O plus E VFX映画時評 2025年8月号掲載
(注:本映画時評の評点は,上から,
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の順で,その中間に
をつけています)
■『入国審査』(8月1日公開)
面白かった。今月のトップバッターにし,評価したことからもお分かりのように,今月の一推し映画である。ただし,この映画に対する適切な褒め言葉が思い浮かばなかった。深層心理を描いているが,感激・感動の映画ではない。結末の描き方には少し感心したが,全く意外な決着,大逆転の着地でもない。撮影日数17日,製作費は65万ドルという低予算映画なので,インデペンデント系の映画祭で新人作品賞,オリジナル脚本賞等を受賞しているが,映画史に残るような大傑作ではない。たった77分の映画で,エンドクレジットを除くとさらに数分短いが,終始この先どうなるのかと気を揉み,主人公に感情移入しながら見守る映画であった。シンプルな題名通り,空港での「入国審査」の模様の一部始終を描いた映画である。
いきなり「トランプ大統領」という言葉が出て来るので,最近の排他的な移民政策の影響かと思ったが,第1次政権下の2019年2月15日の出来事であった。スペイン・バスセロナ在住のカップルがマドリード経由でNYのニューアーク空港に到着する。長い行列に辟易しながらも必要書類記入を済ませ,税関でのパスポートチェック,両手の指の指紋検査,入国目的の口頭確認までは誰もが経験する手順である。彼らは観光目的ではなく,米国への移住であったので,それでは終らず,2次審査室への同行を求められる。ここまでが約12分で,できれば以下を読む前に映画館で観ることをお勧めする。
控室では30分以上待たされたが,別の男性は3時間も待っているという。ようやく呼ばれた密室とも言える取調室での質問攻めは過酷で,根掘り葉掘り,個人のプライバシーに関わる辛辣な詰問であった。男性ディエゴ(アルベルト・アンマン)はベネズエラ出身で,38歳の都市計画の専門家であり,女性エレナ(ブルーナ・クッシ)はバルセロナ出身で32歳のダンス教師である。彼女が移民ビザの抽選に当選したことから,2人は米国への移住を決意し、新天地での生活を夢見ていた。
まずディエゴと同じラテン系女性審査官バスケス(ローラ・ゴメス)が現われ,書類を精査し,携帯電話を取り上げる。マイアミへの乗り継ぎ便まで2時間しかなく,その間に空港内でディエゴの異父兄と出会うことになっていることを告げるが,審査官は意に介さない。エレナは反抗的な態度を取るが,ディエゴは穏やかな態度で接することが得策だと宥める。さらに男性審査官バレット(ベン・テンプル)が加わり,2人が入籍している夫婦でなく,事実婚関係であることの理由を厳しい追求を始める。ディエゴにはかつて婚約者がいたことを明らかにし,移住目的の偽装事実婚ではないかと疑っているのだった。ディエゴから過去の女性関係を知らされていなかったエレナは,彼に疑念を抱き始める……。
当然筆者はディエゴの視点で感情移入しながら観ていたが,女性観客はエレナの視点だろう。現在のトランプ政権下の短期滞在者や留学生であれば,いつ自分たちもこうした圧迫質問に晒され,答え方によっては強制送還されるのではないかと気になって熟視するに違いない。その意味では,普遍的な内容を含んだ極めて優れた脚本であり,時々スペイン語を交えた会話の応酬が秀逸であった。監督・脚本はアレハンドロ・ロハスとフアン・セバスチャン・バスケスで,ともにベネズエラ・カラカス出身であり,現在バルセロナ在住の彼らのスペイン入国時の実体験に基づいているという。ディエゴ役は南米のアルゼンチン出身,スペインで演技を学んだ男優,エレナ役はバルセロナ生まれで,ダンサー出身の女優という。このキャスティングにもリアリティがあった。
ところで,筆者は本作を試写室で映画の進行を実時間体験した後,あまりに面白かったので,オンライン試写で2度目を観た。鮮やかな結末が分かっていたせいもあるが,2回目の視聴ではあっという間に終ってしまい,質問もさほど辛辣に感じなかった。3度目は2人の審査官になったつもりで観ると,これくらいの追求は職務上当然で,性悪説に立って吟味しないと,不法入国や偽装結婚は防げないと思ってしまった。
