O plus E VFX映画時評 2026年2月号掲載

その他の作品の論評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『パンダのすごい世界』(2月6日公開)
 今月の1本目は勿論この映画だ。2週間前に『パンダプラン』(26年1月号)を紹介した時には,上野動物園にまだ2匹いたのだが,中国に返還され,とうとう日本にジャイアントパンダがいなくなった。最後は予約制かつ抽選であったから,観覧できなかった人は,せめてこの映画であの愛らしい姿を楽しんでもらいたい。昨年紹介した韓国映画『私の親愛なるフーバオ』(25年4月号)は優れたドキュメンタリーであった。2020年生まれのフーバオの誕生から4年弱の飼育記録や中国への返還までが克明に記録されていた。返還に同行するカン飼育長の姿にもらい泣きしそうになった。至福の94分間であった。
 本作(原題『熊猫奇遇記』)はそれよりも短い84分間であるが,さすが本場中国製の最新のドキュメンタリーだけあって,中身は充実していて,堪能できる。何しろ,四川省には7つの自然保護区,9つの自然公園がある。「臥龍自然保護区」だけでも約2,000平方kmもあり,4つの基地でパンダが飼育されていて,保護研究センターもある。他の映画に比べて,姿を見せるパンダの数が桁違いに多い。名前が出て来るパンダだけでも26頭を数える。生後2日目の乳児から,32歳(人間換算で112歳)の高齢パンダまで多岐に渡る。
 まず登場するのは10歳の雌パンダのシェイシェイで,野生に戻る訓練中である。パンダが仲間と思うように,飼育員は白黒の衣服を来て近づいている。シェイシェイは初出産で双子を産んだが1頭しか育てられないので,第二子は別基地に住む6歳のルイルイに預けられた。ルイルイは自分の娘と一緒に育てている。代理母よりも,見様見真似で義姉から学んでいるのが興味深い。別の6歳のツァンツァンも双子を産んだが,母乳が足りないため,第二子は保護施設に入れ,飼育員が哺乳瓶で人工乳を授乳している。大きくなると,約1年かけて,笹や竹を食べるように訓練する。こうした訓練以外は,飼育員は極力関与せず,野生に近い自然環境で暮らすように仕向けている。その一方で,高齢で何も出来なくなったパンダには手厚い介護がなされている。後は,自分の目で確かめて頂こう。
 改めて見ても,戯れる姿が頗る愛くるしい。世界中で愛されて当然だ。800万年前から,こんな珍獣がよくぞ生き残っていたと感動する。こうした保護区の他に,北京や香港の動物園の様子も登場する。四川省成都の繁殖研究基地には,中国全土からだけでなく,台湾やアジア諸国に加えて,欧州や豪州からの見学者も訪れる。人気者のファーファーにはいつも長蛇の列ができ,朝7時から数時間も並んで,たった3分間しか観られないという。
 自然な繁殖が難しい絶滅危惧種であるので,手厚い保護と支援が必要なのは理解できる。この貴重な珍獣は平和の象徴の親善使者であるべきなのに,中国政府が政治的取引の道具にしているのが腹立たしい。貸与した国に高額を要求し,その国で生まれた個体まで返還させるのは,余りにも傲慢だ。品性が卑しい。こんなことなら,19世紀のアヘン戦争の後,英国は香港を植民化しただけでなく,パンダも多数奪い取っておき,大英帝国の植民地や同盟国に配っておいてくれれば良かったのにと思う。笹や竹の成育場所は限られるだろうが,パンダの繁殖に適した場所もかなりあるはずだ。

■『ツーリストファミリー』(2月6日公開)
 次はインド映画で,心温まる物語である。弱冠25歳のユーユーバーの新人監督アビシャン・ジーヴィントが,自ら脚本も書き,わずか7千万ルピー(約1.17億円)の低予算で撮った映画だが,その12倍以上の興行収入を得たという。お得意のバイオレンスアクション映画ではない。演じているのはインド人俳優だが,隣国スリランカからの密入国者が巻き起こす笑いと涙の物語である。
 スリランカはインドの南東のベンガル湾に浮かぶ島国で,僅か30kmのポーク海峡で隔てられているだけである。長年,英国の自治領であったが,第2次世界大戦後の1948年に独立した。筆者の小学生時代は,まだ旧国名のセイロンであった,その国名から分かるように,紅茶が名産品である。同国は26年におよぶ内戦と経済破綻により,隣国インドに多数の難民が押し寄せた。
