O plus E VFX映画時評 2025年11月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から![]()
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■『視える』(11月7日公開)![]()
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短いながらも,刺激的で思わせぶりな題名だ。例によって,この題からどんな映画を想像するかから入ろう。「見える」でなく,「視える」であるから,それだけの意図がありそうだ。「見る」の場合も,「視る」「観る」「診る」「看る」と使い分けるだけで誰が何を視認しようとしているかが伝わり,漢字はつくづく便利な表意文字だと思う。「見える」の場合には,能動的に目を向けるのではなく,受動的に「見えてしまう」ことを指し,さらに「視える」となると通常は見えない物が特殊な視覚機能で視認できてしまう感じがする。となると,まず思いつくのは,「不可視情報の透視能力」だ。次いで,先月の『ファイナル・デッドブラッド』(25年10月号)のような「予知夢」であり,さらに死者や悪霊と交信できる「霊感」を思いつく。
本作の原題は『Oddity』で「変人」「奇妙な出来事」を意味している。ならば,死者が視えてしまう「霊感」が本命で,ホラー映画に違いない。果たせるかな,主人公は「盲目の霊能力者」で,予想は大当たりであった。
精神科医の夫テッド・ティミス(グウィリム・リー)が夜勤で不在の夜,森の中の古い屋敷に独りで過ごしていた妻ダニー(キャロリン・ブラッケン)が惨殺される事件が起きた。この家に訪ねて来た義眼の男オリン・ブール(タイグ・マーフィー)は夫の元患者であることが判明し,彼が犯人と思われた。ところが,このオリンが施設の自室で頭を粉々に砕かれて死亡していた。
1年後,テッドは同じ職場の恋人ヤナ(キャロライン・メントン)とこの屋敷に住んでいた。そこに,ダニーの双子の妹ダーシー(C・ブラッケンの二役)が突然訪ねて来て,姉の死の真相を探るのだという。彼女は盲目だが霊と交信できる能力があり,大きな箱に入った木製の人形を持ち込んでいた。この人形に触れることで霊能力が発揮できるのらしい。テッドが夜勤の夜,ヤナとダーシーは2人だけになるが,ヤナが人形を触ったことでダーシーは激怒する。さらにヤナはダニーの幽霊が逃げろと叫んでいるのが視えて,恐怖の余り逃げ出してしまう。
デッドが家に戻ると,ダーシーは彼を非難し始める。犯人だと思ってオリンを殺したのは自分だが,彼の義眼を調べたところ,彼は無実で,テッドが粗暴な男性看護師アイヴァン(スティーブ・ウォール)を雇ってダニーを殺したことが判明したと言う。テッドは自らの無実を証明するために警察を呼ぼうと提案するが,思いがけない出来事が起こってしまう……。
監督・脚本は,アイルランドの新鋭ダミアン・マッカーシーでこれが長編2作目である。本作は本格的なゴシックホラーとして,ホラーマニアから高い評価を受けているようだ。冒頭から登場する大きな屋敷はホラー映画の定番だが,カメラアングルや照明の使い方が巧みで恐怖を感じてしまう。ダニーとダーシーは一人二役でありながら,一見そうは見えず,ダーシーが圧倒的に不気味だった。自ら動く木製の人形は,元はユダヤ教の伝説で「ゴーレム」と呼ばれる泥人形で,その表情や挙動も気味悪かった。恐怖の演出に新しさを感じた。
その反面,欠点だと感じたのは,物語展開が複雑過ぎ,本筋でない小細工が多過ぎる。携帯電話の電波が届く場所,ダニーのテント暮らし,監視カメラは何の意味はあるのか不明のままだった。人食い人種まで登場させるに至っては呆れてしまった。たった98分の映画に思いついたアイディアを詰め込み過ぎで,これでは観客が消化不良を起こす。ずばり言って,ストーリーテリング力が未熟で稚拙過ぎる。ただし,ホラーセンスはあるので,あと数作経験を積む内に秀作を生み出すことだろう。
