O plus E VFX映画時評 2026年1月号掲載

その他の作品の論評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『ぼくの名前はラワン』(1月9日公開)
 今年の当欄の最初の映画は何にしようかと迷った。同日公開の候補作が多数あったからである。年末の最後は,フランス映画のコメディで,知的障害者を描きながら,楽しく心温まるヒューマンドラマであった。視点は少し異なるが,別の身体的障害をもつ少年の成長物語で,彼を見守る人々の支援を描いた感動作を取り上げることにした。ただし,本作はドラマ仕立てではなく,英国を舞台にしたドキュメンタリー映画である。
 被写体となる主人公の少年ラワンは,イラク在住のクルド人で,生まれつき耳が聴こえない聾者であった。日本ではあまりクルド人の境遇が知られていないが,中東の山岳地帯に住むイラン系の民族で,クルド語を話し,独自の文化をもっている。トルコ,イラク,イラン,シリア等に住む民族で,人口は3,000~4,800万人とされている。イラクでは,サダム・フセイン政権時代に少数民族として大きな迫害を受けたことが話題となっていた。
 今なお同国では社会的地位が低い上に,耳が聴こえないラワンは,仲間はずれでいじめを受けた。彼の将来を懸念した両親は,5歳の時,彼に適した環境を求めて家族ぐるみでの海外移住を決意する。危険な国外脱出,過酷な難民キャンプでの数ヶ月の生活を経て,彼らが辿りついたのは英国のダービー市であった。競馬のダービー競争とは関係がなく,英国中部のダービーシャーの中心である工業都市である。この町で,ラワン少年はダービー王立聾学校の生徒となることができた。
 英国での生活が安定したラワンは,口話とイギリス手話(BSL)を学び始めたが,その両方で瞬く間に上達した。両親は手話を覚えようとせず,口語で語りかけることを望んだが,ラワンは皆と同じ手話だけで意思伝達する道を選んだ。兄のラワだけはいつもラワンの味方で,手話も覚えてくれた。そんな中,難民申請していた家族の内務省審査が始まった。
 聾学校での友人もできたが,ラワンにとっての楽しみは聾者で音楽を愛するソフィー先生から手話とドラムを教えられ,心を通わせることであった。一方,内務省の審査はラワンの手話習熟度が査定され,学芸会もその対象であった。ラワンは練習を重ね,手話での演劇を大勢の前で披露する。すべては好い方向に向くと思われたが,ある日,内務省から国外退去の通知が届く……。
 本作の監督は,英国人でドキュメンタリー映画監督のエドワード・ラブレースである。あるきっかけからラワ&ラワン兄弟の身の上を知り,2019年からラワンの成長物語を描くことを決意してチームを組んだという。本作は,4年以上に渡り,学校と一体となった支援と信頼関係の確立による成果物である。劇映画でなく,実話であるから,結末を暗示してもネタバレにはならないだろう。それでも,具体的な記述は避け,ラワン少年が自ら選んだ言語を通して自己表現の自由を得て,家族も素晴らしい感動の結果を得たとだけ記しておこう。
 ドキュメンタリーであるが,まるでヒューマンドラマのような展開と結末であった。国外退去の通知に対して,一貫して聾学校はラワンを守る姿勢を崩さず,地域住⺠による嘆願書や行政への抗議も行われ,さらにはラワン自身が法廷で自己主張する場面も登場する。そして遂に英国では2022年10月に手話BSLが公用語として認定された。日本にも国公立・私立合わせて100以上の聾学校があるが,まだ手話を公用語にするという動きは聞いていない。英国以外では,ニュージーランド,パプアニューギア,韓国等も手話を公用語認定している。文化度では,こうした国々とはまだかなりの差がある。

■『愛がきこえる』(1月9日公開)
