O plus E VFX映画時評 2025年12月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から![]()
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■『殺し屋のプロット』(12月5日公開)![]()
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ワクワクするような題名だ。クライム・ムービーであることは自明で,名うての殺し屋が鮮やかに決め技を披露する姿が思い浮かぶ。宣伝用の惹句に「孤高の老ヒットマンが人生最期の完全犯罪に挑む」とあるから,スナイパーの一撃ではなさそうだ。原題は『Knox Goes Away』。Knoxは主人公の姓で,彼が「消え去る,逃げおおす」では面白味がないが,「プロット」の一言を入れたことで, 知力を振り絞って警察を欺く犯罪を完成させ,それを最後に引退するのだと想像してしまう。
監督・主演・製作はマイケル・キートン。かつてのバットマン俳優は長い低迷の後,『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(15年4月号)で完全復活し,オスカー受賞作『スポットライト 世紀のスクープ』(16年4月号)では記者役で渋い演技を見せた。『ビートルジュース ビートルジュース』(24年9月号)では,36年ぶりの続編で前作の主人公を再度怪演し,健在ぶりを印象づけた。ただし,監督作は国内劇場未公開の『クリミナル・サイト 〜運命の暗殺者〜』(09)があっただけで,本作がまだ2本目である。筆者の興味は彼の演出技量よりも,助演の老優・アル・パチーノがどんな役柄で登場し,主人公の完全犯罪にどう関わるのかであった。
主人公のジョン・ノックス(M・キートン)は,2つの博士号を持つ元陸軍偵察部隊の将校で,裏稼業が辣腕の殺し屋であった。それがバレて妻子と別れたため,今では独り暮らしで哲学書を読みふけり,毎週木曜日に売春婦のアニー(ヨアンナ・クーリク)を自宅に呼んで,孤独な日々を紛らわせていた。物忘れが酷くなり,神経科の診察を受けたところ,アルツハイマーではなく,「クロイツフェルト・ヤコブ病」だと宣告される。進行速度は速いが治療法はなく,完全に記憶を失うまで数週間の猶予しかない。彼はすぐに裏稼業からの引退を決意した。ところが,最後の一仕事で発作を起こし,標的以外に無関係な女と相棒のマンシー(レイ・マッキノン)も誤って殺してしまう。 何とか,3人が撃ち合ったように現場を細工し終えて立ち去った。
帰宅したノックスを,10数年間疎遠だった息子・マイルズ(ジェームズ・マースデン)が突然訪ねて来て,「人を殺した。助けてくれ」と言う。16 歳の娘ケイリーをレイプして妊娠させたパーマーなる男を衝動的に刺し殺したと言う。急ぎ犯行現場を点検したが,大量の証拠が残されていたため,マイルズの犯行を隠蔽する「完全犯罪」を思い着いた。翌日,彼を殺し屋稼業に勧誘した親友・ゼイヴィア(A・パチーノ)を訪ねて協力を依頼するが,2つの殺人事件を担当することになったイカリ刑事(スージー・ナカムラ)は,監視カメラからノックスに辿り着いた。果してノックスは「完全犯罪」を成し遂げることができるのか……?