■『ネタニヤフ調書 汚職と戦争』(11月8日公開)![]()
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この映画を観るかどうかは,かなり迷った。イスラエルの現首相で独裁政治家,国際戦争犯罪人であるベンヤミン・ネタニヤフを告発するドキュメンタリーで,社会派映画であることは題名からすぐ分かる。懸念したのは,内容がリアルで核心を突いていればいるほど,彼を憎み,怒りを抑え切れないと思ったからだ。
少し深呼吸し,それでも観る気になったのにはいくつか理由がある。現在なお終結しないガザ地区の惨状よりも,それ以前の彼の汚職問題を中心に描いていて,未公開の警察尋問映像を含んでいること,完成した本作がイスラエル国内で上映禁止になっていること,そして監督・製作が先月の『アニタ 反逆の女神』(25年10月号)の共同監督の1人,アレクシス・ブルームであったことである。ローリング・ストーンズのミューズであった「アニタ・パレンバーグ」を誰もが憧れる魅力的な女性として描いた手腕なら,一方的なネタニヤフ批判でなく,民衆の声を含め,説得力ある事実の積み重ねで映画を構成しているに違いない。それなら,筆者の個人的な嫌悪感に留まらず,世界中が共有できる憤りに繋がり,彼を権力の座から引き摺り降ろす運動を本格化させると思った。
原題は『The Bibi Files』。「ビビ」は「ベンヤミン」の幼児期からの愛称で,彼の汚職捜査の調書名が題名となっている。製作陣には,監督自身以外に,多数の受賞歴のあるドキュメンタリー作家やジャーナリストの名前が連なる。その内の1人,ラヴィヴ・ドラッカーはイスラエルでChannel 13の夜のニュース番組を担当し,ネタニヤフの汚職追及を報道し続けた人物だ。彼がMC兼政治情勢の解説役として何度も登場することが,本作を分かり易く,信頼性を高める要因となっている。その他の証言者には,国家安全保障大臣,野党党首から,通信事業者,カジノ王,官邸料理人まで20数名に及ぶ。
何と言っても,最も価値があり,驚くのは警察署内での尋問映像である。事実関係を問う警察官に対し,ネタニヤフは「捏造だ」「記憶にない」とはぐらかし,しばしば権力者として威嚇する。輪をかけて酷いのはサラ夫人で,夫以上に傲慢かつ高圧的な態度でわめき散らす。ビビは彼女に頭が上がらず,夫人が政治判断や人事にも口出しする。長男ヤイールは極右の扇動家であり,警察組織を共産主義者と罵る舌鋒は正に幼児的だった。
ビビ好みの葉巻や夫人好みのシャンパンに始まる収賄は,個人間の贈答品としては度が過ぎている。1本数百ドルのシャンパンを毎週20本も受け取り,結婚記念日には宝石を鏤めた4万2千ドルのブレスレットを贈賄者に買わせる。贈賄側の代表的人物は,イスラエル出身でハリウッドのプロデューサーとして成功したアーノン・ミルチャンである。彼はイスラエルの核開発にまでまで関与していた。ネタニヤフの魔の手がハリウッドにまで及んでいるという人脈にも驚いた。
そんな彼の刑事捜査は2016年12月に始まり,2019年11月に司法長官がネタニヤフを詐欺,背任,贈収賄の罪状で起訴した。イスラエルには,まだ民主国家としての良心が残っていると安心した。ところが,対抗するネタニヤフは最高裁判事を自分の都合で入れ替えて去勢し,改革の名の下に,国内の司法システムを骨抜きにして,崩壊させようとしている証拠も描かれている。
