O plus E VFX映画時評 2025年1月号掲載

その他の作品の論評 Part 2

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


(1月前半の公開作品はPart 1に掲載しています)

■『ゴールドフィンガー 巨大金融詐欺事件』(1月24日公開)
 Part 2は香港映画のヒット作から始める。昔からの映画ファンなら,この題名から思い出すのは,『007/ゴールドフィンガー』(64)だろう。シャーリー・バッシーが歌う主題歌も大ヒットした。今更それを香港でリメイクする訳はない。007のパロディ映画はいくつもあったが,それならスパイ映画であるはずで,詐欺事件ではない。実は007とは全く無関係で,1980年代の巨額の金融詐欺を描いた実話ベースの物語で,原題は『金手指/The Goldfinger』である。ゲームやスポーツでの巧みな不正行為や特殊技能を指す俗語とのことだ。
 007に便乗する必要はなく,トニー・レオンとアンディ・ラウの20年ぶりの共演作というだけで,映画ファンの心は沸き立つ。あの『インファナル・アフェア』シリーズで,囮警察官役だったトニーとマフィア組員役だったアンディが,本作では立場を逆にして「敏腕詐欺師」と「執念の捜査官」を演じるというから,興味は倍加する。しかも監督・脚本はシリーズ3部作の脚本を担当したフェリックス・チョンであるから,外れの訳はない。
 物語は1970年代から始まる。海外ビジネスで失敗した程一言(T・レオン)は香港に戻ってきて,持ち前の才覚から悪質な土地違法取引を手始めに足場を築き,女性助手・張嘉文の名前を使って「嘉文害虫駆除」を立ち上げる。その後,株式市場ブームの波に乗り,80年代初めには,数十社を束ねる「嘉文世紀グループ」は100億ドルの資産を有していた。一方,劉啓源(A・ラウ)は汚職対策独立委員会(ICAC)のエリート捜査官で,ICAUに反発する皇家香港警察と一触即発の関係にあったが,程の資産形成を疑惑の目で調査を進めていた。メイクとはいえ,主演の2人は実年齢62歳と63歳には見えない若々しさで,相変わらずイケメンだ。ただし,映画の終盤では,しっかり老け顔で登場する。
 1982年香港返還を巡る英中交渉が始まって為替市場が不安定になり,株価は大暴落する。嘉文世紀Gr.も倒産寸前のはずが,それを詐欺同然の手口で乗り切る程一言の才覚が見事だった。殺人事件まで起こるに至って,劉は程を何度も逮捕するが,それを毎回あの手この手で切り抜ける。15年に及ぶ劉の執念の捜査と8度目の逮捕で,果たして程は有罪になるのか……。
 1970〜80年代の香港は,人々の衣装,町を走るタクシー,市街地等の再現が見事だった。聳え立つビルの一部はCGだろう。北京政府の支配下に入ってしまった現在よりも,自由で活気があった香港の栄光の時代を懐かしんだ映画に思えた。嘉文世紀Gr.の絶頂期のシーンとエンドロールに流れる曲は「Can't Take My Eyes Off You (君の瞳に恋してる)」であった。元はFrankie Valliが歌った曲だが,Boys Town Gangが1981年にカバーしたディスコ版が世界中で大ヒットし,まさにこの時代の明るさを象徴していた。絶妙の選曲である。
 ここでふと気付いた。『インファナル・アフェア』3部作(02〜03)はしっかり観ていたのだが。まだ短評欄は設けていなかったので,当映画評では紹介していない。取り上げたのは,ハリウッドリメイク版でオスカー4部門受賞の『ディパーテッド』(07年2月号)だった。レオナルド・ディカプリオとマット・デイモンの共演で,マーティン・スコセッシ監督が念願のオスカー監督となった傑作である。本作は,逆にそのM・スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』(14年2月号)へのオマージュだと感じさせる演出だった。1990年代にウォール街で大金を稼いだ株式ブローカーの伝記映画である。同作も本作も,皮肉をたっぷり込めたコメディタッチで描かれている。
 なお,本作の公式サイトでの登場人物名はカタカナ表記だが,映画の字幕では「漢字+片仮名ルビ」であった(本稿は漢字だけにした)。これは読みやすく,名前も紛らわしくなく,覚えやすい。中国/香港/台湾映画はすべてこうであって欲しいものだ。

