O plus E VFX映画時評 2025年9月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から,
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の順で,その中間に
をつけています)
(9月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)
■『ブラックドッグ』(9月19日公開)
今月後半は対象作品数が多く,何をトップ記事にしようかと迷ったが,楽しい映画,重厚な映画でなく,最も鮮烈な印象を受けた映画から始めることにした。ここで言う「鮮烈」は,映像の色調と寡黙な主人公のもつ雰囲気の両方である。片仮名題名から洋画かと思ったのだが,中国製のハードボイルド映画であった。その半面,心に傷をもつ主人公と群れから離れた犬の間に芽生えた絆を描いたヒューマンドラマでもあった。直訳すれば単に「黒犬」だが,原題は「狗陣」(正式には簡体字)で,表記によってここまで印象が異なる映画も珍しい。
時代設定は2008年,北京五輪開催の直前の初夏で,舞台はゴビ砂漠の端にある田舎町である。かつて鉱山町として栄えたが,時代とともに人口流出が進み,町は荒廃していた。捨てられた犬が野犬化して群れをなし,道路に飛び出した犬を避けたバスが横転するところから映画は始まる。美しいブルーグレイの映像はもの悲しくもあり,ラストは希望に満ちた世界のようにも感じた。
主人公のラン・ヨンフィ(エディ・ポン)は10年前に誤って友人を死なせた過失致死罪で服役したが,模範囚で刑期を早く終え,故郷の町に戻って来た。かつてミュージシャンとして有名で,町で知らない人はいない存在だった。アルコール依存症の父親は既に自宅を閉じ,自らは動物園に住み込みで働いていた。友人の親族は今も彼を恨み,執拗に報復攻撃を仕掛けて来た。行き場も職もないランは警察の勧めで野犬捕獲隊の一員として働き始めたが,仕事には馴染めなかった。そんな野犬の中で足が速くて捕まらない「黒犬」は賞金首となっていたが,次第にランとの間に不思議な友情が芽生える。群れからはぐれた者同士が慰め合う奇妙な共同生活が始まったが,その生活はいつまでも続かなかった……。
監督・脚本は『エイト・ハンドレッド 戦場の英雄たち』(20)で脚光を浴びたグアン・ルイで,中国第六世代映画監督のリーダー格だが,当欄で紹介するのは初めてだ。主演のエディ・ポンも人気俳優だが,こちらも同様だ。両名とも大作中心に活躍してきたが,こうした比較的小規模の良作の方が鮮烈な印象を残すのも,中国映画の特長である。21世紀初頭に急成長を遂げた中国社会の象徴が「北京五輪」であった。個人的には,2002年,2007年,2014年に中国に行ったが,まるで別の国に思える変貌ぶりだった。本作の成功要因は,その成長から取り残された地方都市を舞台にしたことだと思う。そんな町も経済開発計画の対象となって人々は沸き立ち,30年に一度の皆既日食に興じる光景も皮肉な一面であった。
この映画の最後に気付いたことがある。主人公のランは一言も言葉を発していない。職場の同僚,近隣の住人,雑技団の女性との間で意思疎通はしていたが,セリフはなかった(と思う)。黒犬には口笛で相図するだけである。映画中では明らかにされなかったが,罪を犯した挫折感から「失語症」になったという設定だったのかも知れない。それを明言せず,単なる寡黙な男として物語を成立させてしまうのは,監督の力量としか言い様がない。
動物の扱いにも驚いた。「狗陣」と題するだけあって,数十匹が縦横に画面内を跋扈する。野良犬ではなく,きちんと調教された犬だろうが,この数を揃えたというのは,さすが中国だなと感心する。多数の毒蛇も登場も同様だ。こちらも実際は「毒」はないのだろう。驚き以上に呆れたのは,ヤンの父が飼育係あったアムール虎だ。CGではなく本物である。檻の外から背中を撫でているだけでも,慣れない俳優は平静でいられたのか気になった。ある事情から檻が開けられ,町を悠々と闊歩するシーンに呆れた。人気の少ない町のシーンだったとはいえ,撮影班に危害は加えなかったのかと心配した。
極め付きは,主人公の相棒の黒犬である。前半の凶暴で噛みつく犬,ヤンとのバディ関係構築時,重病で寝たきりのシーンまで,見事に調教された犬とはいえ,その演技力に驚嘆する。同種の複数の犬を使い分けたのかと思ったが,カンヌ国際映画祭のパルムドッグ審査員賞を受賞というからには,一匹の犬の演技なのだろう。この黒犬を一瞥するためだけに本作を観る価値はある。
■『THE MONKEY/ザ・モンキー』(9月19日公開)
上記で迂闊に「印象に残る」という言葉を使ってしまって弱った。本作も十分に「印象的な」映画であった。ただし,繊細で見事な演出という「印象」ではなく,コミカルなホラー映画としての「強烈な印象」である。題名は陳腐,予告編を観ただけではB級ホラーとしか思えなかったが,2つの点で興味をそそられた。1つは原作がスティーヴン・キングのホラー小説「猿とシンバル」(ただし,短編)であったこと,2つめは監督・脚本が半年前の『ロングレッグス』(25年3月号)のオスグッド・パーキンス監督であったことだ。同作は「身の毛もよだつ恐怖映画」「全く先の読めない映画」と書いて,この監督の手腕を評価していたからである。
映画は,まず様々な骨董品の類いが並んでいる質店から始まる。以前,猿の玩具を買った男が返品を申し出て,店主と問答になる。猿がドラムを叩き出すと銛が放たれ,店主は凄惨な死を遂げる。時代は1999年になり,双子の少年ハルとビルが失踪した父の持ち物から猿の玩具を見つける。ゼンマイ式のネジを巻くと猿がスティックでドラムを叩いた。ビルは陰険な少年で,いつも穏やかなハルを苛めていた。2人がこの猿玩具をもってレストランにいるとベビーシッターのアニーが料理人のナイフで首を切られて死に,まもなく母ロイスが動脈瘤で死ぬ。2人はアイダ伯母夫妻に引き取られるが,今度は伯母の夫チップが多数の馬に踏み潰されて死亡する。尋常でない死が続き,2人は猿がドラムを叩いたことが原因だと気付き,ネジを外して猿を深い井戸の中に投げ込んだ。
それから25年後,ハルは別の町に住んでいて,ビルとも疎遠になっていた。離婚後,息子ピーティと年に1度の再会をしている宿に,ビルから突然電話がかかってくる。伯母アイダが変死を遂げたこと,例の猿が戻って来た可能性があり,伯母の家に行って遺品の中にないか確認するように命じて電話を切ってしまう。その瞬間,ハルの目の前のプールで女性が感電死してしまう。一夜明け,急ぎピーティを連れて伯母の家に着き,案内人の不動産業者バーバラから連日町中で不思議な事故死が続いていることを告げられる。そして,物置を確認しようと扉を開けた途端,銃が倒れて暴発し,バーバラは吹っ飛び,ハルたちは血まみれになってしまう。あの悪魔のような猿が戻って来たことは確実だった……。