ビビは兄のヨニと共に育ったが,ヨニの方が優秀で将来は国の指導者になることを嘱望された人物であった。ビビは兄を慕っていたが,従軍したヨニがアフガニスタンで戦死したことから,ビビはその意志を継ぎ,テロ対策者として頭角を表わす。弁舌巧みであったことから政治家として成功し,首相に上り詰めた。民衆に人気があった政治家が権力を得て,10数年もその座に留まる独裁者となった時は手に追えない。かつてのヒトラーがその典型例だ。国内での増収賄だけで,それがアフリカ,中米,アジアの小国であった場合は,世界の政治情勢への影響は少なく,勝手に問題解決してくれれば良い。ところが,民族間対立の火種となっている厄介な国の軍事力を独裁者が掌握しているので,始末が悪い。
一昨年10月のハマスのイスラエル襲撃やその後のガザ地区の惨状も描かれているが,それは言及する気になれない。ただし,その事件がネタニヤフの政治生命の延命に繋がっていることは確実である。激しいネタニヤフ批判のデモが続く一方,ハマス撲滅を支持する国民もいることも事実である。戦争状態であることを理由に,ネタニヤフ裁判は延期され,今も再開の見込みはない。
■『港のひかり』(11月14日公開)![]()
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先月,秋になると邦画の力作が出揃うと書いたが,本作も正にその範疇である。主演は舘ひろし。7年振りの主役だというが,当欄で彼の主演作を取り上げるのは初めてだ。石原プロでのあぶない刑事役も印象的であったが,個人的には半世紀前のロックバンド「クールス」のリーダーで,不良,暴走族のイメージの方が強烈に残っている。監督・脚本は『新聞記者』(19) 『正体』(24年11月号)の藤井道人。こちらは連続して8作目の紹介であるから,名前だけで選びたくなる監督の1人である。撮影監督は『鉄道員(ぽっぽや)』(99) 『劔岳 点の記』(09年7月号)の木村大作で,全編が35mmフィルム撮影となると,力作であることは保証付きである。果たせるかな,豪華助演陣の大半は曲者揃いであった。
時代は2012年,日本海に面した小さな漁村が舞台である。初老の男・三浦諒一(舘ひろし)は漁師をしながら日銭を稼ぎ,居酒屋のカウンターで日々独酌していた。漁業組合会長の荒川定敏(笹野高史)だけが,家族も友人もいない三浦を気遣い,世話を焼いてくれた。ある日,三浦は白い杖をついて歩く少年・幸太(尾上眞秀)が同級生に転ばされ,笑い者にされているのを目撃した。彼は交通事故で両親を亡くし,自らも弱視の障害者となっていた。彼を引き取った叔母・美和子(MEGUMI)やその交際相手・島木(赤堀雅秋)から虐待されていたため,三浦は幸太を自分の船に乗せていたわった。
三浦を「おじさん」と慕う幸太との間には特別な友情が生まれるが,前歴を尋ねられた三浦は「元刑事」だと嘘をついてしまう。彼はヤクザ「河村組」の次期幹部候補であったが、ある事件から足を洗って堅気になった。幸太の目は高額の手術を受ければ視力回復すると知った三浦は,ヤクザの金を奪い,警察に自首した。
12年後,三浦は刑期を終えて出所し,元の漁村に戻って来た。一方,光を取り戻した幸太(眞栄田郷敦)は刑事になり,「マル暴」担当となっていた。警察内の資料から三浦の正体を知った幸太は真実を確かめるため漁村に向かい,2人は再会する。そんな折,先代組長・河村時雄(宇崎竜童)の寵愛を受けた三浦を目の敵にする現組長・石崎(椎名桔平)が,三浦の弟分であった大塚(ピエール瀧)を殺害した。彼の牙が幸太に迫ろうとしたことから,三浦は再び拳銃を手にするが……。