 そろそろアカデミー賞のシーズンだ。聾者の少年を家族が労る上記の感動作を観て,4年前のオスカー受賞作『コーダ あいのうた』(22年1・2月号)』を思い出していた。ただし,同作は聾者の家族のために,聴者の娘が手話通訳をする物語で,聾者と聴者の関係が全くの裏返しであった。コーダとは,「CODA: Child of Deaf Adults」のことである。そう言えば,邦画の『ぼくが生きてる,ふたつの世界』(24年9月号)も聾者の両親を手話で支えるコーダの息子が主人公で,青年期以降は吉沢亮が演じていた。
 そんな時,上記を書き終えてから,同日公開で,聾者の父と暮らすコーダの娘の映画があると知った。これは比べて論じない手はない。試写案内はなかったが,偶然,公開日に上映館の近くを通りかかったので,そのシネコンに飛び込んだ。中国映画のヒット作であるとの情報しか得ていなかった。本編上映前の予告編は同系統の作品が並ぶものだが,本作の場合は,見事に暗い映画か終活映画ばかりで,それも題名すら聞いたことのないマイナー作品だった。それだけで暗澹たる気持ちになった。
 映画が始まった。聾者の女性が勤務先の商品を盗んだとの疑いで警察の訊問を受けている。余りに厳しい追求の中,これが続くなら,いっそ身に覚えのない罪を被ってしまおうとするのを,手話通訳の女性が彼女を庇う。あれっ!? 話が違う。聾者は父親ではなかったのかと思った瞬間,物語は手話通訳の女性の子供時代に移った。
 主人公のショウマ[小馬]はバツイチのシングルファーザーで,7歳の娘ムームー[木木]と暮らしていた。聾者仲間が集まる麻雀荘に寝泊まりし,生活は貧しかったので,木木は学校に通わず,コーダとして父を手話通訳で支えていた。5年前に離婚した母親は再婚し,既にその家庭で子供を設けていた。その母シャオジンが「林林に普通の生活をさせたい」と引き取りに来た。親権は裁判で争うことになったが,8歳未満の子供の意志は考慮されない。生活基盤が安定していることを証明するため,小馬はホテル従業員となり,父娘はその倉庫に住み,木木も小学校に通うようになる。ところが,高額の弁護士費用を調達する必要が生じ,友人に誘われ,小馬は危険な違法行為に手を染める。高級車で意図的に事故を起こし,自動車保険金を中間搾取するという闇ビジネスであった。疑念を抱いた木木が車の後部座席に忍び込んだところ,大事故で林林は病院に運び込まれる……。
 結末は父娘の絆が維持されると信じつつも,エスカレートする闇ビジネスのシーンは観ているのが辛かった。これがオンライン試写であれば途中はスキップしてしまうところだ。監督は,恋愛映画『あなたがここにいてほしい』(21)のシャー・モーだというが,同作は未見なので,当欄では初めてだ。劇映画慣れしているだけあって,見せ場の演出は見事だった。少なくとも3回は泣ける。父娘での笛の合奏,空港での再会,そしてクライマックスの法廷での証言のシーンである。エンディングでは,小馬と木木のその後が文字で書かれていたので,これは実話であったのかと推察できた。
 小馬を演じるチャン・イーシンは,人気アイドルグループ「EXO」のメンバーとのことだ。彼だけは聴者だが,他の20数人の仲間はすべて本物の聾者が出演している。エンドロールに登場する彼ら一人一人のメッセージに心を打たれた。一方,木木役のリー・ルオアンには全く情報がないが,驚くほど可愛い少女だった。誰もが彼女を守りたくなる。その演技力にも,7歳の少女がここまで手話をマスターしていることも驚嘆する。10数億も人口があれば,こうした少女がいても不思議はないが…。
 最近の中国政府の覇権主義,政治的姿勢には呆れる。全く嫌な国だ。映画では,大作は大味だが,こうした小作品にはしばしば秀作が登場する。それは褒めたい。政治と芸術・文化は別物だという典型例である。

