O plus E VFX映画時評 2026年3月号掲載

その他の作品の論評 Part 2

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


(3月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)

■『決断するとき』(3月20日公開)
 アイルランド映画で,主演は同国生まれのキリアン・マーフィ。当欄で最初に彼の名前を出したのは,真田広之が宇宙船の船長役で出演するSF映画『サンシャイン 2057』(07年5月号)で,同作で主演のクルー役が彼であった。その5年前の同じダニー・ボイル監督の『28日後…』(02)が初の主演作だったようだ。その後は余り大きな役はなく,地味な脇役が中心だったようだ。今回経歴を見て,『ダークナイト』(08年8月号) 『インセプション』(10年8月号)『トロン:レガシー』(11年1月号)『ダンケルク』(17年9月号)等の大作に出演していたことを知ったが,どんな役柄だったのかまるで記憶に残っていない。それが一躍世界中に名前を知られるようになったのは,『オッペンハイマー』(24年3月号)の主人公で,原爆の開発責任者役である。この大役でオスカー主演男優となった次に,彼が選んだのが本作である。原爆の次に今度は一体何を決断するのか,興味津々であった。
 予告編を見る限り,いかにも地味で誠実な主人公のようだった。原題は『Small Things Like These』で,およそ大きな決断らしくない。原作はアイルランドの作家クレア・キーガンの同名小説で,邦訳本は「ほんのささやかなこと」と題されている。それを映画では,随分大胆な邦題にしたものだ。もっとも,同じ原作者の小説「Foster(あずかりっ子)」の映画化作品の英題は『The Quiet Girl』,邦題は『コット,はじまりの夏』(24年1月号)に化けたのであるから,本作もそれに倣ったのかも知れない。ともあれ,世間的には「ささやかなこと」を,この主人公は真剣に受け止め,彼にとっては「大きな決断」をするのだと考えて試写を観ることにした。
 時代は1985年,舞台はアイルランドの小さな町ニューロで,無私で勤勉な男のビル・ファーロング(C・マーフィ)は,妻と5人の娘たちと慎ましく暮らしていた。職業は石炭商人で,仕入れた石炭の袋をトラックで様々な顧客に配って回る。地元の修道院も顧客の1つであったが,ある日,少女リサに「助けて下さい。外に連れ出して欲しい」と懇願されたが,修道女たちに引き離された。この修道院は洗濯所を経営していたが,ビルはそこで働く若い女性たちが長時間過酷な労働を強要されている現場を見てしまう。別の日,石炭小屋に閉じ込められていた少女サラは妊娠していて,5ヶ月後に子供が生まれることを知る。一旦は修道院の院長シスター・メアリー(エマ・ワトソン)に引き渡して,世話を頼んだが,洗濯所の惨状を見た後はずっとこの少女のことが頭から離れなかった。その後,地元のパブのオーナーのキーホー夫人から,「家庭を守りたいなら,修道院で見たことを口出ししないように」との忠告を受ける。クリスマスが近づき,凍えるような寒い夜,ビルが石炭小屋を開けると,そこには再びサラの姿があった……。
 キャッチコピーは「助けるべきか,見逃すべきか」で,予告編も上記のような洗濯所の惨状とビルの揺れ動く心を描いていた。本作の物語は単純で,ほぼ予告編の通りである。1922年から1998年まで実在した「マグダレン洗濯所」の人権問題がテーマであるから,ビルが何を決断したかは容易に分かるだろう。上記の基本骨格に並行して,何度も回想シーンが挿入され,ビルがシングルマザーに育てられ,父と思しき男性と接触できなかったこと,母の死後は裕福な地主の世話になったこと等々,ビルの人格形成の過程が理解できるようになっている。
 全編を通じて,極めて寡黙な主人公である。最近の『ブルームーン』『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』(いずれも本号のPart 1)のセリフ過多の主人公たちとは真逆であった。両作と比べると,本作の字幕担当者は随分楽だったに違いない。本作の監督はティム・ミーランツ。TV ドラマ中心の監督で,長編映画はこれが3作目である。C・マーフィ自身が原作を気に入って企画し,彼やマット・デイモンも製作に名を連ね,ベン・アクレックが製作総指揮を担当するという豪華版である。
[付記]余談だが,C・マーフィの主演作『28日後…』(02) の続編が『28週後…』(07)であり,さらに『28年後…』は3部作構成で,第1部(25年6月号)を高評価し,画像入りのメイン欄で紹介した。今年の1月22日公開の第2部『28年後... 白骨の神殿』も視聴したのだが,紹介しなかった。全くの駄作で,当欄の評価は★あり,記事にするのは時間の無駄と考えたからである。前作第1部のケルソン医師はしっかり登場するが,『28日後…』で生き残ったジム(C・マーフィ)が主役級で再登場すると言われていたが,殆ど姿はなきに等しく,名前もクレジットされていない。第3部では中心人物として登場して大団円を迎えると思われるが,第2部はスキップしても全く支障はない。

