O plus E VFX映画時評 2026年8月号掲載

その他の作品の論評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『トルストール事件:巨額金融スキャンダルの内幕』(8月5日配信開始)
 毎週末の劇場公開新作映画に追われていて,この時期にNetflix映画を観る余裕はない。ところが,偶然目にしたこの映画の副題が頗る魅力的で,触手が伸びた。1990年代にスウェーデンで起きた史上最大級の企業金融犯罪で,その手口が極めて巧妙だったようだ。その上,国際刑事警察機構ICPOの追跡を逃れて30年間身を隠していた首謀者が登場して,その事件の全容を語るドキュメンタリーだという。そうと知るとワクワクしてしまい,いつでも見られるNetflix映画なのに,すぐに何度も観てしまった。
 映画は,主犯格のヨアキム・ポースネルがネイルサロンで店員と会話しているシーンから始まる。顔は見せない。続いて,事件が発覚した1997年当時の報道映像や新聞・雑誌に載ったヨアキム(当時33歳)の顔写真が登場し,投資会社トルストールの莫大な資金が詐欺で搾取された事件で,彼が30年間行方不明であることが告げられる。続いて,同社の顧問,副頭取,ジャーナリスト,警察の犯罪課課長,投資家の顔と名前が紹介され,彼らがこの映画で何度も登場するのだなと分かる。余りに手際の良いイントロで,実在した事件なのかと疑った。
 語り手は監督のカリン・アヴ・クリントベルグ。声が彼女自身なのかは怪しいが,彼女がヨアヒムの居所を突き止め,取材申し込みをするという設定である。初の面会はブリュッセルで,出会う場面を遠くからカメラが捉えていた。面談の条件は「撮影は後ろ姿だけ」「家族の話はしない」だったが,それぞれ「初めの内は…」「後に曲げることになるが…」の但し書きが付くのが思わせぶりだった。実際,映画の中盤以降,彼は素顔を見せて堂々と語り,家族の話もする。「既に事件は時効になっているので,隠すことはない」との言い分だった。
 主人公ヨアキムが金融市場に興味をもったのは22歳の時で,投資会社を興したが,企業買収での不正経理が発覚し,詐欺と脱税で禁固6年の刑で服役した。獄中で次なる大掛かりな計画を立て,それが「トルストール事件」である。「資金なしで会社を買収する」という計画で,実際に「トルストール社自身の金を流用して同社は買収され,関与した5人が約7億3000万クローナを手にする」ことが実行に移された。実のところ,筆者にはなぜこんな手口が可能なのか,理解できなかった。。
 映画中で,ヨアキムと同等かそれ以上に出番が多いのは,従弟のトマス・イサンデルだった。計画当初からの相棒であり,多額の資金を得てからの彼の浪費ぶりが凄まじい。その破天荒な散財の描写だけでも一見に値する。現在も彼は裕福な生活を送っている。もう1つの驚きは,高額を手にした5人が誰一人有罪となっていない上に,株主も大儲けしたという結末だった。逃亡したヨアヒムは時効,他は控訴審で無罪(トマスだけは別件で微罪)で,なぜか株価が急上昇し,それが株主に還元された。
 整形をし,頻繁に名前を変えたヨアヒムは,現在もスウェーデンに戻らず,再婚して偽名のまま他国で暮らしている。その彼を追う映像はいかにも嘘臭い。余りに犯罪者にとって好都合な決着に,これは実在の事件でなく,丸ごとフィクションではないかと疑った。ところが,「トルストール事件」は,紛れもなく,近来稀にみる金融犯罪であった。ただし,ヨアヒムの「偶然を装った密着撮影」は,意図的な演出の再現映像の可能性が高い。意図的に実話と再現ドラマの境界を曖昧にしているとも受け取れた。それがこの女性監督の演出意図なのだろう。それを見抜くのも,この映画を愉しむ方法の1つである。

■『叛逆のサウンドトラック』(8月7日公開)
 今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー部門のノミネート作品である。最近ホラー系映画ばかりだったところに,久々の音楽映画だったので少し嬉しくなった。著名なジャズ・ミュージシャンは多数登場するものの,彼らの純然たる音楽活動を描いた映画でもなく,ましてや伝記映画でもなかった。1960年代の世界の冷戦構造に関わる政治映画である。それをジャズ映画と絡めた描写が極めてユニークだった。