驚くべき方法で突然人が死ぬのは,かつての『ファイナル・デスティネーション』シリーズを思い出す。ただし,1つの映画の中で本作ほど次々と死亡することはなかった。個々の死に方の描写は凄惨そのもので,かつバラエティに富んでいて,よくぞこんな方法を思いつくと感心する。いずれも全くのコメディタッチであり,恐ろしいというより,笑えてくる。その意味で記憶に残る印象的な異色のホラー映画であった。
もう1点付記しておこう。ハルとビルは双子だというが,あまり似ていなかったので,二卵性双生児で別の俳優が演じているのだと思った。実際は,『ダイバージェント』シリーズのテオ・ジェームズが1人2役で演じていた。同3部作で主人公の少女トリスの相手役だった男優だが,あまり印象に残っていなかった分,本作での見事な演じ分けに気付かなかったのかも知れない。
■『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』(9月19日公開)
奇妙な題名だったので,いつもなら,一体何だろう,どんな映画だろうと予想するところだが,監督名を見て,そんな予想はしなかった。脚本・監督・製作は鬼才・ウェスアンダーソン。これが彼の監督12作目であるが,日本での劇場公開は第3作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』(01)からで,当欄では第4作『ライフ・アクアティック』(05年5月号)以降の全作品を紹介している。当初は「若手の個性派監督」と書いていたのだが,他の映画サイトでは既に「巨匠」となっていて,いつの間にか追い越されてしまった感じだ。一作毎に作風を変え,凝りまくった物語設定,入り乱れた人間関係にするので,予備知識なしに観たのではついて行けない。よって,しっかり主人公の人物設定を予習し,予告編をじっくり観てからマスコミ試写に臨むことにした。
「ザ・ザ・コルダ」は予告編であっさり主人公の名前だと分かった。原題は『The Phoenician Scheme』であるから,国内配給会社がユニークさを強調するため主人公名を付したのである。正式には「アナトール・“ザ・ザ”・コルダ」と表記されているから,「ザ・ザ」が愛称らしい。映画内では「ジャ・ジャ」と発音されていた。
時代は1950年代,複数の都市国家からなる架空の大独立国フェニキアが舞台である。主人公のザ・ザ(ベニチオ・デル・トロ)は欧州屈指の大富豪で,独立国全域に及ぶ3つのインフラ整備「フェニキア計画」を自らの事業の集大成と考えていた。成功すると今後150年に渡り利益を生むという大計画である。「コロコロと立場を変え,真実を守らなければならないという意識が殆ど欠如したタイプのビジネスマン」というので,現職の米国大統領のような人物をイメージして観ることにした。
稀代の実業家であるが,非倫理的な商習慣に対して敵も多く,彼が乗ったプライベートジェットが高度1500mで爆発する。強運の持ち主のザ・ザは6度目の暗殺未遂からも生き延びたが,暗殺者から永遠に逃げ続けることはできないと悟った。彼には9人の息子がいたが,一人娘でカトリックの修道女見習いのリーズル(ミア・スレアプレトン)を唯一の相続人と決め,6年ぶりに再会し,教会を辞めて事業を継ぐように要請した。
信心深いリーズルは父の「悪巧みで得た財産」を嫌悪していたが,その資金で「善行」ができると考え,ザ・ザの計画を受け容れる。かくして,父娘2人に家庭教師で昆虫学者のビョルン(マイケル・セラ)が帯同してのフェニキア全土への旅が始まる。ところが,行く先々で計画阻止を目論む刺客や裏切り者が待ち構えていた…。
例によって,助演陣が豪華だ。前作『アステロイド・シティ』(23年9月号)ほどではないが,それでも鉄道王(トム・ハンクス),海運王(ジェフリー・ライト),ギャングのボス(マチュー・アマルリック)等の曲者揃いと騙し合いとなり,ザ・ザの再従妹(スカーレット・ヨハンソン),異母弟(ベネディクト・カンバーバッチ)が絡んで一族の謎が解明されて行くという展開である。ビジュアル面では,ザ・ザは大富豪だけあって,その屋敷に飾られている調度品,美術品は目の保養となった。
この監督作品には「とにかく絶賛派」「理解不能の酷評派」に大別できるが,既に何度か当映画評では作品毎に評価が分かれると書いた。では,本作はと言えば,『ムーンライズ・キングダム』(13年2月号)『グランド・ブダペスト・ホテル』(14年6月号)のような高評価はできないが,『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ,カンザス・イヴニング・サン別冊』(22年1・2月号)ほど肌が合わない映画ではない。ネタバレになるので書けないが,こんな結末になるとは思いも寄らなかった。「家族の絆の再生を描くクライム・ファミリー・コメディ」なる表記は妥当で,それに異論はない。
■『ムガリッツ』(9月19日公開)
ここから2本はドキュメンタリー作品だ。まずは,美食家垂涎の革新的な創作料理の開発&調理過程を克明に取材した映像作品である。当欄で料理もしくは料理人に関する映画は何本か紹介したが,その中で最もユニークかつ前衛的な料理を提供するレストランとその料理人チームを描いている。題名は余り深く考えず,シェフの名前かなと思ったが,レストランの名前であった。
スペインのバスク地方にある名店「ムガリッツ」は,ミシュランの2つ星レストランであり,The Worldʼs 50 Best Restaurants で世界のトップ 10 レストランにも選ばれている。それだけで味は保証付きのはずだが,「No Bread No Dessert」がキャッチコピーなので,パンもデザートなく,出て来るのは新作の料理だけである。通常のガラスや陶器の食器類は使わず,芸術的なオブジェの上に料理が置かれて供され,ナイフやフォーク等のカトラリーも排して,手と舌を直接使って味わうのだという。伝統ある店ではなく,設立は1998年で,従来のレストランコードは全く気にせず,新しい食文化を構築しようというガストロノミーの革命児的存在である。オーナーシェフのアンドニ・ルイス・アドゥリスは,美食文化の研究者というべき人物で,書籍出版,雑誌の創刊,国際会議の創設も行っている。
そもそもこの店をレストランと呼ぶべきかの議論すらあるらしい。1年の内,開店しているのは5月から10月の半年間だけであり,残る11月から4月は休業している。いくら好評でも前年の料理は翌年に出て来ない。休業期間にスタッフ全員が協力して,新しいテーマに沿った料理を何種類も創り出すのである。