題名は英語に直訳すれば“Harbor Lights”であり,昔ビリー・ヴォーン楽団の演奏やザ・プラターズの歌唱で聴いた美しい名曲「港の灯」が流れることを期待したが,それはなかった。C・チャップリンの名作『街の灯』(31)を下敷きにした脚本だというので,それはそれで納得した。目が見えるようになった幸太が発する言葉が楽しみだったからだ。そこで涙するかと言えば,そうでもない。むしろ前半に,涙腺が緩んでしまうシーンがあった。
後半は善人と悪人の色分けがはっきりしていた。敵地に乗り込む三浦が両肌脱いで刺青を見せ,チンピラヤクザを一網打尽にする東映仁侠映画風の痛快劇を期待してしまうが,藤井監督がそんな陳腐な脚本を書く訳がない。木村カメラマンと言えば「雪」である。鴎が舞う吹雪の波止場で,ヒューマンドラマらしい見事なクライマックスとなっている。このシーンは期待して良い。
最も印象に残った助演俳優は,好々爺の荒川役の笹野高史だった。この人物を加えたことにより,ラストで心が洗われる。豪華助演陣の上記以外の残りは,市村正親,斎藤工,一ノ瀬ワタルらで,いかにもそれらしい役柄で顔を見せる。全体としては,誰も主演の舘ひろしと少年・幸太役の尾上眞秀の好演には敵わない。本作は,舘ひろしのベストムービーであり,俳優人生の集大成だ。一方,尾上眞秀は歌舞伎界期待の新星というが,母は寺島しのぶ,父はフランス人である。即ち,人間国宝の七代目・尾上菊五郎の孫であっても,男系の嫡孫ではない。何やら,「伝統の血か芸の才能か」を問う『国宝』(25年6月号)を思い出して,不憫に感じてしまった。歌舞伎に拘らず,将来はせいぜい映画でも活躍して欲しい。
■『君の顔では泣けない』(11月14日公開)![]()
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この題名からは『君の名前で僕を呼んで』(18年3・4月号)を思い出す。同作のような洋画の男性2人のLGBTQものではなく,本作は邦画で若い男女の青春映画である。当映画評の索引欄には「君/きみ」で始まる映画が20本もあるが,さすがに『君の膵臓をたべたい』(18年Web専用#4)ほど強烈な題名でなく,難病ものでもない。となると,コミックが原作で,高校生の男女のラブストーリーだと予想したが,少しだけ当たっていた。
原作は君嶋彼方の同名デビュー小説で,高校1年生の男女が同時にプールに飛び込むシーンから始まり,彼らの15年の歳月が描かれる。尋常なラブストーリーではないのは,プールに落ちたことから2人の心と身体が入れ替わったまま元に戻らないことである。とはいえ,心身の入れ替わりはよくあるテーマで,最近も複数組入れ替わりの『シャッフル・フライデー』(25年9月号)を取り上げたばかりであるし,邦画で男女となると大ヒット作『君の名は。』(16年8月号)と比べたくなる。
高校1年生の夏,15歳の坂平陸は友人から肩を叩かれ,隣にいた水村まなみと一緒にプールに落ちてしまった。翌朝,目が覚めると2人の身体が入れ替わったことに気付いて驚く。2人はそれを家族や周囲に知らせず,秘密のままで日常生活を送ることにした。まなみは起用に「坂平陸」として振る舞ったが,不器用な陸は女性として生きることに抵抗感を覚えた。元に戻ると期待して,再度2人でプールに飛び込んだが,何の変化もなかった。
不自由のないよう緊密に連絡を取り合ったが,高校卒業となり,2人とも東京の大学に進学した。入れ替わらないまま年に一度同じ日に再会する約束をして,初恋,就職,結婚と進み,陸の父親の他界により,2人は初めて喧嘩する。15年が過ぎ,30歳になった時に,まなみから「元に戻れる方法が分かったかも知れない」と陸に告げるが,その機会は1日しかなかった……。
