O plus E VFX映画時評 2024年10月号掲載

その他の作品の論評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『花嫁はどこへ?』(10月4日公開)
 今月はインド映画2本から始める。既に映画大国であることは周知の事実だが,まだまだ日本公開作品は少ない。当欄は公開日順なので,最初の週末に2本揃ったのは偶然だが,紹介するに足る同日公開作品が2本あるとは,勢いがある証拠だ。本作は題名通り,結婚したばかりの花嫁が行方不明になってしまう物語である。心を病んで蒸発したのでも,誘拐されたのでもない。新郎が実家に新婦を連れ帰る際,間違って別人を連れて行ってしまい,当の花嫁の居所が分からなくなってしまったというお粗末だ。新生児の取り違えならともかく,既に挙式を終えている花嫁を間違えるとは……。この馬鹿げた出来事に始まり,見事な人生讃歌で締めくくっている。
 時代は2001年,舞台は北インドのとある村だ。新婦側で結婚式を終えた新郎のディーパク(スパルシュ・シュリーワースタウ)は,新婦のプール(ニターンシー・ゴーエル)を連れて自分の実家に向かったが,大安吉日の満員列車には複数の花嫁が乗っていた。皆同じサリーを着て,赤いベールで顔を隠している。これが,昔ながらのしきたりらしい。居眠りから目覚めたディーパクは,目的地のムルティ駅に着いたことを知り,急いで身近にいた花嫁の手を引いて駅に降りた。待ち受けていた親族の前でベールを取った花嫁は,全く別人ジャヤ(プラティバー・ランター)だった。夫がいないと気付いたプールは,いくつか先のパティラ駅で降りるが,そこには下品な男プラディープが自分の花嫁がいないと大騒ぎしていた。そこから先は,滑稽な出来事の連続だった。急成長する大国だが,結婚や家族制度の実態は,旧態依然とした後進国であることを強調して描いている。とりわけ,新婦は多額の持参財をもって嫁ぐというのに驚いた。
 素直で世間知らずのプールは,すべて夫任せで荷物も預けてしまい,夫の実家の場所も電話番号も分からない。親切な人々に助けられ,屋台売りの女主人マンジュおばさん(チャヤ・カダム)の下で働く。そこで得意のお菓子「カラカンド」を作って売り出し,自らの力で生きる歓びを知る。一方のジャヤは,止むなくディーパクの家族と暮らすことになるが,なぜか名前も嫁ぎ先も実家の電話番号も偽り,警察を極度に恐れていた。聡明で美しい彼女は,ディーパクの家族からも気に入られる。自由な発想の彼女は向上心が強く,大学で有機農法を学ぶ夢をもっている。コメディタッチで進行しながら,次第に女性の社会的地位向上を応援する映画であることが分かる。成人の自己判断の尊重,学ぶ意欲,働く意欲の大切さを説いている。男は全くの添え物だ。それでいい。
 監督は,予想通り女性監督だった。インド映画界の人気俳優アミール・カーンの元妻のキラン・ラオで,彼が製作を担当して出来上がった映画だという。この2人の関係が新しい時代の象徴のようだ。庶民は地元警察を信用せず,全くの悪徳警官に思えた警部補の扱いを終盤で豹変させている手口が見事だった。素朴だが,観終えて幸せになる映画だ。昔はこういう映画が大半だったのに,最近の若手監督は,奇をてらった不愉快な映画ばかりを作りたがる。インド映画には,観客を楽しませる映画本来の姿を維持していることが喜ばしい。

■『ハヌ・マン』(10月4日公開)
 2本目はボリウッド製のスーパーヒーロー映画だ。今年1月に公開され,半年経った上半期の集計でも興行収入1位のヒット作というから,観客満足度は保証されている。となると,しっかりCG/VFXが多用されていることを期待した。映画を観ると,スーパーパワーの発揮場面だけでなく,悪役側が駆使する最新兵器が斬新で,そこにたっぷり使われていた。ところが,そのスチル画像が全くと言えるほど提供されないので,メイン欄での紹介を断念した。プロダクションノートもなく,撮影場所,撮影方法の要点等のメイキング情報もない。とぼやきつつも,楽しい映画であったので,素直な感想を書き連ねることにした。