■『YADANG/ヤダン』(1月9日公開)
 韓国映画のノワールもの,クライムアクションである。刑事ものと言いたいところだが,少し違う。麻薬摘発事件をめぐって,野心に満ちた検事と正義を見失った刑事が対立し,そこに表題の「ヤダン」が絡む映画である。登場人物の名前ではなく,聞き慣れない言葉だが,頭脳と情報を武器に国家を裏で操る「闇の存在」を意味する韓国語のようだ。本作の主演級俳優は,カン・ハヌル,ユ・ヘジン,パク・ヘジュンの3人で,その中のカン・ハヌルがヤダン役を演じ,他の2人が検事と刑事である。
 毎度の愚痴であるが,韓国人俳優は名前が覚えにくい。それでも,当欄の読者なら,図抜けた個性派のマ・ドンゾクとユ・ヘジンは覚えておられるだろう。前者は,全くの悪人面であり,それを活かした『悪人伝』(20年7・8月号)はハマり役であった。逆に,ワンパンチで悪人たちを倒す『犯罪都市』シリーズでは正義感のある刑事で,ワンパンチで悪人たちを倒すのが痛快無比で,毎度続編が待ち遠しい。
 一方,後者のユ・ヘジンは,『コンフィデンシャル/共助』シリーズの醜男刑事と言えば,すぐ顔が思い浮かぶだろう。その彼が美女に恋をする『マイ・スイート・ハニー』(24年5月号)『DOG DAYS 君といつまでも』(同11月号)の2本は,意外性で人気を博した。さすがにそれは続かず,ホラーの『破墓/パミョ』(同10月号)では葬儀屋を演じていた。本作は悪人の検事役というので,彼の名前だけでこの映画を観ることにした。
 主演のカン・ハヌルは,既に20本以上の出演作がある人気イケメン男優のようだが,当欄とは縁が薄かった。唯一紹介した 『ハッピーニューイヤー』(22年11・12月号)は男女計14人が織りなす恋愛群像劇であったので,全く記憶にない。3人目のパク・ヘジュンも,そこそこイケメンの中堅男優で,大作『ソウルの春』(24年8月号)に出演していたようだが,こちらも記憶にない。全斗煥をモデルにした反乱軍の保安指令官に従うNo.2であったため印象が薄かったようだ。本作では記憶に残る重い役だと予想して試写を観始めだ。
 イ・ガンス(カン・ハヌル)は,麻薬犯罪者から情報を引き出し,それを検察や警察に提供して報酬を得る「ヤダン」で,司法取引のブローカーであった。元々は,薬物担当の検事ク・グァニ(ユ・ヘジン)が麻薬取引法違反で逮捕されたイ・ガンスの記憶力に目をつけ,彼を「ヤダン」に仕立て上げたのであった。2人は義兄弟の契りを交わし,次々と警察を出し抜く手柄を立てていた。
 いつも手柄を横取りされていたのは,堅物刑事オ・ サンジェ(パク・ヘジュン)で,女優のオム・スジン(チェ・ウォンビン)を囮に使って薬物パーティーが行われているホテルに踏み込もうとしていた。ところが,それを仕切っていたのが次期大統領候補の息子チョ・フン(リュ・ギョンス)であることが判り,グァニ検事は自らの出世のため,真実を隠蔽しようとする。そのために,背景を知るヤダンのガンスを薬物中毒者として始末し,サンジェ刑事とを収賄罪の濡れ衣を着せて逮捕した。一旦,グアニの計画は成功するが,数年後,塗炭の苦しみを味わったガンスとサンジェが手を組む。売人として収監され,出所した女優スジンを仲間に加えて,悪人チョ・フンを告発し,裏切り者グアニを権力の座から引きずり下ろす復讐計画に着手する……。
 監督は,俳優として『ソウルの春』にも出演経験のあるファン・ビョングクである。監督としても才能豊かで,リアリティの高いセットや小道具,スピード感のあるアクション演出が得意なようだ。3人の俳優の演技合戦も引き出している。我らがユ・ヘジンはと言えば,淡々とした演技の中に冷酷さと強い出世欲を感じさせてくれた。さすが,どんな役でも見事にこなす名優である。

■『五十年目の俺たちの旅』(1月9日公開)