本作の監督・脚本は,スペイン人のパコ・プラサだ。当欄で紹介するのは初めてだが,『REC/レック』シリーズ,『エクリプス』(17)等のホラー作品で名を成したらしい。一転して,美食ドキュメンタリーを撮ったのは,自らがこの「ムガリッツ」の大ファンであり,舞台裏にカメラを入れ,どんなクリエイティブな作業が行われているのかを記録しておきたかったからだと言う。
さて,年明けの1月からその年の料理制作が始まった。まずオーナーのアンドニが今年のテーマを公表する。続いて,研究開発チームの責任者ハビエルが挨拶する。新任者を紹介し,テーマをどう分析し,役割分担や検討結果のまとめ方について細かく指示している。料理映画と言えば,厨房中心の分担・共同作業,流れ作業かと想像していたが,まるで違う。ここはまるで大学か企業の研究所であり,まさに「研究開発」であり,試行錯誤と結果分析の場である。例えば,何人かでリンゴ農園とトウモロコシ畑の草を刈っている。その草の香りの違いを比べている。食材の選択にも延々と時間をかけ,貴重な素材として「雌羊」が選ばれる…といった具合だ。納豆も積極的に使い,ウニの蜂蜜漬けなるアイデアも俎上に上がる。筆者が想像したこともない創作料理であった。
前年は23品作って19品が好評だったが,今年は28品も作るという。中盤以降,お互いのテイスティングと議論の応酬,終盤近くになって,容器の選定,盛り付けが始まる。部分的には美しく,食してみたくなったものもあったが,残念だったのは,全体像が掴めなかったことだ。エンドロールで何品かは完成品の姿を観ることが出来たが,28品が並んだ映像は登場しなかった。
■『ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家』(9月19日公開)
美食の次は映画音楽だ。筆者の世代なら,副題などなくても,名前を聞いただけですぐに『シェルブールの雨傘』(64)の音楽を担当したフランスの大作曲家だと分かる。同じジャック・ドゥミ監督,カトリーヌ・ドヌーブ主演の『ロシュフォールの恋人たち』(67)の音楽も美しく,この2本は対にして覚えている。
とここまで書いてから,はたと気がついた。この2本の印象が強烈だったためか,この作曲家の経歴や他の業績を殆ど知らない。業績リストを見て,スティーヴ・マックィーン主演のカーレース映画『栄光のル・マン』(71),ハリウッド映画の『おもいでの夏』(同),フランシス・レイと共作の『愛と哀しみのボレロ』(81)もそうだったなと思い出した。音楽担当の映画は100数十本以上,楽曲だけ提供まで含めると200本以上に及び,オスカーは3回受賞している。まさに「巨匠」と呼ぶに相応しい。最も意外だったのは,007映画『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(83)だ。およそ『シェルブールの雨傘』とイメージが違う。この映画だけ他の007シリーズと製作会社が異なるので,映画音楽界のレジェンドに頼み込み,それを宣伝材料にしたのだろう。もう1本,知らなかったのが恥ずかしい映画があるが,これは最後に触れる。
さて,ドキュメンタリー映画としての出来映えである。監督はフランス人のデヴィッド・ヘルツォーク・デシテスで,結論を先に言えば,伝記映画としての完成度が極めて高かった。M・ルグランは,1932年2月パリ生まれで,11 歳でパリ国立高等音楽院に入学し,優秀な成績でクラシックの基礎を学んだ上で,20歳前後はジャズに傾倒した。ジャズピアニストとして,マイルス・デイヴィス,ビル・エヴァンス,ジョン・コルトレーンらとも共演し,レコードも出している。この頃の映像が多数残されていて,彼のピアノ演奏や歌唱まで愉しめる。
映画音楽分野に進出するのは『過去をもつ愛情』(54)からで,本作では33本の映画の名場面が音楽とともに流れる。そして,インタビューは音楽家,映画監督,俳優,その他業界関係者やルグランの家族ら,計46人が登場する。J・ドゥミ,C・ドヌーヴは言うまでもなく,クロード・ルルーシュ,ナナ・ムスクーリ,ジャック・ペラン,クインシー・ジョーンズ,バーブラ・ストライサンドらが登場するのは壮観だ。勿論,彼らは巨匠の偉業を絶賛するが,聖人君子ではなく,時に苛立ち,暴言を吐くシーンも登場する。ルグラン自身の指揮や演奏だけでなく,実際の作曲現場まで盛り込まれている。
2019年1月の他界まで75年の音楽人生であった。映画の後半は生涯最後の公演となった18年12月のフィルハーモニー・ド・パリでのコンサート風景が収録されている。86歳のルグランが死の前月に,舞台上で現役さながらのエネルギッシュなピアノ演奏をする姿に驚嘆し,感激した。まさに巨人である。
最後に,恥ずかしい出来事である。本作を観るまで『華麗なる賭け』(68)の音楽が彼の作曲だと知らなかった。その主題歌「風のささやき (The Windmills of Your Mind)」は,最も好きな映画音楽Best 3に入れているのにである。S・マックィーン主演の強盗映画で,余りにハリウッド的でイメージが合わなかったのだろうか。1967〜69年,ルグランは米国在住であったので,その間に作曲したようだ。「風のささやき」のオリジナル歌唱はノエル・ハリソンだが,既に多くの歌手がカヴァーしていて,筆者の音楽ライブラリーには31曲入っている。最もお気に入りは,リメイク映画『トーマス・クラウン・アフェアー』(99)でスティングが歌った主題歌とシルヴィ・バルタンのフランス語での歌唱である。なぜこんなに長々と書いたかと言えば,この伝記映画のエンディングは,ルグラン自身がピアノの弾き語りで歌ったこの曲で,それが絶品であったからだ。彼の映画音楽曲のベストを選ぶなら,この曲になるということだろう。早速,この歌唱版と彼のピアノ演奏だけの2曲をライブラリーに加え,33曲にすることにした。
■『ファンファーレ!ふたつの音』(9月19日公開)
音楽映画が続く。上記と同じくフランス映画だが,こちらは劇映画で,音楽を介して語られる兄弟愛を描いたヒューマンドラマの良作であった。監督・脚本は,『アプローズ,アプローズ! 囚人たちの大舞台』(22年7・8月号)のエマニュエル・クールコル。同作は実話ベースで,服役中に囚人たちが演劇集団を作り,パリ・オデオン座での公演を目指すという物語で,複数の映画賞を受賞した。一方,本作はオリジナル脚本によるフィクションだが,こちらはフランス国内で260万人動員,3週連続No.1興収,セザール賞に7部門ノミネートというヒット作である。演劇と音楽の違いはあれど,いずれも邦題に「!」が付されていることから,かなり共通点はあると想像し,この映画の性格を予想してみた。『アプローズ…』のラスト20分は衝撃の展開で感動的な結末であったから,本作のエンディングも同等以上と思われる。多数動員からは万人が受け容れやすい脚本で,7部門ノミネートからは主演・助演は好演で,美術や音楽も優れているに違いないと考えた。