■『TOUCH/タッチ』(1月24日公開)
 映画国籍はアイスランド&イギリスだが,アイスランド人作家オラフ・オラフソンのベストセラー小説「Snerting」の映画化作品である。監督は『エベレスト 3D』(15年11月号)の名匠バルタザール・コルマウクル,脚本は原作者自身で,ロンドンと日本でロケを敢行している。
 映画は2020年から始まる。レストラン経営者のクリストファー(エギル・オラフソン)は初期の認知症と診断され,「今の内にやり残したことを片づける」よう勧められる。コロナ禍の中,彼はロンドンに向かい,英国留学時にバイトで働いた日本料理屋「Nihon」の跡地を探す。かつての恋人の行方を探すためであった。そこからは回想シーンと現代とが交互に登場する。
 1969年のクリストファー(パルミ・コルマウクル)は本気で見習い従業員として働き,店長の高橋(本木雅弘)に気に入られ,日本語や料理も覚え始める。やがて店長の娘ミコ(Kōki,)と愛し合うようになる。それを知った店長は突然店を閉じ,親子は行方不明になる。2020年のクリストファーは昔の従業員ヒトミ(メグ・クボ)を訪ね,閉店後すぐに親子は日本に帰ったことを知る。ミコから届いた16年前の手紙を見た彼はそのまま東京に飛び,広島へと向かう…。
 以下は,少しネタバレを含む。ここまでの展開は『青春18×2 君へと続く道』(24年5月号)にそっくりだった。同作の場合は,台湾人の主人公ジミーが18年後に元恋人アミを探して日本各地を渡り歩き,実家の福島県にたどり着くが,既にアミは他界していた。本作の場合,2020年のクリストファーは,広島ですんなり51年後のミコと再会する。物語はそこからまだ続くとだけ言っておこう。
 1969年のロンドンの描写は良くできていた。クリストファーは長髪,ミコやミニスカートで,英国でも学園紛争は吹き荒れ,ビートルズの話題もあり,街行くダブルデッカーの姿も,当時の日本料理店もこんな感じかと納得する。日本到着後の東京のホテルでの従業員の対応,室内の消毒,マスク着用も懐かしい。何よりも感心したのは,全編を通じて,アイスランド語,英語,日本語がきちんと使い分けられていることだった。日本人役は正しい日本語を話し,Nihonの従業員は英語と少し不自然な日本語を話す。
 クリストファーの老若2人に,原作者と監督の息子が起用されていたが,1969年のクリストファーがかなり長身であり,身長差が大き過ぎることが気になった。ところが,広島で再会したミコは背が低く,男女2人の身長差は51年前とほぼ同じだった。2020年の老女ミコ役の英語力もイメージも違和感はなく,身長も含めて見事なキャスティングであった。誰が演じていたかは書かないが,日本人キャスティングディレクターの役割が大きい。
 原作小説は2020年発行,映画は2023年製作であるから,まだ日本の「被団協」はノーベル平和賞を受賞していない。広島というだけでお分かりだろうが,アイスランドの小説や映画が,こんな風に「被爆者」を正面から描いてくれていることが嬉しい。

■『雪の花 ―ともに在りて―』(1月24日公開)
 ここから邦画が続く。昨年秋からの時代劇ラッシュは嬉しいが,先週の『室町無頼』はWild & Dirty で少し参った。本作は名匠・小泉堯史監督だから安心だ。『峠 最後のサムライ』(21年5・6月号)では戊辰戦争を描いていたが,この題名なら『雨上がる』(00)『蜩ノ記』(14)のような人間味溢れる美しい物語に違いない。本作は,吉村昭の小説「雪の花」の映画化作品である。
 時代は江戸時代末期で,死に至る病の痘瘡(天然痘)が猛威を振るっていた。福井藩の町医者・笠原良策(松坂桃李)は漢方医であったが,為す術がなく,京都の蘭方医・日野鼎哉(役所広司)を訪ねて教えを請う。「種痘」なる効果的な予防法が異国にあると知ったが,その実行には,幕府の許可を得て中国から牛痘苗を輸入する必要があった。藩の御典医らの猛反対を押し切って藩主・松平春嶽に歎願する。妻の千穂(芳根京子)の協力を得て奔走し,私財を投げ打って痘苗を入手したが,天然痘の膿を体内に植込む被験者を集める苦労があった。さらには,新鮮な痘苗を京都から福井城下まで届けるのには,猛吹雪の中を山越えする苦難が待ち受けていた…。
 ジェンナーの息子を使った人体実験のエピソードを知る我々には何でもないことだが,江戸時代の幕藩体制や庶民の意識の中では,理解を得るまでの障害は並大抵ではない。さらに,時間制限があるため,痘苗を聖火リレーのように受け渡して行く道中の描写が見ものであった。ただし,幕末の賢候・松平春嶽の名前を使える福井藩の選択,過酷な雪の中の峠越えという見せ場は,少しフィクションの度合いが強過ぎると感じた。ところが,登場人物はすべて実在の人物であり,藩主への歎願,深雪中の痘苗の運搬も実話であるというのに驚いた。おまけに,実際に吹雪の中で撮影したという。
 猛吹雪以外は美しい光景と自然音が基調だが,ピアノ,バイオリン,笛を使った音楽の担当は加古隆で,くどいほど芸術的であった。上記以外の助演陣では,吉岡秀隆,三浦貴大,山本學らは,いかにもハマり役であり,演出にも卒がない。その上,主人公が立派な人物過ぎて,少し面白味に欠けていた。しかも,松阪桃李だけが他に比べて長身過ぎて少し違和感があり,筆者のミューズの芳根京子の出番が少な過ぎるのも不満であった。途中そう思ったところに,ワクワクするエンタメ・シーンが登場する。松阪桃李の体躯を活かしたアクション,芳根京子には驚きのシーンが用意されていた。いやー,お見事! 観客の思いなど,すべてお見通しの演出である。
 余談だが,大きな業績を残した笠原良策には,藩主から「士分取り立て,御典医で三人扶持」の褒美の内示があるが,彼はこれを固辞して町医者を続ける。何と勿体ない。筆者なら迷わず貰っておく(笑)。種痘は弟子に任せ,自らは地位を利用して,もっと大きな病の治療に向かえばいいのに…と思うのは俗物の浅はかな考えだ。そんな脚本はこの監督には似合わない。このままでいい。