 何の50年目なのかと思った。日本のテレビ番組史に残る青春ドラマの金字塔『俺たちの旅』の放送開始から50周年だそうだ。1975年10月から1年間日本テレビ系で放映された大学生が主人公の青春群像僻である。その後も,単発の特番『十年目の再会』(85)『二十年目の選択』(95)、『三十年目の運命』(03)が放映され,人気を博したという。いずれも全く観た記憶がないし,周りからそんな番組の噂を聞いたこともなかった。当時の高校生・大学生が熱中したらしい。当時の筆者は既に国立研究所勤務で,最も研究に専念していた頃だ。映画は洋画と『男はつらいよ』だけは観ていた。たまに観るTVは,野球中継か競馬中継だけで,TVドラマには全く興味がなかった。
 主人公の3人組は,中村雅俊,津坂まさあき(現,秋野太作),田中健だというから,筆者もほぼ同世代である。彼らの現在の姿を描く物語だが,50年前のTV映像も多数挿入されるというので,懐かしい昭和の香りを楽しむにはいいかと思って観ることにした。ただし,半世紀前に熱中した世代は,既に65〜75歳だろう。彼らを対象に映画興行が成り立つのかと少し心配した。
 映画が始まるや否や,中村雅俊が歌う主題歌が流れる。番組は知らなかったが,この曲なら知っている。当時,かなりヒットしたはずだ。その頃万年青年に見えた彼も,さすがにかなり老けたなと感じた。現在74歳なら無理もない。主人公・津村浩介(愛称:カースケ)は,東京都区内で飛行機や列車の部品を製造する町工場を経営している。田中健が演じるのは同級生の神崎隆夫(愛称:オメダ)は鳥取県・米子市長で,次の知事選への準備中である。最年長(現在,82歳)の秋野太作演じる熊沢伸六(愛称:グズ六)は介護施設の理事長役であった。
 現代が舞台の劇中で,再三に渡り昔の映像が登場するので物語に集中できなかったが,要点は2つだった。1つは,カースケの元恋人・洋子(金沢碧)は20年前に病死していたが,グズ六から電話が入り,「洋子が生きてる!」と言う。その正体を探るエピソードが続く。もう1つは,オメダの悩みで,かつて子供の頃,母親(八千草薫)や妹の真弓(岡田奈々)と住んだ東京・神楽坂の家が売りに出ていることを知り,鳥取に住む妻子を捨てて,昔の家に戻ろうとしていることだった……。
 物語は他愛もなく,集中できなくても差し支えなかった。ただただ昔のシーンを懐かしむ映画であり,3人が昔と同じセリフを吐き,かつてと同じポーズを取る。今昔を比較することが目的のようだ。若き日の田中健の恰好よさが再確認できる。中村雅俊や秋野太作に比べると,好い老け方をしている。昔の八千草薫に美しさ,岡田奈々に可愛さも特筆に値する。個人的には,3人が長髪で全員ベルボトムのジーンズを履いているのが懐かしく,しばしば通った井の頭公園の光景も想い出深かった。
 それにしても,半世紀前のTVドラマのシーンをこれだけの比率で挿入するというのも珍しい。歌は,主題歌“俺たちの旅”がエンドソングとして再度流れ,その前に同ドラマの挿入歌“お前だけがいい”も使われていた。そして,両曲を作詞・作曲した小椋佳がほぼ同年代に発表した“めまい”と“少しは私に愛を下さい”も劇中歌として流れるという念の入れようだ。徹底して,昭和ドラマ,昭和歌謡を懐かしむ世代がターゲットの映画であった。
[付記]書き忘れていたが,監督は主演の中村雅俊で,これが監督デビュー作である。さほどの歌唱力でもないのに歌手でも成功したが,監督としての演出力は平凡だ。ただし,本シリーズに対する思い入れは感じられた。

■『小屋番 八ヶ岳に生きる 劇場版』(1月9日公開)