これで「記憶が消える前に,罪を消せ」の意味が分かり,A・パチーノが標的でも戦う相手でもないことに安心した。上記では「?」を付したが,この種の映画が成功で終わらない訳はない。手口は明かせないが,どんな終わり方になるのかを愉しむ映画であるとだけ言っておこう。欲を言えば,A・パチーノの出番がもっとあって欲しかった。一方,日系アメリカ人S・ナカムラ演じるイカリ刑事はかなり優秀で,彼女がノックスを追い詰める描写も本作の脚本の優れた点であった。
■『ペンギン・レッスン』(12月5日公開)![]()
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この邦題は原題をカタカナ表記しただけだが,一体,ペンギンにどんなレッスンをするのかが気になった。原作は英国人作家トム・ミッチェルが自らの体験を2015年に表わしたベストセラーノンフィクション「人生を変えてくれたペンギン 海辺で君を見つけた日」で,それを『フル・モンティ』(97)でオスカー監督となったピーター・カッタネオが映画化している。彼の作品を当欄で紹介するのは初めてだが,何と16年ぶりのメガホンだという。
舞台となるのは1976年,軍事政権下で政情不安のアルゼンチンのブエノスアイレスである。人生に行き詰まりを感じた英国人のトム(スティーヴ・クーガン)は名門寄宿学校セント・ジョージ・カレッジに赴任し,英語教師でラグビー部の副担当も任された。生徒は裕福な家庭の子弟であったが,大半が不真面目で,授業中にも手を焼いた。軍事クーデターが勃発し,学校が休校になったため,気分転換に同僚の物理教師タピオ(ビョルン・ グスタフソン)とウルグアイを訪れた。酒場で知り合った現地女性カリナと明け方のビーチを散策すると,重油まみれになった瀕死状態のペンギンが見つかった。カリナに説得されてホテルまで運び,浴槽で油を落として保護した。カリナはさっさと帰ってしまったので,翌朝,トムはペンギンを海に帰したが,何度も彼の元に戻って来てしまう。止むなく寄宿学校に持ち帰り,「フアン・サルバドール」と名付けて,部屋の中での奇妙な同居生活が始まった。それを応援してくれたのは,メイドのマリア(ヴィヴィアン・エル・ジャバー)と彼女の孫娘ソフィア(アルフォンシーナ・ カロシオ)であった。
生徒の態度もさることながら,何事にも無関心な英国人教師にも好感がもてず,前半は退屈な映画であった。ところが,後半になって映画の印象が一変する。寄宿学校の同僚や生徒に共感を示し,政治的意識に目覚めて行くトムの心情の変化を主演男優S・クーガンが見事に演じていた。それがペンギンの可愛い仕草が影響していると感じさせる監督の演出も秀逸であった。教室に連れて行くと,たちまち人気者になったサルバドールのお陰で,生徒たちの態度までが激変する。ペンギンの存在を知り,一旦はトムに出て行くよう命じた厳しい校長(ジョナサン・プライス)までが心変わりするのには驚いた。
サイドストーリーとして,孫娘ソフィアが共産主義者として逮捕され,軍の幹部に彼女の解放を求めたトムまで拉致されてしまう政治的展開が描かれていた。原作にはない脚色らしいが,軍部の圧政を描いたゆえに,ペンギンの愛らしさがもたらすヒューマンドラマが引き立っていた。「レッスン」はペンギンを飼いならす教育ではなく,ペンギンの存在による学校教育への良好な効果,人間社会が受けたペンギンからの「レッスン」であった。実話であるというから,原作者も寄宿学校も影響を受けたのであろう。人間側の演技としては,祖母マリア役のV・E・ジャバーの存在感が光っていた。
ところで,かなりの演技力を感じたペンギンはどう見ても本物で,CGには見えなかった。実際は,2羽のマゼランペンギン(ババとリチャード)を使い分けて撮影したようだ。それでも,本物のペンギンを重油まみれにする訳には行かない。階段の上り下り等,実物のペンギンには無理がある場面は,人形やアニマトロニクニクスを使用したという。エンドロールには多数のVFXアーティストの名前があったので,そうしたシーンを本物らしく見せるため,VFX処理を加えていたと思われる。
■『ピアス 刺心』(12月5日公開)![]()
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原題は『刺心切骨』,英題は『Pierce』で,邦題はその両方を取り入れている。「ピアス」と表記すると耳朶に開けた穴しか思い浮かばないが,本来は「刺す,貫く,突き通す」を意味する動詞で,名詞ではない。身体に「穴を空ける」の場合でも,耳朶とは限らない。その点では原題の方が圧倒的に優れている。「心を突き刺す」ような青春映画であり,フェンシングがテーマなので「切骨」が何を意味しているかは,映画の中で理解できる。