 本作の主人公は,夫ダース(シャシクマール),妻ワサンティ(シムラン),2人の息子ニドゥ(ミドゥン・ジェイ・ジャンガル)とムッリ(カマレーシュ・ジャガン)の4人家族である。困窮に耐えかね,夜陰に紛れてインドに密入国し,妻の兄(ヨーギ・バーブ)の助けを得て,大都市チェンナイに住み着いた。多言語国のインドで,南部ではタミル語が使われている。彼らも母国でタミル語を話していたが,方言が強いため,身分がバレないように,極力周囲との接触を避けながら職探しをした。それでも人懐っこい彼らは,隣人たちとの交流を深め,次第に近所の人々の信頼感を得ていった。ところが,テロ事件への関与を疑われ,警察の捜索の手が迫る……。
 運転手として働き始めたダースと雇用主との確執,家族の未来を考えて出国を決意した父ダースと恋人と引き裂かれた長男ニドゥとの口論等々が描かれるが,それらが解決するたびに少なからず感動する。極め付きは,向かいの家の妻の急死に遭遇し,誰も葬儀への参列者がいないこと知ったダースが町内の各戸を尋ね,教会に集まることを呼びかけるシーンであった。駆け落ちで家を出た夫妻であったので,親との交流も途絶えていたが,妻の父を見つけて対面させる場面で再度涙してしまう。結末は,見事にその延長線上であり,当然予測できたが,単純ながらこの映画はそれで好いと感じた。
 絶えず明るい声の歌が流れるが,お馴染みの踊りがないのが好ましかった。ところが,遂に死者を悼むシーンで踊りも登場した。ただし,いつもの物語を中断しての荒唐無稽なダンスシーンではなく,踊りが入っても不自然なシーンではなかったので,これは許せた。脚本としては,次男ムッリを咄嗟の機転が利く,飛び切り利発な少年として描いてあり,これが笑いを誘う。インド映画の大半は上映時間が3時間超であるのが欠点だが,本作は127分であり,その点でも好感がもてた。

■『トゥギャザー』(2月6日公開)
 ほのぼの感と健全な感動の上記2本の後は,刺激的で少し嫌悪感を感じる2本である。ただし,両作とも個人の好みに依存しがちな描写だったので,この刺激を心地よく感じ,むしろ結末で安心感を得る読者もおられるかと思う。
 まず原題をカタカナにしただけの本作は内容を想像する術がなく,監督名と映画ジャンルを先に読んだ。監督・脚本は豪州出身のマイケル・シャンクスで,これが監督デビュー作である。ジャンルはボディホラーで,テーマは恋愛における「共依存」だ。ポスターには,怯えた男女が腕を交錯させ,「私 た ちはもう始まっている」と書かれていた。「共依存」なる言葉の意味は知らず,使ったことはなかった。新人監督のデビュー作なら,あっと驚く手法で恋愛劇を描いたに違いない。コピー文の文字間の空白は,かなり意図があるのだろうなと推測した。
 主人公の男女は,ミュージシャン志望のティム(デイヴ・フランコ)と小学校教師のミリー(アリソン・ブリー)である。長年共に暮したが,倦怠期に差しかかったため,心機一転,住み慣れた都会から田舎の一軒家のへの転居を決心した。新生活で2人は早速の森へのハイキングに出かけたが,道に迷って穴に落ち,地下洞窟内の廃墟で一夜を過ごした。翌朝,目が覚めると,2人の足の一部が接着剤で塗ったかのように繋がっていた。その後,ティムは夜は悪夢に悩まされ,昼間も意識が混濁し,身体が勝手に暴走してしまう。ティムの不可解な言動を理解できないミリーは新職場の同僚教師のジェイミー(デイモン・ヘリマン)に相談するが,満足の行く解決法はなかった。やがて,ミリーにも同じ症状が起き,2人は激しく互いの身体を求め合う。原因はあの洞窟での体験にあると考えたティムは,地下洞窟を再訪し,暗闇に蠢く驚くべきものを目撃してしまう……。
 未見の読者はここまでにして,以下は映画を観てからの方が好ましい。ティム役のD・フランコとミリー役のA・ブリーは実生活でも夫婦であるというのがミソで,どれだけ身体を求めあっても不自然でないし,彼らが壊れかけた愛を取り戻せるかというテーマにも説得力がある。2枚目,3枚目のポスターの画像を先に見ていれば,2人の身体接触が半端でないことが理解でき,なるほどこれが「ボディホラー」かと納得する。劇中で遭遇する過激なシーンには,「不快でグロテスク。本当に常軌を逸している」「叫んだ。笑った。ドン引き。クレージーな映画」なる文言にも,言い得て妙だと同意するはずだ。