■『ピーキー・ブラインダーズ:不滅の男』(3月20日配信開始)
 続いてもキリアン・マーフィの主演作である。Netflix独占配信映画だが,上記と全く同日の配信開始というので,ほぼ同時期に撮影していたのかと驚く。これには少し込み入った事情がある。『ピーキー・ブラインダーズ』は,英国BBCスタジオが製作し,2013年から2022年まで,6シーズン(各6話)に分けてTV放映されたドラマシリーズである。他国ではNetflixがネット配信した。当初はシーズン7が予定されていたが,それを映画版として凝縮した完結編が本作である。シリーズ全作で主演を務めたC・マーフィが,シーズン3の監督ティム・ミーランツに相談して企画し,シーズン6と『オッペンハイマー』の撮影終了後に自ら製作・主演で取り組んだ新作映画が上記の『決断するとき』で,母国や欧米諸国では2024年11月から順次公開された。遅れて輸入した日本の配給会社が,その公開を意図的に本作の配信開始日に合わせたのかは定かでない。
サンシャイン 2057』から『オッペンハイマー』までの間のC・マーフィは,地味な脇役が多かったように書いたが,その間の彼の主たる活動はこのドラマシリーズであり,製作総指揮を兼ねていた。その完結編映画の本作では製作&主演である。本作の監督はシーズン1の後半3話を担当したトム・ハーパー,脚本はシリーズ全36話を書いたスティーヴン・ナイトで,彼は早い時期から「結末はもう決めてある」と発言していた。本作はその結末となるように準備されたシリーズ完結編である。
「ピーキー・ブラインダーズ」は1890年代から1920年代まで英国バーミンガムに実在したストリートギャング団で,強盗,脅迫,暴力,詐欺,違法な賭博管理等の反社会的活動で資金を得ていた。TVシリーズの時代設定は第一次世界大戦直後の1919年に始まり,1930年半ばまでで,英国の暗黒社会を中心に,アイルランドやNYのマフィア,ドイツで台頭したナチスの活動までも描いている。C・マーフィ演じるトーマス(トミー)・シェルビーを中心としたシェルビー家3代やその関係者が織りなす人間模様を豪華俳優陣が演じた。
 本作は,シーズン6の結末から4年後の1940年11月から始まる。トミー・シェルビーは,第一次大戦に従軍し勲章まで得た人物だが,戦後はPSTDに悩まされていた。冷静沈着で理性的な人物だが,冷酷かつ非情な性格をもつ半面,家族関係を大切にした。一族にはジプシーの血が流れていて,ロマ語も話す。本作のトミーは既に一線を退き,隠遁生活を送っていた。自伝を執筆する傍ら,亡き娘ルビーの亡霊に悩まされていた。ギャング団は彼が愛人ゼルダに生ませた息子デューク(バリー・コーガン)が仕切っていて,悪辣な犯行を重ねていた。彼は父親を嫌っていて,父子関係は疎遠であった。
 物語の中心は,ナチスが大量の贋札紙幣を印刷し,それを宿敵の英国内でばらまいて経済を混乱させようとする作戦である。デュークは,その実行役のボス,ジョン・ベケット(ティム・ロス)と秘かに通じていて,大金を得る計画だった。さらに,彼はナチスが破壊した軍需工場から弾薬を盗み出していた。シェルビー一族の表の顔の代表はトミーの妹の国会議員エイダ(ソフィー・ランドル)で,彼女はデュークの行動を諌めようとして,ベケットに殺害されてしまう。ここに至って,トミーは重い腰を上げざるを得なくなり,デュークを叱責するとともに,ベケットとの対決を決意する……。
 シーズンを重ねる度に大人気となったシリーズの完結編だけあって,格調高く,スケールも大きく,S・ナイトの意図通りの見事なエンディングであった。シーズン6までに描き切れなかった未回収の人間関係を整理し,この結末に集約させたと考えられる。例えば,重要人物であった兄アーサーが過去4年の間に死んだ顛末を物語に組み込んでいる。また愛人ゼルダの双子の妹カウロ(レベッカ・ファーガソン)を新登場させ,トミーとデュークの関係修復を図っている。TVシリーズのファンには納得の行く完結編であり,筆者のようなシリーズ未見の新しい観客にも独立した映画として十分愉しめる。
 ずばり言って,このシリーズは英国版『ゴッドファーザー』だ。この完結編は『ゴッドファーザー PART III』(90)に相当する。即ち,コルネオーレ家のマイケルとヴィンセントに対応するのがトミーとデュークであり,世代交代を描いている。この完結編を気に入った観客は,シリーズ過去作をすべて観たくなる。そして,デュークを中心とした新シリーズが作られると,それも観たくなること必定である。ますますNetflixに視聴時間を費やしてしまいそうだが,これも時代の流れだろう。
[付記]C・マーフィは長年ギャング団のボスを演じ続けていたので,『決断するとき』の主人公ビルのような善良な人物を演じたくなったのではと感じた。