舞台となるのは台湾の台北市で,濁流にかかる橋の上から,我が子ジージエが溺れているのを見て,母親が叫ぶシーンから始まる。ようやく兄ジーハンが手を差し伸べて,ジージエは助かる。時代は経過し,高校生のジージエ(リウ・シウフー)がフェンシングの練習をしているシーンとなる。シングルマザーの母アイリン(ディン・ニン)はクラブの歌手しながら2人の息子を育ててきたが,中年男のチュアンに求愛されていた。その家族との会食にもジージエだけを連れて行き,兄ジーハンは米国の大学で医学を学んでいるので帰国できないのだと嘘をつく。訳ありで,ジーハンを避けているようだった。
ジーハン(ツァオ・ヨウニン)は,3年連続フェンシングの大会で優勝した優秀な選手だったが,試合中に折れた剣で相手を刺し殺してしまった。彼は「事故だ」と主張したが,審判員の制止に従わなかったため,故意と見做されて有罪となった。7年間の収監後,模範囚のジーハンは仮釈放されたが,母親が受け入れを拒否したため,スーパー店員として働きながら独り暮らしを始めた。ある日,弟の高校を訪れた兄は,彼の練習姿を見て,思わずフェンシングの技を教えてしまう。母には内緒で兄の指導を受け続けたところ,ジージエは大会の出場選手に選ばれた。喜んだ兄は模範を示すため,別の選手と闘ったところ,またしても折れた剣で相手を傷つけてしまった。ジージエには「事故だ」いう兄の言葉が信じられなくなり,幼い頃,溺れるすぐに自分を救ってくれなかった記憶が蘇る。兄は悪魔か,愛は欺瞞か,疑念で逡巡する中で,恐ろしい出来事が起きてしまう……。
揺れ動く弟ジージエの心,それを感じた兄ジーハンの絶望感の心理描写は見事だった。ただし,こんな不幸な結末しかないのかと思う。その中で,ジージエが同級生の選手と同性愛関係になる展開には,必然性が感じられなかった。一方,フェンシングは,練習も試合も見応えがあった。元々,五輪中継しか見たことがなく,「フルーレ」「エペ」「サーブル」の3種目があることは知っていた程度である。それゆえ、選手の技量や駆け引きなど見抜けない。剣の先端は電気的に接触判定できるだけの作りであるが,折れた剣が二重防護されている着衣を突き破って凶器となる殺傷力があるとは知らなかった。
出演者は全員台湾人の俳優だが,監督・脚本はシンガポール人の女性ネリシア・ロウ(劉慧伶)で,本作が長編デビュー作である。フェンシングは5年間もシンガポールの国家代表を務めた腕前ゆえ,リアリティが高いのも納得できる。実際に台北の地下鉄内で起きた殺傷事件で弟が兄にとった態度に触発された物語だという。
もう1つ感心したのは,本作の情感豊な音楽であった。劇伴曲は兄弟2人の揺れ動く心に見事にマッチしていたし,懐メロしか歌わないという母アイリンの選曲も頷けた。最後まで観て気がついたのだが,全編でたった2曲しか使われていなかった。1曲はNeil Sedakaの “Oh! Carol”である。1959年発売の軽快なポップスで,世界中で大ヒットした。まずアイリンのクラブでの熱唱,途中では歌なしの音楽だけ,エンドロールではN. Sedaka自身のオリジナル歌唱と,3度も登場する。
劇伴の器楽曲は本作のオリジナルだと思ったのだが,このメロディは同じくN. Sedakaが翌60年に発表した“You Mean Everything To Me”(邦題:きみこそすべて)であった。ライバルPaul Ankaの“You Are My Destiny”(邦題:君は我が運命)に対抗して作られたスローバラードで,歌詞も曲調もよく似ている。筆者は当時買った4曲入りEP中の最も地味な曲として覚えていた。他のN. Sedakaの明るいヒット曲とはかなり趣きが異なり,(特に日本では)余りヒットしなかった。
劇中では,メロディの一部分だけを切り出し,何度も劇伴曲として使われていて気がつかなかったが,映画の最後で母アイリンが歌うフルコーラスを聴いて,上記のN. Sedakaの曲だと分かった。本作では完全に主題歌扱いであり,その歌詞は見事にこの映画にマッチしていた。アイリンを見つめる恋人チュアンの想いのようであり,兄弟2人の互いに対する愛の詩でもあった。
この曲が映画中で使われたのを初めて観た。65年も前のこの曲を誰が選んだのだろう? まだ34歳の監督はあり得ない。1955年生まれのサウンド・デザイナーのドゥ・ドゥーチー(杜篤之)は,5歳の頃からこの曲を知っていたのだろうか? ともあれ,この曲の歌詞とラストシーンの兄弟の切ない表情を結びつけた若手女性監督は,大した実力であると感じた。次作が楽しみだ。