 さらに,M・シャンクス監督はVFXアーティストの出身であると知れば,CG利用はお手ものであることも合点が行くだろう。それでも筆者が本作をメイン記事扱いしなかったのは,この利用法を好きになれなかったのと,多数の画像を掲載してしまっては,ネタバレ度が大き過ぎるからである。ラストシーンで。ミリーの両親が彼らの新居に訪ねて来た時に出迎える人物が誰かは分かるだろうか? 少し考えても分からない読者は,ネタバレ記事に頼ってもらいたい。

■『両親(ふたり)が決めたこと』(2月6日公開)
 こちらは両親が何を決めたのか気になって,少し考えてみた。主人公がアジア系の国なら,両親が結婚相手を決める風習は今もありそうだ。『きっと,それは愛じゃない』(23年12月号)では,英国在住のパキスタン人男性医師は故郷の両親が勧める相手との結婚を選ぼうとしていた。中国,インド,インドネシア等や中東のイスラム諸国もそうらしい。宗教上の理由ではなく,家族制度の文化的な慣習のようだ。親の意向に従うか,それに反発するかは十分恋愛映画の対象になる。
 ところが,本作は全くそんなテーマではなかった。そもそも両家の合意で設定した結婚なら,両親に「ふたり」の振仮名は変で,4人のはずである。となると,自分たちの親だけの決定事項であるから,彼らの離婚であるか,終活問題だと想像した。ここは後者が当たっていた。それも夫婦が穏やかで,充実した終末生活を送るという生易しい映画ではなく,2人同時に「尊厳死」を迎える「デュオ安楽死」がテーマであった。
 スペイン・バルセロナで暮らす80歳のクラウディア(アンヘラ・モリーナ)は,末期癌に侵されていて,既に脳にまで転移していた。子育てよりも舞台優先で生きてきた女優であったが,錯乱や半身麻痺が続き,自我の喪失に至って,自らの終幕に「安楽死」を選択した。お茶目な女優妻を愛し続けて来た夫フラビオ(アルフレード・カストロ)は健康だったが,妻と共に旅立つことを決心した。スペインでは単独の尊厳死は許可されていたが,2人揃っての「デュオ安楽死」「は禁止されていたため,それが可能なスイスに向かうことにした。
 3人兄妹の末娘ヴィオレッタ(モニカ・アルミラル・バテット)は,母の病を知って同居を始めていたが,実家に寄りつかない兄姉を母に会わせるため,両親の結婚記念パーティを企画する。ところが,その前夜に両親の計画を知ったため,パーティ席上でそれを漏らしてしまい,家族再会は修羅場と化した。父フラビオの決心は固く,子供たちの反対は聞き入れずに,スイス行きの手続きを進め,いよいよ最後の旅の日が近づいた……。
 監督・脚本は,バルセロナ生まれのカルロス・マルセット。米国留学してUCLAで映画学の修士課程を終え,母国に戻ってからはゴヤ賞新人賞を受賞した監督だが,当欄で紹介するのは初めてだ。主演のA・モリーナは,出演作90本以上を数える国民的女優で,主演ではないアが当欄で取り上げた『シチリア! シチリア!』(11年1月号)『星の旅人たち』(12年6月号)に出演していたようだ。現在の実年齢は夫役のA・カストロと同じ70歳だが,かなり老けていて,役通りの80歳に見える。末期癌患者らしい風貌とも言える。
 監督はこの主演女優の経歴に敬意を表したのか,映画をミュージカル仕立てにし,過激な曲に合わせた前衛風ダンスのシーンが何度も登場する。錯乱状態を暗示したのかも知れないが,この歌とダンスが気味悪く,好きになれなかった。終活映画に相応しいとは思えない。物語の流れも退屈で,まさに終幕状態であるのに,クラウディアの奇妙な行動も理解に苦しむ。Totten TomatoesのTomatometer 100%という評価には同意できない。
 余談だが,原題の『Polvo serán』は全く邦題と違っていて,英題の『They Will Be Dust』はほぼ直訳らしい。少し調べてみたら,単に「火葬に伏された誰もが灰になる」という以上の意味を持たせているようだ。17世紀の詩人ケベードの詩に登場する一節であり,「愛」や「尊厳」をもって「死を受け容れる」ことを意味しているそうだ。焼いた結果の「灰(ceniza)」ではなく,風に委ねられる「塵(polvo)」なのである。
 スイスは外国人に対する「自殺幇助」も認めているが,フランス,スペイン,オーストリア等は居住者向けの医療体系の中での「安楽死」に限られている。オランダ,ベルギー,カナダに至っては,費用は公的保険でカバーできるという。正に「死の迎え方」に対する考え方の違いである。本作はそうした社会制度としての終活を真剣に考えるのは適した好事例であると思うが,それでもこの映画の描き方は好きになれなかった。