■『嗤う蟲』(1月24日公開)
 この題名は何と読むのか分からない若者もいるかと思う。「わらうむし」と読む。この中だけで「虫」が4匹も入っている。「蠢く」と書いて「うごめく」と読む。この字だとさらに小さな虫が多数這い回っている感じが出るが,「蟲」でもかなり不気味だ。本作は,都会から過疎の村に移って来た若夫婦が,村の掟に縛られ,生き地獄の生活となる様子を描いた映画である。その不気味さを,題名だけで見事に表現している。仮題の「村八分」からこの題に変更しただけで,既に半分以上成功していたと思える。
 田舎での生活に憧れたイラストレーターの長浜杏奈(深川麻衣)は,脱サラした夫・上杉輝道(若葉竜也)を伴い,東京から麻宮村に移って来た。夫婦別姓であることから,入籍はせず,個々の価値観と生活スタイルを大切にする現代的カップルであることが分かる。杏奈は早速,自らのイラスト画と田舎生活の写真を,「#田舎移住」なるタグを付けてインスタ投稿する。村の自治会長・田久保(田口トモロヲ),妻よしこ(杉田かおる)に挨拶に行くと,村に越して来たことで大歓待された。
 ところが,杏奈はいきなり妊娠検査薬を手渡され,その後も妊娠に効く食事を強く勧められる。一方の輝道は農薬の利用を断り,野菜の無農薬栽培を続けたが,油虫に喰われて野菜はほぼ全滅してしまった。止むなく,田久保の助言通りの農薬散布を始め,彼は田久保に頭が上がらなくなる。その後,杏奈は妊娠,出産したが,村人全体から乳児は「大切な村の子供」として扱われ,母親の杏奈には我が子を育てる自由がなくなる。彼女が不安を募らせる一方,夫・輝道はすっかり麻宮村の慣習に染まり,田久保の仕事の手伝い始めたことから,恐ろしい「村の掟」を知ってしまう。果たして,彼らはこの悪夢のような生活から逃れることはできるのか……。
 主演の深川麻衣は,当欄の『空母いぶき』(19年5・6月号)『水曜日が消えた』(20年Web専用#3)『今はちょっと,ついてないだけ』(22年Web専用#3)に出演していたが,本作では乃木坂46の元メンバーらしい現代風の魅力的な女性を演じている。一方の若葉竜也は,『愛にイナズマ』(23年10月号)『市子』(同12月号)『ペナルティループ』(24年3月号)で存在感のある演技が続いたが,本作でも見事な好演であった。自治会長・田久保役の田口トモロヲは,多数の映画の脇役で観ているはずだが,NHK「プロジェクトX」の実直なナレーターの印象しかない。本作で,こんな気味の悪い役もやれるのだと再認識した。
 映画は次第にホラー要素を帯びて,空にはカラスの群れが飛び,不穏な音楽が流れる。実際に日本各地で起きた村八分事件をもとに,「村の掟」をリアルに描いたという。閉鎖的な村社会は今でもありそうだと思うが,内藤瑛亮の脚本はかなり誇張されていると感じた。そして監督は,ピンク映画出身の城定秀夫である。早撮りで多作な監督だが,当欄では過去に『恋のいばら』(23年1月号)しか取り上げたことがない。同作ではポルノの話題が少し出てきたが,本作はポルノもアダルトも無縁である。こういうホラー,社会派映画も描けるのだと,その演出力の高さに改めて感心した。