■『WIND BREAKER/ウィンドブレイカー』(12月5日公開)![]()
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同じ配給会社で公開日が1週間しか違わないのに,題名が似ていて紛らわしいと書いたのは『WEAPONS/ウェポンズ』(25年11月号)だが,内容は全く違う。こちらは邦画で,原作は英字だけの人気不良漫画である。その意味では比べるべきは,同じワーナー配給の『東京リベンジャーズ』シリーズである。同作の舞台は勿論東京で,巨悪組織の「東京卍會」の内部抗争や敵対する「芭流覇羅」との暴力的攻防が描かれていた。構成員は成人男子ばかりだが,主人公がタイプリープして中学生時代に戻るという場面もあった。一方,本作にはそんな特異な仕掛けはなく,舞台は名もない小都市で,その中心には「まこち町東風商店街」がある。「偏差値は最底辺,喧嘩は最強」という風鈴高校生たちが不良集団で,当然ライバル集団との抗争が描かれている。規模の大小はあれど,ヤンキー映画はどれも似たようなものだ。それでもファンは多い。
主人公は喧嘩だけが取り柄の一匹狼の桜遥(水上恒司)で,噂に聞く風鈴高校のてっぺんを取るべく,街の外から1年生として入学してきた。ところが,同校の武闘派たちは不良であることを返上し,街を守る存在となり,「防風鈴(ぼうふうりん)=ウィンドブレイカー」と呼ばれていた。商店街にやって来た桜遥は,早速,喫茶店「ポトス」での小競り合いでチンピラを片づけて,そこで働く少女・橘ことは(八木莉可子)に感謝され,防風鈴の面々からも仲間になることを勧められる。
防風鈴には,人望のある総代・梅宮一(上杉柊平),屈指の武闘派の柊登馬(中沢元紀)らの3年生や,梅宮を崇拝する杉下京太郎(JUNON),ケンカは弱いが情報収集に長けた楡井秋彦(木戸大聖)らの1年生がいた。ところが,力の絶対信仰を掲げる凶悪な集団「獅子頭連」が防風鈴を新たな標的として動き出す。両陣営の駆け引き,腹の探り合いから,激しいバトルに向かうのはほぼ予想通りだった。敵側で個性的であったのは,「獅子頭連」の頭取・兎耳山丁子(山下幸輝)だ。小柄で,見た目は愛らしいのに,並外れて強く,かつ冷酷であったことだ。いかにも漫画的なキャラクターと言える。
監督は『東京喰種 トーキョーグール』(17年8月号)『ブルーピリオド』(24年8月号)の萩原健太郎。この種のコミック原作の映画化は慣れているはずだが,本作を小粒に感じたのは,数あるヤンキー漫画の中でも特別な存在ではなかったからだろうか。脚本も俳優の演技も凡庸に感じたが,不良映画としては合格点だ。。
■『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』(12月5日公開)![]()
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当欄が映画の題名,そこから受ける印象に拘ることは既にご存知だろう。マスコミ試写の案内があった時には,監督,主演俳優,テーマ等を総合判断して観るかどうかを決めるのだが,その後は判断根拠を一旦忘れることにし,視聴前夜か当日に,題名からどんな映画なのかを想像することにしている。この題名の場合,「ペリリュー」は全く知らず,当然洋画だろうと思った。楽園というからには,南太平洋か地中海の島で,「ゲルニカ」と言えばパブロ・ピカソだから,スペイン出身の彼が幼少期に過ごした夏の想い出か,あるいは晩年に南太平洋の島で過ごしたのだろうか程度の感じだった。
ところが,試写当日に見たニュースは,愛子さま(敬宮愛子内親王殿下)が前日にチャリティ上映会でこのアニメ映画をご覧になったと報じていた。それなら邦画で,ほのぼの系のアニメかと思ったが,ペリリュー島は終戦70年の2015年に当時の天皇・皇后両陛下(現,上皇・上皇后両陛下)が慰霊訪問されて島だという。よくやく思い出した。原作は戦争コミックで,可愛い描画だが,太平洋戦争時の狂気と悲惨な体験を圧倒的なリアリティで描いたアニメ映画というので選んだのだった。ピカソの「ゲルニカ」も,ドイツ空軍による無差別爆撃を受けた都市の様相を描いた絵画で,反戦のシンボルであった。