 まず気を引いたのは,ポスターで主人公の後にある大きな猿の彫像である。これが「猿の将軍ハヌマーン」であるらしい。先々月に絶賛した『モンキーマン』(24年8月号)の主人公キッドが猿のマスクを着けて格闘技に臨んでいるのは,このハマヌーン伝説に基づいているとのことだった。元は将軍であるが,神格化され,宗教にまでなっているようだ。本作の主人公は猿面ではなく,猿のマスクも被らず,なかなかのイケメンである。
 映画は1998年の子供時代から始まる。子供たちは皆スーパーヒーローに憧れていた。ヒーローたちの大半に両親がいないことから,火を放って両親を見殺しにする少年まで登場する。それから10数年後,ハヌマントゥ(テージャ・サッジャー)は姉アンジャンマ(ヴァララクシュミ・サラトクマール)と山奥の小さな村に住んでいた。勝ち気でしっかり者の姉の陰に隠れた存在で,失敗ばかりして,周りからも疎んじられていた。幼馴染で美しいミーナークシ(アムリタ・アイヤル)に想いを寄せていたが,全く相手にされなかった。ある日,彼女の危機に遭遇し,助けようとして海の中に落ちてしまう。そこで見つけた不思議な宝石の力で超能力を得て,彼は晴れて憧れのスーパーヒーローになれた訳である。
 ところが,この宝石が厄介な代物だった。スパイダーマンやハルクのように一旦得た超能力が常時発揮できる訳ではなく,一定条件下(日照時に宝石を透過した光線が目に照射される等)でしか作動しない。ミーナークシの前で披露しようとした時に限り,上手く行かない。この宝石を狙う邪悪な組織が現れて,彼女や姉に危険を及ぼしたりする。後は超能力で敵を撃退したり,石をなくしたりの繰り返しだった。見事に単純な勧善懲悪ものだが,やはりスーパーパワーの発揮シーンは楽しかった。娯楽映画としては十分合格点である。
 本物の猿も何匹か登場し,かなりの名演技を披露する。全編の9割以上で音楽が流れている。歌って踊ってではなく,BGM的に流れ続けている。歌詞のある部分では,シヴァ神,ラーマ神,ハヌマーン将軍等々の名前が頻出するが,その関係がよく分からない。古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」に基づいているそうだが,その詩の一部なのだろうか?結末がどうなるのか楽しみしたが,意外な終わり方だった。「158分も見させておいて,そりゃないよ」と言いたくなる。インド映画はどれも長いが,この内容なら100分もあれば十分だ。それでも続編が公開されるなら,間違いなく観たくなること必定である。

■『悪魔と夜ふかし』(10月4日公開)
 題名だけで面白そうと感じるホラー映画だ。中世風の古風な屋敷で深夜に出没する悪霊と格闘するのかと想像してしまうが,それとは違う。TVの深夜番組での生放送中での出来事を描いている。オーストラリア製のホラーで兄弟監督,しかもギャガ配給というので,てっきり『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』(23年12月号)のダニー&マイケル・フェリッポウ兄弟の新作かと思った。こちらもオーストラリア人だが,コリン&キャメロン・ケアンズ兄弟が脚本・監督・編集を務める映画だった。本作の方がじゃんけん後出しだから,フェリッポウ兄弟の成功に刺激を受けたのかもしれない。1990年代生まれの双子のYouTuberと比べて,こちらは約10歳年長の3歳違いの兄弟で,深夜番組を見て育った世代だ。内容も『TALK TO …』のような若者が集まる降霊会ではなく,生番組の出演者に死者との対話をさせる趣向である。
