O plus E VFX映画時評 2025年10月号掲載

その他の作品の論評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『ワン・バトル・アフター・アナザー』(10月3日公開)
 今月のトップバッターは,文句なしにこの映画だ。この秋一番の重厚な大作で,オスカーノミネートは確実だろう。そう感じたのは,勿論,試写を観終えてからであり,この片仮名表記の題名には魅力を感じなかった。レオナルド・ディカプリオ,ショーン・ペン,ベニチオ・デル・テロの競演は仰々しいだけで,162分の長尺映画は退屈なだけではないかと懸念した。
 予約したマスコミ試写の前日に届いたプレス資料は極めて簡素で,惹句の他に,ストーリー欄はたった4行しかなかった。監督や主演俳優の言葉もない。配給会社はやる気がないのか? 内容が薄く,駄作と思っているからか? いやいや,そんなわけはない。高額ギャラの3大スターを揃えて,162分ものB級コメディであるはずはない。もはや美男とは程遠くなった近年のレオ様の容姿では若い女性ファンの集客は期待できず,毎回演技賞狙いかと思う本格派ドラマの主演を続けている。そう考えながら,概要はロクに読まず,監督名は見ていなかった(注:長文のProduction Notesは後日届いた。米国公開前で,日本語訳が間に合わなかったのだろう)。
 映画は,メキシコ国境に近いオタイメサ移民収容所から始まる。時代表記はないが,現代ではないことは確かだ。主人公のパット・カルフーン(L・ディカプリオ)は極左革命グループ「フレンチ75」のメンバーで,仲間からは「ゲットー・パット」と呼ばれ,リーダー格だった。女性戦士ペルフィディア・ビバリーヒルズ(テヤナ・テイラー)らと収容所を襲い,拘留されていた移民の脱獄が成功する。この過程で,ペルフィディアは収容所の指揮官スティーブン・J・ロックジョー(S・ペン)を拘束し,性的な辱めを与える。その後,フレンチ75は政治家事務所,銀行,電力網への攻撃を繰り返す。この辺りの描写は生々しく,日本人には馴染みの薄い米国南部や収容所の実情を,映画ならではの描き方から学べた。
 パットとペルフィディアは事実上の夫婦関係になり,ペルフィディアは女児シャーリーンを出産したが,革命運動を重視し,パットと娘を捨てて出て行った。銀行強盗に失敗し,警備員を殺害したペルフィディアはロックジョーに逮捕されるが,仲間の情報の密告を強要され,その引換えに刑務所収監は免れて,メキシコに逃亡した。卑劣なロックジョーがフレンチ75メンバーを追い詰め,次々と射殺したので,パットはボブ・ファーガソンなる偽名を名乗り,娘はウィラと名付けて身を隠した。
 それから16年後,薬物中毒のボブは聖域都市バクタン・クロスに住み,美しく育ったウィラ(チェイス・インフィニティ)と暮らしていた。一方,反移民政策に邁進するロックジョーは警視に昇進し,白人至上主義の秘密結社に入会する。ボブの同志を捕えたロックジョーは,ボブとウィラの居所を知り,軍をバクタン・クロスに派遣した。ここから,物語は急旋回する。とりわけ,約60分が過ぎ,ウィラが誘拐された辺りから,やや退屈だった映画の雰囲気もテンポも変わり,後は一気呵成のアクションサスペンス映画となる。B・デル・トロは,ウィラの空手師範の「センセイ」ことセルヒオ・サン・カルロスとして登場し,ボブが彼に助けを求める。後は観てのお愉しみであるが,終盤に驚きの事実が判明する…。
 予想通り,ディカプリオ主演で軽い映画などなかった。相変わらず熱演で,誰もが誠実な父親ボブを応援する。一方,ロックジョー警視は見るからに変人で嫌な奴だ。こういう役のS・ペンは実に上手い!デル・トロは,いつもより軽い役だが,上記2人とのバランスで意図的な演出なのだろう。好い味を出していた。娘ウィラ役の新人女優C・インフィニティはなかなかの美形で,演技力もあり,本作でブレイクすることは確実だろう。
 エンドロールを見て,初めて監督・脚本・製作がポール・トーマス・アンダーソン(PTA)であることを知った。彼の映画の宣伝文句には,必ずと言っていいほど,三大映画祭(カンヌ,ヴェネチィア,ベルリン)の監督賞を制覇した3冠王であることを強調している。筆者には,観客無視の難解で身勝手な演出で,批評家受け狙い,映画祭目当ての作品ばかり作る監督としか映らなかった。少し当欄でのPTA歴を整理しておこう。
