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O plus E 2022年9・10月号掲載
 
その他の作品の短評
  (注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)  
   
   『渇きと偽り』:豪州が舞台のクライムサスペンスで,ジェイン・ハーパー作の同名小説の映画化である。主演は同国出身のエリック・バナで,13年ぶりの母国映画の主演だそうだ。大都会のメルボルンで働く連邦警察官アーロン・フォーク役で,家族を殺して自殺した親友ルークの葬儀のため,20年ぶり帰郷する。舞台となるのは,ビクトリア州の田舎町キエワラで,10年以上も大旱魃が続いている。架空の町であるが,広大な土地,竜巻で舞い上がる砂と埃,旱魃の凄まじさに圧倒される。アーロンはルークの自殺を疑い,真相究明の捜査を始めるが,自らが犯人だと疑われた20年前の女子高生の自殺事件が交錯する。スリラーかと思わせる不気味な音楽で緊張が高まり,小さな町の閉鎖的な雰囲気がよく出ている。性急な物語展開,ノンストップアクションの映画が多い中,奇をてらわず,落ち着いた語り口が心地よい。ラストは文学的な香りがした。
 『ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド』:ビートルズ・ファンなら,こんなお宝写真があったのかと泣いて喜ぶ画像群だ。題名通り,カナダ人の映像作家ポール・サルツマンが,1968年にマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのアシュラム(僧院)で,偶然ビートルズと出会った8日間に撮影した多数の写真を中心に,同地を再訪して語るドキュメンタリーだ。ビートルズがインド哲学やシタールにかぶれていた頃で,2枚組の「The Beatles」(通称「ホワイト・アルバム」)の制作前のことである。なるほど,今まで観たことがなかった写真で,最近頻出するルーフトップ・コンサートの前年のことなのに,明るい日差しの中で若々しく感じる。それ以外,何ということのない平凡なドキュメンタリー映画だ。勝手に感化されただけで,この時の「瞑想」が4人組を進化させたかどうかは疑わしい。音楽的にはむしろ「迷走」としか思えない時期とアルバムだった。[付記:「ホワイト・アルバム」の英国でのリリースは1968年11月だが,日本国内発売開始は1969年1月である。真っ白なLPジャケットの表には,個別の通し番号が灰色で印刷されていた。数週間前に予約し,喜び勇んで受け取った筆者の番号は「No. A028690」だった。定価4,000円は学生には高価で,当時の大学の授業料の4ヶ月分,平均的なアルバイト代の5日分に相当した。2枚組全30曲は,アルバムとしての統一感がなく,散漫かつ退屈で,期待した分,大きな失望感が残った。この映画の宣伝文句で「最高傑作『ホワイト・アルバム』誕生に遭遇した…」と書かれているのは,少し誇大広告と思えるが,アルバムの出来映えはこの映画の責任ではない。既にこの時期の4人の心はバラバラではなかったか,それが「ゲット・バック・セッション」時に解散話にまで発展したというのが定説であったが,本作で初めて見る写真群からは,平和で穏やかな関係しか感じられない。本作の題材は(ほんの少しのビデオ映像を除いて)監督自身が撮った写真と記憶を辿って描いたイラスト画だから,ピーター・ジャクソン監督の『ザ・ビートルズ:Get Back』(21)のような,4人組の生の会話や作曲風景は望めない。それでも「ビートルズ研究」の観点からは貴重な資料であり,一見に値する。彼らがインド滞在で何を得たかは,ファンのそれぞれが自由に解釈すれば良いことだ。]
