスタン第2の大都市ラホールで,すべてこの地で物語が展開する。時代は現代だが,保守的な中流家庭ラナ家での,伝統的な家父長制での人間関係を中心に描いているので,数十年前の物語なのかと錯覚してしまう。家族は家長のアマン,長男サリーム,妻ヌナと3人の娘,次男ハイダルと妻ムムターズの計8人の大家族だ。ヌナはまもなく4人目を出産予定だったが,ハイダル夫婦には子供はいない。ハイダルは失業中で大家族の面倒を見ていて,メイクアップアーティストとして働くムムターズが家計を支えていた。
 早く定職を見つけろとの父や兄の圧力で,ハイダルは劇場で踊るバックダンサーの職を見つけるが,父親にはダンサーとは言えず,「支配人として雇われた」と言い逃れる。定収入が得られたのは良かったが,その反面,まだ外で働きたいムムターズは,専業主婦を強いられて,生き甲斐を失ってしまう。戦後すぐの日本社会でも,この程度の頑固親父はゴロゴロいたが,今の若い世代には信じられない価値観で卒倒するかもしれない。
 ハイダルはバックダンサーとしての猛特訓に励む一方,メインダンサーのビバの自由な生き方に魅了される。ヒバは純然たる女性ではなく,トランスジェンダー女性だった。それを知ってもハイダルの彼女への恋心は収まらず,やがて2人は心も身体も重ね合う関係になる……。就職や男児出産に拘る家父長制への反発まではまだしも,そこにLGBTQまで入って来ては,一体どうなるのかと映画の行方が気になった。果たせるかな,夫の行為を知り,生きる気力を失ったムムターズには悲惨な結末しか残っていなかった。悲嘆に暮れるハイダルは,結婚前のムムターズの希望に満ち溢れた顔を思い出す。この回想シーンでの彼女の笑顔は,余りにも悲しかった。
 題名のジョイランドは,ラナ家の嫁2人が遊園地で憂さ晴らしすることに因んでいる。かなり濃厚な心理描写で,微妙な男女関係や親子関係を描いていた。こんな重厚な映画を作れる国とは思いも寄らなかった。監督はラホール生まれで,米国コロンビア大学で映画監督の修士号を得た俊才サーイム・サーディクである。世間体ばかり気にする社会を糾弾する映画であることはすぐ理解できたが,監督がトランス女性との恋愛をどう考えているのか,よく分からなかった。妻を悲しませる夫の行動は是なのか? この国は「ヒジュラ」なる「第3の性」を認める文化があったというから,我々が考えるほど単純なものではないのかも知れない。
 ところが,LGBTQを描いたこと自体で保守系団体の反発を受け,本作は国内上映禁止になったという。監督・出演者らの猛抗議に加え,上記マララ・ユスフザイらの声明が決め手となり,禁止令は撤回されたという。さすがノーベル平和賞の威力だ。『私はマララ』の紹介記事中では,「彼女はずっと活動家を続けるのだろうか,それとも将来政治家に転身するのだろうか?」と書いた。本作に寄せた彼女の一文と現在の写真を見て,もうこんなに大人になったのかと驚き,美しく風格ある人権活動家になっていたことを嬉しく感じた。

■『国境ナイトクルージング』(10月18日公開)
 魅惑的な題名の映画だ。ロマンティックな香りもする。久々に題名だけからどんな映画を想像したかを開示しよう。大抵は余り当たらないが,いくつか本質は突いている。国境をまたぐ悲劇なら,こんな題名にはしない。ある種の観光映画だろう。どの国でも検問所はあるから,そう何度も往復はできないが,途中で国境を越えて異国の文化には触れるのだろう。クルーズ船での移動なら国境は大きな川のはずだが,ずっと夜では観光映画にならない。メイン画像1枚だけを見たら,アジア人と思しき男2人,女1人の姿があり,背景は氷の世界だ。おそらく韓国映画か中国映画で,この3人が織りなす青春映画だと想像した。
 この時点でネット上の予告編1本を見たが,少し異色だった。撮影風景が登場し,監督(アンソニー・チェン)が映画のコンセプトと撮影時の苦労を延々と語っている。それもそのはず,通常の予告編(約1分)ではなく,5分弱のメイキング映像だった。未見の読者なら,この映像を観てから映画館に行くことを勧めたい。その方が味わい深く愉しめる。1990年代以降に生まれた若者が対象というのに少し躊躇するが,青春時代を思い出して観れば良い。既に還暦を過ぎた是枝裕和監督が「大好きな映画」と推奨しているので,是枝ファンなら高齢者が観ても大丈夫だ。