 もう1つ大きな仕掛けがある。ファウンドフッテージ形式の採用,即ち,撮影者が不明で埋もれていた未編集映像が発見されたとの想定のフィクションである。映画の国籍は豪州で,俳優やスタッフの大半は現地人だが,かつての米国のTV番組とその楽屋裏での出来事の記録映像が発見されたという体裁をとっている。本作の原題は『Late Night with Devil』だが,実際に米国で放映された深夜番組『Late Night with David Letterman』(82-93)を意識し,スタジオ風景も似せているようだ。
 主人公はTVキャスターの司会者ジャック・デルロイ(デヴィッド・ダストマルチャン)で,深夜トークショー「ナイト・オウルズ」を担当していた。愛妻を亡くし,番組も低迷していた中で,視聴率調査週間に起死回生の生番組での賭けに出る。オカルトブーム再燃に乗じて,ハロウィンの夜にスタジオ内の観客と他界した近親者との交流のライブショーを放映する企画だった。まず,霊能力者のクリストゥ(フェイザル・バジ)が出演し,観客しか知り得ない事実の霊聴を実演する。続いて超常現象懐疑論者のカーマイケル・ヘイグ(イアン・ブリス)を登場し,さっきの霊聴はイカサマだと喝破して,スタジオ内は緊張する。最後のメインゲストは「悪魔との対話」の著者で超心理学者のジューン・ロスミッチェル博士(ローラ・ゴードン)と悪魔憑きの13 歳の少女リリー(イングリッド・トレリ)だった。再びカーマイケルが疑惑を呈したところに,司会者がTV史上初となる「悪魔の生出演」を持ちかける。疑われた少女リリーの形相は恐ろしい顔に一変し,汚い言葉を吐いて超常現象を起こし,スタジオ内は惨劇の修羅場と化す……。
 悪魔憑きの様子は『エクソシスト』(73),少女が引き起こす惨劇は『キャリー』(76)を思い出す。その一方で,1970年代末のTV局の再現も見事だった。スタジオ内の照明や出演者の髪形・衣装まで,当時を彷彿とさせる。番組の放映部分よりも,CM間の楽屋裏での緊急対応ややらせ行動が生々しく,面白かった。視聴率至上主義のTV業界への痛烈な批判が込められているが,きっと今も,どの国のTV局も,同じだろうと感じてしまう。

■『アーネストに恋して』(10月4日公開)
 久々に「松竹ブロードウェイミュージカルシネマ」の1本を取り上げる。NYブロードウェイの舞台劇をムービーカメラで撮影し,映画スクリーンで上映するこの方式は,『プレゼント・ラフター』(22年Web専用#2)ですっかり魅せられた。臨場感では本物には叶わないが,素晴らしいカメラワークで各俳優の表情は見やすく,セリフも現場より聴きやすかったからである。その後何本か取り上げたが,どうしても通常の新作映画を優先してしまい,しばらくご無沙汰していた。本作に興味をもったのは,奇抜な物語設定が魅力的であり,どうやって舞台劇化しているのかが気になった上に,前評判も上々であったからである。ただし,本作は大きなブロードウェイの舞台でなく,2017年の初演以来,少人数の「オフ・ブロードウェイ」で上演されて来た作品である。
 主人公はビデオゲームの作曲家でシングルマザーのキャットで,子育てに疲れ果て,憩いと刺激を求めて,出会い系サイトに自己紹介動画を投稿する。それに呼応して彼女に電話をかけて来たのは,何と20世紀を代表する冒険家のアーネスト・シャクルトン(1874-1922年) だった。彼は南極で船が難破し,流氷の上で身動きできない状態だった。かくして,時空を超えた2人の会話と素晴らしい歌唱が始まり,さらに壮大な冒険の旅が始まる……。南極でどうやって電話(スマホ?)が通じるのか,基地局はあるのか,嵐で電波は途切れないのかと一瞬気になったが,元々有り得ないSF的発想のフィクションであるから,そんな懸念はすぐに吹っ飛んだ。
 オフ・ブロードウェイの小舞台であるから,出演者はこの2人だけで,冒頭の舞台上にはキャットだけだった。アーネストの遭難風景はステージの奥にあるビデオスクリーン上に投影されていて,観客もそれを眺めている。途中でアーネストはキャットの部屋にある冷蔵庫の中から姿を現わし,舞台上での2人のラブシーンが繰り広げられる。この間も,スクリーンには嵐,犬,荒海等が映し出されている。やがて2人で南極の山に登ったり,22名の隊員を救出したりの展開となる……。