 出世作『ブギー・ナイツ』(97)『マグノリア』(00年4月号)は才気走っていたが,全く面白くなかった。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(08年5月号)はダニエル・デイ=ルイスの強烈な演技に感心したが,感動はしなかった。『ザ・マスター』(13年4月号)は,ホアキン・フェニックスの鬼気迫る演技を引き出した監督の才能は認めても,やはり映画は好きになれなかった。この両男優を再び主演に据えた『ファントム・スレッド』(18)と『インヒアレント・ヴァイス』(14)はしっかり試写は観たのだが,紹介記事を書く気になれなかった。ところが,この監督の評価を変えたのは,『リコリス・ピザ』(22年5・6月号)であった。こんな爽やかで,素晴らしい青春映画を撮れる監督なのかと驚いた。これまで筆者の目が曇っていたのか,それとも五十路に入ってPTA自身が大人の監督に成長したのか…。既にそう評価していたのだが,同作とはかなり趣きが異なる本作は,本格的な正統派のドラマである。極左革命集団と極右秘密結社が登場する群像劇が面白かった。母が原因で父と娘が警察に追われるという基本骨格はトマス・ピンチョン作の小説「ヴァインランド」から着想を得たという。文句なしに,本作はPTAのBest1であり,来年のアカデミー賞予想は,(現時点では)彼を監督賞の一番手に挙げたい。
 本作で映像的に感心したのは,終盤のカーチェイスに登場する直線道路である。あの凄まじい上下のうねりの光景を捉えただけで撮影賞にも値する。一体どこでこのシーンを撮影したのだろう? 音楽も印象的であった。同日に観た『ローズ家 崖っぷちの夫婦』(今月のPart 2で紹介予定)は軽快な音楽の連続で,統一感があった。それに対し,本作は全く統一感がなく,てんでバラバラだ。それでいて,個々のシーンには見事にマッチしていた。

■『ジュリーは沈黙したままで』(10月3日公開)
 何やら意味深な題名だが,原題はオランダ語で『Julie zwijgt』,英題は『Julie Keeps Quiet』であるから,ほぼ直訳である。ただし,『…沈黙を続ける』『…沈黙を守る』では味気ないが,これを『…沈黙したままで』としたことで,一気に詩的な香りが漂う。同じ「Quiet」でも,『クワイエット・プレイス 破られた沈』(21年5・6月号)のように,音に反応してエイリアンが襲って来るホラーなら,こんな表現にはしない。予告編を見ると,主演と思しき少女が友人らと会話を交わしているから,『ブラックドッグ』(25年9月号)の主人公のような失語症ではなく,ある事柄に対してだけ意図的に口を開かないのだと分かる。国内配給会社の言語センスに感心するが,内容を分かっていてこの言葉を選んだからには,主人公のジュリーは思い悩んで口をつぐんでいると想像してしまう。観客の好奇心を誘う見事な邦題だ。
 ベルギー映画で,主人公はテニスクラブに所属する15歳の少女ジュリー(テッサ・バン・デン・ブルック)である。同じクラブ生の中からは頭1つ抜けた実力で,奨学金を受給し,将来を嘱望されていた。ところが信頼していたコーチのジェレミー(ローラン・カロン)が指導停止になり,彼はクラブに出入り禁止となる。彼の教え子の1人,アリーヌが不可解な自殺を遂げたためだった。クラブ所属の全選手がジェレミーの指導について問われるヒアリングが実施された。彼の特別指導を受けていたジュリーには厳しい質問が浴びせかけられたが,ジュリーは何一つ答えようとはしなかった。
 ジェレミーとは接見禁止だったのかは不明だが,彼からからジュリーにメールは入るし,外で顔も合わせていた。新しいコーチのバッキー(ピエール・ジェルヴェー)に関して,ジェレミーは「彼の指導では駄目だ」とこき下ろす。ベルギー・テニス協会の選抜試験が迫る中,ジュリーは日々の練習を怠らず,トレーニングに励むが,心は揺れ動いていた。それでも度重なる調査で,ジュリーは口を閉ざし続けていた……。
 ジュリー役の女優は初めてのオーディションで選ばれた新人で,最初のテニスプレイのシーンを見ただけで,これは本物だと感じる。素人が数ヶ月練習したのではなく,セミプロ級のテニス選手だ。鼻筋の通ったノーブルな顔立ちで大人っぽく見えるが,現在は19歳,撮影時には16〜17歳であったようだ。映画としては,サーブの練習風景,筋トレシーンもしっかり描いていた。上記で触れた俳優の他では,ジュリーの父親役のクーン・デ・ボウが渋く,娘に寄り添う姿で良い味を出していた。
 宣伝文句に「大阪なおみも認めたベルギーの才能」とあったので,そんな若手選手の実話なのかと思ったら,それは監督のことだった。本作の監督・脚本は,これが監督デビュー作となるベルギー人のレオナルド・ヴァン・デイルである。脚本としては,教え子が自ら命をたったとしてもそれがコーチの責任なのか,影響はあったとしても,本質的には本人の責任ではないのかと感じながら観ていた。映画中でその答えは出て来ない。ジュリー自身が答えを出せず,沈黙を続けているという設定なのだろう。監督は「ジュリーが沈黙する姿を見て,なぜ沈黙するのか耳を傾けてほしい」「ジュリーの沈黙は今,あなたのものとなった」と力説する。派手な演出はなく,静かに進行する映画であったが,分かったような気になった。なるほど,なかなかの才能である。