 中国映画で,時代は現代,舞台は北朝鮮との国境近くにある中国の観光都市の「延吉」だ。正確には,吉林省延辺朝鮮族自治州の北緯42度50分にあるので,冬は湖面も氷結する極寒の地となる。主要登場人物は,ナナ(チョウ・ドンユイ),ハオフォン(リウ・ハオラン),シャオ(チュー・チューシアオ)の3人だった。ナナは元フィギュアスケート選手で,怪我で五輪出場を断念し,現在は観光ガイドとして働いている。ハオフォンは上海で働くエリート金融マンだが,競争社会に疲れている。シャオは勉強嫌いで進学を断念した食堂労働者で,ナナに想いを寄せている。
 友人の結婚式で延吉を訪れたハオフォンは,翌朝のフライトまでの時間潰しに観光ツアーに参加したが,途中でスマホを紛失してしまう。同情したナナが彼を夜の町に連れ出し,シャオを呼んで明け方まで飲み明かす。ナナの部屋で3人ゴロ寝したが寝過ごして,ハオフォンは日に1便のフライトを逃してしまった。結局は数日間滞在し,この間に3人乗りのバイククルージングで行動を共にする。特に大きな出来事もない青春&観光映画だが,映像は美しかった。予告編冒頭に登場する氷壁の迷路,夜から朝にかけて車で登る長白山は圧巻だった。心理描写では,ハオフォンとナナの情交を察知したシャオの傷心が繊細なタッチで描かれていた。若者向きの映画というだけのことはある。
 川向こうの北朝鮮が少し映るだけで,国境を越えることはなかった。ただし,延吉の町には朝鮮文化が残っていて,漢字とハングルの両方が表示されている。朝鮮民族の衣装と踊りも登場する。本作の中国語の原題は『燃冬』,英題は『Breaking Ice』で,それぞれに味がある題名だなと納得した。
 主演のチョウ・ドンユイ(周冬雨)は,7千人のオーディションから選ばれ『サンザシの樹の下で』(11年7月号)でデビューした少女で,「13億人の妹」と呼ばれていた。その後,彼女の出演作を観る機会がなかったが,この間に30本以上の映画に出演している。本作はチェン監督との2度目のタッグだが,ノーメイクで挫折経験のある孤独な女性を演じている。好い大人の女優になったなと感じた。

■『破墓/パミョ』(10月18日公開)
 こちらはしっかり韓国映画だった。7週連続1位を保った2024年の韓国映画No.1ヒット作で,1,200万人が観たサスペンス・ホラーだという。ホラー映画がそこまでの集客力があるのが意外だったが,特大ヒットというので,それを意識して観ることにした。殺人鬼に迫られる恐怖や上記『ソウ』シリーズのような奇抜な着想のホラーではないが,題名からして墓から悪霊が登場する恐怖映画だと想像できる。監督・脚本は,チャン・ジェヒョン。『プリースト 悪魔を葬る者』(15)で成功を収めたというから,米国のジェームズ・ワンや日本の清水崇に匹敵する韓国ホラー界のビッグネームのようだ。
 主演は,『オールド・ボーイ』(04年11月号)のチェ・ミンシク。同作で大スターとなった後,『悪魔を見た』(11年3月号)では連続殺人鬼,ハリウッド映画『LUCY/ルーシー』(14年9月号)ではマフィアのボスと,悪役のイメージが強かったが,年齢と共に体重も増し,本作では風格のある風水師サンドクを演じている。相棒の葬儀師ヨングン役には,『コンフィデンシャル/共助』シリーズでお馴染のユ・ヘジン。相変わらず器用にどんな役でもこなす。巫堂ファリム役はキム・ゴウン,その弟子の巫堂ボンギル役はイ・ドヒョンで,2人とも初めてだが,人気女優と売り出し中の若手男優らしい。巫堂(ムーダン)とは,吉凶を占い,御祓いや祈祷を行う霊的職業というから,陰陽師と巫女を合わせたような存在なのかと解釈した。
 物語は,韓国から米国LAに向かう機内から始まる。ファリムは客室乗務員から日本語で話しかけられ,「私は韓国人です」と日本語で答える。なるほど日本人の女優にいそうな顔立ちである。どうやら彼女が日本語を話せることが物語の伏線なっているようだ。LA空港に降り立った彼女はボンギルを伴い,米国で成功した韓国人の大富豪を訪れる。医学的には異常がないのに,跡継ぎの新生児がずっと目も開けずに泣いてばかりいるため,その原因を究明し,対策を講じることを依頼された。ファリムたちは韓国にある祖先の霊が原因と考え,改葬(墓の移転)で呪いを解くことを提案する。