 背筋が凍りつくほど美しい映像の連続で始まるドキュメンタリーだった。緑に覆われた峰々も山中の湖も筆舌に尽くしい難い美観で,湖の側の紅葉や雪を纏って煌めく樹氷を目にすると,このまま情景描写だけで終わってもいいと感じた映画だった。オンライン試写を選択したが,最近の高解像度のPC画面でも上記のように陶酔できた。これを大きなスクリーンのシアターで観たら,永遠に席を立ちたくなかっただろう。その反面,PC上だったから,何度でも戻って,繰り返して観ることできた。
 副題から山岳映画であることは自明だったが,「小屋番」という言葉は知らなかった。「番小屋」なら,時代劇で町人たちの「自身番」が交替で夜に見張りする詰め所である。まさか登山チームのメンバーが夜中にそんなことをするはずはない。「小屋番」は,山小屋で登山客のサポートや運営を行う管理人とのことのようだ。食事や飲料水の提供,登山ルートの紹介を行うだけの山小屋もあれば,宿泊場所も備えた施設も存在する。時として,その経営者や従業員は,山道の保全も担当し,遭難者の救助にも向かうらしい。登山写真家・菊池哲男と共に巡り,そんな山小屋で働く人々の生活を描いた実録映画であった。登山家を描いた映画は多数紹介してきたが,この視点での映画は初めてあり,その分,新鮮であった。
 被写体は「八ケ岳」だけである。個人的には,友人の別荘が八ケ岳山麓にあったので,しばしばそこに滞在して周辺をドライブしたが,写真はそこから見える南アルプスばかり撮っていた。当の「八ケ岳」は「コヤガタケ」と呼ばれるほど多くの山小屋が存在するそうだ。最も標高が高いのは「赤岳」の2,899mであるから,北アルプスや南アルプスよりも,中級者までの登山には手頃であり,山小屋の需要も大きいようだ。本作では,「硫黄岳山荘」「高見石小屋」「北横岳ヒュッテ」「根石岳山荘」「黒百合ヒュッテ」「麦草ヒュッテ」「青苔荘」「蓼科山荘ヒュッテ」「赤岳山頂小屋」「双子池ヒュッテ」等が登場する。
 最初に登場する山荘勤務の青年は,都会での社会人生活に疲れ,半ばそこから逃避する形で山小屋生活を選択していた。その一方で,親子の共同生活で山小屋運営をする家族もあれば,祖父,父親から引き継いだ3代目の女性オーナーも登場する。難航不落の山頂を目指す登山隊の映画とは全く趣きが異なり,小屋番たちの人間性や価値観を知る意味でも興味深かった。  思いがけなかったエピソードを2つ紹介しておこう。時節柄,クマの被害ばかりが報道されているが,北八ケ岳の山腹や山頂では,鹿の食害対策の方が重大事だという。木の樹皮を360度食べはがすと,水分が上がらずに木が枯れてしまい,森がなくなる恐れがある。侵入を防ぐため設置したネットから身体が抜けずに落命した鹿の死体を,他の動物が食べ尽くしてしまう。その様子を収録された監視カメラの映像が衝撃的であった。
 標高2,240mにある「赤岳鉱泉・行者小屋」は,通年営業で個室まで存在する本格的宿泊施設である。2代目経営者の発案で,行政に頼らず,この山小屋では自主的に山岳診療所を開設した。常時ボランティアの医師が詰めていて診療に当たり,診察も投薬も無料だというのに驚いた。すべては山を愛する人々の情熱の賜物である。

■『アグリーシスター 可愛いあの娘は醜いわたし』(1月16日公開)
 この題名,特に副題でどんな映画だろうと気になった。ノルウェーの新鋭監督が描くゴシック・ボディホラーだそうだ。誰もが知るグリム童話の「シンデレラ」を,王子と結ばれる彼女の視点でなく,少し捻って,意地悪な義姉妹を主人公にした映画なのである。それがノルウェー映画というのも少し意外だった。
 かつてノルウェー製の映画は殆ど紹介したことがなく,実話ベースの漂流映画『コン・ティキ』(13年1月号)くらいだった。ところがその後,サイコホラーの『テルマ』(18年Web専用#5),自虐的な主人公の『わたしは最悪。』(22年Web専用#4),ノルウェー人監督が撮った『ドラキュラ/デメテル号最期の航海』(23年9月号),オムニバス形式のホラー『アンデッド/愛しき者の不在』(25年1月号)と続くと,本作に繋がるホラー路線は同国映画界のお家芸なのかと思った。そう言えば,今年のGG賞受賞作で,アカデミー賞有力候補の『センチメンタル・バリュー』(本号)も姉妹が主人公のノルウェー映画である。ともあれ,新釈シンデレラの本作の「ボディホラー」がどんなものなのかを確かめることにした。
