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O plus E 2018年Webページ専用記事#6
 
その他の作品の短評
  (注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています。)  
   
   『エリック・クラプトン~12小節の人生~』:この秋から年末にかけて,音楽関連映画のラッシュだ。Webページ専用記事#5では『ボヘミアン・ラプソディ』と『バルバラ~セーヌの黒いバラ~』を,11・12月号では『アリー/スター誕生』と『私は,マリア・カラス』を紹介したが,本作と次項の2本も見逃せない,語らざるを得ない重要作品である。中でも,伝記映画としては本作がベストで,ロック音楽史に残る珠玉のドキュメンタリーと評価できる。いや,この映画のエッセンスからすれば,ロックよりもブルースへの想い入れが強いと感じられる。紹介が遅れたのは,マスコミ試写会でなく,公開後に映画館で観客と感動を共有することを選んだからだ。公開7日目の木曜の夜,日比谷のシネコンでの上映はほぼ満席で,観客の大半は中年以上の男性だった。135分の上映時間の内,1時間以上は1960年代のルースターズに始まり,ヤードバーズ,クリーム,ブラインド・フェイスに至るバンドを渡り歩く様を描くのに費やされ,多数の曲の演奏シーンが登場する。ここでの最大の見どころは,ビートルズの「ホワイト・アルバム」の収録風景だ。彼の半世紀以上の音楽歴の内の6~7年間だけでここまで描くのは,ミュージシャンとしての基本骨格がここにあるからだろう。ナレーションはクラプトン自身だが,語りは少なく,音楽だらけだ。ずっとこのスタイルかと思いきや,9歳時に彼を捨てた実母に再び拒絶されたこと,親友ジョージ・ハリスン夫人のパティへの横恋慕が延々と語られる。彼の人生前半でいかに大きなウエイトを占めたかが分かる。後半は,ドラッグやアルコール依存症,長男コナーの転落死と,予想通りの展開で,人生の遍歴そのものが見事に描かれている。勿論,心を打つのは愛児に捧げた名曲「Tears in Heaven」で,アコースティック・ギターのソロから,「Unplugged」のライブ演奏風景への切り替わりも上手い演出だ。最後に現在の妻子との幸せな生活を語る部分が味わい深い。本人が存命ゆえに成り立つ伝記映画だ。ライブシーンの音響とノリは,大ヒット中の『ボヘミアン・ラプソディ』が圧倒的だが,所詮コピーバンドの作り物シーンに過ぎない。伝記映画としては,本作の方が遥かに優れている。
 『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』:こちらも音楽ドキュメンタリーだが,対象はタンゴ界のカリスマ作曲家として知られるアストル・ピアソラで,代表作「リベルタンゴ」が殊更有名だ。まず冒頭から長男のダニエルが登場し,映画の大半は多数の記録映像を観ながら,彼の視点から父親の人格と業績を語る形式となっている。父アストル本人が語るインタビュー映像もあり,姉(長女)が登場するシーンも含まれる。意外にもニューヨーク出身であり,その後,アルゼンチン→欧州→アルゼンチンと本拠を変えたが,この間にタンゴ音楽をダンス音楽から聴く音楽へと発展させた過程が描かれている。アーカイブ映像からは,バンドネオン(アコーディオンに似た楽器)の奏者としても名手であったことが分かる。クラシックやジャズとのクロスオーバーを試みて,常に独創的な音楽を目指そうとする姿勢が貫かれている。語り手の長男は,約10年間父親と絶縁し,ようやく晩年に再会している。ある種のファーザー・コンプレックスだろうか。この映画での語りには,改めて偉大な父親への畏敬の念が滲み出ていると感じられた。