■『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』(3月27日公開)
 日本のパンクロックを生み出した若者たちのムーブメント「東京ロッカーズ」を描いた青春音楽映画である。原作は,彼らのカメラマン兼マネージャーだった写真家・地引雄一の同名自伝的エッセイらしい。高名なミュージシャンの音楽伝記映画は欠かさず取り上げる当欄だが,余り食指が動かなかった。筆者がパンク嫌いであるのが最大の要因だが,脚本が宮藤官九郎,ヒロインが吉岡里帆,中島セナだと知り,一気に気が変わった。監督は個性派俳優の田口トモロヲで,これが久々の4作目というが,過去作は全く未見である。主演の峯田和伸は名前も出演作も知らないが,助演陣の若葉竜也,仲野太賀,間宮祥太朗,大森南朋,中村獅童が豪華だった。まあ,日本のパンクなどたがか知れていて,生理的に嫌うほどではないと考えて,観ることにした。
 時代は1978年,この年に解散したセックス・ピストルズの曲をラジオで聞いたユーイチ(峯田和伸)は衝撃を受け,生のパンクが聴きたいと上京する。ロックミニコミ誌「ロッキンドール」を発行するサチ(吉岡里帆)の紹介で渋谷のライヴハウスを訪れ,モモ(若葉竜也)率いる「TOGAGE」のライヴで踊り出す観客を見て,カメラマン志望のユーイチは反射的にシャッターを押した。音楽自体はまずまずであったが,演奏後に素っ裸になり,観客に向けて放尿するメンバーの未知ヲ(仲野太賀)の行動に呆れた。やっぱり,パンクがこんな破天荒な連中のお遊びなら,この映画は観るべきではなかったかと…。
 さすがにこんな馬鹿げたシーンはこれだけで,残りは真っ当な青春映画であった。TOKAGEの他,「軋轢」「S-TORA」らのライヴは大盛況で,彼らは「東京ロッカーズ」と呼ばれ,レコード会社も注目するところとなる。彼らの目的は商業的評価でなく,自分たちの最高の音楽を作り出すことであった。予想外の成功は,やがてレコード会社との思惑の相違,メンバー間の対立から,それぞれが自分の信じる道を歩み出す。それを知ったユーイチは,1979年にTOKAGEがロンドンで吹き込んだ曲をLPレコードとして再現することを持ちかける……。
 監督の田口トモロヲが元パンクバンドのヴォーカルで,元エロ劇画家としても有名であったことは,今回初めて知った。劇中では,バンド名やアーティストは変えてあるが,ほぼ史実通りの脚本のようだ。ライヴシーンでの曲自体も当時のオロジナル音源を利用していて,選曲も悪くない。ただし,俳優の口パクが下手くそで,リックシンクがお粗末であった。本作は,日本のインディーズ・ロックの黎明期であることを強調している。ロックに限ってはそうであり,現在のJ-Rockの若者たちにも範とすべき音楽魂であると思う。
 ただし,1960年代後半の音楽シーンを体験した筆者にとっては,特にパンク特有の要素はなく,普通の音楽にかけた青春映画に思えた。主人公は1949年生まれであるが,それならフォーク,エレキ,GSブームの世代である。GSはレコード会社が作り上げたTV向きアイドルであったが,大学生中心の和製フォーク,カレッジポップスは,当時から既に「インディーズ」そのものであった。劇中でも,「よしだたくろう」や「アリス」の名前が登場する。後半の劇中曲もあまりパンクらしくなく,主題歌「宣戦布告」は普通のJ-Popで通用する。
 余談だが,若葉竜也,仲野太賀のパンクロッカー役は意外であり,余り似合わない。吉岡里帆,中島セナの登場場面はしっかり観た。中村獅童の顔はどの映画でもすぐ分かるが,大森南朋がどこで登場したかは気がつかなかった。田口トモロヲは監督業に徹するのでなく,この映画の背景となる音楽シーンや「東京ロッカーズ」の活躍を,NHK「プロジェクトX」の口調でナレーションを入れてくれれば,ずっと引き締まったと思う。