 破格の報酬が得られると聞きつけた風水師と葬儀師が早速合流し,山奥にある富豪の祖父の墓に向かった。サンドクは,墓の場所が最悪なのが呪いの原因だと見抜いた。巫堂による御祓い儀式の間に墓を堀り,棺は開けずに火葬することで安全に霊を鎮める計画だったが,ヨングン手配の作業員が棺を開けてしまったことから,悪霊が解き放たれ,次々に富豪一族を襲う惨劇が始まる。それでも間一髪で火葬を敢行して,新生児は一命を取り留め,元気になった。
 とここまでが,134分の上映時間の半分強だった。物語はまだまだ続く。祖父の棺の下にさらに大きな棺があり,その中の精霊が呪いを発し続けていた。ネタバレになるので後は観てのお愉しみとしたいが,少しだけ明かすと,日本人が深く関係していた。後半のセリフの大半は日本語であり,日本語を話せるファリムが通訳的役割を果たす。おいおい日本人を悪者にして一件落着にするのかと愉快ではなかったが,それが韓国での大ヒットの一因なのかも知れない。
 正直なところ,ホラー好きの筆者はこの映画をピンと来ず,後半はついて行けなかった。不気味さはあり,大作の体はなしていたが,全く恐怖は感じなかった。これなら,日本の怪談の方がずっと怖い。『エクソシスト』(73)や『死霊館』シリーズのような躍動感や結末での安堵感も得られなかった。ただし,この監督の語り口と演出が筆者の好みに合わなかっただけかも知れない。そう言えば,話題になった『哭声/コクソン』(17年3月号)と雰囲気が似ていて,同じように理解できずに退屈した。よって,同作を好ましく感じた観客には,同じテイストの本作も勧めて良いかと思う。

■『シングル・イン・ソウル』(10月25日公開)
 こちらも韓国映画である。『破墓/パミョ』が重苦しく,爽快感のない映画であったので,口直しに軽いタッチの恋愛映画を観ることにした。「ライトノベル」に対して「ライトムービー」とでも呼ぶべき映画である。テーマは,題名通り,大都会ソウルでの「お独り様生活」であり,それを満喫する男女の生態を描いている。現在の韓国では,3人に1人は一人用住居で暮らしていて,20代の増加率が最も高いという。独り気ままな生活は継続したいが,恋愛もしたいという虫のいい連中だ。監督のパク・ボムスは初めてだが,ラブコメが得意らしい。製作のミョンフィルムは,かつて当欄でをつけた上質のラブストーリー『建築学概論』(13年5月号)を生み出した製作会社だというので,期待がもてた。今回は建築業界でなく,出版業界を描いている。
 主演の男女はイ・ドンウクとイム・スジョンで,各々学習塾のカリスマ講師兼インフルエンサーのパク・ヨンホと,出版社の辣腕編集長チェ・ヒョンジンを演じている。「街の本出版社」は「シングルライフと観光地」なるエッセイ・シリーズを企画していたが,ソウル編の執筆者がドタキャンしたため,SNSで流麗な文を書いていたヨンホが身代わりで抜擢される。ヨンホは見るからにイケメンの独身男で「ソロ活」のプロである。一方のヒョンジンは,髪はボサボサ,丸眼鏡でダサい服装の飾らない女性だ。愛車は洗車もせず車内は埃だらけ,自宅はゴミ屋敷と徹底している。それでいて自分はモテるとの恋愛妄想壁がある。全く価値観の異なる2人が一緒に仕事をする内,次第に距離が縮まって行く。よく見るとヒョンジンの地顔は結構可愛い。ある日,眼鏡を外して,しっかりメイクすると,ジャジャーンと美女に変身し,後は大恋愛で結ばれる……と予想するのが普通だ。
 この予想は見事に外れた。少しずつ特別な感情は芽生えるものの,それ以上は進まない。途中からバルセロナ編を担当する美形のホン作家(イ・ソム)が登場し,彼女がヨンホの初恋の相手だというので,三角関係の恋愛劇となるのかと思いきや,そうもならない。要するに映画全体がシングルライフの実状を描くことに徹している。恋愛めいた関係になるが,それ以上進展しないのが現代の若者らしい。おいおいそれじゃ出生率は下がるばかりだぞと言いたくなった。2人が歩くソウルの街は小綺麗で,夕日の漢江の景観は美しかった。そんなはずはない。ソウルはかなり猥雑な街のはずだ。