 『犬も食わねどチャーリーは笑う』:一転,こちらは邦画のオリジナル脚本の夫婦ものコメディだ。夫はホームセンター,妻はコールセンター勤務という,いかにも現代風の職業で,主婦が夫をこき下ろす「旦那デスノート」なるSNSが主テーマとなっている。結婚4年目の夫婦を演じるのは,香取慎吾と岸井ゆきの。2人のペアポスターを見ただけで,体格差に笑える(年齢差もかなりある)。『凪待ち』(19年Web専用#3)でシリアスな演技を見せた香取慎吾の全く別の一面が楽しいが,夫婦ゲンカバトルがガチのオモコワ映画となっている。ちなみにチャーリーとは,2人が飼っているペットのフクロウの名前であり,妻のSNS投稿時のハンドルネームでもある。基本的には夫婦の絆,結婚生活礼賛の人生賛歌であり,とりわけ部下の結婚披露宴でのスピーチがいい。コールセンターでの顧客との通話は,人生の縮図だ。脚本・監督の市井昌秀の優れた社会観察力に感心した。
 『秘密の森の,その向こう』:本号の短評欄の重点テーマは「女性主人公の映画」。21本中11本が該当し,ここからは4本連続だ。まずはフランス映画で,女性監督セリーヌ・シアマが脚本も手がけている。メイン画像の2人の少女はどう見ても双子姉妹だが,役柄は双子ではない。祖母が亡くなり,両親と共にその家を訪れた8歳の少女ネリーが主人公だが,今度は母が失踪してしまう。ネリーが独りで近くの森の奥へと進むと,自分に似た8歳の少女がいた。何と,それは23年前の母の姿だった……。家も祖母の家の昔の姿で,若き日の祖母も登場する。タイムスリップものだが,SFというよりメルヘンの世界だ。素朴で可愛い少女だから成り立つ映画だとも言える。童話ではあるが,人生への教訓めいた台詞はなく,娘・母・祖母の女性3世代の喪失感を癒す物語である。原題は『Petite Maman(小さなママ)』だが,邦題が素晴らしい。『燃ゆる女の肖像』(20年11・12月号)同様,この監督が女性を描く腕は一級品だと思う。
 『マイ・ブロークン・マリコ』:筆者もしっかりファンになった永野芽郁の最新作だ。当代の売れっ子で,3作品連続での主演だが,各々全く違う役柄で,本作はかなりの難役である。自殺した親友マリコ(奈緒)の遺骨を実家から強奪し,自ら散骨しようという凄い女性シイノトモヨを演じている。上司にはタメ口をきく,かなりガラの悪いOLだ。キャッチコピーは「遺骨と旅する女」。原作は,平庫ワカの連載コミックで,「文化庁が認めた遺骨を盗む漫画」だそうだ。新人ながら,読者の心を掴んだコミックらしい。絵が上手く,独特の雰囲気がある。人気の秘密もそこにあるようだ。原作にほぼ忠実な展開だが,原作のもつ雰囲気が,この映画では失われているように感じた。監督・脚本はタナダユキ。主演女優の演技力不足,監督の演出力不足とも言えるが,映画としての完成度を上げるには,もっと映画の特性を活かした脚色が必要だと感じた。少し惜しい。
 『ドライビング・バニー』:本作も女性作品ながら,監督と脚本家は別人物だ。ニュージーランド映画で,演出も脚本も絶品である。主役のバニー(エシー・デイヴィス)は,2人の子供を家庭支援局に預けている40歳のシングルマザー。夫殺しで服役経験のある複雑な過去の持ち主で,停車中の車の窓拭きの小銭稼ぎが主たる収入という底辺生活だ。この国の深刻な住宅不足が物語のベースとなっている。行政当局を欺いてでも,子供達と暮す策略をめぐらすバニーの破天荒な行動が痛快で,笑ってしまう。バニーに共感し,行動を共にする姪のトーニャ役は,人気女優のトーマシン・マッケンジー。既に22歳だが,まだ少女に見える。監督はこれがデビュー作のゲイソン・サヴァットで,NZ在住の27歳の中国人監督だ。男の大半が下司か存在感なしは,定番と言えるが,終盤の盛り上げ,着地が見事だった。バニーだけでなく,この監督も応援したくなる。
 『プリンセス・ダイアナ』:言うまでもなく,英国の元皇太子妃が被写体で,彼女の半生を描いた初の劇場用ドキュメンタリー映画だ。少し異色で,関係者のインタビューが全くなく,ほぼ時間順にアーカイブ映像が流れるだけだ。ただし,膨大な報道映像,個人的な記録映像から,婚約当時から事故死後の葬儀までが,見事に選択・編集されている。世界中に流れた当時の映像を観て,改めて,その美しさ,清楚さ,気品に見惚れた。彼女の存在だけで,英国王室の人気が沸騰したのも頷ける。ドレス,スーツ姿も絵になっている。その後の別居,不倫の報道が凄まじく,王室の権威失墜も急速だ。思わず,チャールズは国王継承に不適格だと感じてしまう。実録映画でありながら,しっかりストーリーがあり,彼女の人生自体がドラマである。ダイアナが生きていたら,今年で61歳。その後,どんな人生を歩み,どんな女性になっていたのだろうかと思わざるを得ない。