■『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』(1月24日公開)
 こちらは純正のホラー映画だ。監督は第2回日本ホラー映画大賞の受賞者の近藤亮太で,受賞作の短編を自ら長編リメイクした作品である。大賞受賞者にはメジャーデビューが約束されているので,選考委員長の清水崇が「総合プロデューサー」として参加する本作が,予定通り,長編監督デビュー作となっている。
 映画は2015年から始まる。山の中を迷い歩いていた少年を赤いジャンパーを来た青年が呼び止め,抱き抱えて山を降りる。この青年は兒玉敬太(杉田雷麟)で,13年前に弟が山で失踪したことから,現在も行方不明者を探すボランティア活動を続けていて,遭難した児童を救出したのであった。敬太が自宅に戻ると,母親からの荷物が届いていた。自宅の不要物を整理したらしく,敬太の持ち物と一緒に古いVHSテープが入っていた。彼はビデオデッキを持ち出し,同居人の天野司(平井亜門)が一緒に観ることを希望する。かつて敬太が弟・日向と摩白山の山中で遊んでいた時に,彼自身がカムコーダーで撮影した映像で,かくれんぼ遊びで隠れたまま姿を消した弟の最後の瞬間も録画されていた。
 その後も何度もこのビデオが登場し,敬太の回想シーンと現在が往き来する。敬太が忌まわしい過去の出来事の真相を突き止めようと暴走し始めるのを,霊感がある天野は深入りしないよう忠告する。さらに,敬太を執拗に取材しようとする雑誌記者・久住美琴(森田想)が加わり,3人で「人が消える山」として知られる摩白山の山中に向かう……。
 粗い画質のビデオ映像で恐怖心を煽るという手口は,『リング』(88)へのオマージュであるとともに,Jホラーの正統な継承者であろうとする自負心の表われとも受け取れた。昔のビデオのアクペクト比をきちんと守り,画質を乱す技も習得しているようだ。ただし,(詳しい展開や結末は書けないが)ホラー映画としては説明不足の感があり,まだ観客の理解度,満足度を把握していないように思えた。例えば,5歳で行方不明になった少年の7歳の誕生日の映像が突如としてTV画面に映るシーンの意味は判然としない。クライマックスからラストは素材だけ並べて放り出したように感じてしまう。
 この新人監督は,①特殊メイク,②CG,③ジャンプスケア(音や映像で突然驚かせる)は使っていないと表明している。安直ホラーが頼る③は論外だとしても,不条理,超自然の怨念や悪霊を描くなら,多少の①や②は恐怖を強化するスパイスとして有効だ。天野には死人が見えるのなら,それを半透明にして見せておくのも観客には分かりやすい。恐怖の正体を突き止め,それを排除してカタルシスを与えるタイプのホラーにはしないとしても,まだストーリーテリングが未熟と思えた。
 高評価はできなかったので,掲載すべきか迷ったが,敢えて応援の意味を込めて苦言を呈した。第1回大賞受賞者の『みなに幸あれ』(24)の紹介を見送ったこともあり,この有望な若手にエールを送りたかったのである。

■『美晴に傘を』(1月24日公開)
 本作も劇場用長編作品のデビュー作である。当初は全く掲載するつもりがなかった映画なのだが,下記の理由により紹介することにした。こうした映画評を長年書いていると,あちこちのパブリシティ担当からマスコミ試写案内が届くのは有り難いことだ。ただし,全部は観切れない/書き切れないし,とりわけ同じ週に何本も重なる場合は選別せざるを得ない。メイン欄のVFX多用作は別格として,SNSで多数の感想や噂話が乱れ飛ぶ若者映画は対象外としている。敢えて当欄が紹介する必要はないからだ。一部批評家だけが好む難解映画もなるべく避け,当欄の読者が入場料を払って映画館で観る価値があると思う映画を選んでいる。当然,筆者と読者で嗜好の違いはあるはずだが,長年続けていると,選択や評価を信用して下さる読者が引き続き愛読されていると解釈している。
 本作は視聴を希望した別作品の担当者の紹介であるが,既にこの週の紹介対象が何本もあった。加えて,クラウドファンディングで製作された映画であり,聴覚障害者を描いた映画であったので,食指が伸びなかった。その種の映画はまずヒューマニズム重視であり,しかも監督デビュー作となると完成度が低く,上記の選択基準に達しないことが多いからである。ところが,同じくデビュー作の上記『ミッシング…』を紹介した以上,こちらを一瞥もせずにスキップする訳には行かなくなった。そこで少し観始めると気に入り,全編を観終えてしまい,是非とも紹介し,応援することにした次第である。
 時代設定は現代で,舞台となる町の名前は語られていないが,北海道北西部の海沿いの「余市町」のようだ。ワイン作りが登場することからも,まず間違いない。漁師の善次(升毅)は,20年以上前に喧嘩別れして東京に出た息子の光雄(和田聰宏)が癌で死亡した報せを受けても,葬儀に出席しなかった。四十九日が近づく頃,突然,光雄の妻・透子(田中美里)が娘の美晴(日髙麻鈴)と凛(宮本凜音)を連れてやって来た。この中の美晴が自閉症であり,かつ聴覚過敏の障害者であった。周りとの意志疎通が不自由で,不安を感じるとすぐ布団に包まって,自分だけの世界に籠ってしまう。近くの寺で町の人々も参列する四十九日法要を済ませた後も,3人は善次の家に住み着く。美晴も次第に周囲の人々と交流し,心を開いて行く。一方,詩人を志した光雄の詩が載った雑誌を父・善次が購読していたこと,漢字が書けない善次が光雄からの手紙に返事を書こうと努力していたことが判明し,物語は一気にヒューマンドラマと化す。
 妻・透子役の田中美里の名前を聞いたことがあった程度で,他の俳優やスタッフは誰も知らなかった。監督・脚本は劇作家の渋谷悠で,東京都出身で米国の大学院を卒業し,バイリンガルという経歴からは,洒落たジャージーな映画が得意と想像してしまう。それが,北海道を舞台とした人生讃歌であるとは意外だった。映画が始まって,まず印象的だったのは,障害児の美晴を演じる日髙麻鈴の演技だった。彼女は本物の障害者ではなく,アイドルグループの元メンバーで,ブロードウェイ・ミュージカル出演経験もあるらしい。即ち,健常者であるだけでなく,歌って踊れる女優なのである。それが難役である自閉症患者の挙動を見事に演じていたのは,すべて監督の緻密な演技指導に従っただけに違いない。1つ間違うと関係団体から猛抗議が出かねない設定であるのに,この勇気ある演出は,よほど自信があったのだろう。勝手に推測するなら,親族か親しい知人にこうした女性がいて,一挙一投足を熟知しているのだと思われる。
 父・光雄が創り,母・透子が美晴に語って聴かせる絵本の出来映えが素晴らしく,光雄の詩や手紙の文面,書道教師・正野(井上薫)の漢字の筆順に関する言動等にも教養が溢れていた。それでいて,この書道家が派手なスカーフを頭に巻き,鮮やかなブルーのオープンスポーツカーで疾走するシーンには笑ってしまった。余裕があってのお遊びである。町の人々の酒盛りシーンも楽しく,この監督はワイン作りにも造詣がありそうだ。
 渋谷悠監督は劇団「牧羊犬」の主宰者だという。改めて,劇団主宰者,劇作家は,これほどの見識と教養があるのかと再認識した。(少しネタバレになるが)最後の善次,透子,美晴各々の独白はいかにも舞台劇である。まさに「言葉が心を紡ぐ」なるテーマそのものであった。こんな映画の2本や3本,彼にとっては朝飯前なのだろう。劇団員中心のキャスティングで演技には何の問題もなかったが,強いて欠点を挙げれば,善次は温厚な人格者に見え,荒くれ者の海の男には見えないことだ。
 こうした実力ある監督候補者は,既に映画後進国の日本とはいえ,全国には多数いるに違いない。お子様向きのアニメや若者向きのデートムービーしか眼中にない日本映画界では,チャンスがないだけだ。何とかこの映画が注目を集め,この監督がもっと潤沢な製作費を使った映画を撮れるよう応援したい。