戦争アニメの金字塔と言えば,『火垂るの墓』(88)と『この世界の片隅に』(16年12月号)である。この両作と本作はアニメの画調も異なるが,何よりも違うのが主人公たちは終戦前後の内地の一般市民ではなく,本作では応召してパラオ諸島の島で奮戦した兵士あり,生き残った兵士たちは終戦を知らずに島で生活したという点である。その点では今年観た『木の上の軍隊』(25年7月号)と酷似している。実写とアニメと違いはあれど,飢えや渇きに苦しみ,近くの米軍施設から食料を盗んだり,約2年後の帰還という点でも相似形だと感じた。
主人公は21歳の漫画家志望の田丸均一等兵(声:板垣李光人)で,昭和19年7月に美しいペリリュー島で従軍していた。文才と画才を買われて,戦死した兵士の最後の雄姿を遺族のために書き残す「功績係」という軍務に就いた。約4万人の米軍の猛攻にさらされ,たった1万人の日本軍は追い詰められて行く。極限状態の中,仲間の死を時に嘘を交えて美談に仕立て上げていくことに田丸は疑問を感じ始めた。そんな田丸の心の支えとなったのは,同期の吉敷佳助上等兵(声:中村倫也)で,2人は励まし合い,苦悩を分かち合って絆を深めて行く。最後まで生き残ったのはわずか34人であった……。
『木の上の軍隊』で新兵・安慶名セイジュンが向き合うのは山下一雄少尉だけであったが,本作では小隊長の島田洋平少尉,飄々とした小杉三郎伍長,戦闘能力が高い片倉憲伸兵長等,個性的な人物が描かれている。さすが日本漫画家協会優秀賞の受賞作だけのことはある。原作は武田一義で,上記の天皇・皇后両陛下の慰霊訪問を機に「ペリリュー島の戦い」を知り,読み切り2編の後,改めて3年強の連載に挑んだ。アニメ映画化に際しては共同脚本も担当している。人物の顔は頗る可愛いが,戦闘描写は激烈で,これは映画版でも踏襲されている。さらに,映画版の背景描写は,原作コミックに比べて格段に美しくかつリアルだった。配給は東映だが,アニメ制作はシンエイ動画と冨嶽が担当している。
余談だが,愛子さまが本作をご覧になった上映会の11月27日は,81年前に米軍が「ペリリュー島の戦い」の作戦終了宣言をした日であったという。さらに余談だが,主演の板垣李光人と愛子さまは同い年の23歳(上映会当日)で,主人公の田丸均の終戦時の年齢でもある。
■『エディントンへようこそ』(12月12日公開)![]()
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題名の「エディントン」とは,米国ニューメキシコ州の小都市である。実在の町ではなく,米国南西部の保守的で面白味のない小都市の代表として本作に登場させているに過ぎない。原題は単なる『Eddinton』であるから,敢えて「ようこそ」を付すなら,『アリ・アスターの世界にようこそ』の方が内容を適確に表現している。言うまでもなく,デビュー作『ヘレディタリー/継承』(18)が話題となり,2作目『ミッドサマー』(21)で世界中の映画ファンの度肝を抜いたアリ・アスター監督のことである。観る者を不愉快にすることでは,当代随一だ。実は,後者は当欄で紹介するつもりでしっかりマスコミ試写を観たのだが,余りの不快感で語る気になれなかった。
第3作の『ボーはおそれている』(24年1月号)の主演に起用したのは,不快感ではひけをとらない『ザ・マスター』(13年4月号)『ジョーカー』(19年9・10月号)のホアキン・フェニックスであったので,この「最凶コンビ」が何を見せるのかと,身構えて試写会に臨んだ。何が出て来ても驚かないと覚悟していたので,不安症の男が旅する前半のロードムービーは結構楽しめた。後半はダラダラとつまらなかったが,第2作目ほど不愉快ではなかった。さて,同じ「最凶コンビ」での本作のテーマは,CODID-19によるコロナ渦と黒人男性の死から始まったBLM運動だという。そう聞いただけで,どれだけ後味の悪い映画となるかが楽しみになった。
時代は2020年,コロナ渦の真っ只中で,エディントンの町は市長テッド・ガルシア(ペドロ・パスカル)が決断したロックダウンの隔離生活により,市民たちは苛立っていた。主人公の保安官ジョー・クロス(J・フェニックス)は自らが喘息持ちであることを理由にマスク着用しなかったので,到るところで小競り合いを起こした。それを咎めた市長に暴力をふるってしまう。元々,ジョーの妻ルイーズ(エマ・ストーン)がテッドの元恋人であったことが彼の嫉妬心の根源だった。勢いでジョーは,来るべき市長選に出馬すると宣言する。表向きは,野心家のテッドがIT企業の大規模データセンターを誘致しようという政治姿勢が町を滅ぼすと主張した。