■『鬼の花嫁』(3月27日公開)
 邦画が続く。シンプルな題名で,大きな期待をした映画だったのだが,内容的には残念な結果と言わざるを得ない。十分な下調べもせず,勝手な期待をした方が悪いのだが,それでも予想外の面白さに感心する映画も少なくない。それすらもなかったので,本作は失敗談として語ることにしよう。
 まず,題名から大傑作だった『ティム・バートンのコープス ブライド』(05年11月号)のようなブラックユーモアをたっぷり盛り込んだホラーを期待した。花嫁自身が「鬼」なのか,「鬼」と結婚する破目になる人間の女性なのかは不明だったが,どんな鬼なのかが楽しみだった。どっちみちコミックの実写映画化だろうと思ったが,当たらずとも遠からずだった。原作は同名小説で,電子雑誌に連載されたコミカライズ版が2年連続で人気No.1だったという。配給は松竹で,公開月になるまで試写がなさそうだったので,CG/VFXの後処理に時間がかかっているなら,むしろそれは好ましいしいと考えた。
 世界観だけは「あらすじ」を読んでいた。「あやかしと人間が共存する世界」で,ここでいう「あやかし」とは,鬼,天狗,河童,九尾の狐,大蛇,猫又,かまいたち,鵺,雪女等の種族だという。しっかり,水木しげるの世界である。人間世界で起きた世界大戦の後,その復興のため,彼らは表の世界に姿を表わし,政治・経済・芸能分野で社会に影響を与えたという。いいじゃないか,面白そうだ。中でも,「鬼」「烏天狗」「妖狐」の3種族がヒエラルキーの上位にある。それぞれ「鬼龍院家」「烏水家」「狐雪家」が名門で,その当主の「花嫁」に選ばれる人間の女性は「最高の栄誉」だという。まさにメルヘンファンタジーの世界である。日頃は人間の姿であっても,「鬼」「烏天狗」「妖狐」への変身はCGで描いているに違いないと期待するのは当然ではないか。
 主人公は,平凡な女子大生・東雲柚子(吉川愛)で,誰からも愛されていないと悩む女性だった。妹・花梨(片岡凛)が妖狐・狐月瑶太(伊藤健太郎)に見初められ,婚約者となったことから,柚子は家族内でも虐待を受けるようになる。ところが,「あやかし」の頂点に立つ鬼龍院家の次期当主で一際美しい鬼龍院玲夜(永瀬廉)が,花嫁候補として柚子を選んだことから,事態は一変する。玲夜は一族の行く末を背負う重責と孤独を柚子に癒やされ,柚子も優しく誠実な玲夜に惹かれて行く。それを快く思わない花梨は激しい嫉妬にかられ,瑶太を巻き込み,柚子を抹殺しようとするが……。
 うっかり見逃していたことがある。原作者・クレハ,漫画家・富樫じゅん,監督・池田千尋の女性トリオだった。全くの和風恋愛ファンタジーであり,ホラー要素はかけらもなかった。CGで描いた鬼や狐の姿に期待したのだが,せいぜい炎と閃光が少し登場するだけで,恐ろしい形相の怪物は全く登場しない。せいぜい烏水家当主役の嶋田久作や狐雪家当主役の尾野真知子が,少し派手なメイクで登場するだけである。柚子の両親も妹も,滑稽かつ漫画的な「小悪」に過ぎず,さほどの「極悪人」は登場しない。要するに,家族に虐げられた女性主人公が「王子様」に見初められるという典型的な「シンデレラストーリー」に過ぎなかった。若い女性の映画ファンは,本気でこんな幼稚な恋愛劇に憧れるのだろうか?
[付記]公開週末の興行成績を見て驚いた。無敵の『映画ドラえもん』やフルCGの『私がビーバーになる時』には敵わないが,本作は堂々の3位である。同週公開作や実写映画の中ではトップだ。原作人気の影響なのか,ラブストーリーの美しさが支持されたのかは,筆者のような老映画ファンの感性では判断できない。今後,軽々しく若者の恋愛劇を取り上げるのは控えておこう。負け惜しみで言うなら,やっぱり「あやかし」を扱うなら,CG製の魔物を登場させて欲しかった(笑)。