 2人の歌唱と演奏が素晴らしかった。キャット役のヴァレリー・ヴィゴーダは,歌手,作詞&作曲家としても著名で,数々のミュージカルやディズニー映画の音楽担当の実績がある。このミュージカルナンバーでは,全曲の作詞を担当している。電子バイオリンの名手でもあり,その演奏も堪能できた。一方,アーネスト役のウェイド・マッカラムは,元はドラマーで,俳優・ダンサー・歌手・作曲家・脚本家・映像作家・演出家等の肩書きをもつマルチタレントである。この舞台ではバンジョーを奏でて,キヤットの電子バイオリンとの合奏の息がピッタリ合っていた。本作の原題は『Ernest Shackleton Loves Me』で,アーネストが彼女に恋する形だが,すぐに相思相愛になるので,どちらでも同じだ。苦境の中で互いに「一筋の光と希望」を与え合う中年男女の恋愛は,なかなか含蓄のあるヒューマンドラマであった。

■『忘れない,パレスチナの子どもたちを』(10月4日公開)
 ここから2本は,世界の関心を集め,多くの人々が心を痛めるパレスチナ問題,ガザ戦争に関わる映画である。何かを語らねばと思い,同日公開となるこの2本の試写を申し込み,何日も前に見終えていた。ところが,公開日が近づいても,なかなか記事を書く気になれなかった。その最大の理由は,内容を思い出す度に憂欝になったからである。もう1つは,パレスチナ問題がガザ地区に留まらず,イスラエルとヒスボラの諍いに飛び火し,イランも巻き込んだ攻撃合戦になってしまったからだ。ウクライナやガザに留まらず,毎日同じように無垢の市民の子供たちが命を落としているのかと…。
 ともあれ,書き始めよう。本作はパレスチナ人監督ムハンマド・サウワーフと英国人監督マイケル・ウィンターボトムの共同制作で,イスラエルの攻撃で死亡したガザ地区の子供たちの追悼ドキュメンタリーである。映画が始まって,大きな勘違いをしていたことに気付いた。てっきり昨年の10月以降のイスラエルの報復攻撃による犠牲者だと思っていた。本作の対象は2021年5月の攻撃であり,停戦に至るまでの11日間に空爆で少なくよる67人の子供たちが落命したという。その攻撃から1ヶ月に撮影開始し,翌2022年に完成した映画だったのである。考えてみれば,現在のガザ戦争はまだ停戦の見込みがなく,とても現地で追悼映画の撮影など出来ない。将来それを作れば,もっと悲惨な内容になるに違いない。
 空爆は5月10日に始まり,まず8人の子供が死亡した。その後,連日の出来事が語られ,誰がどんな状態で死亡したかのナレーションが入る。停戦後に撮影された映像であるので,家族の生存者が並んだ写真では,事情が分からず微笑んでいる子供もいる。家族が想い出を語るので,何か良いことがあったかのような錯覚に陥る。大人は怒りを込め,イスラエルの暴挙を糾弾する。悲しみに暮れる祖父母の言葉には胸が痛む。存命中の映像が美しく,子供が可愛い場合には尚更だ。
 5/15, 16, 17もまだ空爆は続き,犠牲者は増える一方だった。建物自体が破壊された場合も,たたたま表通りに出た時に遭遇した不運や,買い物に出かけた場所での被災の場合もある。時々,瓦礫の山が映り,死者の葬儀での顔,死化粧の様子も登場する。悲しい音楽とともに,泣きじゃくる人々の映像が増えてくる。日本人ナレータ-の坂本美雨が,(多分,意図的に)淡々と空爆の場所,被害者の人数や名前を読み上げる。空爆の政治的背景や誰が指示したのかの説明はない。観客自身に戦争の悲惨さや無意味さを考えさせるという意図なのだろう。
 5/19に停戦の兆しが見られ,5/21にようやく停戦する。世界中にある民族間紛争の1つなのだろうが,全く罪のない民間人への空爆を続けるイスラエルのどこに正統性があるというのか。憤りしか感じられなかった。「皆亡くなった子供たちのことを忘れることはありません」のナレーションが流れ,映画は終わる。

■『私は憎まない』(10月4日公開)