■『射鵰英雄伝』(2月6日公開)
 上記2作は辛口評をしたので,同日公開の5本目は爽快な気分で楽しめる中国製のスペクタクル史劇で締め括ろう。日本国内では地味な宣伝のため周知度が低いが,昨年の春節休暇に公開された大ヒット作である。「鵰」は「ちょう」と読み,ワシ科の鳥のことである。原作は武侠小説の大家・金庸の書いた同名の長編小説で,中華圏では既に何度も映像化されているそうだ。本作は香港映画界のレジェンドのツイ・ハーク(徐克)が監督・脚本を担当し,大河小説の後半のエッセンスを147分に纏めた力作である。
 前作『1950 鋼の第7中隊』(22年9・10月号)は超大作で,3大監督の共作であったが,その中で彼はVFXパートを担当していた。単独監督作となった本作はさらに大量のCG/VFXを駆使した一大スペクタクルの娯楽大作であることを期待した,そして,正にその通りの出来映えであった。しかも,その中に武侠アクションや恋愛劇も盛り込んでいる。そう聞いただけで食指が動いた読者には,本作の効率の良い観賞法を伝授しておく。
 予告編は観ても良いが,公式サイトや他の映画評での「あらすじ」は読む必要はない。ましてや,プレス資料や有料パンフレットを入手して,予習することは避けた方が良い。人名/地名,秘法/武技名は,複雑な漢字文字列のオンパレードで頭が混乱し,覚え切れない。映画の冒頭約30分も同じである。「江南七怪」「中原五絶」「九陰真経」「降龍十八掌」「震驚百里」等々の漢語が登場するが,その場で記憶しようせず,そのまま映像を観ていれば十分だ。主要登場人物は名前をお互いに呼び合い,秘伝名も何度も登場するので,自然に覚えてしまう。何よりも,善悪の区別がつきやすい。主人公の男女は見るからに美男美女で,敵役は典型的な悪人面で登場するので,小中学生でも理解できる内容である。
 武侠映画に不慣れな読者が予め覚えておいた方が良いのは,「草原」「中原」「江湖」の意味である。「草原」は蒙古(モンゴル)の代名詞であり,対する「中原」は黄河流域を中心とした華北平原で,蒙古とは国境を隔てた「中国」である。「江湖」は武侠小説に登場する武術者たちが構成する特殊社会の別称と考えれば良い。以下は,映画を観終わった人のための整理情報である。
 時代は12世紀の半ば。満民族国家の「金」が漢民族の「宋」を征服し,追放された漢民族は南下して「南宋」を建国した。蒙古軍を率いるチンギス・ハーン(バヤルトゥ)は金の覇権に屈せず,両国の全面戦争が近づいていた。主人公の郭靖(シャオ・ジャン)は,蒙古で生まれの宋人だったが,ハーンの息子達と共に育ち,義父ハーンを深く尊敬していた。江南七怪の下で修業を積んで武術の腕を上げた郭靖は,ある日,黃蓉(ジュアン・ダーフェイ)と出逢い,2人はたちまち恋に落ちる。ところが,江南七怪の内の6人が殺害されたのは黃蓉の父のせいだと誤解し,郭靖は黃蓉を遠ざけてしまった。
 その後,それが誤解だと知った郭靖は黃蓉を探す旅に出る。一方の黃蓉も郭靖を探し続けていたが,悪人・西毒に捕えられた。ようやく脱出に成功したものの,深い傷を負い,ハーンの娘コジン(チャン・ウェンシン)に助けられる。2人は姉妹のように暮したが,コジンが郭靖の許嫁であることを知った黃蓉は身を引こうとする。その間に,ハーン将軍率いる蒙古軍は南宋の領内経由で金に侵攻しようとしていた。南宋がそれを拒んだため,宋人の郭靖は板挟みとなる……。
 予告編からVFXとワイヤーアクション満載を予感したが,予想の何倍もの分量であった。ただし,『ロード・オブ・リング』3部作のような風格や『アバター』シリーズのような斬新さは全くない。技術的には約10年前のレベルをふんだんに駆使しているだけである。演出は香港製アクション映画を思い切り巨大化しているので,このビジュアルは「漫画的」だとも言える。
 それを欠点と感じさせずに見せるのは,さすがツイ・ハーク監督の力量である。少なくとも,大味な大作しか作れないチェン・カイコーよりは娯楽大作には向いている。筆者が本作をメイン記事にしなかったのは,試写を観たのが公開日の数日前であり,余りにVFX量が膨大過ぎて,しかるべき画像を入手する目処が立たなかったからだ。『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』(25年12月号)は1ヶ月以上かけても克明に語るべき作品であったが,本作の場合は,一早くこの物量作戦のVFX映画の存在を知らせたかったのである。