監督・脚本は『エキストランド』(17)『決戦は日曜日』(22) の坂下雄一郎。当欄で紹介するのは初めてである。高校生時代の2人は共に映画初出演の西川愛莉と武市尚士で,それ以降は芳根京子と髙橋海人が演じている。助演陣は,陸の親友役に中沢元紀,まなみの結婚相手役に前原滉,陸の弟役に林裕太,あゆみの母役に大塚寧々といった面々が名を連ねる。勿論,筆者のお目当ては芳根京子だけで,お相手は誰でも大差ないと思った。2人が喫茶店の決まった席で状況報告,情報交換するシーンが何度もあり,セリフも多い。女性が突っ張った男口調で話すのはそう違和感はないが,髙橋海人がオネエ言葉で話すのはさすがに気味が悪かった。俳優も大変だが,観る側はもう少し美形の優男だと我慢できたのに…(笑)。
入れ替わったまま家族や友人と接する面倒さを考慮するなら,2人が結婚してしまえば楽なのにと思うが,それでは原作が意図した物語にならないのだろう。そうしないどころか,それぞれ伴侶を見つけ,まなみ(心は陸)は出産までする。よくそんな気になれるものだと,そのことを不思議に感じてしまった。
この種の交替劇の面白さは,入れ替わり直後の本人の言動と周囲とのミスマッチの可笑しさにある。本作の場合,それが殆どなく,別の人物の人生を演じ抜く苦悩と,既に体験した身体に留まるべきかの逡巡に重きが置かれている。人生哲学のような重いテーマだが,個人的には軽いコメディタッチの交替劇の方が良かった。
■『KILL 超覚醒』(11月14日公開)![]()
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コンパクトで刺激的な題名が強烈な印象を与える。製作国も主演も分からないまま,色々想像してみることにした。長距離寝台列車が舞台での「特殊部隊の最強戦士 vs 最凶強盗団40人」の死闘を描き,『ジョン・ウィック』シリーズを超えるバイオレンス映画だという。ジョンとて40人を相手にできないので,凄い戦闘能力の主人公である。「ハリウッドリメイクが決定」とのことなので,サンダンス系の米国映画ではない。B級フレーバーの香りがするので,香港映画かと思ったが,寝台列車があり得ない。トルコからフランスに向かう列車を描いた欧州映画か,あるいは韓国映画だろうと予想したが,それは外れた。国際インド映画アカデミー賞で5冠達成と聞いて,ようやくエンタメ王国のインドでのヒット作だと分かった。インド映画なら3時間超が当たり前なのに,本作の上映時間が105分というので気付かなかったのである。
主人公は対テロ部隊の隊員アムリト(ラクシャ)で,演習先に恋人トゥリカ(ターニャ・マニクタラ)からのメッセージが届いた。彼女は政治力のある大物実業家タークル(ハーシャ・チャヤ)の娘だったが,父親が結婚相手を決めてしまい,明日婚約式だという。慌てたアムリトは,親友の隊員ヴィレシュ(アビシェーク・チャウハン)を伴って急ぎ故郷に向い,彼女が乗るラーンチー発ニューデリー行きの特急寝台列車に乗り込んでトゥリカにプロポーズすることにした。ところが運悪く,その列車には武装強盗団40人が潜んでいて,刀を振りかざして乗客の金品を奪い始めた。
リーダー格の狂犬ファニ(ラガヴ・ジュヤル)はトゥリカが大富豪の娘だと知って,身代金目当てで彼女を車内誘拐してしまう。それを知ったアムリトとヴィレシュは軍隊仕込みの戦闘力で強盗団を蹴散らかす。激高したファニは強敵で,重傷を負ったヴィレシュは戦闘不能になり,混乱の中でトゥリカの妹アハナ(アドリジャ・シンハ)も行方不明になってしまった。賊らは通信手段を遮断し,緊急ブレーキを破壊したので,列車を止める術はなく,ノンストップでの高速走行を続けるしかない。最愛のトゥリカと乗客の命を守ろうと,アムリトは鬼神のように覚醒して孤軍奮闘するが,限られた列車空間は阿鼻叫喚の修羅場へ化して行った……。