 『来る』:邦画の話題作で,11・12月号のメイン欄で取り上げる予定だったが,完成が11月下旬にずれ込んで間に合わなかった。ようやく月末に試写を観ることが出来たが,当欄希望のCG/VFXシーンの画像は,待っていても結局提供されなかった。止むを得ないので,長めの短評で済ませることにした。「来る,来る…」と焦らせておきながら,映画も画像もなかなかやって来なかったが,それは映画中の「謎の存在」も同じだ。『イット・カムズ・アット・ナイト』(18年11・12月号)では結局何も出てこなかったが,本作も題名の『来る』自体が思わせぶりで,「来るって,何が?」のキャッチコピーまでがその疑問を煽る。原作は澤村伊智作の「ぼぎわんが,来る」で,第22回日本ホラー小説大賞の受賞作である。「ぼぎわん」と聞いても,やっぱり,さっぱり分からない。残念ながら,ネタバレになるので,当欄でも正体は明かせないし,姿が見えるかどうかも書けない。まぁ,異星人でもピエロでもないとだけ言っておこう。監督・共同脚本は,『告白』(10)『渇き。』(14年7月号)の中島哲也。徹底した情報非公開路線の中で,主要出演者5人が上を見上げるスチル写真が印象的だった。岡田准一,黒木華,小松菜奈,松たか子,妻夫木聡の豪華キャストには,興味をかき立てられた。なるほど,寡作の実力派監督が挑んだ初のホラー作品と言うだけのことはある。冒頭から恐怖心を煽り,語りも映像展開もテンポが良い。ジェームズ・ワン製作・監督のハリウッド系のホラーとも,清水崇監督,中田秀夫監督らのJホラーとも語り口が異なる。すぐに新鮮味を感じた。出演陣では,監督の秘蔵っ子の小松菜奈の演技が光っていた。妻夫木聡と黒木華は,最初『家族はつらいよ』シリーズの妻夫木聡&蒼井優風の平凡な夫婦に見えたが,徐々に本性が出るに従って,2人とも怖い。いずれも普段の作品にはない異色の役柄で,彼らも好演の部類に入る。一方,松たか子が演じる「日本一の霊媒師」も異色ではあるが,少し大仰な演技をすれば,彼女でなくても誰でも演じられる。最も存在感が薄かったのは,岡田准一だ。広報宣伝上,彼を主演で起用したかっただけだろう。2人の演技が駄目なのではなく,監督が前の3人ほど演出に情熱を傾けなかっただけだろう。当欄のお目当てのCG/VFXはと言えば,頻出する青虫,多数の子供たちの亡霊,大量に流れる血液等々,約10社が参加し,しっかり描かれていた。さほど高級感はないが,邦画の平均レベルだと言える。むしろ,力作らしく,顔面メイクや身体装飾面での意欲が感じられた。新タイプのホラーとして,見て損はない。
 『輪違屋糸里 京女たちの幕末』:ようやく劇場用長編映画の形で,この物語をじっくり味わうことができた。昔,淡い想いを寄せていた女子学生に,10数年後の同窓会で再会した気分である(笑)。原作は浅田次郎作の同名小説で,名作「壬生義士伝」に続く,新撰組を題材とした時代小説の第2弾というので,連載開始時から注目していた。週刊文春連載の「壬生義士伝」は毎号欠かさず読んでいたのだが,2002年夏からの月刊誌「オール読物」での連載は途中で挫折し,単行本も文庫本も手にする時間がなかった。全2回の長編TVドラマも録画し忘れてしまったので,尚更この映画化が待ち遠しかった。筆者が大いなる感心をもったのは,物語の舞台が江戸末期の京都の遊廓・島原の地で,実在の置屋「輪違屋」に焦点を当てているからである。新撰組の壬生の屯所からは約1kmだから,目と鼻の先で,隊士もよく島原に通ったのだろう。現在も当時の建物がほぼそのまま残っていて,昨年夏までいた筆者のオフィスからは約400mしか離れていなかった。最寄りのJR丹波口駅には,観光客用に「輪違屋」までの簡易地図が掲示されていた。「壬生義士伝」では,ほぼ無名に近い隊士・吉村貫一郎が主役であったが,本作の主人公には輪違屋に所属する芸妓・糸里(藤野涼子)が選ばれている。同じく芸妓の吉栄(松井玲奈),新撰組隊長・芹沢鴨(塚本高史)の愛人・お梅(田畑智子)共々,実在の人物のようだが,詳しくは知られていない。物語はかなり脚色されていて,新撰組内での派閥対立,芹沢鴨襲撃事件を女性達の目から捕らえている。男臭さがウリの新撰組の物語を,時代に翻弄されながらも,強く生き抜こうとする女性を多数登場させたのは,小説家・浅田次郎の鋭い着眼点だ。江戸の吉原に比べると,映画等での登場回数がぐっと少ない花街の島原だが,吉原でも祇園でもない,情緒を醸し出していた。京ことば指導,衣装を含め,東映京都撮影所の美術部門の意気込みが感じられた。時代劇に利用できる寺社の選択も適切で,ロケと美術セットのバランスも良い。半面,少し残念なのは,中井貴一主演の映画『壬生義士伝』(03)に比べて,低予算で,俳優陣が少し小粒だったことだ。その分,演出にも演技にも深味がない。女性主人公は世の流れではあるが,当時の女性がここまで自己主張をもっていたとは思えない。糸里と土方歳三との恋物語,彼女が京都所司代・松平容保に語りかけるシーンなどは,原作が描く女性像とはかなり違うなと感じてしまった。