時代は現代,舞台となるのは北フランスの田舎町が大半で,何度かパリも登場する。主人公の1人は,クラシック音楽界のスター指揮者のティボ・デゾルモ(バンジャマン・ラヴェルネ)で,パリ在住ではあるが,米国の名門クリーヴランド管弦楽団の音楽監督を務め,世界中を飛び回っている。ある日,彼は交響楽団の練習中に倒れ,急性白血病と診断される。急ぎ骨髄移植する必要があり,妹ローズとの適合検査を行ったところ,2人に血縁関係がないことが判明した。ティボは父母を亡くした孤児で,養母が37年間それを隠していたのであった。実の弟がいることも判ったので,その弟探しの物語と思いきや,あっさり弟ジミー(ピエール・ロタン)の居所も養家も明らかになる。彼は亡き母の友人クロディーヌに引き取られ,フランス北部の田舎町で暮らしていた。
学歴もなく地元の工場で料理人として働くジミーは,いきなり現われた有名人の兄ティボから骨髄提供を要請され,強く反発する。出会いを重ねる内にジミーの心も和み,骨髄移植も成功して,ティボは健康を取り戻す。裕福な養家で3歳からピアノを習って英才教育を受けたティボと,寂れた炭鉱町の労働者として育ったジミーとは境遇に差があり過ぎ,それを愚痴るジミーに対して,ティボはその埋め合わせをしようと腐心する。ある日,ジミーを訪ねたティボは,ジミーが地元の吹奏楽団「ワランクール炭鉱楽団」でトロンボーンを吹いていることを知り,ティボはこの楽団を支援してジミーの才能を伸ばしたいと考える。ところが,不景気から工場が閉鎖され,楽団には解散の危機が迫った。ティボは楽団と工場の両方を救済する「最高のアイディア」を思いつくが,彼の白血病が再発し,日に日に健康を失いつつあった…。
劇中の2人の境遇だけでなく,キャスティングからしてこの兄弟の対比が見事だった。兄ティボ役のB・ラヴェルネはフランスを代表する名優で,当欄で名前を出すのは初めてだが,『ラブ・セカンド・サイト はじまりは初恋のおわりから』(21年3・4月号)『デリシュ!』(22年Web専用#5)に出演していた。一方,弟ジミー役のP・ロタンは目立った出演作は『アプローズ…』程度で,本作で「新星男優賞」にノミネートされている。中盤前後から出番も多く,ジミーが主役かと思う名演技であった。楽団も,ティボの交響楽団よりもジミーの吹奏楽団の描き方に監督の愛情が込められている。モデルとなったのは150年以上の歴史をもつ実在の「ラレン炭鉱吹奏楽団」だという。予想通り,物語は分かりやすく,両楽団が演奏も著名な曲ばかりだった。ネタバレになるので詳しく書けないが,クライマックスは全く予想外の演奏であった。ここでは,あの名曲「ボレロ」をこんなアレンジで聴くのは初めてだったとだけ書いておこう。
■『ブライアン・エプスタイン 世界最高のバンドを育てた男』(9月26日公開)
週は変わったが,音楽映画を続ける。副題がなくても,熱心な音楽ファンならば大抵は「Brian Epstein」がどういう人物なのか知っている。知らない読者もおられるだろうから,少し蛇足気味に書いておく。「世界最高のバンド」は勿論「The Beatles」のことで,彼はその敏腕マネージャーであり,本作は彼の伝記映画である。ほぼ完全に実話であるが,ドキュメンタリーではなく,俳優が演じる劇映画仕立てになっている。ただの雇われマネージャーではない。ドイツのハンブルグで演奏していた無名の彼らの実力を見抜き,専属契約を結び,彼らを売り出すあらゆる戦略を立てて,大成功に導いた人物である。実質的なプロデューサー,プロモーターであり,彼なくしてThe Beatlesは存在しなかった。「5人目のビートルズ」と言われる所以である。
本作の原題は氏名ではなく,『Midas Man』である。「ミダス」とは,ギリシャ神話に登場するフリギア国(現在のトルコの一部)の王で,手に触れる物すべてを黄金に換えたとされている。洒落た題をつけたものだ。本作の監督は英国人のジョー・スティーヴンソン。大作の実績はないが,何本かドキュメンタリー映画の経験がある。本作の基となっているのは,エプスタインが30歳の時に書いた自伝「A Cellarful of Noise(地下室いっぱいの騒音)」(1964年発行)とのことだ。その存在は当時から知っていたが,ビートルズのレコードを買うのに精一杯で,洋書を取り寄せてまでマネージャーの本を読む余裕はなかった。1970年代になって邦訳本が出たはずだが,既に絶版になっている。それが映画の形で観られるのは,ビートルマニアとしては喜ばしい限りだ。
映画は1959年から始まる。英国のリバプールのユダヤ人家庭に生まれたブライアン(ジェイコブ・フォーチュン=ロイド)は,家業の家具店NEMSを切り盛りしていた。新しい事業としてレコード販売コーナーを設けたいと提案したが父ハリー(エディ・マーサン)に一蹴される。その後,母クイニー(エミリー・ワトソン)の執り成しで店舗の増設が実現した。在庫を切らさないレコード店として人気を博し,看板部門となった。1961年秋のある日,ある若者がドイツ・ハンブルグで発売された「マイ・ボニー」を求めてやって来たが,そのレコードを置いていなかった。同じリバプール出身のバンドの演奏が大人気と知り,彼は早速同地の地下クラブ「キャヴァーン」へと出かけた。そこで聴いた4人組のロックバンドのサウンドに衝撃を受け,「その日で人生が変わった」「エルヴィスを超える大スター」になると感じた。当時のマネージャーとは契約書がないことを知り,4人を口説き落として自分との専属契約を取り付ける。
髪形,ステージ衣装等も彼の指定通り変えさせ,ライブ公演は順調であったが,大手レコード会社との契約は難航した。ようやくロック畑への進出が遅れたEMI傘下のパーロフォンのオーディションへとこぎ着ける。音楽プロデューサーのジョージ・マーティンがドラマーのピート・ベストの技量に難色を示したため,彼を外し,リンゴ・スターに交替させる役目もブライアンが担った。
1962年のデビュー作“Love Me Do”は49位に終わったが,3枚目の“From Me To You”が1位になった頃から人気が爆発した。64年に世界制覇を目指して米国の人気TV番組「エド・サリヴァン・ショー」への3週連続出演を達成する。ビートルズの伝記としては,66年の日本公演,フィリピン公演でのトラブル,ツアー活動は停止しスタジオワークに専念等々が描かれ,67年の世界同時衛星中継番組「Our World」の出演までが語られる。