■『ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた』(1月31日公開)
 久々の音楽関連映画である。全くの個人的嗜好から先々月にNetflix配信の『リターン・オブ・ザ・キング:エルヴィス・プレスリー低迷と復活』(24年11月号)を掲載したが,劇場公開映画となると『ボレロ 永遠の旋律』(24年8月号)以来である。有名な歌手,グループ,作曲家の伝記映画ではなく,ライヴ公演の記録映画でもない。1970年代にある兄弟が発表したたった1枚のアルバムが,約30年後に「埋もれた名盤」としてコレクター間で人気を博し,CDとしての再発売,再結成した兄弟デュオのステージを描いている。
 まるで夢物語だからこの題名になったのではなく,元々「Dreamin’ Wild」がそのアルバム名で,Donnie & Joe Emersonが兄弟デュオの名称である。では,そのアルバムが発掘された経緯や彼らの現在の活動を描いたドキュメンタリー映画かと言えば,それも違う。本作は,家族の協力を得てこのアルバムが生まれた当時の様子を含め,思いも寄らなかった成功に,弟ドニーが戸惑い,自分を見つめ直す実話をヒューマンストーリーとして描いた家族愛の劇映画なのである。
 映画は1979年のステージシーンから始まる。まだ10代のドニー(ノア・ジュプ)がエレキギターを弾いて歌い,兄のジョー(ジャック・ディラン・グレイザー)がドラムを叩き,大観衆の歓声を浴びている。それに続く2011年のシーンでは,中年になったドニー(ケイシー・アフレック)がアコースティックギターで歌い,妻のナンシー(ズーイー・デシャネル)がドラムを叩く4人組のバンドが,ある結婚披露宴で演奏していた。即ち,兄とのデュオは解散し,その後は冴えないバンド活動を続けていた訳である。ある朝,兄のジョー(ウォルトン・ゴギンズ)から電話が入り,「有り得ないことが起った。Dreamin’ Wildが人気を集め,レコード会社が訪ねて来る」と告げる。かつて夢見た物語の遅れた到来である。
 舞台はワシントン州の田舎町フルーツランドで,10代になったドニーは驚くべき音楽的才能を発揮し,広大な農場を営む父ドン(ボー・ブリッジス)は息子達の才能を信じて敷地内にプロ級の音楽スタジオを建設する。それを利用して生まれた自主制作レコードが「Dreamin’ Wild」であった。天才ドニーが心血を注いだアルバムであったが,世間からは見向きもされなかった。後は栄光を夢見た時代と,過去から目を背けながら続けて来た音楽活動を振り返るドニー,一旦は身を引きながらも弟の才能を爆発させたい兄の想い等々が描かれる。農場の多くを売り払い,多額の借金を抱えながら見守ってくれた父親にドニーが謝罪するシーンも登場する。
 監督・脚本は,『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』(15年8月号)のビル・ポーラッド。同作はThe Beach Boysのリーダーの天才Brian Wilsonの絶頂期,心を病んだ低迷期を経た後の復活を描いた伝記映画であったから,実在のDonnie Emersonの中にBrianの姿を見て,この再起物語を映画化したかったのかと思われる。
 映画としては,ケイシー・アフレックの演技が高く評価されている。ただし,彼は自分では歌っていなくて,映画ではかつてのアルバムの音源利用と現在のDonnie Emersonの歌唱のようだ。筆者が残念だったのは,妻ナンシー役のZ・デシャネルの出番も歌唱も少なかったことである。かつて『テラビシアにかける橋』(08年1月号)では主人公の少年が恋するエドマンズ先生,『(500)日のサマー』(09年12月号)ではまさに題名中のサマーを演じた美人女優である。歌手としては,インディロック・デュオ「She & Him」のヴォーカルとして,多数のヒットアルバムを生んでいる。本作の演奏シーンでは,勿論自分で歌っているが,エンドソングとして流れる新曲“When A Dream Is Beautiful”は,Donnie EmersonとNancy Sophia Emersonの歌唱であった。