■『私のすべて』(2月13日公開)
 一転してフランス映画のヒューマンドラマである。ハリウッド製アクション映画は多数あるので,若い頃に多数観たフランス映画,イタリア映画の試写案内が来ると喜んで観る。英題は『My Everything』であり,邦題はほぼ直訳だったので,それ以上は深く考えなかった。「横浜フランス映画祭2025」で好評を得た作品だというので,まず外れはないと思ったからだ。外れではなかったが,大きな勘違いをしたまま観ていたことに終盤まで気付かなかった。映画館で入場料を払う観客はもっと慎重に選ぶだろうが,しっかり「あらすじ」を読んでから出かけることをお勧めする。以下は,筆者の大失敗談として述べる。
 眺めた予告映像は「監督コメント」だった。美しいフランス語で「愛と自由と,小さな家族の母と息子の話」だと言う。この監督(アンヌ=ソフィー・バイイ)の長編デビュー作のようだ。パリ郊外の小さなアパートに住む30歳過ぎのシングルマザーが主人公で,独りで息子を育ててきたという情報だけで試写を観始めた。この時点では,まだ小さい子供の養育記だと思っていた。シングルマザー設定は数多く,欧米人は安易に結婚し,すぐ離婚するのは社会的価値観が歪んでいる証拠で,そのツケが子供に来るべきではないと悲憤慷慨していた。
 映画の冒頭は,プールの中で主人公モナ(ロール・カラミー)が泳ぐシーンが延々と続く。水面上に顔を出し,口髭の男性(シャルル・ペッシア・ガレット)と戯れる。愛人なのかと思ったが,これが息子ジョエルらしい。モナは美人だが,よく見るとアラフィフである。30歳は息子の年齢だったのかと気付いた。その後もじゃれ合い,再三口論する関係から,かなりのマザコン息子に思えた。
 エステで働くモナは,母親が倒れたと聞き,すぐに駆けつける。昔,母親の世話になったことを思い出し,関係逆転は時代に流れだと感じる。次にジョエルの勤務先から電話が入り,同じ職場の女性オセアン(ジュリー・フロジェ)を妊娠させたという。両親は激怒し,ジョアンが無理に妊娠させたと決めつける。後日,両家族は産婦人科医師と面談したが,2人は出産を希望し,自らの権利と責任で子育てすることを宣言する。気晴らしにバーに出かけたモナは,ベルギー人の男性フランク(ヘールト・ヴァン・ランペルベルフ)と意気投合して自宅に誘い,身体を重ね合うが,そこにジョエルが現われてパニックを起こす。即ち,母親の介護,自らの自由恋愛,オセアンの出産問題が同時進行する物語であった。
 ジョエルとの関係修復にベルギー旅行に出かけが,昼食時に口論になり,ジョエルは席を立ってしまい,戻って来なかった。モナは警察に行方不明届けを出したが,挙動不審で見つかったジョエルは離婚した父親の家に届けられていた。新しい妻と腹違いの妹が住む家庭では迷惑がられて,2人は別々にフランスに戻る。やがて,母親の死とオセアンの出産が間近に迫り,モナは……。
 最大のミスは,「発達障害がある30歳過ぎの息子」という一文を見逃していたことだった。案内チラシはなく,映画中では「障害者」という言葉は最後まで登場しなかった。LGBTQ映画でなかったことに安心して,普通の母子の物語だと思い込んでいた。モナはしばしば感情を爆発させるので,題名の「私のすべて」は自分の全部をさらけ出す女性映画かと思った。原題は仏語で『Mon inséparable』,英語なら「My Inseparable」で,「離れられない関係」であり,「かけがえのない大切な息子」の意味であった。さすがに,「行方不明届」を出したことで不思議に思い始めたが,障害のあることの暗示は,終盤にモアが「1歳過ぎまでジョエルの首が座らなかった」と語ることだけであった。オセアンもまた同様な障害者であり,それなら彼女の両親の大反対も納得ができた。
 この前提さえ最初から分かっていれば,丁寧に作られた映画だと理解できる。ジョアンとオセアンには,実際に知的障害のある人物が起用されていた。筆者は親族に「知的発達障害者」「不治難病の身体障害者」いたので,その母親の苦労は目の当たりにしていた。それなのに,本作の大前提に気付かなかったのは,監督が「障害者への偏見や差別問題」は避け,「親が子供の障害をどう受け容れ,どのように手放すのか」のみを描こうとしたからだろう。改めてこの映画を最初から見直し,自分の子供であるジョエルを見捨てて離婚した父親の態度に憤りを覚えた。日本人でも,こういうケースは多いのだろうか?