■『KNEECAP/ニーキャップ』(8月1日公開)
実在するヒップホップトリオが実名で登場する映画である。トリオ誕生の経緯を描いているが,ドキュメンタリー映画ではなく,劇映画仕立てとなっている。音楽映画を積極的に取り上げる当映画評であるので,概要だけで1, 2もなく観る気になったが,いざレビュー記事を書く段階になると,内容紹介に自信がない。この映画の背景となる北アイルランドの政治的状況の把握が足りず,ましてやアイルランド語の置かれている文化的背景の知識もなかったからだ。そのことをまず断っておきたい。
舞台となるのは北アイルランドの主都のベルファスト。アイルランド島の大半を占めるアイルランド共和国と国境は接しているが,島の北東部にあり,連合王国(=英国)の一部である。後の「KNEECAP」の内の2人,ニーシャとリーアムは幼馴染みで,ニーシャの父のアーロ(マイケル・ファスベンダ-)の信念である「アイルランド語は自由のための弾丸だ」により,2人はアイルランド語の教育を受けて育った。ところが,過激派組織IRAの元メンバーであったアーロは,警察に目をつけられたことから,家族を残し,自殺を装って疾走してしまった。音信不通となり,10年以上も姿を見せない。それ以降,ニーシャの母ドロレス(シモーヌ・カービー)は引きこもり状態になり,家から一歩も出なかった。
大人になった2人はドラッグ売買を生業としていた。ドラッグパーティに警察が踏み込んだ際,ニーシャは逃走したが,リーアムは逮捕されてしまった。彼が英語での取り調べを拒絶したため,音楽教師のJJがアイルランド語との通訳者として派遣された。押収されたリーアムの所持品から,彼の手帳を盗み見たJJはそれを自宅持ち帰り,アイルランド語の歌詞に感激する。早速JJは2人に「絶滅寸前のアイルランド語の権利維持」のためのヒップホップ活動を提案する。かくして,酒とドラッグにまみれながら,JJの自宅ガレージでの録音が始まった。
実を言うと,少年期も大人になってからも,会話の中身が理解不能だった,余りのつまらなさに途中で止めようとしたが,彼らの最初の曲「C.E.A.R.T.A.」を聴いた途端に目が覚めた。痺れた。その後,彼らはKNEECAPと名乗って地元パブでのパフォーマンが始まり,トリオの噂は広まって行く。劇映画としては,音楽教師としての地位を失うことを恐れたJJが常時覆面帽を被ること,ニーシャの父との再会や母との口論,カトリックのリーアムがプロテスタントの恋人ジョージアとの交際を始めること,KNEECAPの過激なステージが警察や麻薬撲滅団(RRAD)に目をつけられること等々が描かれていた。
監督・脚本は英国出身のリッチ・ペピアットで,彼自身はアイルランド語を話せないらしい。実話ベースであると思いつつも,どこまで脚色されているのかは分からなかった。北アイルランドでアイルランド語が公用語となったのは,2022年12月のことだと初めて知った。話者はわずか6,000人というから無理もない。2017年にデビューしたこのトリオの貢献が大きいのかも知れない。
映画全体がヒップホップそのものであった。ギャグや辛辣な皮肉を込めたセリフやエピソードの半分以上は意味が分からなかった。初見で分かりにくい脚本は,表現が稚拙であるからと公言している当映画評としては,評点を高くする訳にはいかないが,音楽パートには引き込まれた。このトリオのCDを入手して改めて聴こうかと思ったが,それは断念した。映画のように字幕付きでないアイルランド語は理解できず,それではヒップホップは意味をなさないからである。
■ 劇場版『TOKYO MER〜走る緊急救命室〜南海ミッション』(8月1日公開)