■『火喰鳥を,喰う』(10月3日公開)
 かなり刺激的な題名だが,原作小説がある邦画であることは知っていた。書店に平積みされていた「映画の原作本」の区画に,この書名の文庫本があるのを見かけたからだ。作者は「原浩」で,「角川ホラー文庫」の1冊であったから,和製ホラーとして映画化されると想像できた。試写案内が届き,早速申し込んだが,「火喰鳥」とはどんな鳥か,果たして食べられるのか分からなかったので,映画を観る前に少し調べてみた。オーストラリアやインドネシアに棲息するダチョウに似た大型走鳥類の総称で,空は飛べない。赤色のトサカや首の肉垂が火を食べているように見えるので,この名前がついたらしい。日本の動物園でも飼育されているが,表記は「火食鳥」の方が一般的なようだ。映画撮影のために動物園の鳥を食べる訳には行かないので,そんなシーンがあるなら,きっとCGだろう。あるいは,CG製の火喰鳥が一斉に草原を走るシーンがあるかと少し期待した。
 映画の舞台は信州のある村で,主人公の久喜雄司(水上恒司)は由緒ある一族の末裔であった。ある日,先祖代々の墓石に刻まれた名前の中で,祖父・保(吉沢健)の兄・貞市(小野塚勇人)の名前だけが削り取られていることが判明する。保は存命だが,貞市は太平洋戦争中に戦死した人物であった。まもなく,地元紙「信州タイムズ」で終戦記念特集記事を担当する記者・与沢一香(森田望智)とカメラマン・玄田誠(カトウシンスケ)が,貞市の従軍手帳が見つかったと言って久喜家にやって来た。その手帳には,大伯父・貞市が戦地・ニューギニア島で過ごした日々の日記が書かれていた。密林で必死で生きようとする執念が綴られ,「ヒクイドリ,クイタイ」なる文章があった。
 その日を境に,雄司と妻・夕里子(山本美月)は悪夢に悩まされる。さらに,玄田が「貞市は生きている」と叫んで倒れ,祖父・保が謎の失踪をし,訪ねて来た夕里子の弟・亮(豊田裕大)が無意識で日記に新たな書込みをする等の不可解な出来事が頻発する。真相を探るべく,夕里子が超常現象専門家の北斗総一郎(宮舘涼太)に事件の解明を依頼した。北斗は雄司,夕里子の同級生であったが,彼が夕里子に横恋慕していたため,夫婦間を割くような発言をする。次第に存在しないはずの過去が現実世界を侵食して行くようになり,彼らはやがて驚愕の真相を知ることになる……。
 原作の舞台通り,ロケは長野県の安曇野,松本周辺で行われた。久喜家の屋敷には,立派な建物の旧家が使われていた。そこで展開するおどろおどろしい物語は,さながら横溝正史の推理小説を彷彿とさせた。それもそのはず,原作は横溝正史ミステリ&ホラー大賞を受賞作であった。ただし,北斗総一郎は金田一耕助のような謎解きの名探偵ではなく,事件を複雑にする不愉快な人物だった。ホラー製はあったが,本格ミステリーではなく,オカルトあり,パラレルワールドありの「何でもあり映画」に過ぎなかった。きちんとした「種明かし」なしの結末で終わるのが残念だった。
 それでも物語の行方がどうなるのか熱心に観たのは,ストーリーテリングの巧みさだと感じた。本作の監督は元松竹社員で,どんなジャンルの映画も器用にこなす本木克英だった。基本骨格は原作に忠実だったが,+αのエンディングに好感がもてた。それは,常に観客の印象を大切にする本木監督の配慮だと思う。[付記:被り物とCG製の「火喰鳥」が,ほんの少しだけ登場する。]

■『種まく旅人~醪のささやき~』(10月10日公開)
“食”を支える農業・漁業等の第1次産業従事者を描いた『種まく旅人』シリーズの第5作目である。過去は,『同〜みのりの茶〜』(12)『同〜くにうみの郷〜』(15)『同〜夢のつぎ木〜』(16)『同〜華蓮のかがやき〜』(20)の順で,各テーマは「お茶の有機栽培」「玉ねぎ作り」「新種の桃づくり」「伝統野菜・加賀れんこん」である。その内の何作かは当欄で紹介したつもりであったが,調べてみると1作もなかった。類似テーマの映画をいくつか取り上げたので,それと混同していたようだ。
 毎回,監督も配給会社も異なるが,エグゼクティブプロデューサーの北川淳一だけが全作に関わっていて,当初の企画立案者のようだ。毎回,農林水産省の役人かOBが登場するのも特徴で,地域連携型映画として製作されている。この第5作は,第2作の篠原哲雄監督の再登板で,舞台も同じ淡路島である。兵庫県を代表する酒米・山田錦に焦点を当て,淡路島の老舗酒蔵の伝統的な酒造りの心や後継者問題も描いている。