■『ブゴニア』(2月13日公開)
 題名は全く気味不明だったが,それは気にせず,絶対に観るべき映画だと決めていた。本作の存在を知ったのは,GG賞ノミネート作発表時だった。3部門(作品賞,主演男優賞,主演女優賞)に名前があり,主演が筆者のお気に入りのエマ・ストーンであった。しかも監督が鬼才ヨルゴス・ランティモスとなると,これは外せない。
 E・ストーンに注目したのは,『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』(12年4月号)の若いライター役だった。助演の黒人女優ばかりが注目されていたのに憤りを感じた。その後,『アメイジング・スパイダーマン』シリーズのヒロインに抜擢され,オスカー受賞作の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(15年4月号)の主人公の娘役での演技で賞賛を浴びた。『ラ・ラ・ランド』(17年3月号)は正に彼女のために作られたような映画で,同作で名実ともにオスカー女優となった。筆者の目に狂いはなかったと,ひたすら悦に入っていた。
 筆者と同等か,それ以上に彼女に惚れ込んだのが,Y・ランティモス監督で,『女王陛下のお気に入り』(19年1・2月号)『哀れなるものたち』(24年1月号)『憐れみの3章』(同9月号)の3作で,格別に個性的で,存在感のある役で起用している。とりわけ,『哀れなる…』の売春婦役は強烈で,2度目のオスカー女優の座は最初から確実と思わせた。本作はランティモス監督とは長編で4度目,短編も入れると5度目のタッグであるから,今回はどんな役で登場するのか自体が興味の的であった。GG賞は惜しくも逃したが,予告編を観ると颯爽としたダークスーツ姿の彼女が,なぜか坊主頭になっている。マスコミ試写を観たのは,ようやく1月の中旬であった。
 映画の冒頭では,郊外の敷地内で養蜂業を営んでいる場面から始まる。もうこのシーンだけで,終盤にこの蜂が大きな役割を果たすのだなと想像できる。主演のE・ストーンが演じるのは,大手製薬会社の女性CEOのミシェル・フラーで,一流経済誌の表紙をかざるカリスマ経営者である。仕事を終え,愛車のベンツを自ら運転して豪邸に戻ったところを2人組の覆面男に襲われ,誘拐される。1人はミシェルの会社の末端従業員のテディ(ジェシー・プレモンス)と自閉症の従弟ドン(エイダン・デルビス)であった。彼らは自宅の地下室にミシェルを監禁し,長い髪の彼女を丸刈りにした。テディは,ミシェルをアンドロメダ星人と決めつけ,蜜蜂の絶滅の危機,彼らの家族や知人の不幸は,地球人類を滅亡させようとする宇宙人の陰謀だと決めつけていた。
 自分は宇宙人とは無縁だと弁明するミシェルと陰謀論者のテディの会話は全く噛み合わず,それだけで楽しかった。作戦を変更して,テディの関心を引くミシェルはさすが頭脳明晰で,カリスマCEOである。敢えて「自分は宇宙人」だと認めると,テディは4日後の月食の夜に,母船まで連れて行き,皇帝に合わせて地球から撤退を交渉させろと要求した。途中で,地元警察の群保安官ケイシーが登場して一悶着があるが,基本的にはテディとドンの2人組をいかに宥めたり,脅したりしながら,ミシェルが脱出できるかのサバイバルゲームである。
 同じく「サバイバルコメディ」だった『HELP/復讐島』(26年1月号)は結末は予測不能だったが,本作は起承転結がはっきりしてそうだったので,ほぼ中間時点で脱出方法を3種類予想してみた,①知恵遅れのドンの同情を引き,テディの留守に彼の手を借りて脱出する,②(ここでは書かない),③ある出来事で,蜜蜂の大群が襲来し,テディら2人が意識不明になるか死亡した隙に脱出する,の3パターンであった。
 ①は誰もが思いつくが,この監督がそんな陳腐なオチにする訳がないと考えた。結果は②であり,それを予測できていい気分だった。ミステリーやSFの手口は熟知しているので,これくらいは朝飯前と満足感に浸っていた。ところが,別の観客らが声高に「この結末は大抵は読めるよな」「素直な脚本の映画なら,こうなるでしょ」と話しているのに驚いた。少しガックリきた。
 本作を観た後で,韓国映画『地球を守れ!』(03)のリメイク作であることを知った。そのせいなのか,ランティモス監督独自の異色作品ではなく,比較的素直なサバイバルサスペンス映画であった。少し調べると,題名の「ブゴニア(Bugonia)」は古代ギリシャ語の「bous(牛)」と「gonē(発生・出産)」の合成語で,「牛の屍体から蜂が自然発生する」ことを意味していることが判明した。また「蜂の発生が世界をリセットして,再生させる」という言い伝えがあるそうだ。こうした神話風の味付けはこのリメイク作のこじつけに思えるが,韓国映画でも「養蜂」の場面は登場していたそうである。
 その後発表されたアカデミー賞ノミネートでは,本作は「主演男優賞」からは外れたが,新たに「脚色賞」「作曲賞」にノミネートされている。主演女優賞候補として,E・ストーンはまだ生き残っているが,さすがに3度目の主演女優賞受賞はないと思う。本稿では,②の中身は書かなかったが,①③でないことは述べたので,ヒントを与えたことになる。読者諸兄が自ら結末を予想される余地は残しておいた。