 こちらもガザ地区問題を考えるために選んだドキュメンタリー映画であるが,上記とは趣きが異なる。ガザ地区出身の医師で人権活動家のイゼルディン・アブラエーシュ博士に焦点を当てていて,彼の半生を描いた伝記映画であり,彼の魂の叫びや法廷闘争を綴った実録映画でもある。現在はカナダ・トロント大学の教授だが,「中東のマンデラ,ガンジー,キング牧師」と呼ばれる人物で,既に5回もノーベル平和賞の候補になったという。監督はエルサレム生まれのフランス系アメリカ人の女性監督タル・バルダで,本作の題名は博士の自伝「それでも,私は憎まない あるガザの医師が払った平和への代償」に基づいている。
 ガザの難民キャンプの貧困家庭に生まれたイゼルディンは,11歳で入院したことから,自ら医師となり,宗教や国籍を問わず,貧しい人々を助ける人生を決意する。15歳でイスラエルの農家で働いた後,カイロ大学,ロンドン大学で医学を学び,産婦人科医となる。結婚後,8人の子供をもうけたが,夫人は急性白血病で早世する。21歳の長女ビザーンが大学を中退し,母親代わりとして家庭を支えたエピソードも紹介される。1990年代以降,博士はパレスチナ人として初めてイスラエルの病院で働き,イスラエル人とパレスチナ人両方の出産に携わった。分断に医療で橋を架けることを実践し,両地域の住民に慕われていた。2009年1月16日,そんな博士の住居ビルにイスラエル軍の戦車が砲弾を撃ち込み,3人の娘と姪が死亡する。僅か10mの距離からの発砲だった。
 著名人であった博士が家族を失ったことはイスラエルのTVでも報道され,国中に衝撃が走った。イスラエル軍はそれが誤りであったことを認めず,政府からの謝罪もなかった。翌日,博士はTVカメラを前に,憎しみではなく共存について語り始める。それ以降,「それでも,私は憎まない(I Shall Not Hate)」は,人々に感動を与え,世界平和を願う標語となる。
 家族の安全を考えてカナダに移住した博士は,2014年の戦争で負傷した100人ものガザの子供をカナダで治療する。その一方で,正義を求めてイスラエル政府を訴え,娘の死の責任を追求する法廷闘争を開始する。長年に渡る証言と論争の結果,イスラエル最高裁は彼の上告を棄却した。博士も,言を労して戦争犯罪を糊塗するイスラエル政府相手に勝訴できるとは思っていなかっただろう。彼の訴えが世界の関心を集めることを願っての行動だと推察する。そして,2023年10月,イスラエルのガザへの報復攻撃で,アブラエーシュ一族から新たに22人の犠牲者が出たことを報じて,映画は終了する。
 何年か前から,過去数十年に渡る中東戦争,その原因となった英米両国の責任や,世界の嫌われ者であることを厭わないイスラエルなる存在を多少なりとも学んできた。元は福祉団体であったハマスが,やがて武装組織をもち,テロ集団となったのも,そうさせたパレスチナ問題の根深さを感じる。日本に住んで平和を享受している筆者には何もできない無力感を感じつつ,せめてこの2本の映画を紹介しておこうと考えた次第である。

■『2度目のはなればなれ』(10月11日公開)
 イギリス映画で,名優マイケル・ケインの引退作である。もう1つの話題は,アカデミー賞2度受賞の男優と女優の『愛と哀しみのエリザベス』(75)以来の共演であり,女優は老妻を演じるグレンダ・ジャクソンのことである。四半世紀以上も当映画評を続けているが,そんな女優も半世紀も前の映画も知らなかった。それもそのはず,共演作は日本未公開だった。M・ケインが2回とも助演男優賞であるのに対して,G・ジャクソンはいずれも主演女優賞だが,1971年と1973年の映画である。彼女の全盛期は1960年代末から70年代であり,知らないのも無理はない。1989年を最後に映画からは一旦引退したが,32年ぶりの復帰作『帰らない日曜日』(22年5・6月号)は当欄で取り上げていた。自立心のある女性を描いた映画で,主人公の晩年の役で登場していたようだが,そんな大女優とは知らなかった。本作は実話ベースの夫婦愛の物語で,それを名優2人の最後の共演で飾ること自体が,英国では話題なのである。