 主人公は,「日本酒オタク」を自認する農水省官僚の神崎理恵(菊川怜)で,老舗酒蔵の経営状況視察の対象として,自らの気に入りの酒「月の舟」を造っている淡路島の「千年一酒造」にやって来た。一通りの酒造り工程や設備の説明を受けた理恵は「上っ面ではなく,もっと深く知って,日本酒の未来を考えたい」と主張し,しばらく住み込みで働くことを志願する。ベテラン杜氏・草野(たかお鷹) の指揮の下,伝統的酒造りが進められていたが,4代目蔵元の松元恒雄(升毅)は従業員の高齢化と設備の老朽化による経営難で頭を痛めていた。昔ながら手法を重んじる恒雄と新しい方法を模索する息子・孝之(金子隼也)の親子関係もギクシャクしている。そんな隙をついて,事業買収 (M&A)を目論む中間業者が耳触りの良い案をもって忍び寄って来た…。
 副題の「醪」は「もろみ」と読む。醸造したばかりで,粕を濾す前の酒のことをさしている。正にその「ささやき」が聞こえて来るような丁寧な作りの映画であった。主人公の理恵が説明を受ける設定にしたために,素人が酒造りの製造工程や使われている道具・設備を学ぶことができる。教養・啓蒙が主目的の文化映画は面白みがないのが普通だが,理恵が「利き酒」で実力を発揮する痛快なエピソード,孝之と若い女性蔵人・夏美(清水くるみ)とのラブロマンスも盛り込み,エンタメ性も加味している。さすがに犯罪・逮捕とは無縁と思いきや,M&A業者を悪徳商人として描いていた。その一方,地元の居酒屋の内装や明石大橋の美しい景観にも見入ってしまう。
 菊川怜の主演映画を観るのは初めてだった。これが15年ぶりの映画出演だという。東大卒だけがウリで,さほど個性のない女優と思っていたが,改めて見るとかなり美人である。劇中の理恵は年齢不詳の独身女性であったが,実年齢は47歳,3児を得てからのカムバックだけあって,大人の美しさの中に知性と気品が感じられた。
「月の舟」は架空の銘柄だが,「千年一酒造」は淡路市に実在する造り酒屋である。立派な会社で経営難とは無縁のようだ。映画としても,賞狙いとは無縁,興行収入や若者受けを気にしない演出は心地良かった。過去作も観たくなり,シリーズの次作以降も楽しみになった。

■『ヒポクラテスの盲点』(10月10日公開)
 「ヒポクラテス」という名前から,古代ギリシャかローマの人物だと想像できるだろう。哲学者や為政者ではなく,ギリシャのコス島生まれの医学者・医師である。それまで迷信や呪術に頼っていた医療を,観察と経験に基づく医学体系に発展させ,「医学の父」「医聖」「疫学の祖」と呼ばれているようだ。この賢者の伝記映画ではなく,本作は新型コロナワクチンの副反応や後遺症の影響をレポートした社会派ドキュメンタリーである。
 本作の制作・配給はテレビマンユニオンで,同社に所属するプロデューサー/ディレクターの大西隼が企画立案し,自ら監督・編集を担当した。彼自身は,東大大学院博士課程修了の理学博士で,専門は生命科学だという。センセーショナルな報道を好むジャーズナム視点でなく,科学的根拠と客観性のある映画作りを期待した。
 映画はまず,コロナ禍時代を振り返る一般人複数名の発言から始まる,中国・武漢に端を発する新型ウイルスがCOVID-19と名付けられ,WHOによるパンデミック認定,政府の対策専門家会議の尾身茂や安倍首相の記者会見,mRNA遺伝子製剤に基づくワクチン開発,予防接種を呼びかける報道へと続く。当時を思い出すのに,適切なイントロであった。ここで,映画タイトルと共に,東京科学大学(旧東京医科歯科大学)の総合教育研究棟の最上部にある「ヒポクラテスの像」と「ヒポクラテスの誓い」を刻んだレリーフが登場する。その誓いの中から,「私は患者のために治療を行う。決して患者を害したり,不正を行ったりしない」なる訳文が紹介される。即ち,「害をなすなかれ」がこの映画のテーマである。
 映画の本論に入り,北海道本別町の循環器科医・藤沢医師がある時期からワクチン接種の呼びかけを疑問視したことを語り,ワクチンの後遺症と考えられる健康被害や死亡者数の増加を指摘する。続いて,兵庫県宝塚市の外科医・児玉医師は後遺症と闘病中の患者について語り,米国での集計では2024年3月時点で被害者数160万,死者は3万8千人に達していたことが紹介される。2人の医師は科学的検証のため,K大学名誉教授のF医師を頼り,一般社団法人「ワクチン問題研究会」が発足する。ここからがF医師の出番で,その舌鋒の激しさに驚いた。再生医療で名のある専門家らしいが,マスコミ報道の責任を追及し,厚労省や製薬会社を悪者扱いする。ここで,この映画は政府のコロナ対策を非難するだけの研究会に加担し,一方的な視点の告発映画ではないかと懸念した。