■『映画を愛する君へ』(1月31日公開)
 この題名を見ただけで,自分に語りかけられているような気になった。同じように感じる読者も多数おられることだろう。その語り手は,フランスの名匠アルノー・デプレシャン監督である。とさらりと書いてはみたものの,この監督の名前は知らなかった。映画も1本も観ていない。彼の映画の多くは日本未公開のようだ。1960年生まれで,監督デビューは1991年であるから,筆者が高校生,大学生でフランス映画を観まくっていた頃,彼はまだ幼児であった。フランスのセザール賞の常連で,既にヴェネツィアやカンヌでも複数回受賞しているので,今やフランスを代表する監督となっている。
 本作は,彼が自らの映画人生を投影しながら,映画の魅力を語り尽くした自伝的シネマ・エッセイである。全体は11章からなっていて,そのいくつかでポール・デュダリスなる人物が登場する。6歳,14歳,22歳,30歳を4人の俳優が演じ,デプレシャン監督の映画人生を再現映像の形式で見せてくれる。その他は,50本以上の映画を使って,映画史や映像技術の発展を語るドキュメンタリーで,監督自身と彼が重用した名優マチュー・アマルリックがナレーションを務めている。さらに,マチューは本人役で上記の劇中に登場し,最後は監督も現在の姿を見せるという多彩な構成である。
 まずは映画黎明記の要約から始まる。定番のエジソンのキネトスコープでの『動く馬』やリュミエール兄弟の『工場の出口』の映像ではなく,見たこともない機材や貴重な映像を見せてくれる。大学で「映像情報メディア論」を講じている頃なら,これを使わせて貰いたかったところだ。20世紀初頭の絵画には動きを感じさせる表現があり,映画の出現の影響だという指摘は新鮮だった。
 第1章「写真の発明」の後,第2章「初めての経験」では6歳のポールが祖母と一緒に初めて映画館に行く。この章で何人かの人物が語る映画初体験が興味深かった。第4章「私の研究」で14歳のポールが16歳と偽って映画館に入り,ベルイマン監督の『叫びとささやき』(73)を観るのが微笑ましい。第5章「壮大な挑戦」では,人や水の流れ,雪の撮影,火災,馬に乗っての駆け回り,列車の脱線・墜落,飛行機の操縦等々,映像表現の画期的な広がりを例示する。第6章「屈辱と怒り」では偏った視点での映画作りに対する不満を述べるかと思えば,第7章「恋愛」では22歳のポール(即ち監督)がコッポラの映画を見て,それをネタに複数の女性と関係をもつ再現劇を見せる。第8章「1980年パリ第3大学」では,大学の講義の形式で,教授役の俳優に監督の持論を語らせている。といった類いのエッセイが続くが,きりがないので後は自分で愉しんで頂きたい。
 映画が好きであれば,思わず膝を打ちたくなる部分がある一方で,この監督の深い教養と映画愛に感心するに違いない。筆者の場合は,監督が尊敬する米国の哲学者スタンリー・カヴェルの言葉の引用や,フランスの文芸評論家ショシャナ・フェルマンが登場して語るトークが新鮮に感じられた。