 『ダウントン・アビー 新たなる時代へ』:人気TVシリーズの劇場版2作目だ。TV版との重複はなく,完全に後日談となっている。本作の大きな話題は2つで,1つはグローリー家の大きな屋敷に高額使用料を払ってハリウッドが映画撮影にやって来ること。もう1つは,先代伯爵夫人の祖母バイオレット(マギー・スミス)が昔の恋人の遺言で,南仏の豪華な別荘を贈られたことである。前者はプライドの高い女優や撮影班が引き起こす騒動で,屋敷の従業員もその余波で楽しい一時を過ごす。後者は,大き過ぎる遺産に疑問を抱いた当主ロバートが家族を連れて現地検分に出かけるが,南仏海岸が美しく,観光映画の側面もある。騒動や謎の誤解も解け,全てがハッピーエンドだ。そんな虫のいい話があるのかと思えてくるが,製作者も脚本家も,娯楽映画はそれでいいとの確信犯である。1つの時代が終わったと感じる結末だが,まだ続編がありそうだ。
 『“それ”がいる森』:Jホラーの旗手・中田秀夫監督の最新作だが,まず題名だけで惹き込まれた。S・キング作のモダンホラー小説を映画化したヒット作『IT/イット “それ”が見えたら,終わり。』(17年11月号)を意識させたいことは明白だ。加えて本号では,メイン欄の『LAMB/ラム』は羊から生まれた「何か」を想像する映画であったし,短編の3本目の『秘密の森の…』とも比べてみたくなる。主演は,これが8年ぶりの映画主演となる相葉雅紀。別れた妻のもとから彼の住む田舎町の農家に訪ねて来た一人息子と,2人で不思議な怪奇現象に立ち向かう父子の物語である。物語展開は小中学生にも分かる明快さだが,次第に“それ”の存在を恐ろしく感じさせる語り口はさすがだ。ネタバレになるので,“それ”の正体を暗示できないが,「道化師」でも,「山羊と人間の混血児」でも,「父親の子供時代の姿」でもないとだけ言っておこう。中田監督は「従来スタイルから脱皮して,新しいホラーの提供に挑んだ」そうだが,根っからのJホラーファンには少し物足りないかもしれない。それでも,ホラー食わず嫌いの若年層に適した「手軽な入門編」かと思う。当欄としては,『サイン』(02年10月号)のM・ナイト・シャマランを反面教師とし,かつての栄光を汚す駄作に走らないようにと忠告しておきたい。
 『愛する人に伝える言葉』:再びフランス映画で,大女優のカトリーヌ・ドヌーヴと『ピアニスト』(01)のブノワ・マジメルの共演作だ。親子ほど歳が違うが,まさに母子役を演じる。若くして膵臓ガンを告知された息子中心の物語だ。既にステージ4のカウントダウン状態で,QOLを維持し,死に向かい合う「人生のデスクの整理」の映画となっている。監督・脚本はエマニュエル・ベルコ。女性監督作品にありがちな欠点はなく,実に見事な脚本だ。本物の癌専門医のガブリエル・サラが,人間味溢れる主治医のドクター・エデとして出演する。本作の真の主役はこの医師だと感じた。彼の真の姿通りに描いた脚本で,地のままで演じたとはいえ,圧倒的な存在感だ。自分が彼から癌の告知を受け,担当医と接している気分になる。勿論,楽しい映画ではないし,あっと驚く映画でもない。涙する映画でなく,深く感動する映画でもないが,間違いなく心に残る映画だ。
 『七人樂隊』:香港映画界の名匠7人によるオムニバス映画だ。呼びかけ人は,プロデューサーのジョニー・トーだ。当初構想は「1940年代から2000年代にかけての香港」で,各人10年ずつだったそうだが,実際は50年代から未来までを描いた形となった。第1話「稽古」で,戯劇学校生徒の逆立ちやバック転の練習風景に少し驚く。その後は,学園もの,純愛もの,老人の終活ものまで多彩だ。かつての香港への素直な懐古,シニカルに現在までの変遷を凝視,香港への深い愛情等々,なるほど7重奏の快作だ。フィルムに敬意を表し,全7作のすべてが35mmフィルムで撮影されている。筆者が好きなのは第4話「回帰」で,1997年の香港返還の直前で,カンフー得意の祖父と現代っ子の孫娘の共同生活が描かれている。楽しかったのは第5話「ぼろ儲け」で,2000年代の3つの逸話で,男女3人組の株投資,不動産投資での成否が描かれている。