 幸い,その後は上記研究会メンバー以外の医師にも広く取材し,米国上院での議論の映像も流れる。ワクチンと呼べる代物ではないという意見もあれば,それでもそれに勝るワクチンは開発されていないという意見もあった。上記研究会による活動に戻り,真面目で客観的な検証結果の紹介を経て,最後は2025年1月の厚労省に対するワクチン審査基準の改訂の申入れで終わる。
 コロナワクチンの採用や接種呼びかけは,本当に「ヒポクラテスの誓い」を破ったことになり,果たして「盲点」であったのかと感じた。もはやヒポクラテスの時代ではなく,近代以降の西洋医学に基づく投薬や接種には,何らかの副反応があり,個人差があることは誰でも知っている。既にパンデミックが終了した後なら,ワクチンの後遺症の影響は何とでも言える。問題は「利益が危険を上回るか」だが,未曾有のパンデミックの最盛期に,誰が迅速に正しい判断をできたかである。筆者は映画の中盤に登場する長崎大学病院の森本医師の「感染は防げなくても発症は防げる。発症も防げなかったけど,重症化は防げる」なる発言が,一番まともだと感じた。
 願わくば,当時の対策専門家会議のメンバーへのインタビューも盛り込んで欲しかった。本作は,上記研究会の視点に偏り気味だが,これまで大手メディアが報道しなかった事実を取り上げたという意味で,立派なドキュメンタリーになっていたと思う。最大の欠点は,F医師の出番と発言が多過ぎることである。発言を聞いているだけで不愉快になる人物だ。最後の厚労省への申入れ時に,メディアのカメラが入る前で,彼は「学術界の怠慢だと断定していい。医療の危機だ」と吠えていた。まるで自分は学術界の一員ではないかのような発言だ。折角,客観的で科学的なデータに基づく提言をしても,こういう独善的な人物の過激な発言は反発を招き,逆効果になる。本作は次のパンデミック向けて政府も国民も心に留めおくべき真摯な内容を含んでいるのに,このF医師を前面に出したことで評価を下げている。残念だ。

■『死霊館 最後の儀式』(10月17日公開)
 当欄お気に入りのホラーシリーズの最新作だが,副題通り,これが最終作とのことだ。キリスト教の悪魔払いを扱ったホラー映画は数多いが,ヒットシリーズになった原因の1つは,原題は「(霊)を呼び出す」を意味する単純な『The Conjuring』だったのを,邦題を『死霊館』なる刺激的な新造語にしたことだろう。当初は安直な題名と思ったが,繰り返される内に,親しみが湧いてきた。もう1つの要因は,主人公が実在の心霊研究家のウォーレン夫妻であり,彼らが扱った実話をベースにしていたという点である。この路線で『死霊館』(13年11月号)『同 エンフィールド事件』(16年7月号)『同 悪魔のせいなら,無罪。』(21年9・10月号)が製作された。かなり映画用に脚色・誇張してあると分かっていても,毎度どこまで本当に超常現象が確認されたのかが気になった。
 関連作の『アナベル』シリーズ3作,『死霊館のシスター』シリーズ2作を加えた計8本が作られ,「死霊館ユニバース」と呼ばれるようになった。看板のエド&ロレイン・ウォーレン夫妻(パトリック・ウィルソンとベラ・ファーミガ)は,主演作以外の大半にカメオ出演した。最終作の本作は,ウォーレン夫妻が主演の4本目であり,1986年にペンシルベニアで彼らが悪魔と対決した最後の仕事とのことである。「これは〈実話〉である―」なる宣伝文句は眉唾と感じながらも,本作が見納めとなることを意識してしっかり観ることにした。
 物語の冒頭は1964年6月で,エドとロレインのウォーレン夫妻は骨董店で幽霊騒動の噂のある鏡を調査した。霊感のあるロレインは妊娠中だったが,幽霊と胎児の幻影を見て陣痛が始まる。女児は死産だと思われたが,ロレインの祈りにより蘇生し,ジュディと名付けられた。
 その22年後,7人家族のスマール一家がペンシルベニア州ウェスト・ピッツトンに転居してきた。祖父のジョンが孫のへザーに古い鏡を贈ったところ,突然,天井灯が落下する。その後,家族は老女と1組の男女の幻覚に襲われる。彼らはゴードン神父に助けを求め,神父はウォーレン夫妻の協力を求めるが,エドの心臓病のため現役を引退していた夫妻は依頼を断る。スマール一家の救済を祈った神父に悪魔が取り憑き,神父は自殺した。ウォーレン夫妻の娘ジュディは,神父の葬儀に参列してスマール一家のことを知り,乗り気でなかった両親を説き伏せて,悪霊退治に参加させる。