2人の保安官代理ガイとマイケルを使って選挙運動を開始したが,人種の異なる2人は悉く対立した。自宅に戻れば,情緒不安定な妻ルイーズがカルト集団の教祖ヴァーノン(オースティン・バトラー)のYouTube動画にハマってしまい,陰謀論を信じていた。孤独を深めるジョーはテッドとの対立を深め,SNS はフェイクニュースと憎悪で炎上し,町中が猜疑心と怒りで分断された。
まだこの辺りは可愛いもので,監督の米国世相批判と受け取れたが,後半が凄まじかった。ジョーが浮浪者を射殺して遺体を川に投げ込むだけでも驚いたが,さらにある親子を自宅で射殺する。その上,重武装したテロリスト集団がジェット機でエディントンにやって来て,町では誘拐と放火が横行し,未計画な発砲と爆発が続く展開には言葉を失ってしまった。一体,この映画は何なのだと思いつつ最後まで観てしまうのが,アリ・アスター映画の魅力でもある。
そして市長選の結果と,1年後を描いたラストシーンには,不快感でなく,笑いを禁じえなかった。これはホラーではなく,ある意味で,見事な娯楽映画である。よくぞこんな脚本を書いたものだと,このブラックジョークに畏敬の念すら覚えてしまった。
■『THE END(ジ・エンド)』(12月12日公開)![]()
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原題は単純な『The End』で,これで検索すると20本弱の映画が出て来てしまう。この単語を含む映画となると数え切れない膨大な数になる。それに配慮してか,邦題にはカタカナが添えられているので,こうなると紛れがなく本作が検索できる。では,何の「終わり」の映画なのかを想像すると,ある人物の終活を描いたヒューマンドラマか人類の終末期を描いたディストピアものが思い浮かぶ。シンプルな題名ほど大きなテーマを描いているはずだと予想したが,まさに後者であった。
25年前に地球環境が破壊され,地上には人間が住めなくなった世界で,それでも一部の富裕層の人間達は地下シェルターに住んでいるという設定である。鉱山内の坑道と思しきシーンが登場し,それが延々と続くビジュアルから始まる。地下シェルターと言っても,自宅の下の地中に設けた寝室と保存食料だけの小さな空間ではなく,富裕層が四半世紀も暮らしただけはある豪邸で,大きなプールまである。主人公はティルダ・スウィントンが一家の母親で,父親(マイケル・シャノン),20歳の息子(ジョージ・マッケイ)の他に,母の親友,老齢の執事,医師の6人で暮らしていた。壁には大きな額縁の絵が何枚も飾られ,父親は回顧録を執筆し,まだ外界を知らない息子は地上世界に憧れ,その縮小模型を作っていた。
ある日,一家は坑道で意識を失っている少女(モーセゼス・イングラム)を見つけ,自宅に運び込む。彼女は,極限状態の地上で川を渡る時に家族を見捨て,独りで坑道に入り込んだという。存在に疑念を抱く母親は少女を地上に追い返そうとするが,彼女に魅せられた息子が一緒に住むことを懇願する。やがて2人は結ばれ,子供も出来てしまった。それでも,彼女の存在が一家のそれぞれが過去を振り返ることに繋がり,母と友人は他の人々を置き去りにした罪悪感に苦しむ。一方,父親は人類を未来に残そうとした自分の判断の正当性を訴える。家族内での均衡が崩れて始めて,不穏な空気が流れる……。
真剣に考えれば極めて重いテーマで,映画として暗くなりがちだ。それを和らげていたのは,全編がミュージカル仕様で,登場人物全員のセリフの大半が歌であったことだ。それでは掴み合いの喧嘩にはならない。本作の監督・共同脚本はジョシュア・オッペンハイマーで,名前しか聞いたことがなかった。1960年代にインドネシアで起きた大虐殺事件を描いたドキュメンタリー映画2本『アクト・オブ・キリングク』(13)『ルック・オブ・サイレンス』(14)が共にオスカー・ノミネートされて注目を集めたが,劇映画は本作が初めてである。
この監督はソ連崩壊後に大富豪となったオリガルヒに招かれ,地下に作られた宮殿のような核シェルター目撃した。彼らは非常時に他の親族を捨てて,ここに逃げ込むことに罪悪感を感じていたので,それを映画にしたかったと語る。その一方で,人間は絶望的な状況でも,希望的・楽観的な考え方で自分を偽るのだという。その手法としてミュージカルを選択したというのに納得した。
上記『エディントン…』と本作は価値観の分断を描いたシリアスなテーマで,いずれもどういう紹介にしようかと迷った。同じ週の公開は偶然の一致だが,本作は暴力的でなく,結末もシニカルではない。ラストシーンの映像の解釈は観客に委ねられている。
(以下,12月公開作品を順次追加します)
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