 『声/姿なき犯罪者』:韓国映画で,オレオレ詐欺がテーマだ。韓国でも似たことはあるのかと思ったが,被害金額は日本より多く,社会的深刻度も大きいようだ。建築現場で働く元刑事ソジュン(ピョン・ヨハン)が,妻や仲間が騙し取られた大金を取り戻すため,犯罪組織に潜入する。名簿集め,犯行の手口,台本等の仕組みがよく分かる。双子の兄弟監督キム・ソン&キム・ゴクは,数年にわたり詐欺犯罪を担当する知能犯罪捜査隊に取材してこの映画を撮ったというから,リアリティが高いのも当然だ。就活までも振り込め詐欺のネタにしているとは驚いた。詐欺計画管理の拠点を中国に置き,多数のかけ子に電話をさせ,現金の受け子も遠隔管理している。その現場風景が生々しい。企画室総責任者クァクを演じるキム・ムヨルの極悪非道ぶりと気味の悪さが,この映画を引き立てている。しっかりアクションもあり,エンタメとしてのサービス精神も十分だ。
 『アメリカから来た少女』:ここから「女性主人公の映画」が5本続く。台湾映画で,米国暮らしから母子3人で帰郷した13歳の少女ファンイー(ケイトリン・ファン)と家族の物語だ。台北で家族の帰りを待っていた父親,乳癌手術後で体調不良の母親(カリーナ・ラム),9歳年下の妹との4人家族だ。通い始めた中学校では,嫌味な教師や級友から異物扱いされ,文化ギャップを感じてしまう……。時代は,SARSが猛威をふるった2003年。既にWebやブログはあったが,スマホはまだなく,TV画面は4:3だった時代である。ゆったりした物語進行,時代描写は正確なので,これは自己体験の映画化だろうと想像できた。監督・脚本は,これが長編デビュー作のロアン・フォンイーで,米国在住からの台湾帰国も彼女自身の実体験だ。この疎外感のままで終わる訳がなく,主人公の成長に繋がる何かがあると容易に予想できるが,その期待には反しない。
 『スペンサー ダイアナの決意』:上述の『プリンセス・ダイアナ』と同じ配給会社で,対をなす作品と位置づけられている。ドキュメンタリーではなく,1991年Xmas前後の3日間に絞ったドラマだ。ロイヤルファミリーが女王の私邸に集まってXmasを祝おうという中,ダイアナ妃は道に迷い,女王より遅れて到着してしまう。同伴でないことから,既にチャールズとの関係は冷え切っていることが分かる。邸宅の内装や衣装も見事だが,息が詰まりそうな王族のしきたりの描写も見ものだ。針のむしろのダイアナを演じるのは『トワイライト』シリーズのクリステン・スチュワート。追い詰められた様子の鬼気迫る演技が見事で,アカデミー賞主演女優賞にノミネートされていた。それでもドキュメンタリーのリアリティには負ける。名演技であっても,所詮は想像で描いた脚本をなぞっている感は否めない。題名のスペンサーの意味は最後で分かる。
 『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』:女性監督マルジャン・サトラピが,誰もがその名を知る天才女性科学者の半生を描いた伝記映画である。女性初のノーベル賞受賞者で,しかも2度の受賞は正に画期的だ。映画は,後に夫となるピエールと知り合う頃から始まり,夫妻の共同研究が放射能の発見という人類史上に残る偉業へと繋がる。きれい事だけでなく,夫の死後,弟子であった妻子ある教授との不倫によるバッシングや放射能の人体への影響も描かれている。本作で24歳から66歳まで演じる主演は,ボンドガールのロザムンド・パイク。最近は美しい熟年の悪女役が得意だが,無愛想で反骨精神が強く,戦う女性のこの役にもピッタリだ。彼女が戦地での移動型X線装置の利用で多くの兵士の命を救ったこと,娘イレーヌ夫妻もノーベル賞受賞者となったことも盛り込まれている。その分,物語が駆け足過ぎたのが残念だ。もう30分は欲しかった。