 舞台はスウェランディア王国で,貧しい未亡人のレベッカ(アーネ・ダール・トルプ)は,裕福なオットーと再婚するため,2人の娘エルヴィラ(リア・マイレン)とアルマ(フロー・ファゲーリ)を連れてこの国にやって来た。妻を亡くしたオットーには美しい娘アグネス(テア・ソフィー・ロック・ネス)がいた。新しい家族が揃った晩餐の場で,夫オットーが急死してしまう。
 同国ではユリアン王子(イサーク・カムロート)が若い女性の憧れの的であったが,国王となる王子が伴侶を求めて,処女だけが対象の舞踏会を開くという。それを知ったレベッカはアグネスを虐待し,舞踏会への参加を認めなかった。その一方で,容色の劣る姉エルヴィラを妃にすべく,美容整形を決断する。鼻と歯の矯正,さらには減量と豊胸手術までが強いられ,エルヴィラの容貌は改善され,晴れて舞踏会に出席する。ところが,アグネスの眼前に死んだ母親の霊が登場し,エルヴィラに破られたドレスを修復し,美しい靴を与え,魔法でカボチャを馬車にしてしまった。後は,彼女が舞踏会で王子の心を捕えたが,靴だけを残して去り,その靴に合うシンデレラ探しが始まるというお馴染みの物語となる。
 劇中でアグネスは何度か「シンデレラ」と呼ばれていた。間違いなく美人女優が配されていたが,義姉妹より年下には見えず,明らかにアルマが最年少である。最も原典と異なるのは,アグネスは別の男性イサクと肉体関係がある淫乱女であり,王子もまた女たらしの愚物として描かれていた。エルヴィラの美容整形のシーンは生々しく,途中で席を立った観客が多かったというのも頷けた。舞踏会後に,足の大きなエルヴィラがシンデレラの靴に合うよう,両足の指を切断するシーンは正に衝撃的であった。これじゃまるでD・クロネンバーグ映画であり,「ボディホラー」の意味が実感できた。
 本作の監督は,これが長編デビュー作のエミリア・ブリックフェルト。まだ34歳の若手女性監督である。「女性蔑視」とも受け取れる映画だが,真意は「美しさが女性の最大の武器であり,玉の輿に乗ることが目標」という単純な童話,それを是としたかつてのディズニーアニメへのアンチテーゼなのだろう。
 本作の大きな欠点は,エルヴィラ役の女優リア・マイレンの登場のさせ方である。「鼻は醜く,太めで,男性からは見向きもされない」という設定には合致せず,個性的で魅力的な若手女優である。鼻筋は通っていて美しい。演技力と美容整形後に改善された容色に見合うように選ばれたのであろうが,それなら前半の登場シーンでは,もっと醜く見える強烈なメイクを施しておくべきだ。

■『ウォーフェア 戦地最前線』(1月16日公開)
 題名から紛れもなく,そのものズバリ戦争映画である。戦争映画の名作は数多いが,本作は戦闘のリアリティで注目を集めるに足る仕掛けがある。監督・脚本が『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(24年10月号)のアレックス・ガーランドというだけで品質保証つきだ。問題は,同作の軍事アドバイザーを務めたレイ・メンドーサを共同監督,共同脚本に起用したことである。従軍経験者がアドバイザーであることは特筆に値しないが,本作が描く戦闘は,メンドーサ自身が実体験したイラク戦争の最前線そのものであり,その再現劇なのである。約20年前のその戦闘から生き延びた彼が,当時の同胞に改めて聞き取り調査をして脚本を執筆し,その内の何名かは撮影現場で現地監修をしたというから,リアリティの高さが飛び抜けていることが納得できる。