 ロレインはスマール家で鏡を発見し,1964年の調査で見た鏡だと気付き,妻と母を殺した男の霊が悪魔に操られていることを見抜く。既に悪魔はジュディに取り憑いていて,屋根裏部屋で首を吊るように仕向け,エドに心臓発作を起こさせ,ロレインは地下室で襲われる……。
 監督はマイケル・チャベスで,『ラ・ヨローナ 泣く女』(19年Web専用#2)で監督デビューした後,本作が本シリーズの3本目である。ホラー一筋の監督だけあって,この主のオカルト系ホラーのツボは心得ている。では,完結編の本作の出来映えはと言えば,ユニバースの平均レベルであり,名作というべき第1作ほどの斬新さはなかった。悪魔の標的が,スマール一家からゴードン神父,ウォーレン一家に移り,ジュディの婚約者まで巻き込むのは,盛り沢山にし過ぎと感じた。これは,ウォーレン夫妻が残した調査報告を忠実に描こうとしたためだろうか。
 最後に実在のウォーレン夫妻の経歴や多数の写真が流れる。夫エドは2006年に79歳,妻ロレインは2019年に97歳で他界している。彼らが体験した超常現象の科学的根拠はなく,精神医学界ではキワモノ扱いだが,2人が真剣に心霊現象の研究・調査を行って来たことは事実である。悪夢や幻覚に悩む人々が彼らを信じて精神的に救われたのなら,それでいいではないかと思う。

■『さよならはスローボールで』(10月17日公開)
 野球映画である。甲子園球児たちの熱闘を記録した映画でもなければ,大谷翔平に憧れてプロ野球選手を目指す野球少年の物語でもない。舞台は米国の田舎町,被写体は中高年の草野球チームで,地区大会の優勝を目指している訳ではない。ましてやこの年齢では,メジャーリーグのスカウトの目に止まることを願っているのでもない。単に野球好きのオヤジたちの2チームが対戦するたった1試合を描いた98分の映画だ。ユーモアと哀愁に満ち溢れた脱力系のヒューマンコメディで,野球ファン以外の観客も気に入るに違いない。原題の『Eephus』は,何のことか,草野球とどう繋がるのか,全く分からなかったが,これについては後で解説する。
 時代設定は1990年代,マサチューセッツ州ダグラス町の中心部にあるソルジャーズ・フィールド野球場が舞台である。地元チームの対戦用に長年親しまれてきた球場であったが,この場所に中学校を建築することが決定し,野球場は解体される運命となった。代替地はなく,間もなく建設工事が始まるというので,「Adler’s Paint」と「Riverdogs」の2チームが急いで10月16日(日)に最後の試合をすることになった。
 早速試合が始まるが,かなりの高齢者もいれば,これで野球が出来るのかと思う肥満体の中年もいる。スポーツマンタイプの若者はいない。いかにも草野球レベルのプレイだが,両チームとも大真面目で試合をしている。レギュラーであるのに遅刻して来て,かろうじて自分の打順に間に合うという猛者もいれば,姪の洗礼式があると言って帰ってしまう選手もいる(誰かが姪ごと連れ戻しに行き,ベンチ裏で洗礼式をやることになるが)。各プレイごとに野次の応酬,ベンチでは私語だらけだが,それを聞いているだけで楽しい。近況や世間話もあれば,悩みを相談し合ったりもしている。
 両チームの選手にコーチ,スコアラー,審判まで含めると数十人になり,とても覚え切れなかったが,ユニフォームはAdler’s Paintが赤,Riverdogsが青基調であったので,プレイへの関与はきちんと見分けられた。併殺や補殺,ホームベースでのクロスプレイ,振り逃げのシーンも登場する。野球好き以外でも楽しめるが,野球のルールや常識的な采配を知らないと,個々のプレイの意味は理解にくいと思う。さらに言うなら,基本は米国人対象の映画だ。軽口が多く,スラング満載に思えたので,それは字幕では表現し切れていなかったと感じた。
 試合経過は一進一退の伯仲戦で,ついに4:4の延長戦に入る。次第に日が暮れて来てボールが見えにくくなり,審判団が帰宅してしまう。スコアラーに審判をさせた上に,見にくいプレイは選手の自己申告でアウト/セーフを決めることになる。真っ暗になり,多数台のクルマのライトを点けて試合を続行する。それでも日没引分けにせず,試合終了までを描いている。どういう形での決着であったかは,観てのお愉しみだ。試合終了後の描き方が,哀愁を誘う素晴らしいエンディングであった。
 原題の「Eephus(イーファス)」は単独では余り意味はなく,「Eephus Picth」=「山なりボール」として使われるようだ。MLBのリップ・スウェル投手が編み出した80km/h以下の超スローボールのことで,この球を武器とした元大リーガーのビル・“スペースマン”・リーが本作に出演している。日本では,阪神タイガースの現役投手・大竹耕太郎が得意としていて,試合の重要な場面でよく投げている。草野球ではごく普通の投球である。