単純に主人公が一気に敵を倒す映画ではなく,4両連結の列車間の人の移動も頻繁で,その中でのヒューマンドラマが展開する。監督・脚本はニキル・ナゲシュ・バートと書かれているが,この人物も俳優たちも全く知らなかった。それでもアクション映画を愉しむには何の支障もなかった。列車もノンストップだが,アクションもノンストップで息をつく暇もない。さすがに歌って踊るシーンはなかった。銃撃戦はなく,格闘技と刃物中心だが,斬新な格闘映画であり,正に血みどろの闘いである。アムリトが披露する格闘術は所謂カンフーではなく,イスラエルとフィリピンの近代格闘術だそうだ。一方,強盗団の刃物は52種類も用意され,通常の大小のナイフの他に,山刀のマチェーテや鎌のような物も登場した。劇中での落命者は強盗団と乗客合わせて42人であるが,まとめた殺傷はなく,1人ずつ死んで行くので,見応えは十分である。105分が2倍以上に感じる中身の濃さで,かなり疲れたが,心地よい疲れであった。
■『赤い風船 4K』(11月14日公開)![]()
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この数年,かつての名作・話題作をデジタル修復やIMAX化してリバイバル公開することが加速しているし,名監督や人気俳優の代表作を一挙公開する企画も散見される。「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』公開40周年限定上映」は前者の,「〈北欧の至宝〉マッツ・ミケルセン生誕60周年祭」は後者の典型例だ。基本的に当欄は新作優先で,余程価値ある作品でない限り,再上映は取り上げない。その採用基準は明確で,筆者が何度も観た映画は外し,気になりながらも見逃した話題作や全く知らなかった名作には食指が動く。よって,上記の2つの企画は対象外であり,本作のように全く名前すら知らなかったアルベール・ラモリス監督の場合は気になる訳である。
映像詩人と呼ばれるA・ラモリス監督は,1922年生まれのフランス人で,写真家出身で1940年代後半から映画監督・脚本家に転じ,1970年に48歳の若さで鬼籍に入った。今回5作品が4K修復され,短編である本作と次項の『白い馬』がセットになって公開されるので,この2本を取り上げることにした(他の3本は長編)。本作の公開は1956年で,カンヌの短編部門のパルムドールとアカデミー賞脚本賞を受賞している。日本国内ではフランスよりも2ヶ月弱早く公開されたようだが,当時の筆者は小学校3年生であり,さすがに36分のこの短編映画は知らなかった。フランス映画やイタリア映画を好んで観たのは約10年後のことである。
今回公開当時の色合いを忠実に再現したというが,映画が始まった途端,パリの街の鮮やかさに息を飲んだ。続いて,街灯に紐が絡まった赤い風船をパスカル少年が手にするところで,この風船の神々しい色に再度驚いた。以後ずっとこの赤い色に魅せられっぱなしであった。約70年前の観客達も同じ思いであったに違いない。
少年は学校での授業の間,門番に風船を預け,勇んで自宅に持ち帰るが,母親が2階の窓から放り出してしまう。風船には浮揚ガスが入っていて空に舞い上がるはずが,不思議なことにその場に留まり,少年は再び風船を手にする。その後も風船は少年の側に寄り添い,いじめっ子に追いかけられて街を逃げ回る間もそれが続く。風船に意志があるように思え,さらには俳優並みに演技をしているようにも感じられた。まるで少年と風船のバディ映画である。どうやってこの風船を操って撮影していたかは全く分からない。この間に短いセリフが数回あっただけが,それでも物語展開は完全に理解できた。
悪ガキどもが石を投げつけ,遂に風船は萎んでしまう。ここまでが約30分であった。すると落ち込む少年を慰めるかのように,町中の風船が集まって来る。多彩な沢山の風船がパリの空を移動するシーンは頗る美しかった。その風船の束を手にした少年がどうなったかは,映画館で観てのお愉しみとしておこう。