ブライアン個人の描写としては,ゲイであることから受ける偏見,ゲイ仲間からの色目使いや脅迫,大金の持ち逃げ等が克明に描かれ,次第に薬物中毒に染まってしまう様子も生々しい。そして,その過剰摂取により,1967年8月27日,32歳の若さで生涯を閉じる。ラストシーンは印象的なので,観てのお愉しみとしておこう。
ビートルズの辿った過程はよく知られた事実ばかりだが,彼がマネージャー契約を結ぶ過程,G・マーティンとの駆け引き,ピート・ベストの解雇通告,エド・サリヴァン・ショーへの売り込み等々は,この伝記映画ならではの内容で,興味深かった。キャヴァーン・クラブ内外の描写,当時のハンブルグ,リバプール,ロンドンの様子もかなり正確に再現されていた。その反面,この映画には大きな欠点が2つあった。
まず,主演男優があまり本物のブライアンに似ていない。それより許し難いのは,ビートルズ4人組の俳優の人選である。ポール,ジョージ,リンゴ役の顔立ちはそれらしく見える俳優を選んでいたが,リンゴの身長がポールやジョージ並みなのは不自然だ。最悪なのは,ジョン・レノン役ジョナ・リースである。何とか口調だけは似せていたが,他の3人よりも圧倒的に背が低い。その低身長での演奏シーンでは当時の絶対的なリーダーであるジョンの存在感がなく,記者会見での憎まれっ子としての雰囲気も伝わって来ない。本作の決定的な欠陥だ。
2つ目は,ビートルズ自身が作った曲が1曲も流れないことである。ジョン,ポール,ジョージ役俳優が歌っているのは良いとしても,使われていたのはカヴァー曲の“Please Mr. Postman” “Money” “Besame Mucho”だけである。映画の流れの根幹をなす“From Me To You” “I Want To Hold Your Hand” “All You Need Is Love”等が曲なしで,当時の他の歌手の歌ばかりでは白けてしまう。低予算映画のため,ビートルズの楽曲使用料が払えなかったか,利用基準を満たさなかったためだろうが,版権管理事務所が恩人ブライアン・エプスタインの伝記映画に敬意を払わないのが,残念であった。
■『レッド・ツェッペリン:ビカミング』((9月26日公開)
今月は音楽映画のラッシュで,さらにもう2本ドキュメンタリーがある。その1本目は1960年代後半に英国で結成された伝説のロックバンドが対象であるから,ここまで仏英が2:2だ。思えば,1960年代は大衆音楽文化が最も変貌した時代であり,その引き金を引いたのが英国のロックバンドであった。しかもその前半と後半で大きくロック音楽が変貌する。その中心となったのが本作の「レッド・ツェッペリン」である。
まずはその音楽的背景から語ろう。1950年代末から1960年初めに大流行した「ロックンロール」は米国が世界に撒き散らした音楽文化であった。黒人音楽であったリズム&ブルース(R&B)を白人化したことで商業ベースに乗り,ラジオで聴いていた音楽をLP/EPレコードとして購入するようになる時代とも同期していた。黒人のチャック・ベリーやリトル・リチャードが開拓した音楽を白人のエルヴィス・プレスリーが真似たことにより一気に市場が拡大したとも解釈できる。英国のクリフ・リチャードやフランスのジョニー・アリディはそのミニチュア,御当地プレスリーである。本物の富士山に対して,「蝦夷富士」「榛名富士」「讃岐富士」「薩摩富士」等のまがい物の「ふるさと富士」があるのと似ている。
「スター歌手+バックバンド」のスタイルを,自ら楽器を弾いて自作曲を歌うバンドとして確立したのが「ビートルズ」であり,それを世界に浸透させたのは上記のブライアン・エプスタインの功績である。彼らの初期のカヴァー曲は明らかに米国流のロックンロールであった。
(片仮名だと字数が増えるので,以下,英文字にし,Theは省く)Beatlesに続いて,Rolling Stones, Dave Clark Five,Herman's Hermits,Animals, Kinks等が米国を席巻し始めた現象は「British Invasion」と呼ばれていた。60年代前期から中期にかけての出来事だ。米国勢で気を吐いたのは,Beach Boys, Doors程度である。
ところが,Beatlesの停滞から解散と同期するかのように,60年代後半の英国でロック音楽が変貌し始める。先鞭をつけたのはYardbirdsであり,そのメンバーであったJimmy Pageが結成したのがLed Zeppelinであった。Cream, Deep Purple, Pink Floyd等がこれに続く。音楽的には,黒人音楽のブルースやR&Bを主体にし,美しいメロディラインよりもリズムやビートを重視していて,BeatlesよりもRolling Stonesの影響を強く受けていた。彼らの音楽は,ハード・ロック,アート・ロックと呼ばれるようになり,70年代にはさらにそれが細分化され,プログレッシブ・ロック,パンク・ロック,ヘヴィメタ等々へと進化(?)して行く。
さて,本作の対象のLed Zeppelinである。ギタリストとして高度な技量をもつJimmy Pageが,ヴォーカルのRobert Plant,ベース/キーボードのJohn Paul Jones,ドラムスのJohn Bonhamに声をかけて1968年に結成されたバンドで,John Bonhamが1980年に事故死したことによって活動を停止した。わずか12年間の活動期間であったが,その商業的成功から80年代以降のロック文化にも大きな影響を与えた。
本作が注目を集めるのは,このバンドの初の公式ドキュメンタリーであるからだ。「自分たちの物語を語る時が来た」の宣伝文句通り,存命の3人への個別インタビューを編集した形式を採っていて,John Bonhamの生前映像も各メンバーの家族写真等も収録されている。他の関係者が登場することはなく,メンバー3人が交互に自分の言葉でじっくりと語るスタイルであることが嬉しい。映画の前半は各人の幼少期からの音楽的背景や個人的興味,上述のロック黎明期にどういう影響を受けたかを語り,バンド結成時や初期の活動を詳しく語る。まさにLed Zeppelin誕生の軌跡を彼らの生の声で辿っている。
後半は,伝説となったライブコンサートの記録映像で,彼らの歌唱と演奏を高音質で聴くことができる。コンサートの一部であるが,各曲はフルに収録されている。2枚目のアルバム「Led Zeppelin II」の楽曲を中心に演奏した米国ツアーやロンドンでの公演映像であると思われる。本作の監督・共同脚本は,アイルランド系米国人のバーナード・マクマホンで,音楽ドキュメンタリー分野で実績がある。Beatlesの曲が1曲も流れなかった上記と比べ,本作の音楽映画としての価値が格段に上なのは明らかだろう。