 別れを感じさせるロマンチックな邦題がついているが,原題は『Great Escaper』である。スティーブ・マックイーン主演の『大脱走』(63)を思い出すが,あながち第二次世界大戦とは無縁ではなかった。本作の時代設定は2014年で,老夫婦バーニーとレネは英国ブライトンの老人ホームで暮らしている。バーニーは物忘れが多くなり,しっかり者のレネに叱られてばかりだ。夫は「Dデイ」の記念式典がフランスであることを思い出し,急に出かけてしまう。50年前のノルマンディ上陸作戦の記念日だったのである。誰にも言わずに出かけたので,捜索願を出され,大騒ぎになる。それがSNSで世界中に広まり,新聞の一面に載る。辿り着いた現地では,友人もでき,戦友の墓参等が描かれる。その間に,昔の大戦時の出来事や若き日の2人の大恋愛の回想シーンが何度も登場する。この可憐な恋人が,年月を経ると,あの憎らしい婆さんになるのかと,笑いながら見てしまった。
 数ヶ月前の『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』(24年6月号)を思い出してしまう。同じく英国映画で,老主人公の目的も目的地も違うが,目指すものがあり,マスコミの話題になるのも似ている。終盤を夫婦愛の物語で締めているのも同じだが,本作の方が感動度が高い。老妻の思いに心を打たれ,邦題の意味を噛みしめ,じんと来る。名優同士を共演させただけのことはある。戦友との交流場面は万国共通らしく,自分も戦争体験があれば,きっと同じことをするのだろうなと思う。
 監督は,俳優・舞台演出家出身のオリバー・パーカー。当欄ではスパイ・コメディ『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』(12年2月号)しか取り上げていないが,シリアスドラマとコメディの両刀使いのようだ。本作は英国では2023年10月に公開されたが,G・ジャクソンはその数ヶ月前の6月に他界し,本作が遺作となった。邦題の「2度目の…」には,その意味も込められていたのかと感じてしまった。

■『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(10月11日公開)
 ホアキン・フェニックスがアカデミー賞主演男優賞を得た『ジョーカー』(19年9・10月号)の続編である。「バットマン」シリーズの悪役で,これまで多数の俳優が演じている。とりわけ,『ダークナイト』(08年8月号)でヒース・レジャーが演じたジョーカーは絶品で,もうこれ以上のジョーカーは望めないとまで言われたが,ホアキンが演じた前作のジョーカーはその数倍凄まじかった。心優しき道化師を目指した青年アーサー・フレックが,裏切られ,夢破れて,殺人鬼となる過程の描写が見事で,観終えた瞬間にオスカー男優はこれで決まりだと確信した。紹介記事では「不愉快だが,印象に残る映画」と評したが,この続編でもそれは継続していた。
 主演だけでなく,監督のトッド・フィリップスや脚本,撮影,音楽等の主要スタッフも継続登板で,前作の2年後の設定である。殺人犯のアーサーは引き続き同じアーカム州立病院に収監されていた。上半身裸になると,彼の異様な肉体に驚く。前作でもかなり減量し,見事なまでに嫌な顔立ちだったが,それがさらに高じている。ヒューマンドラマ『カモン カモン』(22年3・4月号)では甥を可愛がるジャーナリスト役,続く『ナポレオン』(23年12月号)では威厳のある大英雄を演じて,体重も戻しているように見えた。ところが,『ボーはおそれている』(24年1月号)ではお得意の奇妙な人物を演じて,まるでジョーカーを再演するための助走か思う役作りだった。その予想通り,サイコパスの殺人鬼に相応しい醜い形相のアーサーとして再登場する。再度かなりの減量をしたそうだが,上半身はそれを強調するような身体メイクを施しているように見えた。