■『Brotherブラザー 富都(プドゥ)のふたり』(1月31日公開)
 マレーシアの首都クアラルンプールを舞台とした貧しい兄弟の物語である。映画国籍はマレーシア&台湾となっているが,監督・脚本のジン・オングは,マレーシア出身の映画人で,これまでプロデューサーとして多数の映画を製作してきたが,自ら長編映画の監督をするのは初めてのようだ。映画も首都のプドゥ地区のスラム街で大半を撮影しているので,実質マレーシア映画だと言える。主演の1人,兄アバン役のウー・カンレンが台湾の人気俳優であり,製作費も一部負担していることから,合作扱いとなっているのだろう。
 これまでに当欄でマレーシア映画は紹介していない。それどころか,個人的に観た映画の記憶もない。検索しても出て来るのは,マレーシア出身の欧米で活躍する俳優か,マレーシア航空17便撃墜事件やクアラルンプール空港での金正男暗殺事件だけだった。ただし,マレーシアの印象が悪かった訳ではない。実際に行ったことはないのだが,長期政権のマハティール首相の強力な指導力により,近代化,経済&産業政策,とりわけ情報化社会への取り組みに成功した国との印象が強かった。
 ところが,映画の冒頭から登場する市場のシーンは,ベトナムやタイとそっくりだった,いかにもアジアだなと感じる。この国で身分証明書を持たない人間は無国籍者扱いであり,彼らに対する官憲の取り調べの厳しさには声を失い,観ているだけで身構えてしまう。こんな国とは意外だった。最下層の貧民の彼らは,まともな正業に就けず,貧しい家でその日暮らしを続けている。
 主人公の兄弟の兄アバンは生まれつきの聾唖者であった。補聴器を使い,意志伝達には手話が中心で,ときおり文字も使っている。火災で両親を失った際に出生証明書も燃えてしまったため,身分証明書取得の見込みはない。一方の弟アディ(ジャック・タン)には出生証明書があり,ようやく実父の居所が判明したが,彼は会うこと拒んでいた。彼らは実の兄弟ではなく,ふとした偶然で幼い頃から2人で暮し,兄弟の契りを交わして強い絆で結ばれていた。兄は市場の日雇い労働者として堅実な生き方をしていたが,弟は安易に現金が得られる裏社会とも繋がっていて,危険と隣り合わせだった。兄弟の性格の描き分けとしては,よくあるパターンである。
 そんな中で,民間NGOに所属する女性ジアエン(セレーン・リム)は,ソーシャルワーカーとして,甲斐甲斐しく貧しい人々の世話をしていた。彼女はアディに実父の署名を貰って身分証明書を得ることを勧めるが,不幸な事件が起きてしまう。後半は2人の運命が大きく変わる展開となり,固唾を飲んで観てしまう。
 既に多数の映画賞を得ているように,普通に考えれば,魂を揺さぶられる感動作である。しかし,当欄ではこの映画を高く評価したくない。長年この映画評を続けている内に,辛く,暗い映画は観たくなくなった。貧民たちの過酷な生活ばかり描いた上に,悲劇的な結末ではダブル不愉快だ。貧しくても,せめて明るい結末であって欲しかった。映画賞の委員なら高得点を与えたであろうが,もう一度観たい映画ではなく,観客勧めたい映画という当欄の基準では,平凡な評価しかできないのである。

■『BLUE FIGHT 蒼き若者たちのブレイキングダウン』(1月31日公開)
 毎月約20本を取り上げていると,題名だけでは混同することがしばしばある。上記の『Brother…』と本作は特にそうだった。頭文字Bの英単語で始まり,長めの副題が付き,しかも同日公開となると殊更紛らわしい。「少年院で知り合った2人の青年の物語」が加わってもまだ判然としなかった。「赤の他人の2人が親友になる」のと「義兄弟の契りを交わす」とでは,似たようなものだ。
 勿論,映画のジャンルは全く異なっていた。本作はヤンキー映画であり,格闘技映画でもある。「ブレイキングダウン」が固有名詞であり,格闘技イベントの名前だと分かると一挙に問題は氷解する。この名前は知らなかった。よほどの格闘技ファンでなければ当然だろう。格闘家の朝倉未来が提唱した「1分間で最強を決める」がコンセプトで,同氏は実名でこの映画にも登場する。
 少年院に入ったばかりの不良少年リョーマ[赤井竜馬]は,トイレでの喧嘩に巻き込まれたところを,イクト[矢倉往年]に助けられる。彼は同じ18歳だが抜群に強かった。それが縁で行動を共にするうち,2人は無二の親友となる。ある日,少年院の慰問に来たカリスマ格闘家で人気YouTuberの朝倉未来の講演を聴いた2人は感銘を受け,夢を求めて人生をやり直すため,格闘技への道を歩む決心をした。出院後はBreakingDownへの出場を目指し,キックボクシングジムに通う。
 イクトとリョーマを演じたのは木下暖日と吉澤要人であったが,演技は稚拙だった。それもそのはず,約2,000人のオーディションから選ばれた新人である。少年院では,彼らを見下す原田教官(やべきょうすけ)から嫌がらせを受けるが,リョーマの母・薫子(土屋アンナ)が彼をやり込めるシーンが痛快だった。その後は定番のヤンキーものであり,出院後は真面目にトレーニングを積む2人の前に,一癖も二癖もある人物が次々と登場する。イクト不在の間に街を仕切っていた不良グループのリーダー吉祥丸(久遠親),彼を拉致した半グレ集団のヘッドの大男・御堂(GACKT)らである。一方,BreakingDownのオーディションでは,東大ボクシング部の嫌味な男・佐渡島(大平修蔵)が立ちはだかる。その他の助演陣では,無実の罪で収監中のイクトの父・大輔役に高橋克典,母・晴香役は楠田枝里子,熱血漢のジムのオーナー・緋野役の寺島進らが脇を固める。ヒロインはリョーマの同級生・由希奈役の加藤小夏である。
 監督はどんな映画でも見事にこなす三池崇史だった。とりわけ,荒々しいバトルものは安心して観ていられる。ヤンキー映画となると,かつてのヒット作『クローズZERO』シリーズ(07, 09)を思い出す。実際に同シリーズの不良役だった一ノ瀬ワタル,金子ノブアキ,高橋努,波岡一喜らが,少し地味な役で本作に登場する。まさに彼らと2世代下で同じマインドをもつ若者の映画の感があった。三池監督にとっては手慣れたもので,ただのヤンキー映画で終らず,格闘技試合を絡ませた点が少し新しいが,結末はやや物足りなく感じた。