2021年にTBS系で放映されたTVドラマ『TOKYO MER〜走る緊急救命室〜』の劇場版2作目である。MERとは「Mobile Emergency Room」の略で,最新の医療機器と手術室を搭載した緊急車両(ERカー)が,大規模災害や重大事故の現場に駆けつけて医療行為を車内で実施することを想定している。TV版では都知事の肝いりで創設された東京海浜病院所属の医療チーム「TOKYO MER」の活躍を描いていた。劇場版第1作(23)はその2年後の設定で,厚労省直轄の「YOKOMAMA MER」が発足していた。横浜みなとみらいのランドマークタワーの大規模火災に際して,両MERチームが対立しながら連携して緊急医療を成功させる物語であった。第2弾の本作はさらに2年後で,鹿児島と沖縄を結ぶ海の島々を対象にした新チーム「南海MER」が遭遇する危険なミッションを描いている。
それまでの実績から,厚労省は横浜に続き,全国の主要都市部(札幌・仙台・名古屋・大阪・福岡)でのMER活動を展開していた。沖縄・鹿児島両県の誘致運動により,諸島部を巡って救命医療を行う「南海MER」の試験運用が始まり,その指導員としてTOKYO MERのチーフドクター・喜多見幸太(鈴木亮平)と看護師長・蔵前夏梅(菜々緒)が出向赴任した。設備としては,島内の急坂オフロードに対応できる中型ERカーのNK1とそれを搭載できる専用フェリーNK0が用意された。ところが,半年間で緊急出動の要請はゼロで,厚労省副大臣の久我山(鶴見辰吾)は計画の打切りを持ち出す。そんな中で,突如,鹿児島県・諏訪之瀬島の火山が大噴火を起こす。巨大隕石が道路・建物を破壊し,溶岩流が村を焼き,波止場にまで迫る。噴煙により救助ヘリの運行は不可能,海自や海保の到着には数十分を要するというので,近くを航行していた南海MERに緊急出動要請が下る。果たして喜多見らは,未曾有の天災に際し,取り残された島民79名を救出し「死者ゼロ」を貫けるのか…。
前作は未見であったが,ネット配信で確認したところ,本作は格段にスケールアップしていた。監督の松木彩はTV版からの継続登板で,TVドラマ演出の癖が抜けないのか,演出は稚拙,セリフは学芸会レベルだった。ところが,50分経った頃から,パニック映画として本格化する。緊迫感も登場人物の描き方も,邦画には珍しいレベルで,これならハリウッド大作に太刀打ちできる。
残念だったのは,当然メイン欄で取り上げるつもりだったのに,噴火や溶岩流のCG/VFXシーンが全く提供されなかったことだ。噴火はよくある標準レベルだが,溶岩流の描写が優れていた。誰も本物を見たことはないが,それらしいと感じさせてくれる。その溶岩流が迫るシーンが,公式サイトにもプレス資料にもなく,公開スチル画像もない。なぜ誇るべき出来映えのCG画像を隠そうとするのか,全く理解に苦しむ。
「死者ゼロ」がモットーであるから,安心して観ていられた。諏訪之瀬島の島民79人というのは,現実の人口のようだ。約1ヶ月前に震度6弱の地震に見舞われた「悪石島」は鹿児島県十島村にあるが,本作の諏訪之瀬島は同じ村で,トカラ列島ですぐ隣にある島である。今も群発地震は続いているが,報道が途絶えた頃に,カムチャッカ半島の大地震による津波報道で自然災害への関心が高まった。どこかの予算委員長のように,「運のいいことに」その時期に本作の公開があり…と言ったら,炎上して辞任することになるのだろうが(笑)。
島民救出作戦の一件落着後,南海MERチーフ候補の牧志秀美(江口洋介)が不慮の事故で重傷を負い,喜多見が緊急手術を行う。その彼のスーパードクターぶりが凄かった。MERチームの指揮や島民救出時の人格者ぶりと難手術を手際良くさばく手腕に,これはフィクションだと思いつつ,鈴木亮平の演技力にも感心した。この医師は彼以外に考えられないと思うほどのハマり役である。
助演陣も悪くなかったが、1つ難点があった。女性陣は全員若い美人で,同じピンクの制服を着ているので見分けがつかない。実際の看護師には色々いるはずだから,年齢,体形にバラエティを持たせて欲しかった(笑)。揚げ足をとるなら,到着まで25分かかると言っていた海自や海保は,40〜50分経っても一向に現われない。
逆に,キャスティングで嬉しかったのは,最後に1シーンだけ登場する首相役が笹野高史であったことだ。来月公開の『沈黙の艦隊 北極海大海戦』で,温厚だが責任感が強い竹上総理役で登場するはずである。見事なタイアップであり,同シリーズのファンだけが分かる絶妙の前宣伝となっている。