 『アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング』:ピンクのスーツ,それもかなりのミニ・スカートを身に着けた肥満体形の金髪女性の仕草を前面に出したキービジュアルを見ただけで,女性中心のコメディだと分かる。容貌,体形に劣等感をもつ女性レネー(エイミー・シューマー)は,事故に遭って意識を失うが,目が覚めた途端,絶世の美女に変身していた。一気に人生がバラ色になり,仕事にも男性へのアプローチにも積極的になった彼女が織りなす出来事の数々……。というだけでも楽しそうだが,何と,美女への変身は頭を打った彼女の思い込みに過ぎなかった!勘違いのまま突進する痛快ラブコメディだが,真実が分かった時の面白さが見どころだ。元の容貌のままでも,草食系イケメン男性(ロリー・スコヴェル)のハートを射止め,女性経営者に抜擢されるという展開は,容貌よりもポジティブ思考の重要性を説く女性賛歌映画である。目下絶好調の実力派女優ミシェル・ウィリアムズが美人で高学歴のCEOエイヴリー役だが,奇妙な声で登場するのが笑える。彼女とレネーの上下関係は,『プラダを着た悪魔』(06年11月号)のメリル・ストリープとアン・ハサウェイの関係とは全く異なるので,比較して観るのも一興だ。化粧品会社が舞台であるので,登場する女性のルックスやファッションは,勿論,注目に値する。願わくば,勘違いしたレネーには自分がどう見えていたのか,その美形ぶりを(他の俳優かモデル使って)見せて欲しかったところだ。難を言えば,我々日本人には分からない言葉や名前が多数登場する。きっと流行語,時事ネタ,CMのパロディ等であり,米国での著名人本人も何人かカメオ出演しているのだろう。
 『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』:上記と同日の公開だが,ファッションに関しては本作の方が圧倒的だ。当短評欄では,画家,写真家,音楽家,デザイナーらアーティストの伝記ドキュメンタリーを積極的に取り上げている。名前をかすかに知っている程度で,直接作品に触れる機会はなくても,こうした記録映像で,当該分野の価値観や流行,アーティストを支援する人々や業界の仕組みを学べるからだ。これも映画の効用だろう。本作の被写体は,英国のファッション・デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッド。名前は知らなかったが,10カ国以上に進出し,日本でも東京・青山に店舗があるようだ。まず映画の冒頭の発言から驚いた。個性的なデザイナーは多いが,こんなに激しい強烈な性格の女性は初めてだ。大変な自信家であり,才能だけで頭角を表してきたのだろう。経歴も相当に変わっている。若くして結婚し,最初の夫の姓を今も名乗り,2人の夫との間に男児1人ずつを設けたのは驚くに値しないが,51歳で25歳年下の教え子と3度目の結婚をし,現在も公私共に最強のパートナーだという。2番目の夫はアナーキストのマルコム・マクラーレンで,2人でパンク・ロックに傾倒し,ブテイックの従業員や常連客をメンバーとしたバンド「セックス・ピストルズ」を生み出した。なるほど,初期の強烈な色彩のファッションは,まさにパンクそのものだ。歯に衣着せぬ言動と果敢な行動で,業界内でも敵は多かったようだが,それを跳ねのけての成功は,まさに一切の妥協をせず,生きたいように生きてきた証しだ。魅力的ではないが,刺激的だ。尊敬はしないが,語るに値する。個人的に付き合いたくないが,この記録映像は食い入るように観てしまう。そんな人物だ。このデザイナーのように生きたいと思うか,若い女性達に尋ねてみたくなった。
 『迫り来る嵐』:中国製のノワール映画で,1990年代後半の中国が舞台となっている。達者な映画だが,気が滅入る映画だ。映像も暗いが,メンタルでも残酷な映画だと感じる。2008年に始まり,1997年が大半で,最後に2008年に戻る。その1997年が,何しろずっと雨ばかりだ。2008年は大雪になりそうな空で終わる。香港返還前の中国の国営工場が舞台だが,工場前の光景はリュミエール兄弟が作った世界最初の実写映画『工場の出口』(1895)を思い出す。工場近くで起こった連続殺人に関心をもち,職務を超えて犯人を追うことに執着する保安部警備員の男が主人公の物語である。1997年の中国は驚くほど貧しく,汚い。人も町も工場内部もである。その上,雨と猟奇的殺人の連続では,心が寒くなる。疲労感と幻影……,現在の繁栄を謳歌する中国人でも,年配者には既視感のある光景であることを狙っているのだろう。監督・脚本は,ドン・ユエ。これが初監督作品とは思えぬ達者な演出力で,主演のドアン・イーホンの演技力も光っていた。物語の鍵を握るヒロイン役はジャン・イーイェンで,彼女のもの悲しい表情が印象に残った。ラスト近くの工場の爆破は本物か,VFXか? おそらく,本当に解体する老工場を探してきて,爆破したのだろう。