■『遺書,公開。』(1月31日公開)
 昨年の11月号の10本に及ばなかったが,今月は邦画を9本取り上げた。その締め括りは,この強烈な題名の映画だ。アイドルグループ名であれ,映画の題名であれ,句読点を乱用するのは感心しないが,惹句としてのインパクトはある。まともな作家がこんな題名をつける訳はないので,原作はきっとコミックだろうと思ったら,やはりそうだった。陽東太郎作の同名コミックで,「月刊ガンガンコミックJOKER」に2017年から約4年半連載されていたとのことだ。試しに歴代の連載漫画の題名一覧を眺めたら,「妖狐」「死にたがり」「死神様」「霊域」「賽殺し」「悪魔」「魔女」「殺意」等のオンパレードだった。悪趣味で,こんな漫画雑誌を少年少女に読ませて良いのかと思うが,それをここで糾弾しても仕方がないので,話題を映画に戻す。本作の脚本はNetflixドラマ『極悪女王』の鈴木おさむで,監督は上記漫画誌連載の映画化作品『映画 賭ケグルイ』(19年Web専用#2)の英勉というから,なるほど悪趣味ぶりが徹底している。
 題名同様,ストーリー展開も極めて分かりやすかった。舞台となるのは,私立灰嶺学園高校2年D組の教室内が大半で,他には校内のトイレや屋上が出て来る程度だ。ある新学期の始業式の朝,24名の生徒と担任教師甲斐原誠(忍成修吾)の計25名分の序列を書いたメールが全員に届く。序列1位の姫山椿(堀未央奈)は全員の前で「1 位に相応しい人間になるように頑張ります」と優等生的発言をして笑いを誘う。その6ヶ月後に姫山がトイレで自殺しているのが発見される。3日後の葬儀の日に,全員の机の上に「遺書 姫山椿」と書いた封筒が置かれていて,内容は個人ごとにすべて違っていた…。
 その結果,翌日のクラスルームの時間に,姫山の彼氏で序列2位の赤崎理人(松井奏)を皮切りに,1人ずつ前に出て自分宛の遺書を読み上げることになる。その度に色々な本音のぶつけ合い,罵り合いになる。疑心暗鬼の連続で,互いの誹謗中傷も始まる。「実は彼女は気持ち悪かった」「最初から嫌いだった」等々の本音発言も飛び出す。面白くなくはなかったが,同じパターンが延々と続くので退屈してしまう。クラス24人というのは,クラス53人時代を過ごした団塊の世代には少なく思えるが,1本の映画に収めるには長過ぎる。監督は意図的に全員を並列にしたというが,映画としては緩急をつけ,何人かスキップすべきだと感じた。
 テーマは「序列」を気にする社会,教師への不信感で,これが作者のメッセージなのだろう。観客としては,「誰が書いた?」「誰が配った?」「あの序列は誰がつけた?」「自殺の理由は?」等の疑問が出てくるが,その疑問への答は終盤の遺書朗読の中できちんと語られていた。クライマックスで種明かしをするミステリー流の演出であるから,いっそ「自殺と見せて実は他殺だった」「自殺強要で実質的な犯人がいる」等の純ミステリー仕立ての方が面白かったと思う。
 旬の若手俳優を揃えたというが,日頃TVを観ない観客にはさっぱり分からない。さらに,教員を除く全員が学生服,セーラー服姿であるから,見分けがつかない。遺書読み上げ時には覚えていても,すぐ区別がつかなくなってしまう。公式サイトやプレス資料には,全員の氏名,序列,顔写真が入った席次図が掲載されていた。この画像を映画中で再三出していれば分かりやすかったはずだ。1人だけしっかり識別できた女子生徒がいた。常にピンクの上着を着ていた序列 3 位の御門凛奈(髙石あかり)である。しっかりした顔立ちで演技力もあるから,今後注目しておきたい。そう思ったら,まもなく映画初主演作『ゴーストキラー』が公開され,秋からのNHKの朝ドラ『ばけばけ』のヒロインに抜擢されているという。敢えて当欄で名前を挙げる必要はなかった。

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