■『チェイン・リアクションズ』(3月28日公開)
 題名からは全くどんな映画か想像できなかった。2024年製作のドキュメンタリー映画である。ホラー映画の金字塔との評価が高い『悪魔のいけにえ』(74)の製作50周年を記念して,同作の「4Kデジタルリマスター版」がリバイバル上映された。その一方で,同年にこの名作が「なぜ今も語り継がれる存在なのか」を,その衝撃や影響を見事に分析した映画が本作なのである。劇映画ではないのでドキュメンタリーに分類されているが,現実世界の出来事を整理・編集した実録映画ではなく,有識者のインタビューだけで構成されている。
 当の原典は,全く無名であったトビー・フーパー監督が16mmフィルムで撮影した超低予算映画で,斬新ではあるが,余りに残酷なシーンの連続であった。それでも高い評価を受け,興行的には成功を収めた。その後,世界各国で上映禁止処分を受け,それが全面解禁されたのは10年後の1984年のことである。本作は,アレクサンドル・O・フィリップ監督が選んだ業界人5名に,この映画から受けた影響を語らせている。その後の多数のホラー映画だけでなく,一般的な名作との比較も語られ,計数十本の映像が収録されている。とてもその全容は要約できないので,以下では,この5人の発言で印象に残ったことだけを列挙する。
 1人目は米国人コメディアンのパットン・オズワルトで,当時のVHSテーマを見せながら語る。ドイツ映画『ノスフェラトゥ』(79),ベルギー映画『ありふれた事件』(92)と比較して自説を展開する。後者が「見るものの倫理観を問う」のに対して。『悪魔の…』では「カメラが何の意見も持たない。淡々と出来事を写すだけ」だと語る。2人目は日本の三池崇史監督で,彼は元々ホラー嫌いだった。15歳の時,チャップリンの『街の灯』(31)を観に行って,満席だったので止むなく『悪魔の…』を観て,映画に関する常識を崩され,新たな手本となったと言う。日本の怪談映画との比較がユニークだった。
 3人目は,ホラー映画通の評論家アレクサンドラ・ヘラー=ニコラスで,『悪魔の…』と同年齢だと自慢する。解禁後の10歳の時,予告編だけ観て,支離滅裂だがアート作品だと感じたという。1990年に初めて全編を観たが,黄色く変色した映像で砂漠のイメージだけがあり,「こんな映画がよく成立したと思う。魔法だわ」と語る。4人目は「ホラー小説の帝王」スティーヴン・キングで,『フランケンシュタインの逆襲』(57)に感激して,自分でもやりたくなったと言う。『たたり』(63)や『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)と比較して,『悪魔の…』を「原始的な恐怖を味わわせてくれる」と評価している。彼の矜持は「好みと良心の問題は作り手側でなく,映画を審査する側に属す」「不快にさせるのがアーティストの仕事」であり,一段上の目線からこの映画や監督を評価しているように感じられた。
 トリは女性映画監督のカリン・クサマで,19歳の時,初めて観て,真に迫る恐怖映像と感じたと言う。また「観る度に何かを与えてくれる」「沢山の芸術と詩を詰め込んだ映画」だと評価している。この人物の分析が最も客観的かつ評論家的な視点で『悪魔の…』の意義を語っていると感じた。おそらく,本作の監督は最も「我が意を得たり」と感じて,最後に置いたのだろう。
 ところで,筆者自身の体験はと言えば,間違いなく一度は観たのだが,映画館でのリバイバル上映であったのかVHSレンタルであったのかは覚えていない。まだホラー好きではなかったので,早く終わらないかと半分目を反らしていた記憶がある。題名が似ていた『死霊のはらわた』(81)とも内容を混同していて,今回の本作で「ああ,あの映画がそうだったか」と少し思い出した。原題は『The Texas Chain Saw Massacre』で,大男のレザーフェイスがチェーンソーを振り回すシーンは衝撃だった。なるほど,『Chain Reactions』というのは,このチェーンソーと,連鎖反応でその後の映画に大きな影響を与えたことの掛け詞であることが理解できた。

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