 『耳をすませば』:原作は柊あおい作のコミックだが,知名度ではスタジオジブリ製作の同名のアニメ映画だろう。本作は,その単なる実写リメイクではなく,中学3年生だった男女の10年後が描かれている。清野菜名演じる25歳の月島雫は,出版社で編集者として働きながら,自ら作家になる夢を捨てていない。一方,松坂桃李演じる天沢聖司は,イタリアでチェロ奏者として奮闘していた。W主演という位置づけだが,どう見てもこれは女性が主人公で,男は好都合な王子様役の添え物に過ぎない。本作は,オリジナルストーリーの後日談だけでなく,10年前の2人の出会いから聖司の旅立ちまでを,若手俳優の演技で簡略化して見せてくれる。即ち,アニメ版ファンはその後の2人を楽しめ,本作初見の観客は前作を知らなくても理解できるよう配慮されている。ただし,現在27歳の清野菜名はまだしも,6歳年長の松坂桃李はとても25歳には見えない。
 『もっと超越した所へ。』:5本目は2015年上演の同名舞台劇の映画化作品だ。監督は男性(山岸聖太)だが,月刊「根本宗子」なる劇団を主宰する劇作家の根本宗子が自ら脚本を書いているので,勿論,女性視点の映画である。4組の男女の恋愛バトルとの触れ込みだが,最初から「ダメ男4人」と断ってあるので,女性映画の極致と言える。女子高生中心のキラキラ映画ではないが,大人の恋愛劇でもない。純然たるおバカ映画ではないが,前半はそれに近いバカバカしさで,知性のかけらもない連中ばかりだ。物語は2020年1月から始まる。まさにコロナ禍の開始時期だ。4人の女性は2年前にもダメ男に引っ掛かり,ブチ切れて彼らを追い出していた。それが再度繰り返されるが,よくぞここまで最低なクズ男ばかりを描いたものだ。元が舞台劇だけあって,手の込んだ脚本で,後半の彼女達のセリフが見事だ。おバカに見せて,大切なものを描いている。
 『カラダ探し』:原作はコミックで,アニメ映画化を経て,劇場版実写映画化という典型パターンだ。高校で深夜に起こる殺人を描いたホラーであり,同じ日が繰り返されるタイムループの設定になっている。バラバラ殺人の被害者の8歳の少女(赤い人)に語りかけられた男女6人は,深夜12時に学校にいて,少女が失った身体を見つけるまで次々と殺されるが,目を覚ますと,また同じ日の朝が始まる……。怖そうに見せようとしているが,全く怖くない。翌朝生き返っているのが分かっているからだ。ホラー性よりも,青春映画の色彩が強く出ている。反復だけでは退屈するが,化け物に食べられると現実世界からも消滅するというので,少し面白くなる。ただし,化け物とのバトルは今イチだった。どんな結末になるのか,延々と後日談が続く邦画の悪弊を怖れたが,意外とシンプルなエンディングに好感がもてた。ただし,ポストクレジットは余計だ。
 『アフター・ヤン』:A・ワインスタインの短編小説「Saying Goodbye to Yang」の映画化作品で,人型ロボット「テクノ」が一般家庭にも浸透した数十年後の未来を,ユニークな映像と音楽で描いている。主人公の4人家族は,白人の夫,黒人の妻,養女ミカは中国系,そしてベビーシッター用ロボットのヤンだ。いかにも多様性を強調した構成である。ヤンはミカに寄り添い,ミカも兄のように慕っていたが,ある日,ヤンは突然故障して動かなくなってしまう。修理屋が分解したところ,特殊部品が組み込まれていて,毎日数秒間の映像が記録されていたことが判明する。この映像からヤンの秘密を探りつつ,家族の情愛や人間らしい生き方を考える映画となっている。自宅の内装や電子機器のデザインで近未来を演出し,光と電子音で神秘的,詩的に見せようとしているが,中身が薄い。長編映画にするなら,もう少し物語としてのコクと高揚感が欲しかった。
 『警官の血』:「このミステリーがすごい!」の1位に輝いた佐々木護の同名小説を映画化した韓国製のクライムサスペンスだ。主役は,裏社会と繋がり,出処不明の巨額の資金を使って捜査する広域捜査隊の敏腕班長のパク・ガンユン。もう1人は,親子3代の警察官で,殉職した父親の死に疑問をもつ新米刑事のチェ・ミンジェ。彼は,上層部からパク班長の不正を探る内定調査を命じられる。警察組織を闇を描いた映画は数多いので,鍵となるのは,物語が面白いか,登場人物が魅力的かだ。パク班長を演じるチョ・ジヌンは地味な顔立ち,新米刑事役のチェ・ウシクは軟弱な草食系風で,予想とはイメージが違った。ところが,潜入捜査時の手口が興味深く,物語はどんどん面白くなる。さすが,原作が警察小説の金字塔と言われるだけのことはある。終盤の二転三転は少し無理があって,映画としての作為を感じたが,エンタメとしては上々の出来映えだ。