[付記]書き忘れていたので,追記しておこう。エンドロールで延々と流れる曲“花はどこへ行った (Where Have All The Flowers Gone?”がとても印象的だった。歌詞の最後の「When will they ever learn?」(いつになったら人は学ぶのか)は,人間の懲りない愚かな行為を非難している。正にこの映画のテーマそのものだ。読者が結末を予想される手掛かりにもなるかと思う。
 半世紀前から歌われているフォークソングの定番曲で,当時は反戦歌扱いされていた。『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN 』(25年2月号)でエドワード・ノートンが演じたフォーク界の大御所Pete Seegerが作詞・作曲した曲である。彼の淡々とした歌唱よりも,反戦歌としてはJoan Baezの透明な声の方が訴える力が強かった。この映画で使われていたのは,Baez版でなく,ドイツ出身のMarlene Dietrichの英語での歌唱で,やや落ち着いた低い声であった。ギリシャ出身の監督ゆえに,ナチス・ドイツからの亡命者のDietrichを選んだのかまでは不明だが,アメリカ映画に外部の記憶を持ち込んだという気もする。宇宙人の視点かも知れない。そう考えて,この映画を見直すのも一興かと思う。

■『スペルマゲドン 精なる大冒険』(2月13日公開)
 先月号の『アグリーシスター 可愛いあの娘は醜いわたし』で,かつてノルウェー映画は珍しかったが,最近は毎年のように取り上げていることを書いたばかりだ。ところが,同作に続いてアカデミー賞有力候補の『センチメンタル・バリュー』(26年1月号)もアニメ映画の本作もノルウェー映画である。今年になって3本というラッシュぶりは,ノルウェー映画界に活気があり,映画輸出に力を入れ出したからか,国内配給会社がノルウェーに注目し始めたからか,おそらくその両方の相乗効果だろう。
 この映画も極めてユニークな意欲作であった。副題は「聖なる…」の誤記ではなく,男性の体内で作られる精液(sperma)を意味していて,原題『Spermageddon』は多数の精子たちにとっての「アルマゲドン」(最後の戦いの場所)を指しているようだ。「生命の始まり」を描いた物語というのは,少し大仰にも聞こえるが,10億もの精子たちが,たった1つの卵子を受精させる命懸けで挑む大冒険と聞くと納得する。コメディタッチのミュージカル映画であり,かつロードムービーでもある。結論を先に言えば,決して下品なおふざけ映画ではなく,青少年にとっての真面目な性教育映画になっていた。
 映画は,まずクラシックな2Dアニメで受胎の仕組み,精子と卵子の役割を描いた上で,CGで多数の精子の学生達が,精子大学で授業を受けているシーンから始まる。並行して人間の少年少女の性体験を描いた物語が進行するというので,これは『はたらく細胞』(24年12月号)と同趣旨で,対象を限定した物語だと理解した。その解釈で間違っていなかったが,最も大きな違いは,映像の描き方である。『はたらく…』はCGも登場したが,様々な細胞も人間の親子も俳優(しかも人気俳優)が演じていた。例えば,白血球(佐藤健),赤血球(永野芽郁),「ヘルパーT細胞」(染谷将太),「肝細胞」(深田恭子)で,人間は不摂生な父(阿部サダヲ)と素直な娘(芦田愛菜)といった配役であった。一方,本作は精子や卵子だけでなく,人間の少年少女もCGで描くというフルCGアニメであった。ノルウェーがそうしてアニメを製作するというのも新鮮であった。
 監督は『バイオレント・ナイト』(23年2月号)トミー・ウィルコラで,ベテラン・アニメ監督のラスムス・A・シーヴァートセンが共同監督として参加している。主人公は10代の少年イェンスで,友人たちと夏休み恒例の週末キャンプに出かける。そこにやって来た少女たちの中に前年からお気に入りの少女リサがいた。夜になると,たちまち2人は好い関係になり,リサからキスされたイェンスの体内の「精子たちの王国」では,「スペルマゲドン警報」が発令された。
 王国側の主人公は頼りない精子・シメンと勝ち気でしっかり者のカミラだった。どう見てもカミラは,髪形もルックスも女性であり,それが精子というのは不思議だったが,これも演出上の都合と割り切って,そのまま見続けた(最後に実は卵子だったというサプライズはない)。他には,不正行為を使ってでも「栄光のゴール」を独り占めしたい悪役精子のジズモも用意されていた。そして,いよいよイェンスとリサの「初体験」が始まる……。
 北欧映画であるが,性風俗が乱れていることはなく,イェンスは健全な両親に育てられた少年として描かれていた。悪役ジズモがコンドームに穴を開けたので,リサは妊娠してしまうのではないかと恐れたが,驚くべき方法でそれは回避され,笑ってしまう。これは観てのお愉しみとしておこう。その他,殺精子クリーム,中絶薬等の避妊方法もしっかり描かれていた。何よりも驚いたのは,2人が訪れる産婦人科の女性医師が「何でも話に来て」と多人数のコーラスで声高に歌うシーンであった。あまりに健全な性教育映画であったことに感心した。  映像的には,ごく標準的なフルCGアニメである。キャラクターは可愛く描いているし,構図も動きも陰影の付け方も悪くない。ツールが進歩したので,しかるべき数のCGアーティストを育てれば,どの国でも作れるとは思っていたが,ノルウェーでもここまでCGをマスターしていることに感慨を覚えた。