 陰鬱で,救いのない映画であるが,物語進行は大作の風格が感じられた。音楽とカメラワークが,ハリウッドならではの格調の高さを感じさせる。アーサーは5人を殺害した罪に問われていたが,弁護士のメリーアン(キャサリン・キーナー)は,彼は「解離性同一性障害」であるとする法廷戦術を立てる。即ち,すべての罪は「狂気状態の人格ジョーカー」が犯したとして,無罪を主張する。法廷だけでなく,映画全体で観客までが二重人格者に翻弄されているように思えた。ジョーカーを英雄視する貧民群衆の描き方がくどかった。米国社会の病根,分断社会の必然的帰結のつもりだろうが,それは前作で分かっている。何度も見せてくれなくていい。
 本作の肝は,病院内で知り合った謎の女リーがアーサーに恋をし,ジョーカーの狂気が彼女にも伝染して,新たな事件を起こしてしまうことである。副題の「フォリ・ア・ドゥ(Folie à Deux)」は,フランス語で「2人狂い」を意味している。複数人が同じ妄想を共有する「感応精神病」だそうだ。このリーを演じるのは世界的な歌姫レディー・ガガで,彼女の高い演技力は『アリー/スター誕生』(18年11・12月号)で証明済みだ。
 これ以上,この物語のことを書く気になれない。配給会社からのネタバレ禁止条項が厳し過ぎるからだ。とりわけ馬鹿げているのが,リーが誰であるかを明かすなという条項だった。ジョーカーの恋人の名前は,DCコミックファンなら誰でも知っている。同社配給のDCEUの過去作でも明らかであり,レディー・ガガがこの役を演じることも早くから報じられていたではないか。
 音楽は,分量的にはミュージカルと呼んでいいほどだった。何ヶ所かで高らかに新曲の歌唱曲を歌う形式ではなく,セリフ代わりのアカペラから入り,次第に演奏も付加して行くスタイルであった,それ自体は悪くなかったが,何度もそれが出て来ると飽きてしまう。レディー・ガガの歌唱力は言うまでもないが,ホアキン・フェニックスがヘタクソ過ぎる。レディー・ガガのエンドソングが素晴らしかったので,退屈だった映画もこれで救われたと思ったのに,それに続くホアキンの不快極まりない歌で,すべてがぶち壊しになってしまった。

■『若き見知らぬ者たち』(10月11日公開)
 題名からは,青春映画で,人生を真面目に捉える若者たちを描いた未来志向の映画に思えた。原案・脚本・監督は,内山拓也。この人物は全く知らなかったが,1992年生まれというから現在32歳だ。文化服装学院出身でスタイリスト活動を始め,映画撮影現場に触れて,映画監督を志したという。本作は日・仏・韓国・香港の合作で,これが待望の商業長編デビュー作となる。というからには,インデペンデント系では実績があるらしい。既に『佐々木,イン,マイマイン』(20)で劇場長編デビューは果たしていて,いくつかの賞を受賞している。それなら,「商業」の2文字を意識し,海外配給に値する作品であるかを見定めようではないかという気になった。
 主人公は,昼は工事現場,夜は場末のカラオケバーで働く風間彩人(磯村勇斗)で,亡き父・亮介(豊原功補)の借金の返済後も,重度の認知症を患う母・麻美(霧島れいか)の介護でやっとの生活だった。同居する弟の壮平(福山翔大)も母の介護を助けていたが,彼は総合格闘技の選手としての成功を夢見て,練習に励んでいた。そんな中,彩人には恋人・日向(岸井ゆきの)がいて,看護師の仕事の傍ら風間家を訪れ,家事や麻美の世話も引き受けていた。辛く,暗い生活を描いていたが,彼らには明るい未来が待っている人生讃歌の映画を期待した。
 ところが,親友・大和(染谷将太)の結婚パーティーの帰路,彩人は思いがけない出来事に遭遇し,日向とのささやかな幸せへの思いは無残に壊されてしまう。事件現場に立ち会った警察官・松浦(滝藤賢一)の言動は非情だった。何でこんな展開にするのだと,監督を恨みたくなった。そこから先は,ストイックに自分の道を行く弟・壮平の物語となるが,彼が報われたと言えるのか,気持ちの良いエンディングではなかった。