 時代は2006年11月,舞台となるのはイラク中央部の危険地帯ラマディの市街地で,「爆弾街道」と言われた地区である。2001年の同時多発テロへの報復として,米国は第2次湾岸戦争を始めたが,戦局厳しき中,海兵隊への応援に米国海軍の特殊部隊として名高い「Navy SEALs」が派遣された。本作は,R・メンドーサが通信兵であった小隊チーム5の8名を中心とした戦闘を描いている。翌日に中心部隊がこの地区を無事通過できるよう,前夜の内に小隊は2階建ての民家を接収して立て籠った。目的はアルカイダ幹部の監視であったが,場合によっては,狙撃も容認されていた。
 ところが,監視していた敵兵がこちらの存在を察知して動き出し,たちまちの内に民家は包囲されてしまった。敵の戦車の襲来,IED即席爆弾が爆発し,負傷者も出た。救助要請を出したが,すぐには駆けつけることはできない。既に屋上に敵兵が配備されていたので,安易に屋外に出て戦闘を仕掛けても,一斉射撃の的になることは明らかだ。意識を失いつつある重傷者を治療しつつ,励ましの声をかけ続けた。ようやく別の小隊が到着したので,「あるプラン」を立てて緊急退却を試みるが……。
 特殊部隊SEALsというからには,卓抜した戦闘能力で快刀乱麻の問題解決を期待したのだが,現実はほど遠かった。指揮系統は混乱し,指揮官は現場指示を放棄し,パニックに陥って持ち場を守らない兵士,負傷者に投与すべきモルヒネを誤って自分に打ってしまう有り様だ。これが現実の戦闘なのかと驚き,嘆息する。戦争映画としては,極めて小規模の戦闘であるが,それでも近代戦らしい監視や作戦を実感できた。常時上空からの監視が行われていて,敵兵や応援部隊の正確な位置が視認できる。何度か味方の戦闘機に低空飛行させ,砂塵を巻き上げた上に威嚇射撃をして敵を混乱させる等々である。
 映像は長回しが目立った。戦闘の小休止はあったが,いつ戦闘再開するかという緊迫感を保った演出であった。企画上,小隊全滅はあり得ないし,映画にする以上,緊急退却は成功するに違いない。それでも,何名が落命するのかと気になった。撮影の大半は民家を模したセット内で行われたが,その一方で、元飛行場の跡地に当該民家を囲む市街地の一角をオープンセットとして再現したという。さすがハリウッド映画のリアリティである。生々しい戦闘の再現劇としては成功していた。
 ただし,この手は何度も使えない。正直に言えば,この種の戦争映画はもう観たくない。入場料を払って映画館で観る以上,演出過多でもいいから,歴史に残る大規模作戦,戦局を変える転換点の痛快な勝利のドラマを期待してしまうのが,普通の映画ファンの感覚だと思う。
 余談になるが,全くのフィクションながら,固唾を呑んだ映画に触れておこう。核ミサイル到来の危機を描いたキャスリン・ピグロー監督の『ハウス・オブ・ダイナマイト』(25)である。同監督には,イラク戦争の爆発処理班を描いた『ハート・ロッカー』(10年3月号),オサマ・ビンラディンの殺害計画の『ゼロ・ダーク・サーティ』(13年3月号)という2本の大傑作があったゆえ,史実とは無縁の『ハウス・オブ…』の着想を新鮮に感じた。この映画は全編を観終えていたのだが,昨年10月号は紹介すべき映画が多く,時間がなく,記事にできなかった。Netflix映画であり,ネット配信でいつでも観られるので,ここで言及しておきたい。

■『ダウントン・アビー/グランドフィナーレ』(1月16日公開)