 『天間荘の三姉妹』:表題から分かるように,最後の2本も「女性主人公の映画」で,まずは髙橋ツトム作のコミックを盟友・北村龍平監督が映画化した和製ファンタジーだ。「天間荘」は現世と天界の間にある町・三ツ瀬に存在する大きな温泉旅館で,臨死状態にある人間がここで魂をいやし,肉体に戻るか,天界に旅立つかを自ら決断する。主演は三姉妹の末っ子・たまえ(のん)で,この旅館に連れて来られ,異母姉の長女・のぞみ(大島優子),次女・かなえ(門脇麦)と初めて出会う…。他の助演陣も豪華キャストだ。人生の様々なテーマを,この不思議な設定の中で描いたヒューマンドラマである。全編オールロケだが,よくぞこんなに風格ある立派な老舗旅館を探してきたものだ。VFXのレベルは高くないが,終盤に効果的に使われている。走馬灯のビジュアルは上出来だが,音楽は平凡だった。内容は盛り沢山で,やや欲張り気味だが,うまく詰め込んだなと思う。
 『パラレル・マザーズ』:大トリは,2人のシングルマザーの物語だ。監督・脚本はスペインの名匠ペドロ・アルモドバルで,主演は彼のミューズのペネロペ・クルス。相変わらず美しく,10歳以上若く見える。上述の『スペンサー…』同様,アカデミー賞主演女優賞ノミネート作品で,待ち遠しかった映画である。テーマは,新生児の取り違えに伴うヒューマンドラマだ。ペネロペが演じるジャニスは写真家として成功した30代後半の女性で,産科病棟で17歳のアナと同室になり,2人は同じ日に出産する。我が子として育てたセシリアがアナの子供であることを知り驚愕するジャニスだが,アナが育てていた娘は急死していた。母親の家を出たアナを家政婦として雇い,2人は同居を始めるが……。この主テーマの他に,アナの母親の演劇や,スペイン内戦で命を落としたジャニスの曽祖父の遺骨発掘といったサブテーマも盛り込む手腕は,この名匠ゆえの余裕だろうか。いつものようにカラフルな映像も楽しめる。
 『ヒューマン・ボイス』:何という鮮やかな色合いの映像,選び抜かれた見事なデザインの衣装や美術セットだろうか。名前を聞かなくても,これもペドロ・アルモドバル監督の作品だとすぐ分かる。上記の『パラレル・マザーズ』を「大トリ」と書いてしまったのは,本誌の紙幅がそこで尽きたためだが,本作はたった30分の短編(中編?)映画なので,映画館では『パラレル・マザーズ』とセットの併映扱いとなっている。よって,Web専用のこの記事は,トリの後のアンコールのようなものだと思って頂きたい。描かれているのは,捨てられたことを理解せず,3日間も恋人の帰りを待ちわびている女性と犬。演じているのは,名優ティルダ・スウィントンただ1人なので,本作も「女性主人公の映画」で,これが「短評欄23本中の12本目」ということになる。焦燥感から落ち着きがなく,荒れ狂う彼女の独り言で始まり,やがて恋人から電話がかかってくる。相手の声は聞こえないので,引き続き彼女の声だけの会話劇である。フランスの詩人・劇作家・画家であったジャン・コクトーの戯曲「La Voix humaine」に大まかに基づいて,「電話のモノローグ」を自由に翻案したそうだ。アルモドバル監督は,コクトー原作のような従順な女性ではなく,媚びるほど依存し切ってはいない現代風女性を描いたという。電話での会話も,固定電話のような拘束はなく,スマホを置いたまま,ワイヤレスイヤホンを着けて部屋中を歩き回るという自由度のあるスタイルだ。練りに練られた独白劇の台詞を楽しむべきかも知れないが,筆者は室内装飾,多数の衣装,オープニングタイトルとエンドロールに登場する工具類の選択に見惚れていた。たった30分の映画だが,一体どれほど長い時間をかけたのだろうと想像してしまった。
 
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  (上記の内,『“それ”がいる森』『ヒューマン・ボイス』の2本,及び『ミーティング・ザ・ビートルズ…』の[付記]は,O plus E誌には非掲載です)  
   
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