 日頃から,「映画を見ると社会勉強になる」と若者たちに説いているが,この映画に描かれた歴史は全く知らなかった。第二次世界大戦後の政治史でも,朝鮮戦争,キューバ危機は何度も映画化されているが,コンゴ動乱を中心としたアフリカ諸国の独立運動を「第三世界の側から見た冷戦」として正面から捉えた映画は珍しい。音楽家・思想家・政治家・軍人・スパイたちが入り乱れる歴史の闇を,当時のニュース映像,国連会議の記録映像等を使って描いている。「アフリカ合衆国」構想があったことも,冷戦下で米国が人気取りに「ジャズ外交」を行ったことも初耳だったが,日本での知名度が低かっただけで,欧米の知識人にはよく知られた史実らしい。
 1950年代から60年代にかけて,米国政府は「自由の象徴」として,人気ジャズ・ミュージシャンを世界各国に送り込んで歓迎される姿を宣伝材料として使った。「親善大使」の代表的存在はルイ・アームストロングであり,デューク・エリントン,ディジー・ガレスピー,ニーナ・シモンらも派遣された。本作で当時の彼らのライブ演奏が見られたのは嬉しかった。1960年頃の日本でTVは普及し始めていたが,米国製ドラマは放映されたものの,海外音楽番組はなかった。彼らの音楽はレコードで聴くだけで,その演奏/歌唱姿は見たことがなかった。
 映画でのジャズ演奏と政治的出来事の登場比率は,ほぼ半々だった。その両者を繋ぐのは,天才的ドラマーのマックス・ローチとその妻で圧倒的歌唱力をもつアビー・リンカーンである。黒人のアイデンティティや公民権運動に強い関心をもった彼らは,コンゴ共和国の民主的指導者ルムンバ首相が解任され,さらに1961年1月に彼が殺害されたことに抗議して,同志60人を率いて国連安保理の会場に乱入する事件を起こす。
 その前年の1960年に一気に16ものアフリカ新興独立国が国連に加盟し,それまでの大国の1票の価値が減じた。特に独立反対のターゲットとなったのはウラン等の豊富な地下資源をもつコンゴで,宗主国のベルギーが米国と手を組んで独立阻止に動き,CIAはルムンバ暗殺を計画する。一方,ソ連のフルシチョフ議長はこれが好機と,国連総会で靴を叩いて米国の人種差別とコンゴでの権力的な政権奪取を抗議し,世界的な脱植民地化を訴えた。こんな激しい政治的発言の記録映像は初めだ。
 もう1人,印象的だった人物は「マルコムX」であった。米国内の黒人解放運動の指導者としての印象が強いが,本作内では「アフリカ回帰」を主張し,脱植民地化運動にも積極的に参加している。『マルコムX』(92)でのデンゼル・ワシントン,『あの夜,マイアミで』(21年Web専用#1)でのキングズリー・ベン=アディルしか観ていなかったので,本人の演説姿は魅力的だった。コンゴのルムンバ首相とも重なって見えてしまった。
 本作の監督・脚本は,1962年ベルギー生まれのヨハン・グリモンプレである。当然,このコンゴ動乱を同時代に体験したはずはないが,学校で習った自国の歴史とコンゴで行った残虐行為の違いに驚き,この映画を撮る気になったという。1960年,筆者は小学生から中学生になったばかりだった。日本中が60年安保で揺れ動いていた記憶は鮮烈で,コンゴ動乱や国連事務総長ハマーショルドの名前は知っていたが,世界情勢は殆ど知らなかった。新聞・雑誌,TVニュースでも滅多に見かけない出来事だった。ネット経由で何でも検索できる現代とは根本的に情報量が違う。そんな中,映画化されるというフィルターかかかることで,一気に重みが増す。音楽好きでなくても,一見に値する映画だと推しておこう。

■『あの星が降る丘で,君とまた出会いたい。』(8月7日公開)
 題名だけで,大ヒット純愛映画『あの花が咲く丘で,君とまた出会えたら。』(23年12月号)の続編だと分かる。前作と同じ汐見夏衛の同名小説の映画化で,これが完結編である。前作は,女子高生・加納百合(福原遥)が現代からタイムスリップした先が1945年6月の戦時中で,そこで出会った特攻隊員・佐久間彰(水上恒司)と恋に落ちる物語だった。特攻兵たちの戦闘機が飛び立つのを見届けた百合が気を失うと,現代の翌日に戻っていた。平和記念館に展示された彰の手紙を読んだ百合は,彼の夢であった教員になると心に誓った。