 監督が耳にした実話に基いていて,8年間温めていたテーマらしい。言いたいことは分からなくないが,入場料を払って映画を観る観客の不愉快さを理解していない(ただし,上記『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ほど不快ではないが)。観ていて苦痛を感じるだけで,救いがないのが残念だ。そもそも,母親とはいえ,ここまで自己犠牲を払う必要があるのか,この警官の不条理な言動を映画で描いて何になるのかと思う。
 そこそこ名のある俳優を揃え,キャスティングは悪くない。前半後半2人の入れ替わりの火葬シーンが衝撃で,カット割りや構図は見事だった。終盤の格闘技試合の描写はリアルだった。それでも全体の時間配分は,まだまだ未熟だと感じた。問題は結末だ。映画祭狙いの非営利作品ならこれでも通用するだろうが,これを「商業映画」というので,小言を発したくなった。才能ある人物と思うゆえの辛口評価である。今月の冒頭の『花嫁はどこへ?』の稿でも書いたが,プロの映画監督を続けて行くなら,観客を楽しませる映画作りであって欲しい。

■『最後の乗客』(10月11日公開)
 邦画が続く。たった55分の映画だ。制作・原作・監督・編集は堀江貴とある。ホリエモンと名前は似ているが,全くの別人である。初めて聞く名前だが,南加大・映画学科卒業で,現在はNY在住だという。ミュージックビデオで名を上げたらしいが,出身校からして正統な映画作りを学んでいるようだ。仙台市生まれで,東日本大震災を知り,「生を受けた故郷のために 何ができるか」と自問自答し,そこから生まれた作品である。クラウドファンディングで資金を得ての製作というから,もっと長く描きたかったが,1時間弱が精一杯だったのかも知れない。この長さでは公開劇場は限られ,全国順次公開だろうが,元々採算は度外視の製作だったことだろう。
 東北のある小さな町の駅のロータリーで,タクシーが客待ちしている場面から映画は始まる。タクシー運転手の竹ちゃん(谷田真吾)が同業の遠藤(冨家ノリマサ)に最近の噂話を語る。夜中に浜街道を走ると,女子大生風の女性が立っていて,浜町まで行ってくれというそうだ。そんな怪談話は一笑した遠藤が閑静な住宅街を流していると,正に若い女性(岩田華怜) が手を上げて,乗車してきた。行き先は「浜町」だと言う。しばらく走ると,小さな女の子を連れた母親が路上に飛び出して来る。こちらも浜町に行きたいと言うので同乗させて再出発すると,突然車が動かなくなってしまった。竹ちゃんに応援を求め,車を点検している内に,今度は子供がいなくなってしまう。その後も不思議な出来事が続く……。
 少しだけ,早めに判明するネタバレを許してもらおう。若い女性は東京に住む遠藤の娘の「みずき」だった。父親に強い口調で口答えばかりする娘の態度に少し苛立ったが,やがてその先の展開は読めてしまう。最後は涙すると予告されていたが,まさにその通りの映画であった。
 当然,宮城県,仙台市をはじめ,地元の様々な協力を得て出来上がった映画であるが,既に海外で10数件の映画賞を受賞している。その投稿自体もこの監督の人脈によるものだろうが,受賞に値する映画であることは間違いない。上記の『若き見知らぬ者たち』と比べると,いずれも監督が撮りたかった映画であるが,本作は誰に観て欲しいかをしっかり考えて作られた映画であり,その結果,誰もが感動して涙する映画に仕上がっている。楽しい映画ではないが,心に残る映画だ。55分は短いと思ったが,短いゆえに余韻が大きいとも思えてきた。できれば,この映画がロングランとなり,かなりの興行収入を稼いで欲しい。そうなると,この監督は本作に負けない新作を作ってくれることだろう。

(10月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)

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