■『長崎—閃光の影で—』(8月1日公開)
夏になり,終戦記念日が近づくと戦争関連映画が何本も公開される。終戦80周年ということで,名作アニメ『この世界の片隅に』が再上映されるが,当欄では初回上映版(16年12月号)も,その増補版『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(19年Web専用#6)も紹介したので、今回はここで言及するのみに留める。今回の再上映は126分のオリジナル版であるので,是非DVD等で168分の増補版にもトライして欲しい。
さて,新作としては邦画3本を紹介することにした。前週公開の『木の上の軍隊』(25年7月号)と本作と再来週公開の『雪風 YUKIKAZE』である。『この世界の…』が広島での被爆体験を描いているのに対して,本作は題名から分かるように,長崎への原爆投下と被爆者の惨状を赤裸々に描いている。どうしても広島が描かれることが多く,長崎の被爆を描いた作品は少ない。当欄で記憶にあるのは吉永小百合主演の『母と暮せば』(15年12月号)くらいだ。そう思って検索したら,もう1本あった。何と『ウルヴァリン:X-MEN ZERO 』(09年9月号)で,短いシーンであるが,ヒュー・ジャックマン演じる鉤爪男のローガンが長崎原爆投下を体験している。なぜこんな回りくどい話題を先に述べたかと言えば,本作のテーマも描写も余りに悲惨で,それを思い出すのも真正面から語るのも,気が進まなかったからである。
主人公は,17歳の少女,田中スミ(菊池日菜子),大野アツ子(小野花梨),岩永ミサヲ(川床明日香)の3人で,日本赤十字社の看護学校の同級生である。空襲による休校で,彼女らが大阪から長崎に帰郷する列車の中から物語は始まる。それぞれが家族や幼馴染みの恋人と再会して,束の間の幸せな時間を過ごした後,8月9日午前11時2分の運命の時を迎える。スミは島原・愛野の祖母の家に向かうバスの中で閃光を目撃した後,爆風で怪我をした乗客たちの手当てをし,その後大村海軍病院での救護活動に加わる。日赤長崎支部に勤務していたアツ子は,支部が崩壊し,自らも足を負傷しながらも婦長(水崎綾女)の指揮の下で救護に当たる。浦上天主堂で回解を済ませて帰路についたミサヲは,瓦礫の中から父・信行(萩原聖人)を救出する。
街は一面焼土と化し,大火傷を負った人々は水を求めて彷徨っていた。やがて3人は再会を果たし,互いに励まし合い,未熟ながらも必死で治療に当たる日々が描かれる。治療したばかりの被災者が次々と落命し,床に並べられた多数の遺体,死者を火葬するシーンは思い出すだけでも辛く,これ以上は書けない。本当は観続けたくない映画であったが,世界唯一の被爆国・日本が戦後80年の今,語り継ぐべき記録として残すという趣旨を汲んで,義務感から最後までしっかり観終えた。
監督・共同脚本には,長崎被爆3世の松本准平が起用された。原案は1980年に発行された「閃光の影で―原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記―」で,その中から3名が選ばれているので,勿論実話ベースで,実名で登場する。最も印象に残ったシーンを記しておく。ガラスの破片が入って両目の視力を失った妊婦ハナ(KAKAZU) の出産シーンであり,それに立ち会ったスミが終戦から4ヶ月後に,遺児が預けられた養護施設「騎士園」を訪れるエピソードである。そこで働く女性・南原令子(南果歩)から送られた言葉「生きること,忘れずにいること」は,この映画の全てを凝縮していると感じた。
■『アイム・スティル・ヒア』(8月8日公開)
やっとピースが埋まった思いだ。今年のアカデミー賞で作品賞,主演女優賞,国際長編映画賞の3部門にノミネートされ,国際長編映画賞でオスカーを得た作品である。例年,ドキュメンタリーや短編を除く19部門を対象に受賞予想記事を書いているが,他の受賞作18本は既に観終えているのに,本作だけが未見であった。監督のウォルター・サレスはブラジル生まれの名匠とされているが,当欄で取り上げた2本,『ダーク・ウォーター』(05年11月号)[邦画『仄暗い水の底から』(02)の英語版リメイク]と『オン・ザ・ロード』(13年9月号)[フランシス・F・コッポラの指名により撮った高額製作費の話題作]のいずれも今イチの印象しかなかった。名匠が母国を舞台にした映画でオスカー受賞となると,一体どんな出来映えなのかも気になっていたのである。