 公開が近づくと,TVスポットやネット広告があふれ出し,「シリーズ開始から15年,ついに完結」なるキャッチコピーが目を引いた。原典たる英国でのTV放送開始は2010年9月で,6シーズンでの全52話は大人気となった。4年遅れでそれを追ったNHK総合TVでの深夜放送も人気を博した。内容的には,英国貴族のグランサム伯爵一家(クローリー家)とその使用人たちが織りなす群像劇で,時代背景として1912年のタイタニック号の沈没,第一次世界大戦,アイルランド独立戦争,史上初の労働党政権発足等の欧州の歴史的事件を織り交ぜ,1925年までの出来事が描かれていた。
 それを受けての映画版『ダウントン・アビー』(19年Web専用#6)は,てっきりTV版を要約した総集編かと思ったのだが,TV版最終話の僅か1年半後を描いた後日譚であった。続く劇場版第2作『同 新たなる時代へ』(22年9・10月号)は1928年,そして完結編の本作は1930年を舞台としている。今にして思えば,この時代設定の選択は大正解だ。TV版は5年余で約14年間を描いていたのに対して,シリーズ全体は15年間で18年しか経っていないから,かなり追いついている。即ち,出演俳優の高齢化は,自然に劇中の人物の容姿に反映されている。とりわけ見事だったのは,先代当主バイオレット役の名優マギー・スミスの扱いである。映画版第1作では,当時85歳の彼女に「自分の余命はわずか」とのセリフを語らせ,第2作の終盤で愛する家族たちに見守られて息を引き取る。実際のM・スミスはその2年後の2024年9月に89歳の生涯を閉じているから,本作で遺影しか登場しなくても,全く違和感はなかった。
 予告編の終わりには「すべての想い出を胸に」の字幕が登場し,「さよならを劇場で。」で結んでいる。心憎い惹句であり,TV版からのファンは勿論,劇場版からのファンも思わず映画館に足を向けることだろう。では,それに値する内容かと言えば,正に「グランドフィナーレ」に相応しい締め括り方であった。
 映画は1930年の夏,英国社交界の頂点「ロンドン・シーズン」の幕開けから始まる。貴族たちが市内の劇場で新作舞台劇を楽しむシーンの豪華さに圧倒される。その翌日は,ピーターズフィールド夫人主催の舞踏会であったが,クローリー家の長女メアリー(ミシェル・ドッカリー)は王族が到着する前に,屋敷からの退席を言い渡された。彼女が再婚相手のヘンリー卿と離婚したとの新聞報道があったためだった。当時の上流階級は離婚女性に冷たく,蔑視して村八分的な扱いであった。
 本作は,一夜にして面目を失ったメアリーの名誉回復と一家が財政破綻の危機をどう斬り抜けるかの物語である。監督は前作に引き続き,サイモン・カーティスが継続登板している。エピソードとしては,伯爵夫人の母コーラ(エリザベス・マクガバン)の弟で米国在住のハロルド(ポール・ジアマッティ)が投資に失敗してロンドンにやって来たこと,その同伴者の投資アドバイザーのガス・サムブルック(アレッサンドロ・ニヴォラ)に惹かれたメアリーが一夜を共にしてしまうが,彼は詐欺師であったこと等々が描かれる。
 ビジュアル面では,屋敷アビーの威容は相変わらずだが,1930年のピカデリー・アーケードやバッキンガム宮殿周辺の建物や公園の再現も秀逸であった。観劇や舞踏会に集う貴婦人たちの衣装も豪華だが,最大の見どころは,アスコット競馬場での観戦シーンである。建物等は最小限のVFX処理に留めて,カメラアングルで余り映らないようにしている。何よりも本物の競走馬をコースを走らせた上に,観客は当時のドレスコードを守って正装した300人のエキストラを配したというのが凄い。まさにこの時代の社交界の一大イベントであったと感じさせる。そして,映画のエンディングは過去の名場面の回想となっていて,無事大団円を迎える。


(1月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)

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