 続編はそれから7年後の設定で,百合は高校教師として多忙な毎日を過ごしていた。ある日,臨時の代用教員として着任した大学院生・宮原涼(細田佳央太)が,百合のクラスの副担任となる。彼は彰の面影を残す青年であった。2人での協同作業を繰り返す内に,涼は真摯な思いを百合に寄せるようになるが,彼女の心は1945年に彰と一緒に過ごした百合の花が咲く丘にあった。
 そんな中で,百合は意外な人物と出会う。ホスピスで余生を過ごす老女の藤谷千代(倍賞千恵子)は,1945年に軍の指定食堂・鶴屋で一緒に働いた勤労学生・千代(出口夏希)の現代の姿であった。顔は似ていて名前も偶然同じと誤魔化したものの,千代の存在が気になり,百合は頻繁にホスピスに通うようになる。親しくなるにつれ,百合と同じように特攻隊員・石丸智志(伊藤健太郎)と恋仲であった千代は,彼を失った後,藤谷林吉と送った結婚生活のことを百合に語った。そこには,別の愛の形があった。そして,千代から百合には,彰が出撃直前に未来の百合に遺した1冊の本が手渡される……。
 百合役の福原遥は勿論,若き日の千代と石丸役の2人と百合の母親・幸恵役の中嶋朋子は継続出演である。一方,回想シーンで登場する水上恒司や松坂景子は前作の映像の流用だろう。本作の要は,何と言っても,倍賞千恵子の起用である。彼女が主役級で登場するだけで,さすが松竹と思えるヒューマンドラマになる。コメディタッチの『TOKYOタクシー』(25年11月号)でも存在感抜群だったが,本作は勝るとも劣らない。
 その一方,百合が次第に涼に惹かれるようになり,2人の結末がどうなるかは誰でも想像できる。この映画の前後にハイテンポの洋画を続けて観ていたので,この2人の遅々として進まないラブストーリーには,少し苛立ちを感じた。「前の男は忘れて,さっさとくっつけよ」と言いたくなった(笑)。監督は成田洋一から新城毅彦に交替していたが,この監督の演出はベタ過ぎる。
 ビジュアル的に圧倒されたのは,一面の満開の「百合の花」であった。前作と同様,静岡県袋井市にある「可睡ゆりの園」で撮影したようだが,通常は様々な色の百合の花で彩るところを,この映画のために,すべて「白い百合」に統一したようだ。一斉に風に揺れる光景は絶品であった。それに対して,終盤に涼と百合が見上げる大量の花火は不自然に感じた。構図や分量が完璧過ぎる。質感からして花火自体は本物だろうが,別撮りした2人の演技の背景にVFX合成したとしか思えなかった。
 それでも,花火は夏休み公開の本作の恋の結末には相応しかった。前作は12月公開自体が不満だったが,さすがに特攻隊員が死地に向かうシーンに花火は有り得ない。平和な現代の夏ゆえ花火を楽しめる。平和記念館に遺された隊員たちの手紙類もベタな演出だなと思いつつも,ロケ地は茨城県の「予科練平和記念館」,類した手紙類は鹿児島県の「知覧特攻平和会館」に実在していると知ると,胸に迫るものがある。改めて戦争の悲惨さを伝える「変則の戦争映画」としての役割を十分果していると感じた。完結編としては合格点だ。

■『左利きの少女』(8月14日公開)
 この映画でまず気になったのは,製作陣にショーン・ベイカーの名前があったからだ。前作『ANORA アノーラ』(25年2月号)が昨年のアカデミー賞で作品賞,監督賞等,5部門受賞の快挙であり,当欄ではそれ以前も『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(18年Web専用#2)『レッド・ロケット』(23年4月号)を取り上げていた。過去作のほぼすべてで,監督・脚本・編集・製作であったから本作も当然そうだと思ったのだが,初めて監督だけを担当していない。本作の監督は,『テイクアウト』(04)でS・ベイカーと共同監督を務めたツォウ・シーチンだった。他の主要ベイカー作品でプロデューサーや衣装デザイナーを担当し,女優としても出演した台湾出身の映画人である。本作では,脚本・編集・製作にも彼女の名前があるので,まさにS・ベイカーと立場を入れ替えている。本作は彼女の母国・台湾が舞台であり,かつ単独長編監督デビュー作だというので,かなり気合いが入った作品に仕上がっていると期待した。