■『キス・ザ・フューチャー』(9月26日公開)
もう1本のドキュメンタリーも舞台は欧州だが,英仏は関与していない。アイルランドのロックバンド「U2」が1997年にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで行った伝説のライヴの舞台裏で描いたドキュメンタリーで,4万5千人もの観衆を集めたという。それだけを聞けば,約20年の時差はあるが,上記のLed Zeppelinのライヴと比較し,音楽性の違いを比べてみたくなる。
だだし,試写を観る前に不思議だったことが2つあった。なぜロック音楽の映画が,まるで恋愛映画かと思わせるタイトルで,しかもそれを「ユナイテッドピープル」が国内配給するかであった。同社は戦争・紛争,飢餓,環境問題が専門の配給会社ではないか。もう1つ,ベン・アフレックとマット・デイモンがプロデューサーというのもピンと来ない。スパイ映画,犯罪映画なら分かるが,彼らが音楽ドキュメンタリーに関与していたとは…。
このコンサートの精神は,「紛争で引き裂かれた人々の心を音楽の力を1つにする」であり,そのキャッチコピーが「過去を忘れて,未来にキスを,サラエボ万歳!」であった。それなら,この配給会社で納得できる。本作は音楽映画というより,戦争映画,政治映画であった。それには1990年代に起きた「ボスニア紛争」におけるサラエボの置かれた立場を理解する必要がある。
1989年11月のベルリンの壁崩壊後,ソ連は1991年に解体し,多民族国家であったユーゴスラビアでも同年共産主義が否定され,内戦が相次ぎ,スロベニア,マケドニア,ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。そこまでは,普通のTV・新聞報道で知っていた。ボスニア・ヘルツェゴビナはそれだけでは済まず,ボシュニャク人,クロアチア人,セルビア人が対立し,政府軍に反発したセルビア人勢力が首都サラエボを都市包囲する。その中では,非セルビア人が多数殺害され,町はさながら地獄と化した。現在のガザ地区を思わせるような惨状である。この映画では,指揮官ドラゴミル・ミロシェヴィッチ将軍が極悪人として描かれている。「ボスニア紛争」という言葉は知っていたが,4年弱の都市包囲の実情やこの将軍の正確な名前は,この映画を観るまで知らなかった。
思えば,サラエボの名前は,ユーゴスラビア時代の1984年冬季五輪くらいしか記憶にない。まだ現代のようなネットニュースがない時代で,平均的日本人は上記程度のマスメディア報道しか知らなかった。筆者の場合,本作の後で『サラエボの花』(06)はこの時代を描いた映画であり,当欄で取り上げた『アイダよ,何処へ?』(21年Web専用#4)は,もっと直接的にこの部族間対立での殺戮を描いた映画であったことを思い出した。
本作の前半ではこの政治情勢が克明に語られる。中盤以降にようやく音楽との関わりが登場する。若者たちは解放を求めて,夜な夜な地下でパンクロックに興じていた。ある日,米国人の援助活動家ビル・カーターがU2をサラエボに招くことを思いつく。なぜU2かと言えば,彼らの歌の歌詞に戦争や人種差別に反対するメッセージが込められていたからである。ビルはU2のリーダーのボノに連絡し,サラエボ行きを決断させるが,安全面を考えると断念せざるを得なかった。
やむなくビルは,衛星中継を介して,戦火のサラエボの惨状をU2のZOO TV ツアーに届けることに成功する。この行動力とアイディアに感心した。そしてようやく紛争が終結した2年後の1997年9月23日,U2がサラエボにやって来て,約束通りのライヴを実施した。映画中でこのライヴ映像は約10分間に過ぎなかったが,背景を判っているだけに十分感動に値した。
本作の監督のネナド・チチン=サインは,クロアチア出身で1980年に米国に移住したが,父や親族がクロアチアにいたため,戦争中は米国との間を往復したという。彼は,伝説のライヴ20周年記念を機に,平和への願いを込めてその舞台裏の映画化を企画した。本作の最後に,コンサート担当だった女性は,今こそ世界はこうした音楽の力を必要としていると語る。映画としてのエンディングに相応しいが,筆者は素直に賛成できなかった。
ボスニア紛争の終結は,米国が重い腰を上げて関与を始め,NATO軍が出動したことによる。それはボスニアが比較的小さな国で,十分制圧できたからだ。今の米国大統領はロシア大統領にコケにされているし,イスラエルは言うことを聞かない。既に国連もNATOも両国を制御できない国際情勢であり,音楽の力の出番以前の嘆かわしい時代になりつつある。B・アフレックとM・デイモンに適した役割を求めるなら,彼らがゴルゴ13級のスナイパーとしてプーチンやネタニエフを狙撃する映画を作る方が効果的だ。誤解を恐れずに言うならば,その映画を観た誰かが本気でそれを実行する方が世界平和に貢献する。大きな声で公言できないだけで,既に戦争犯罪人に国際認定されている人物2人を抹消することに賛意を示す人々は少なくないのではないかと思う。
■『ラスト・ブレス』(9月26日公開)
音楽映画から離れ,一転して深海での潜水事故を描いたサバイバルスリラーである。「潜水艦映画に外れなし」というように,潜水艦映画は多数ある。では,潜水士や潜水事故を描いた映画はと言えば,これが意外と少なかった。当欄で紹介したのはたった4本である。最近紹介したばかりのリバイバル作品『グラン・ブルー 完全版 4K』(25年8月号)は,無呼吸潜水のフリーダイビング競技がテーマであった。『ザ・ダイバー』(01年5月号)は米海軍初の黒人潜水兵を描いた映画で,時代は1940年代であったので,ダイバー養成所も潜水服もかなり古めかしかった。『海底47m』(17年8月号)は鉄製の檻に入っての海中観光時に起った事故がテーマで,『海底47m 古代マヤの死の迷宮』(20年7・8月号)はその続編であった。当欄で取り上げなかった作品も挙げるなら,『オープンウォーター』(03)はダイビングツアー中に起った実際の事件を描いていて,邦画の『海猿』(04)は海上保安庁勤務で海中救難業務担当の潜水士が主人公の映画であった。