 『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ!』:ユニークかつ味のあるドキュメンタリー映画だが,観る世代によって興味も評価も大いに異なる作品だろう。対象は個人やグループではなく,「時代」である。世界に大きな影響を与えた1960年代の英国の「Swinging London」と称される若者文化の大革命を描いている。製作及び案内役は名優マイケル・ケインで,彼自身が俳優として成長する過程も随所に登場する。1933年生まれで,当時20代後半から30代にかけての彼は「若者が未来を作った時代。私たちの時代」と述べるが,それより下の筆者らの「団塊の世代」「ベビー・ブーマー」も含まれ,これより上の年代の観客は大いに共感するはずだ。多くのミュージシャン,写真家,ファッション・モデルやデザイナーの当時の映像と存命者のインタビューで構成されているが,シンボル的存在はビートルズとツィギーだ。その他,ローリング・ストーンズ,ザ・フー,デビッド・ボウイ,メアリー・クワントらが続々と登場する。さすが,6年間かけて取材しただけのことはある。とりわけ(筆者と熱心なファンにとって)貴重なのは,これまで見たこともないビートルズのアーカイブ映像とその発言である。なるほど,これだけジョンとポールが長時間密接に交わって曲作りをしていたなら,彼らの楽曲すべてを「Lennon=McCartney」名義にしようと誓い合ったことが納得できる。自由を求めての古い価値観からの脱却,権力への反発,個性の発揮と成功……,何だ英国も日本も同じだったんじゃないかと感じる。いやいや,間違いなく英国が発信源であったことは確かだ。それに影響され,受入れる素地が既に世界各国にあったとも言える。華やかな新文化と成功例だけでなく,このドキュメンタリーはやがてドラッグに犯され,退廃した悪しき習慣に染まって行くこといくことも描いている。ルーフトップ・コンサートの映像をバックに,ジョン・レノンが「やりたことはやった。グループでいることに飽きて,苛ついていた」と述懐するのが印象的だった。案内役のM・ケインの「変化を起こしたが,変化に締め出された。パーティーは終わった」なる言葉が胸に突き刺さった。
 『クリード 炎の宿敵』:あの『ロッキー』シリーズのスピンオフ作品として登場した『クリード チャンプを継ぐ男』(16年1月号)の続編である。不思議なシリーズで,まだ昔の名前で続ける気かと思った『ロッキー・ザ・ファイナル』(07年5月号)以降,むしろ輝きを増し,1作毎にエンタメとしての完成度を増している。監督・脚本・主演を張ったシルヴェスター・スタローンは,前作から監督は他人に任せて,製作・脚本を担当し,役柄もトレーナーやセコンド役の助演に回っている。俳優としては全くの大根役者だが,プロデューサーとしての才能があるようだ。前作は,ロッキーと死闘を繰り広げたアポロ・クリードの息子アドニスをボクサーとして鍛える話であった。本作では,成長してチャンピオンになったアドニスに,父の命を奪ったイワン・ドラゴの息子ヴィクターが挑戦状を叩きつけ,因縁の対決へと向かう物語である。アドニスド役の主演マイケル・B・ジョーダンは,『ブラックパンサー』(2018年Web専用#1)の敵役で主役を食う好演を見せ,すっかり風格が出てきた。まさにボクサーとしての成長をも感じさせる。例によって物語は単純で,後半のタイトルマッチ・シーンを楽しむ映画に尽きる。いかにも敵が強そうで,パンチの音にも重量感がある。クライマックスでは高らかに「ローキーのテーマ」が流れ,ここで拍手喝采となる。もはやスピンオフどころではなく,このまま完全にクリード中心のシリーズで進めるのだろうか? もう1作くらいはそれでもいいが,その後はまた別の若手を発掘して育てる話にすれば,いくらでも続けられる。うまい手を考えたものだ。
 
 
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