 出版業界が対象だけあって,雑誌社や印刷工程の描写は克明だった。大型書店やヨンホの書棚で本が並ぶ光景は壮観だった。村上春樹の「ノルウェイの森」が重要な役割を果たしていた。今年こそ彼がノーベル文学賞を獲ると予想した脚本だったのかも知れない。韓国人女流作家のハン・ガン(韓江)が受賞するとは,思いも寄らなかったのだろう。エンディングを飾る「漢江」の読みも「ハンガン」であるから,何たる皮肉だ。

■『シン・デレラ』(10月25日公開)
 バイオレンスファンタジーと称しているが,要するにこれもホラーだ。このPart 2だけで3本のホラーは多過ぎる気もしたが,大作『破墓/パミョ』がしっくり来なかったため,別のホラーならどんな恐怖を感じるのか比べることにした。ベースは老若男女の誰もが知っている「シンデレラ」であるが,コピー文句は「世界的な人気キャラクターが猟奇的な復讐者へと豹変!」「史上最恐。魔法の力で殺戮の限りを尽くす」である。古典的童話を無残に変形したゲテモノ映画だと思いつつも,心優しいシンデレラがなぜ恐ろしい殺戮者になったのか観たくなった。
 冒頭から,喉を切られて死亡する女性,頭部を丸ごと切断される男性の強烈なシーンが登場する。徐々に恐くなると思うなよ,との警告のようだった。続いて,若い女性エラは継母とその連れ子の義姉2人と暮らしていたが,召使いのような扱いを受け,日々苛められていた。これはオーソドックスな設定である。「Cinderella」は「Cinder」+「Ella」であり,「灰まみれのエラ」を意味する蔑称だ。この解釈は,ディズニーの実写映画『シンデレラ』(15年5月号)でも使われていた。
 このシンデレラが唯一心を許す家政婦アーニャが,些細なことから継母ダイアー夫人から凄惨な仕打ちを受け,落命してしまう。このシーンだけで大抵の観客は震え上がる。こんな鬼婆は後でどれほど残額な殺し方をしても構わないと感じるのが普通だ。ある日,エラが庭で見つけた不思議な本を開けると,フェアリーゴッドマザーが現われ,「お前を自由にしてやろう。3つの願いを叶えてやる」と言うので,エラは「レヴィン王子に会いたい」「一緒に踊りたい」と2つを使ってしまう。魔法の力でエラは純白のドレス姿になり,白い馬車に乗って城での舞踏会に向かうことになる。カボチャやネズミは登場しないが,ここもまずまず一般的な展開だ。
 城での出来事が全く違っていた。王子や継母・義姉たちは人々の前でエラのドレスを剥ぎ取って裸にし,全員で嘲笑する。王子がエラに気のある素振りを見せたのは,田舎娘エラを蔑むために王子と義姉が仕組んだ芝居だった。怒りに震えるエラは「復讐したい」と3つ目の願いを口にしてしまう。ここまでで上映時間の約6割だ。
 残りの復讐劇の凄まじさは,とても書き尽くせない。ホラーというより完全にスプラッター映画だ。1人ずつ血祭りに上げるが,とりわけ,ガラスの靴を使った攻撃,拷問が特筆に値する。フェアリーゴッドマザーらもこの復讐に加わるが,彼女の形相自体が化け物級の醜い顔である。よくもここまで醜悪で激烈な映画にしたものだ。この映画が女性監督ルイーザ・ウォーレンの作品というのにも驚いた。いくつか皮肉な描き方もしている。エラは少し野暮ったい女優が演じていて,義姉2人の方がずっと洗練された美人だった。エラが大切な願いを軽薄な王子と会うことに使ったのは,少女趣味的な愚かな願望であり,辱めを受けたのは自業自得との教訓のように受け取れた。原題は『Cinderella’s Curse』で「シンデレラの呪い」の意だが,邦題を「シン・」で区切ったのは,『シン・ゴジラ』(16)『シン・ウルトラマン』(22)等のもじりであり,国内宣伝担当者に洒落っ気だろう。
 ともあれ,とても子供に見せられる映画ではない。入場料を払う価値のある映画に高評価を与えて来た映画評としては,表向きは☆とせざるを得ない。通常なら掲載を見送る評点だが,書いてみたくなった。実のところ,この復讐劇には溜飲が下がる。ラストがどうなるのか楽しみだったが,果たせるかな,驚くべき結末であった。

■『八犬伝』(10月25日公開)