本作は,危険な深海作業を行う「飽和潜水士」が遭遇した事故とその救出活動を描いた実話である。少し回り道をして,「飽和潜水」から説明しよう。「フリーダイビング」は上述のように呼吸装置を着けない無呼吸潜水,浅い水中からゴーグルに付けた管を水上に出して呼吸するのが「シュノーケリング」である。酸素ボンベを含む自給気式呼吸装置を使っての潜水が「スキューバダイビング」であり,スポーツやレジャー用途が主で,潜水限界深度は40mとされている。一方,「飽和潜水(Saturation Diving)」は,100m以上の大深度での長時間作業が可能で,潜水士は予め加圧室で数日間過ごし,浮上時には数時間かけて減圧することで「減圧症」を防いでいる。ある深度に一定時間滞在すると,生体に溶け込むガス量は最大値で一定になり,長時間の飽和状態が維持できるため「飽和潜水」と呼ばれている。
本作に登場する飽和潜水士は,ダンカン(ウディ・ハレルソン),デイヴ(シム・リウ)クリス(フィン・コール)の3人で,北海の海底に敷設されたガス・パイプラインの補修工事を行うため,2012年9月,スコットランドのアバディーン港から潜水支援船タロス号に乗り込んだ。早速,彼らは船内にある加圧室で数日間生活した後,加圧状態のまま海底で28日間の潜水作業を行う。船から彼らが乗った潜水ベル(下部が開口した鐘型の装置)が深海に降ろされ,デイヴとクリスが深度91mでガス管の補修作業に着手し,ベテランのダンカンは潜水ベル内に留まって2人の進捗状況の監視役を担当した。
作業は順調に進行したが,タロス号の位置制御システム(DPS)に異常が発生し,船が流され始めた。デイヴとクリスは急ぎ構造物マニホールドの上に移動したが,クリスの潜水服に酸素と電力を送るケーブルが絡まった。急ぎ緊急ボンベに切り替えたが,10分の酸素量しかなかった。さらに命綱が切断され,クリスは深海の暗闇の中に流されてしまった。タロス号では船を元の位置に戻す懸命の作業に着手するが,通信手段を失った3人を救うことが出来るのか,酸素残量のないクリスの運命は……。
映画の前半は,海底パイプライン敷設・補修の現状,上記で述べたような「飽和潜水」の原理の説明が含まれ,加圧・減圧にための装置など,随分勉強になった。中盤以降は手に汗握るサバイバルドラマだが,ネタバレになるので救助活動の具体的な内容や結末は書けない。実話をこうした映画にするからには,3人全員死亡は有り得ないと,容易に想像できるだろう。まさに前例のない奇跡的出来事が起こったのは,医学的にも説明ができない現象だったとだけ書いておく。
本作の監督・脚本・製作は,英国人のアレックス・パーキンソンで,映画監督・脚本家・ドキュメンタリー作家である。先に同じ事件を描いたドキュメンタリー映画『Last Breath』(19)を製作したが,同作が好評であったため,同じ題名で劇映画化したのが本作である。
■『沈黙の艦隊 北極海大海戦』(9月26日公開)
まず,当映画評の愛読者に深くお詫びし,その理由を述べなければならない。この映画は9月初めからメイン記事(多数の画像を使ってのCG/VFXシーンの解説記事)にすることをTopページで予告していたのに,それを果たせなかったことである。まだアップロードしないのかと,何度も眺めに来て下さった読者には合わせる顔がない。過去最大数の画像を掲載し,最長記事となった『ヒックとドラゴン』に没頭し過ぎて,本作に割く時間がなかったためではない。その逆に,語るに値するCG/VFXシーンがなかったからでもない。本シリーズの第1作を上回るCG/VFXシーンがあったのに,それらが配給会社から全く提供されなかったため,この「論評欄」に格下げせざるを得なかったのである。
先月の劇場版『TOKYO MER〜走る緊急救命室〜南海ミッション』(25年8月号)の場合も,火山の噴火や溶岩流の描写に多くのCG/VFXが使われていた。そのスチル画像が提供されないことは,マスコミ試写の直後から分かっていたので,メイン記事予告はしなかった。一方,本作の場合は,公式サイトの予告編や特報映像中にもかなりのCG/VFXシーンがあり,第1作同様,それらの一部は提供可能であるとの確認は得ていた。ところが,ようやく公開日前日になって得た画像セットには,期待したものがないことが判明した。登場人物や(CGなしの)艦内シーンの画像だけでは,当映画評のメイン記事にはできない。しばらく悩んだ結果,文字だけの論評記事にする苦渋の選択をしたのである。
まず,本作に至るシリーズの流れを整理しておこう。原作は,1988年10月から96年2月まで週刊「モーニング」に連載された「かわぐちかいじ」作画の同名コミック(単行本は全32巻)である。それを実写映画化した劇場版第1作が,2年前の『沈黙の艦隊』(23年9月号)であった。その紹介記事中では,日本の漫画史に残る名作であり,政治漫画,戦争漫画として国会質問の対象のなるほど話題作であったことや,連載開始当時の社会動向,世界の政治情勢にも触れておいた。筆者は原作の熱烈なファンであり,その視点から,同じようなファンが多数いることを前提とした紹介記事とすることも明言した。評点は平均的なとしたが,総合評価ではかなり酷評した。原作単行本の第3巻半ばまでしかカバーしておらず,原作のもつ壮大な世界観が全く感じられなかったからである。強い要望として,続編を最低2本製作し,3部作にすることを述べた。
この記事の時点では,続編の製作・公開は全く公表されていなかった。ところが何と,半年も経たない翌年2月にAmazon Prime Videoのドラマシリーズとして,『沈黙の艦隊 シーズン1~東京湾大海戦~』(24年2月号)は配信された。全8話の合計上映時間は375分に及び,劇場版第1作全体が含まれていて,原作の第11巻の7割強までをカバーしていた。何のことはない,最初からシリーズ化する予定の大きな企画であったのだ。政治ドラマも潜水艦バトルも充実していたので,評価を与えた。もうこの時点で,シーズン2以降が作られることは明らかとなった。
さて,劇場版第2作の本作である。第1作の続編ではなく,配信版シーズン1の続編であり,ここまでの概要を約5分にまとめて本作の冒頭で流れる。内容は副題から分かるように,東京湾大海戦に勝利した日本初の原潜シーバットは,海江田四郎艦長が独立国「やまと」を宣言し,北極海経由で国連本部に向かい,NY港入りをするまでを描いている。「やまと」のNY入りを阻止しようとする米国の「オーロラ作戦」で,「やまと」がベイツ兄弟率いる原潜と戦う「北極悔大海戦」は,本作の前半で終わってしまう。後半では,米国側が最後の砦とする「ニューヨーク沖決戦」で,空母JFKを中心とした艦隊や航空機戦闘部隊との戦いがしっかり描かれている。一方,日本国内の政治ドラマとして,「やまと」を承認・連携するかを巡って,与党「民自党」が4つに分裂し,衆院解散して総選挙が行われる模様が描かれている。