 本作の主人公は5歳の少女イージン(ニーナ・イエ)で,シングルマザーのシューフェン(ジャネル・ツァイ)に連れられ,年の離れた姉イーアン(マー・シーユエン)と共に久々に台北に戻って来た。早速,シューフェンは市内の夜市で麺屋台を開店する。イージンはその手伝いをして,夜市の人気者になる。一方,姉イーアンはビンロウ(檳榔)売りの店で働くことにした。
 その後,別れた夫が末期癌で入院していることを知ったシューフェンは見舞いに行こうとするが,「あれだけ酷い仕打ちをして失踪した男を見舞う必要はない」と母親に怒りをぶつける。離婚前の10数年間,シューフェンは夫の作った借金を返し続けていたのだった。イーアンは母親にはことごとく不機嫌な態度で接する一方,妹イージンを可愛がり,幼稚園にもバイクで送り迎えしていた。やがて,病の元夫は死亡し,彼から譲り受けたミーアキャットをペットとして飼い始め,イージンは「グーグー」と名付け可愛がる。しばし平穏な日々が続いたが,母娘3人それぞれに悩み多き出来事が展開する。
 元夫の医療費や葬儀代を負担したシューフェンは借金を重ね,屋台の費用を払えなくなる。隣で雑貨屋を営むジョニーは彼女に想いを寄せ,何かと世話を焼く。イーアンは妻子ある店長アミンと情交を重ねる内に妊娠してしまった。不倫を知った妻が怒り狂って店に現れ,イーアンを罵倒したので,彼女は店を辞める。母娘3人で祖父母の家を訪ねたところ,古風な祖父はイージンが左利きであることに気付き,「左手が悪魔の手だ!」と叱責する。驚いたイージンは罪悪感を抱くが,その左手を使って夜市の店から小物を次々と万引きするようになる。さらに,ミーアキャットのグーグーと遊んでいて,左手でボールを投げると,それを追ったグーグーはベランダから路上に転落死してしまった。落ち込んだイージンは自らの「悪魔の手」に大きな包丁を当てる……。
 左手を祖父から「悪魔の手」と言われたのは,監督自身の子供時代の実体験とのことだ。本作で描かれる社会的な不平等や,母子家庭の貧困,若年出産等々は,『フロリダ…』と通じるものがあった。同作の少女ムーニーは出演時7歳,本作のイージンは6歳で,いずれも天才子役だ。違っているのは,フロリダの明るい太陽の下と,台湾名物の夜市が中心の人間模様かの違いである。本作のロケに使われたのは,台北の中心部にある「通化街夜市(臨江街夜市)」である。多数のスタッフで35mm映画カメラを使って撮影すると大掛かりになるので,本作はiPhoneで秘かに撮影し,現場の雰囲気を壊さないように配慮したという。多数の人々が往き来する様子は,まさに「夜の遊園地」というべき魅力的な情景であった。
 クライマックスは祖母の還暦祝いの宴席で,ここで暴露される秘密は驚くべき内容であった。物語途中ではいくつも疑問点があったのだが,すべてこの結末で氷解し,大満足の種明かしであった。母娘3人,さらには祖母も巻き込んだ多世代間の女性人間関係は,まさに女性監督ならではの演出だと感心した。

■『オークストリートの異変』(8月14日公開)
 予告編を見てすぐ分かるように,典型的な恐竜映画である。毎年,夏休みには,新作映画だけでなく,この種の映像がTV番組,YouTube等でも散見され,全国各地で恐竜展も開催される。このレビュー記事は,SF映画,VFX多用作として,当欄が本作にどんな評価を与えるかを気にして下さる長年の愛読者を対象として書くことにした。まず,筆者がどういう前提でこの映画を公開日に映画館まで観に行ったかを語ることにする。
 某映画雑誌は「恐竜映画大百科」なる特集を組み,『プリミティヴ・ウォー 恐竜戦争』(8/7公開)『パウ・パトロール ザ・ダイノ・ムービー』(7/24公開)を差し置いて,本作をトップに配していた。別雑誌は6頁も割き,「『オーク…』を見るべき5つの理由」なるコーナーまで設けていた。(よくあることだが)国内配給会社と一体となった広報戦略である。大手ワーナー製で,世界同時公開,主演がアン・ハサウェイ×ユアン・マクレガーというだけで,力を入れた意欲作かと期待した。ところが,いつもマスコミ試写案内をくれる配給元から,本作は届かなかった。事前にネガティブな記事が出回ることを怖れ,それを避けて通りたくなる映画なのだろうか?
