あれは10月初めのことだっただろうか,テレビ朝日の女性プロデューサから突然電話があった。「明るい未来,特にユビキタス機器が登場するSF映画をご存知ないですか?
最近暗い未来を描いたものばかりなので…」という。当欄(Web版)の愛読者で,その筆者なら色々知っていそうだから,ユビキタス社会に関する特番に使えるネタを教えて欲しいとの理由だった。
愛読者なら協力しない訳に行かないから,本欄の過去7年間を眺め直した。なるほど暗い未来が圧倒的に多い。未来型の情報機器は多々登場しているが,管理社会のネガティブな描写が多い。作家や脚本家は,人類社会への忠告や警鐘と称して,こういうことしか思いつかないのか。あまりにもワンパターンだ。彼ら(彼女ら)の発想の貧困さを感じずにいられない。
その直後に見たこの映画は,まさにその典型で,暗すぎるまでに暗い近未来映画だった。時代・場所設定は2027年のロンドンで「人類は繁殖能力を喪失し,子供が誕生しなくなった社会」というテーマを聞いただけで気が滅入る。原作は英国ミステリー界の女王P.
D. ジェイムズのベストセラー『Children of Men』(人類の子供たち)で,この映画の原題も同じだ。それをこの邦題にした東宝東和の担当者はうまい。この題だけだと暗さを感じさせず,明るい未来もありそうに思える。
監督は,『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(04年 7月号) のアルフォンソ・キュアロン。人気シリーズの第3作をただのお子様映画でなく,見応えのある力作に仕上げていた。このメキシコ出身の監督は
ただ者ではないぞと思わせるものがあったが,この映画でもその腕の冴えをいかんなく発揮している。
主演は,『キング・アーサー』(04年8月号)『シン・シティ』(05年10月号)で進境著しいクライヴ・オーウェン。エネルギー省の役人セオを演じて,この映画でも存在感のある演技を見せている。セオの元妻ジュリアンを『ハンニバル』(01年4月号)『フォーガットン』(05年6月号)のジュリアン・ムーアが演じているが,こちらはそれほど重要な役ではなかった。むしろ,人類として18年ぶりに妊娠した少女キー役のクレア=ホープ・アシティが全編に登場し,事実上の主役だった。このテーマの重さからして,当然と言えば当然だ。
子供が生まれなくなり,未来に夢が感じられなくなった人類の焦り,社会の荒廃ぶりの描写は克明だ。当欄としては,2027年という近未来の描写に大いに興味をもった。現代とそう大きくは違わないはずの街角風景を,それでも少しは変えて見せる苦心の後は,写真1のロンドンの光景で見られる。ビルの壁面の大型ディスプレイと,まるでアジアの一国かと思わせる3輪タクシーのアンバランスだ。人類社会は退行し,まるで1940年代か50年代かと思わせる光景も頻出する。
電子情報機器はといえば,PCはデスクトップ機のモニタはかなりの薄型で,TVの形状が相当な横長になっている。前者は可能だろうが,後者の普及はこれから20年では難しいだろう。写真2のように得体の知れない腕時計型のウェアラブル端末も登場する。筋電入力によるフィンガーマウスかと思われるが,説明は全くない。VFX担当は、お馴染みのDouble
NegativeとFramestore CFCだから質は悪くないが,量的にわずかだった。SFということで想像する分量にはほど遠い。こうした未来描写はわずかで,あとは身籠もったキーを護って目的地へと向かうセオと,それを阻止せんとする勢力との戦いが延々と続く。これで製作費120億円はかけ過ぎだ。
なるほど,このロードムービー風のチェイス・シーンの演出はうまい。クライマックスでの8分余の長まわしも悪くない。映像作りの腕は確かだ。新たな生命に対する人々の驚きと困惑,そして生命への畏敬……。ドラマとしての質は低くないが,観賞後の充実感はうすい。楽しくもなく,胸躍ることもなく,こんな近未来を見せられた不愉快感の方が勝ってしまう。
なぜ子供が誕生しなくなったかの原因,どうしてまた生まれたのかの理由は何も語っていない。これでSF (Science Fiction)と呼んでいいのだろうか。これじゃ,単なる空想悲観小説(映画)じゃないか。子供の頃からの理数系に弱く,ポジティブな未来作りに参加できなかった連中の劣等感とひがみの表われとさえ思える。エンディングは未来への希望を示唆しているのだろうが,『トゥモロー・ワールド』なら,もっと世の中を勇気づける人間讃歌の明るい映画にして欲しかった。
|