 最後は邦画の大力作である。知名度では「シンデレラ」に負けるが,日本人の中年以上なら,江戸時代後期の戯作者・滝沢馬琴の長編伝奇小説「南總里見八犬傳」の名前を知っている。本作は,その執筆舞台裏を描いた物語である。28年かけて書き上げた全106冊の大長編となると,原著を読破した人はまずいないだろうが,多数の要約・翻案ものが出版されている。NHKが1973〜75年に放映した子供向きの人形劇『新八犬伝』や,深作欣二監督の映画『里見八犬伝』(83)で存在を知った人も多いようだ。
 筆者の記憶は1950年代の小学生時代だ。今でも「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」は宙で覚えているし,今回の映画を前に,八犬士の内,犬塚信乃,犬飼現八,犬田小文吾等6名の名前がすんなり出てきた(自分でも驚いた)。調べてみると,1954年に東映が5週連続で公開した連作映画か1959年の2部作(あるいは,それらの再上映)を観て熱中したようで,学校では旧友と連日語り合っていた記憶がある。里見家の伏姫を連れ去る犬は「八房」,妖刀は「村雨丸」だと覚えている。それくらい国民に親しまれていた物語だということである。
 旗本に仕えた武士の滝沢興邦は町人となり,既に戯作者・曲亭馬琴(役所広司)として人気を博していた。版元から依頼で大長編を書き始めたが,スランプで筆が進まない。過去作で挿し絵を担当した絵師・葛飾北斎(内野聖陽)がしばしば訪ねて来るので,彼に物語の構想を聞かせると,北斎は奇想天外な物語を巧みな筆致で見事な下絵を描いて見せる。それでいて,正式の依頼は拒み,見せ終わるとすぐに破り捨ててしまう。この2人の掛け合いが絶妙で,北斎の下絵にも見惚れた。
 馬琴の家族は,口うるさい女房のお百(寺島しのぶ),息子の宗伯(磯村勇斗)とその妻であった。宗伯は大名のお抱え医師となるべく修業中であったが,父親の戯作の清書作業も担当していた。ところが,宗伯は病に倒れ早逝してしまう。長い年月の著作内に,老いた馬琴の視力は衰え,やがて文字が書けなくなる。見かねた宗伯の妻・お路(黒木華)が,自分が代書することを申し出る。仮名は書けたが,漢字を全く知らない彼女に,馬琴が口述しながら指で字体も教えるという難作業となり,物語完成までの苦闘が続く……。
 この辺りの描写は,名作誕生の裏話として興味深かった。絵画や音楽まで含めれば,誕生秘話や舞台裏を描く映画は『ネバーランド』(05年1月号) 『ミス・ポター』(07年9月号)『Mank/マンク』(20年Web専用#6)『ボレロ 永遠の旋律』(24年8月号)等々,1ジャンルをなしている。本作の構成がユニークなのは,馬琴が北斎に語って聞かせると,「里見八犬伝」の物語がしっかり映像化されて登場することだ。伏姫の死から,8つの珠の飛散,八犬士の集結,里見家にかけられた呪いの解除まで描かれる要約完結版である。馬琴の世界を「実」,八犬士の活躍を「虚」として,その虚実が交互にバランス良く出現する。何たる素晴らしい構想の脚本だと感心した。こんな脚本を書ける人物が映画業界にいたのかと。
 筆者が知らなかっただけで, 1983年に出版された山田風太郎の「八犬傳」が基になっていた。1960年代に「くノ一忍法帖」「おぼろ忍法帖(魔界転生)」等で人気を博した伝奇小説の大家である。なるほど,彼なら奇抜な翻案小説も書けるし,馬琴と北斎の交流,お路の代書といった史実を巧みに盛り込むことは朝飯前だ。こういう原作を見つけて来た時点で,本作は成功している。
 監督は,『ピンポン』(02年7月号)『鋼の錬金術師』(17年12月号)の曽利文彦だった。となると,お得意のVFXは随所で使われていると期待した。果たせるかな,「虚」の部分では,大型犬「八房」は当然CGの産物であり,著名な「芳流閣両雄動」の屋根上での攻防,玉梓の怨霊等々,しっかりCG/VFXの出番があった。では,なぜ当映画評ではメイン記事扱いしなかったかと言えば,そうできるだけのスチル画像が提供されなかったからである。曽利監督のベスト1とも言える本作で,この扱いは残念至極だ。このため,半分だけ減点した。

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