 製作のJ・J・エイブラムスは,監督作『スター・ウォーズEP7 & EP9』(15. 19)の評判が今イチだったものの,その前の『スター・トレック』(09年6月号)『同 イントゥ・ダークネス』(13年9月号)に評価を与えた俊才である。これはプラス要因だ。その一方,監督・脚本のデヴィッド・ロバート・ミッチェルは,前作『アンダー・ザ・シルバーレイク』(18年Web専用#5)で,「素材の料理法が個性的過ぎて,消化不良を引き起こす」「この監督の演出に付いて行けず,長尺の2時間20分が苦痛だった」と書いた相手である。このマイナス要因が気になったが,CG/VFXの主担当が老舗ILMとなると,CG製の恐竜のクオリティが低いはずがない。多数の画像を使ってVFX解説する「メイン記事」扱いするかどうかは,観終えてから決めることにした。
 主人公は小説家志望の主婦デニス・プラット(A・アサウェイ)で,家族は夫グレッグ(E・マクレガー),長女オードリー(メイジー・ステラ),長男ブライアン(クリスチャン・コンヴェリー),愛犬スターバックであった。住居は「Oak St.」なる標識のある郊外の裕福そうな住宅地であるが,通りの名前が地域名のように語られていた。時代は不祥だが,オードリーが大学進学先希望を,「コーネル大学で著名な天文物理学者カール・セーガン教授の指導を受けたい」と話していたので,彼女は「リケジョ」で,数十年前の時代設定のようだ。服装や自家用車の古さからもそれは理解できた。終盤にようやく,1982年の出来事だったことが判明する。。
 ある夜,窓の外に不思議な光が差し,翌朝,近所の家に庭に見たこともない植物が出現していた。デニスが図書館司書のヴァルコート夫人に尋ねると,2億年前に絶滅した種であった。隣家の庭には謎の動物の大きな糞が見つかった。それから何日か経った嵐の夜,巨大な白い光が住宅地全体を包み込み,雪が降り,激しい落雷とともに,地域一帯が停電してしまった。
 翌朝,行方不明になった愛犬を探して,姉弟が外に出ると,周りは先史時代の風景になっていた。大小様々な恐竜が跋扈していて,住民たちを襲っていた。セーガン・ファンのオードリーは,強力な閃光は「ワームホール」であり,近隣注宅地全体が2億年前に転送されてしまったのだと結論づけた。家族間の複雑な人間関係,両親を失った少女ジャネットとの遭遇等のエピソードも盛り込まれているが,基本はわずかな武器を使っての恐竜たちとの戦いである。迫り来る恐怖の演出はオーソドックスなサバイバルスリラーであり,監督は心配したほど異端者ではなかった。音に敏感なエイリアンと恐竜の違いはあれど,全体的印象は大ヒット作『クワイエット・プレイス』(18年9・10月号)にそっくりだった。ただし,スリラーとしての出来映えは,同作の方が数段上である。
 本作の「ワームホール」は間歇的に出没する透明球体であり,そこに飛び込めば元に時代に戻れることが映画の途中で分かる。問題は,各種恐竜の攻撃を避けながら,いかにしてそれを達成するかであった。各人の持つ武器が貧弱過ぎた。ライフル銃は一丁だけ,他は大型ハンマー,弓矢,台所にあった小さなナイフだけである。獰猛で人間よりかなり大きめの恐竜を小さなナイフで撃退するとは,リアリティがなさ過ぎる。主要登場人物が生き残り,間一髪ワームホール経由で,無事元の時代に戻るであろうことは,誰でも予想できる。バカバカしかったのは,帰還後に続く安直な結末であった。小学生低学年以下のお子様連れのファミリー観客が主対象ならこれでもいいが,本格SFファンは呆れ返るに違いない。
 CG製の恐竜はと言えば,約10種類が登場する。肉食獣か草食獣かは定かでない。余り見たことのない小型恐竜は可愛かったし,大蛇風の恐竜は珍しかった。クオリティは低くないが,この程度は『ジュラシック・パーク/ワールド』シリーズと比べれば,もう当たり前の出来映えだ。ILMのCGアーティスト数はVFX大作の1/5程度で,他にはLola VFXの少人数に過ぎない。他に対象作品が全くない月なら「メイン記事」にしても良い程度のレベルだったので,公開されるメイキング映像が秀逸な場合に再考することにした。他にも完成版未達成の積残し作品が複数あるので,時間的余裕がないためだ。
 しばらく考えて,その可能性も捨てた。どう考えても,本作の結末はお粗末過ぎる。現実には有り得ない「タイプワープ」でも,映画なら恰好のネタである。ただし,時間旅行を前提とした映画であっても,最低限の約束事は守る必要がある。大切な人を失った場合,それ以前の過去に戻って過去を変えるのは常套手段である。逆は有り得ない。過去へのワープに同行した人物がそこで落命しても,未来である現代に戻って,それは修復できない。タイムパラドックス以前のルール違反(プロットホール)だ。過去から現代に戻り,そこにいるはずのもう1人の自分(ドッペルゲンガー)との関係にも配慮すべきである。それらに言及しないどころか,本作はすべてルール無視のとんでもない脚本となっている。今後,この監督が脚本担当の映画は避けた方が良さそうだ。

(8月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)

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