 監督・脚本・編集・音楽・製作は,これがデビュー作のカーソン・ランド。出身地ニューハンプシャー州ナシュア近くに実在するSoldiers Fieldを見つけて撮影したというから,1990年代に中学校建設で取り壊されたというのはフィクションのようだ。幼少期にラジオ中継を聴いて育った野球少年が,当時目にした草野球の光景を懐かしんでの映画化であることは,劇中でラジオから流れる長閑な楽曲からも感じられた。

■『KIDS/キッズ』(10月17日公開)
 最近『ベスト・キッド:レジェンズ』(25年8月号)を紹介したので,その類いの少年が主人公で,複数形なので数人のチームなのかと思ったら,まるで違っていた。シンプルな題名なので,同名の映画は多数あると予想したのだが,これも外れだった。『Kids』が題名の劇場用映画は,邦画で早見優主演の『KIDS』(85)と小池徹平主演の『KIDS』(08年2月号),台湾映画でEdward Chen主演の『Kids』(24)がある程度で,純然たる洋画は1995年公開の本作だけであった。その30年ぶりのリバイバル上映である。
 スポーツ少年の自己成長物語とは程遠く,10代の若者の奔放な生活を描き,公開当時から物議を醸した問題作だという。テーマは無軌道なセックスと薬物乱用,ほぼそれだけの快楽的行動をドキュメンタリータッチで描いた映画である。それでは,賛否両論どころか,非難の的になるのは避けられない。監督は写真家のラリー・クラークで,本作が監督デビュー作である。マーティン・スコセッシやフランシス・F・コッポラに影響を与えた著名な写真家らしいが,未成年のセックス,暴力,パンクやスケートボードといったサブカルチャーを題材とし,自らがドラッグを打つ写真まで公開している。挙げ句の果てに,銃の不法所持と傷害罪で逮捕され,5年間収監された人物だ。誰も作らなかった映画を作りたいという思いだけで撮ったという作品である。そんな重い十字架を背負った映画だと知りながら,「怖いもの見たさ」の思いで,オンライン試写を観ることにした。
 舞台はNY,主人公のテリー(レオ・フィッツパトリック)は16歳の少年で,処女とSEXすることだけが生き甲斐だ。まず彼と12歳の少女との行為のシーンから始まる。続いて,頭のおかしい親友のキャスパー(ジャスティン・ピアース)と会い,モノにした処女の数を自慢する。スケボー・オタクの2人は,NYの街を駆け巡り,数店で万引きを働いた後,友人ポールのアパートで仲間とまたまたSEX談義を交わし,避妊なしのSEXや性病を怖れないことを自慢する。この馬鹿馬鹿しい言動に,「KIDS」の副題は「クソガキ」が相応しいと感じた。
 街の反対側では,少女たちもSEX談義に興じていた。彼女らは処女を捧げた相手が誰かを告白し合っている。黒人少女のルビー(ロザリオ・ドーソン)は魅力的で,10数人の男との性体験を自慢していた。一方,白人少女のジェニー(クロエ・セヴィニー)は,まだテリーと一度体験しただけの純真な美少女であった。AIDS感染を怖れたルビーに付き添ってジェニーも病院に行き,一緒にHIV検査を受ける。
 SEX談義だけならまだしも,テリーとキャスパーはテリーの家で母親の金を盗み,麻薬ディーラーからマリファナを購入する。スケボーを操るキャスパーが通りを歩く黒人男にぶつかったため,彼は激怒してキャスパーを突き飛ばす。それを見ていた仲間たちは黒人男の頭部をスケボーで殴り,多人数で殴る蹴るの暴行を加え,半殺しにしてしまった。観ているだけで不愉快極まりない。
 HIV検査の結果は,ルビーは陰性で,たった一度だけのジェニーは陽性であった。動転し,錯乱状態のジェニーはそのことを告げようとテリーを探すが,居場所が見つからない……。勿論,こんな連中に感情移入できなかったが,さほど憤りも感じなかった。自分の子供や孫に置き換えて心配することもなく,30年前の毛唐たちの蛮行は全く他人事に思えた。唯一救いであったのは,タクシーに乗ったジェニーを中年の運転手が気遣うシーンである。そう思う間もなく,薬物を飲まされて朦朧とするジェニーをキャスパーが犯すシーンに呆れ果てた。
 これはキャスパーもHIV感染し,彼やテリーと関係をもった少女経由で感染者が急増することを意味している。1990年代半ばは,AIDSの蔓延が話題になった時代である。本作がその警鐘として作られた映画とは思えなかった。映画監督を志すなら,せめてテリーとジェニーその後の顛末を劇映画として描くべきであったが,この写真家は自らが目立つことしか考えていない。観終わって感じたのは,ジェニーがHIV感染者であってもAIDS発症しないことを願い,他は数々の免疫機能不全で苦しんで地獄に墜ちろとの思いであった。以上は筆者の個人的見解であり,本作には今も熱烈なファンがいるらしい。今回日本でもリバイバル上映されるということは,目立ちたがりの監督の目的は十分達成されたと言える。