物語は1970年のリオデジャネイロから始まる。元国会議員のルーベンス・パイヴァ(セルトン・メロ)は妻エウニセ(フェルナンダ・トーレス)との間に5人の子供(女4人,男1人)を設けていた。1964年のクーデター時に公職を剥奪され国外に逃げたが,母国に戻ってからは弁護士として,美しい海岸が見える家で平穏に暮らしていた。ところが,スイス大使誘拐事件を機に政情不安となり,軍事独裁政権が市民生活を抑圧し始めた。1970年12月,ルーベンスが在宅中のある日,軍関係者が自宅に入り込んで来て,理由も告げず,半強制的に彼の同行を求めた。続いて,妻エウニセと次女ヴェロカも軍の拘置所に連行される。次女はすぐに解放されたが,エウニセの拘束は12日間にも及び,連日,夫の政治的行動や交友関係に関する厳しい尋問が続いた。何も知らない彼女は解放されて自宅に戻ったが,夫はついに戻って来なかった。
上映時間138分の内,ここまでで約1時間を費やしていた。そこから夫の安否を気遣いつつ,子供たちを育て,人身保護令を申請するエウニセの戦いが始まる。その後,家族の友人から,夫は政治亡命者の連絡支援をしていたことを知らされ,一緒に投獄されていた元教師マーサからは逮捕時の様子を書いた手紙を受け取る。ジャーナリストから夫拷問で殺害されと知らされたが,軍は公式にそれを認めなかった。経済的も困窮したエウニセは自宅を売り,子供たちを連れてサンパウロに実家に戻る…。
その後, 25年後の1996年に民主化したブラジル政府から公式の死亡証明書が届く。エウニセは大学に再入学して法律を学び,弁護士となっていた。さらに2014年,車椅子生活のエウニセは85歳で,大勢の家族と集合写真を撮るシーンまでが映像で描かれ,字幕では彼女が89歳の生涯を終えたことが記されていた。映画には登場しないが,エウニセは夫の名誉回復や政府の公式謝罪を求めるだけなく,先住民族パタソ族の権利擁護運動でも大きな業績を残した立派な女性のようだ。
軍部の圧制から民主化までを描いた政治ドラマであり,1人の女性エウニセの奮闘記である。こんなに風格のある本格的映画と思わなかった。さすが,前評判の高かったライバルを退けてのオスカー受賞作である。監督の演出力もさることながら,ブラジルを代表する女優F・トーレスの演技も素晴らしい。アカデミー賞は逃したが,GG賞はドラマ部門の主演女優賞を受賞している。ほぼ完全に実話である。原作はマルセロ・パイヴァが2015年に発表した同名の回顧録である。彼はルーベンスとエウニセの長男であるから,家族の半生の伝記である。サレス監督は,実際にこの家族と交流があったというから,フィクションや過度に誇張した脚色が入る余地はない。
映像的には,通常の35mmフィルムの他に,まだ平和な時代のパイヴァ家の私生活の映像記録部分でスーパー8フィルムを利用していたのが興味深かった。実在のパイヴァ家がこの規格の8mmカメラを使っていたかは不明だが,1960〜70年代の回顧録の雰囲気を醸し出すのは適していた。その他,半世紀以上の前のリオ市内の様子や当時の拘置所の再現もよく出来ていた。もう1点,特筆すべきは85歳のエウニセを演じていたのは,F・トーレスの実母で当93歳のフェルナンダ・モンテネグロである。サレス監督の『セントラル・ステーション』(98)の主人公ドーラ役でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされ,ポルトガル語俳優として初の快挙だったという。本作では母娘が同一人物の老若を演じ,四半世紀以上を隔てて同じ監督の映画で同じ部門の候補者になったというのも珍しい出来事である。
■『何も知らない夜』(8月8日公開)