[付記]公式サイトやプレス資料では,「初めてのチョメチョメ♡」という言葉が使われていた。日本語字幕にはなかった。年配の宣伝担当者が悪ノリしたのだろうが,そもそも最近の若者にこんな言葉は通じるのだろうか? 1980年代のバラエティ番組で山城新伍が使った言葉である。ここまで書いて検索したところ,昨年ホリエモンがこの題名の歌で歌手デビューしていたのに驚いた。歌はお世辞にも上手いと言えるレベルではなかった。

■『ロッコク・キッチン』(2月14日公開))
 この映画に興味をもったのは,ずばり題名からだ。料理に関係ある映画であることは間違いない。「ロッコク」という聞き慣れない言葉で,一体どこの国のどんなキッチンなのだろうと思ったのである。実際は邦画のドキュメンタリーであり,「ロッコク」とは「国道6号線」を指していた。筆者は,1970年代末からの6年半,この国道近くに住んでいたので,格別に親しみを感じた。
 2011年3月の東日本大震災で福島第一原発がメルトダウンし,10市町村の人々が自宅を離れ,避難生活することを強いられた。なるほど,江戸時代から由緒ある「陸前浜街道」はこの地区を通っている。それから13年経った2024年でも,元の自宅に帰還したり,移住して来た家庭は僅かであった。この映画は彼らの日常や未来への希望を描いている。それだけなら,毎年3月11日に放映されるTV特番でも触れることができる。本作は,「みんな,なに食べて,どう生きてるんだろ?」というユニークで素朴な視点から,人々がキッチンに立ち,料理を作る姿,食卓で交わす言葉を「生活の色」として捉えている。前半の明るい爽やかな映像は,暗くなりがちな大震災の記録映像とは一線を画していた。
 ノンフィクション作家の川内有緒と映画監督の三好大輔の共同監督作品である。主に大熊町,双葉町,浪江町,南相馬市小高区を中心に撮影&取材し,20数名の人物が登場する。それぞれの料理も人物も個性的だ。この映画は,観る人がそれぞれの好みの部分を切り出し,何かを感じ取れば好いのだと思う。筆者の好みは,観光関連会社に勤務するインド人女性で,彼女の明るさとこの地域を愛する心が嬉しかった。ファーストフード店「ペンギン」の特大ハンバーガーやソフトクリームには挑戦したくなる。写真家で「俺たちの伝承館」を営む人物の生き方には拍手を送りたくなった。その一方で,後半に延々と登場する夜の本屋「読書屋 息つぎ」の店長の暗さと朗読には全く共感できず,映像を早送りしてしまった。
 以下は,筆者個人の「ロッコク」への感想を述べる。筆者が住んでいたのは6号線の東京寄りの水戸街道の部分で,この国道を横断してJR荒川沖駅や土浦駅に出ていた。まだ常磐自動車道が開通していない頃,この一般国道だけで福島県まで走行したことはある。水戸を過ぎるとさして見どころもなく,魅力ある店もなかった。
 印象としては,淋しく活気のない全くの「裏街道」である。江戸時代から「水戸街道」や「陸前浜街道」は,「五街道」には含まれず,明治時代以降も「奥州街道」を避けたい旅人の経路であった。現在でも,東京から見れば,ほぼ並行して走るJR常磐線や常磐自動車道も,東北新幹線/東北本線,東北自動車道の緊急時のバイパスに過ぎない。それでも,地元民には重要な幹線道路であり,愛する故郷であったに違いない。その地が放射能汚染され,立ち入りすら許されなかったことに対する思いは,察するに余りある。
 この映画のプレスシートには,「ロッコク」は「東京・日本橋を起点とし,福島を経て,仙台市に到る国道6号線の総称」と書かれている。途中の取手,水戸,高萩への言及はない。監督たちは「ロッコク」を車で旅して,そこに暮す人々を訪ね歩いたというが,東京から福島県に入るまでは東北自動車道(せいぜい常磐自動車道)を走行し,6号線は被災地部分しか走っていないのではないか。もしそうなら,裏街道の6号線沿いの住民の「暮らしの記憶」を適確に描いたのか疑わしく感じた。
[付記]筆者が住んでいた6年半には,地元民から「ロッコク」なる言葉は聴いたことはなく,せいぜい「6号線」か「水戸街道」であった。ただし,福島県の「浜通り」界隈では「ロッコク」が日常名なのかも知れない。この種の略し方は一般的なのだろうか? 兵庫県以西は知らないが,首都圏で「ニコク」と言えば,国道2号線ではなく,東京・五反田から多摩川大橋を渡って横浜に到る国道1号線の「第二京浜」のことである。「第一京浜」は六郷橋を渡る国道15号線であり,箱根駅伝のコースでもある。「第三京浜」は東京・世田谷区野毛から横浜市三ツ沢に到る有料道路だ。「第二京浜」は「第二国道」とも呼ばれ,略して「ニコク」となったのだろう。昭和30年代にヒットしたフランク永井の「夜霧の第二国道」はこの「ニコク」のことを歌っていた。

(2月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)

()


Page Top