なるほど,この脚本,演出は素晴らしい。後世の多数の監督に影響を与え,日本では円谷英二,手塚治虫,黒澤明らがベスト映画の1つとして絶賛したのも頷ける。今回のマスコミ試写はオンラインだけで,スクリーン試写がなかった。読者には,絶対になるべく大きく明るいスクリーンの映画館で観ることを勧めておきたい。
この見事な色の赤い風船は,表面は周りの景色が反射するようニスを塗ってあり,透明に見えないよう中に黄色い風船を入れたという。見事な演技を見せた少年は,監督の長男のパスカル・ラモリスで,彼は今回の正確な色修復作業に参加している。当時自ら手にした色を誰よりもよく知っている訳だ。途中で少し登場する青い風船を持った少女は,彼の妹のサビーヌ・ラモリスである。
■『白い馬 4K』(11月14日公開)![]()
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上記の『赤い風船』と併映される短編で, A・ラモリス監督の2作目である。3年前の1953年公開で,カンヌ国際映画祭の短編部門グランプリを受賞した。上映時間は少し長い40分で,この長さなら中編と呼ぶべきかも知れない。こちらは全編モノクロ映像で,白い馬が殊更目立つように濃淡階調が調整されている。セリフは全くないが,ナレーターが物語の展開を要約する方式を採用している。
舞台は南仏のカマルグで,ローヌ川が地中海に注ぐ三角州地帯である。荒地に野性の馬が群れをなしていた。馬飼いたちがそれらを捕えて囲いに入れたが,リーダーの白い馬は荒々しく,逃げ出してしまった。何度も捕獲を試みたが成功しない。それを眺めていた漁師の少年フォルコ(アラン・エムリー)はこの白馬に憧れ,いつか自分が乗りこなせることを夢見ていた。彼が馬飼いたちに白馬を譲ってくれと頼むと,「捕まえられるならいいが,できっこない」と嘲笑されてしまった。
ある日,フォルコがロープで白馬を捕まえようとしたところ,白馬は勢いよく走り出し,フォルコは引き摺られ続けた。それが延々と続き,フォルコがロープを離さなかったため,根負けした白馬は少年に心を許した。白馬が彼のものになったことを知った馬飼いたちが草原に火を放ったので,フォルコは白馬に乗って逃げ出した。砂丘を越えて海辺へと追い込み,彼らを捕獲する作戦だった。ところが,フォルコを背にした白馬は海に入り,そのまま沖へと進んでしまう…。
風船と馬,悪ガキと馬飼い,赤を白に置き換えると,短編2本はほぼ完全に相似形である。心を許し合う関係からエンディングまでそっくりだ。訓練された馬に演技をさせているように見えなかったので,馬たちは自由に行動させ,それをそのまま撮影したように見えた。荒々しい白馬とフォルコが乗りこなした白馬は,2匹用意して使い分けていたと思われる。フォルコが引き摺られるシーンはトリック撮影のようだ。先に『白い馬』が好評を得たので,それを下敷きにして,より完成度の高い『赤い風船』を生み出したという関係である。
フォルコの弟役の少年が登場し,亀を可愛がるシーンが頗る愛らしい。彼は『赤い風船』の主人公のパスカル・ラモリスの3年前の姿である。当時はまだ3歳のはずで,監督の息子とはいえ,驚くべき演技力であった。この短編を先に観た場合は,抜群の脚本と撮影だと感じただろうが,『赤い風船』の後で観てしまったため,1ランクでなく2ランク差があると評価せざるを得なかった。モノクロ映像には独特の味があるが,完璧なカラー映像には到底敵わないことを実証した2作品であった。
(11月後半の公開作品は,Part 2に掲載しています)
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