次も話題作だ。権力への抵抗という点では共通しているが,監督の映画人としての経験やスタンスはまるで違う。本作は最新の映画ではない。監督・脚本は,先月紹介したばかりの『私たちが光と想うすべて』(25年7月号)のパヤル・カパーリヤーだ。その中で「複数の短編で注目を集めた後,初長編はドキュメンタリー作品で,本作が長編劇映画のデビュー作」と紹介したが,その当の「ドキュメンタリー作品」が本作なのである。
初登場は2021年7月カンヌ映画祭の監督週間のプレミア上映で,「ベストドキュメンタリー賞」を受賞した。その後,多数の映画祭に出品され,日本でも2023年に山形国際ドキュメンタリー映画祭の大賞を受賞している。映画館ではフランス,スペイン等で少し公開されただけだが,今回『私たちが…』の公開を機に,日本でも順次限定公開される運びとなった。国内配給会社のこの扱いは拍手ものだ。才能豊かな若手監督ゆえに,彼女が先にどんなドキュメンタリー映画を撮っていたのか気になった。同じ思いの映画ファンも少なくないと思う。
カパーリヤー監督はインド映画テレビ研究所(FTII)の監督コースに学生として在籍したが,本作はこの映画製作者育成機関で起きた2つの出来事をミックスして構成されている。同学の学生寮に残されていた女子学生「L」が同級生の恋人に宛てた手紙には,①カーストが異なる者との結婚を親に反対され退学せざるを得なかったこと,②2016年にFTIIで起きた学生運動の弾圧事件の顛末が記されていた。監督は仲間たちと,2017年から学内の様子,友人間でのパーティや身の回りの生活の撮影を始め,当時のアーカイブ映像も集め,数年かけてこの映画を完成させたという。
映画としては,Lが手紙を朗読する形をとっているが,若い女性の語りが心地よく,「きらめく詩的なエッセイ・ドキュメンタリー」「好奇心旺盛で表現豊かで親密な映画」という他紙の評価が的を射ていると感じた。L本人の朗読ではなく,監督の声でもないが,何となく監督のナレーションを聴いている思いにさせてくれる。前半は①中心で,実在の手紙の他に,架空のラブストーリーを付け加えている。カースト制度が今も残っていることは知っていたが,結婚を反対する親に軟禁状態にされるという現実に愕然とした。インドはまだそんな国である。
後半は②中心で,公的機関のFTIIの所長にヒンドゥー至上主義者の俳優が着任したことに端を発している。前年に首相に就任したナレンドラ・モディが,FTIIを含むほぼ全ての公的機関のトップを,ヒンドゥー至上主義者の知人に入れ替えたという。それではまるでインドのトランプではないか。インドの政治状況に無知であったこともあるが,モディがそこまでの独裁者で嫌われ者とは知らず,もう少しましな人格者かと思っていた。当然のことながら,学内外で大きな反政府運動が展開する。FTII内では,博士課程学生が自殺し,学生運動を極右政党や警官隊が完全に制圧する夜までを描いていた。Lの手紙は,その翌朝,空を見上げたところで終わっていた。
実を言うと,この②が長過ぎて退屈だった。なぜなら,この種の反政府運動,学生運動は世界レベルでは日常茶飯事であり,特に珍しくもない。約10年前の香港の雨傘運動,今年に入ってからはガザ地区での非人道的行為に対するハーバード大学での抗議デモが記憶に新しい。日本では,60年安保と60年代後半の学園闘争の2度が社会問題になった。筆者は年齢的に後者にしか参加していないが,それが70年安保反対に繋がらず,1969年内に終息してしまった。爾来,平和ボケした日本ではまともな学生運動を目にしていない。本作の中でも,1969年のイタリアの反政府運動への言及がある。即ち,他の民主主義国では半世紀以上前に経験していたことが,インドではそれがまだ定着していなかったに過ぎない。
とはいえ,FTII関係者にとっては人生に関わる一大事であったから,それを映像記録として残しておきたかったことは理解できる。新人監督ゆえ,編集の稚拙さも許容できる。全体が極めて詩的であったことは,次なる『私たちが…』に見事に継承されていた。この有能な若手監督が次にどんな作品を作るのか楽しみにしたい。
(以下,8月公開作品を順次追加します)
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