CG/VFXに触れておくと,原作中で最も人気が高かった「北極悔大海戦」での魚雷戦がじっくりと描かれていた。願望を言えば,米軍側のトリックを海江田が見破る原作のエッセンスは維持されていたが,操艦の妙はもう少し原作に忠実であって欲しかったところだ。希望の画像が得られれば,北極海,グリーンランド近海でのオーロラ,氷山,流氷等が実写か,一部CGかを論じ,CG製の鯨も見せたかったところである。NY沖の戦闘は,原作よりも映画の方が小規模の戦闘に留めている。「やまと」が空中を飛ぶシーンはあったが,連載中に有り得ないと物議を醸した「垂直上昇」は本作では登場しなかったとだけ言っておこう。前回と同様に,Amazon Primeでの「シーズン2」で配信され,そこで情報公開されるなら,上記のようなCG/VFXシーンを改めて解説したい。
原作との大きな違いも述べておく。NY沖での戦いの結果の米国大統領の判断が異なるので,この第2作が原作の第何巻までをカバーしているのか明確に言えない。原作ではさらにハドソン川での攻防が続く。筆者は第1作時に,2作目を作るなら,ロシアや中国の原潜との戦いを描くべきと書いたが,相変わらず他国は登場せず,米国海軍との戦いに終始している。原作では,英・仏・中・露・印の原潜が集結し,各国首脳のサミットも開催されるが,映画はそこまでのスケールにはなっていない。原作は1990年代想定の物語で,本シリーズは現代を舞台にしているので,迂闊に国際情勢を盛り込む訳には行かないのは理解できる。そもそも前作から本作の間で,米国大統領が誰になるか分からなかったし,いくら映画はフィクションとはいえ,ロシアや中国との関係は安易には描けない。
日本国内で解散総選挙が行われ,4党首の政策討論があるのは同じだが,その顔ぶれが異なる。原作では「革新連合」の河之内英樹なる人物が登場するが,映画では与党・民自党を離党した元防衛大臣の曽根崎仁美(夏川結衣)に置き換わっている。もはや,日本の政治力学の中で野党は何の力もないと宣言しているかのような大胆な脚本である。原作では4党首はすべて男性だが,映画では男女それぞれ2人ずつであり,この脚色には少し驚いた。斬新だ。
海江田艦長(大沢たかお),竹上総理(笹野高史),海原官房長官(江口洋介),ベネット大統領(リック・アムスバリー)等の主要キャストのほぼすべては続演である。第2作で再重要の新登場人物は,民自党から独立した鏡水会党首・大滝淳で,この役を演じる津田健次郎は原作のイメージ通りの好演であった。少し驚いたのは,原作で最も強面の民自党幹事長・海渡一郎を,映画では女性の海渡真知子にして,しかもそれを風吹ジュンが演じていたことである。日頃彼女が演じている役柄とはかなり印象が異なり,大政党の幹事長役とは驚きのキャスティングであった。
総合的に見るならば,原作をかなり圧縮せざるを得ず,しかも現在の世界情勢に大きく左右されない政治ドラマにするのは,そう簡単ではない。それを考慮すると,潜水艦バトルも政治ドラマも第1作よりもかなり出来がいい。この内容で上映時間132分は,うまく編集されていて,見応え十分である。前回同様なら,本作を大幅拡張した配信版シーズン2は大いに楽しみであり,このシリーズをいつまで続けるのかも気になる。海江田艦長の結末をどう描くのか,原作を外さないのか,いっそ大きく変えてしまうのか,興味は尽きない。
■『俺ではない炎上』(9月26日公開)
今月は邦画『遠い山なみの光』で始めたので,トリも邦画にしておこう。これまで意識していなかったのだが,改めて見ると,5月号の『劇場版 それでも俺は,妻としたい』以降,『でっちあげ 〜殺⼈教師と呼ばれた男』『事故物件ゾク 恐い間取り』『メイソウ家族』から本作へと,5ヶ月連続で最後は邦画で締めている。観たい,語りたい映画の候補をリストアップする際,同日公開作品を,製作国で米,殴,亜,日の順に並べ,さらに重厚な作品を前,軽めの楽しい映画を後にする癖がついている。実際の執筆時には,今月の音楽映画のように類似作品を連続させることが多いが,それに該当しない映画が元の順のまま残り,邦画が最後になる率が高いのかと思う。
本作は正にそのもので,現代社会でのSNS上での出来事を風刺したサスペンス映画で,原作はミステリー作家・浅倉秋成の同名小説である。印刷会社の営業マン経験の後,作家デビューしただけあって世情に通じていて,「失恋覚悟のラウンドアバウト」「教室が,ひとりになるまで」「六人の嘘つきな大学生」「そうだ,デスゲームを作ろう」といった若者を対象とした小説が並ぶ。映画化は『六人の嘘つき…』(24)に続く2本目で,両作はいずれも「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」「ミステリが読みたい!」の4大ランキングにランクインしている。
本作の主人公・山縣泰介(阿部寛)は大手ハウスメーカー勤務の中年の営業マンだが,ある日突然,彼の名義のSNSアカウントから女子大生の遺体画像が拡散され,ネット上で殺人犯扱いされてしまう。全く身に覚えのないことで,いくら無実を訴えても瞬く間に情報は広がった。泰介の個人情報は晒され,やがてスマホで撮られた画像が出回ったことから,町中で追い掛け回され,さらにその映像がネット上で出回るという炎上状態となった。泰介は会社に出社できず,車と荷物を取りに自宅に戻ると,物置にビニール袋に入った別の女性の死体が置かれていた。驚いて慌てる泰介をユーチューバーのフラッシュが捕えた。逃げ出した泰介は,車内にあったジョギングウェアに着替えて,逃亡生活を送ることになる……。
物語を左右する他の登場人物は,泰介を追う謎の大学生・サクラ(芦田愛菜),学生インフルエンサー・住吉初羽馬(藤原大祐),取引先企業の若手社員・青江(長尾謙杜)らの若者中心だが,泰介の妻・芙由子役に夏川結衣,泰介が立ち寄るスナックのママ役で美保純が出演している。監督は『AWAKE』(20年11・12月号)の山田篤宏,脚本は『空飛ぶタイヤ』(18年Web専用#3)『護られなかった者たちへ』(21年9・10月号)の林民夫で,若者向きの原作を,中盤まではコメディタッチ,終盤はヒューマンドラマとして描いていた。
SNSでの炎上は,所詮,小説や映画の中での絵空事と思いつつも,この種の「冤罪」は十分あり得ると感じてしまう。ミステリーとしては,真犯人探しの他に,不思議な言葉「からにえなくそ」の謎解きが鍵となっている。中盤のロードムービーは見応えがあり,終盤は爆発まで登場するアクション映画で,既に初老の阿部寛の熱演は面目躍如であった。強いていえば,SNS炎上と逃亡ロードムービーは無理に合体させた感があり,少し不自然に感じた。本作には,ネタバレ防止で,配給会社からかなり多くの記載禁止指定があった。それだけ楽しめる謎解き,意外性のある結末であると考えて良い。
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