■『ストロベリームーン 余命半年の恋』(10月10日公開)
 不愉快映画の代表と言える上記のクソガギ映画の口直しに,この爽やかな邦画を選んだ。実際は逆順で観たゆえに,ほぼ同年齢男女が主人公の上記に呆れた訳だが,上から順に読まれる読者のためにこの順にした。
 例によって,通常はパスする若い男女の青春映画を観た理由を述べておこう。まずは,本作の副題である。当然すぐに思い出したのは,藤井道人監督の『余命10年』(22年Web専用#2)である。本作の脚本担当がベテラン脚本家の「岡田惠和」で,同作と同じであった。芥川なお作の原作小説に副題はないのに,敢えて「余命」を入れ,今回は1/20しかない残された人生をどう描いているのかに興味をもった。2番目は主演女優の「當真あみ」である。同じ松竹配給の号泣映画『おいしくて泣くとき件』(25年4月号)は半年前に観ていたので,同作の若いヒロイン役と比べてみたくなった。本作では行方不明にならないが,30年後に再登場もしないはずである。3番目は,別作品のマスコミ試写を観た後で書店に立ち寄り,平積みされていた原作の文庫本を少し立ち読みした。読みやすい文体に引き込まれ,その映画化作品なら分かりやすく,感情移入しやすいはずだと推測した。
 映画は2025年,女性警官・高遠麗(中条あやみ)が小学校で交通安全指導をしているシーンから始まり,男性教師・佐藤日和(杉野遥亮)は高校の同級生であったと語る。続いて2003年,小学校に入学した女子児童の桜井萌(西原紬)が突然倒れる。何か重い病気のようだ。そして,時代は2011年の冬になり,15才になった萌(當真あみ)は,その後も心臓病で学校にも通えず,自宅の部屋の中で絵を描いて暮らしていた。同級生の親友・高遠麗(池端杏慈)が時々訪ねて来て,学校の様子を話してくれる。萌は6月の満月「ストロベリームーン」を「運命の相手」と一緒に見る夢を語る。「好きな人と一緒に見ると永遠に結ばれる」という伝説であった。
 ある日,心臓発作を起こした萌は両親(ユースケ・サンタマリアと田中麗奈)と病院に向うが,主治医から余命半年であることを告げられる。両親は悲嘆に暮れたが,萌は病院からの帰路,「運命の相手」を見つけて恋をする。買い物袋を落として泣く女の子に優しく接する学生服姿の少年であった。萌は学生服から同学年であり,進学しそう高校を推測し,同じ高校への進学を決める。4月の入学式の当日,遅刻した萌は,同じく遅刻した少年と教室で出会う。何と,それはあの「運命の彼」の佐藤日和(齋藤潤)であった。これぞ「運命」と感じた萌は,いきなり日和に告白し,2人は交際することになる。デートを重ねる内に2人の距離は縮まり,遂に萌の誕生日の夜,両親に内緒で家を抜け出し,2人で「苺色の満月」を観る。その翌日から,萌は姿を消してしまった…。
 ある意味で単純な青春ラブストーリーであり,予想した通り,原作本の文体とはマッチしていた。日向と麗(「くらら」と読む)は幼馴染みで,麗は日向に想いを寄せていたのだが,それを知らない萌が強引に自らの恋愛道を突き進む姿が,若い読者/観客の共感を得るのだろう。筆者は当然,本作を父親の視点で観た。物語としては,日向が萌の入院先を突き止めること,13年後に麗に届くサプライズが盛り込まれているが,それは観てのお愉しみとしておこう。
 監督は『夜が明けたら,いちばんに君に会いにいく』(23)の酒井麻衣。この監督の映画を観たのは初めてだったが,小難しい映画祭狙いのインディペンデント系の監督よりも,この種の青春映画はライトノベル系の女性監督に限ると感じた。お目当ての「當真あみ」は,『おいしくて…』や『雪風 YUKIKAZE』(25年8月号)の早瀬伍長の妹役よりも,幼く,可愛く見えた。実年齢は18歳だが,完全に中学生で通用する。麗役の池端杏慈も実年齢は18歳だが,こちらは中学生には無理があるものの,なかなかの美形で,将来が楽しみな若手女優である。男性側の俳優は,まあ誰でも良いが,齋藤潤と13年後の杉野遥亮がまるで似ていない。このキャスティングの配慮のなさが,相変わらず日本映画の大きな欠点だ。

(10月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)

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