O plus E VFX映画時評 2025年5月号掲載

その他の作品の論評 Part 1

(注:本映画時評の評点は,上からの順で,その中間にをつけています)


■『政党大会 陰謀のタイムループ』(5月2日公開)
 この題名からは,どんな映画か,どこの国の映画か全く想像がつかなかった。タイムループの対象として政治が登場するのは珍しい。議会政治なら英国映画だろうかと思ったのだが,原題が『Maanaadu』のインド映画であった。監督はヴェンカト・プラブ,主演はシランバラサン。いずれも初耳の名前だ(韓国人とは違う意味で,インド人の名前も覚えにくい)。シランバラサンはタミル語映画界のスターらしいが,彼の出演作が日本で公開されるのは,本作が初めてである。
 2019年10月10日ドバイ在住のアブドゥル・カーリク(シランバラサン)は友人ムールティの要請でインドに帰ってきた。機中で隣に座った美女シータ・ラクシュミ(カリヤーニ・プリヤダルシャン)も同じ結婚式に出るというので,到着後,一緒に現地に向かう。ムールティの計画は望まぬ結婚を強いられた花嫁ザリーナを連れ出して車に乗せ,婚姻登録所に彼女との婚姻届を出すことだった。カーリクも同行したが,路上に飛び出してきた男ラフィクに重傷を負わせてしまう。現場に来たダヌシュコディ警部(S・J・スーリヤー)が同乗者全員を逮捕した。警部はラフィクの代役として,カーリクに政党大会に出席し,檀上の州知事を射殺することを強要する。ムールティらが人質だったため,カーリクは止むなく発砲するが,すぐにその場で警官に射殺された。
 その瞬間,彼は元の機内でシータの隣にいた。同じように結婚式場に向かい,花嫁を奪うが,今度はラフィクは無傷で,ムールティらの車に乗り込んで来た。警察に追われ,カーリクは警部に射殺される。またまたカーリクは機内にいた。何度も10月10日が繰り返され,何とか警察との接点を避けたが,花嫁の兄に射殺される……。このタイムループが延々と続くが,これ以上書かない。反復回数が凄まじい上に,他に類のない極めてユニークな展開のため,観客自らそれを楽しんで頂こう。
 歌って踊ってのシーンもしっかり何度も繰り返すが,さすがにそれは数回で終った。劇中で著名なタイムループ映画『恋はデ・ジャブ』(93)『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(14年7月号) 『ハッピー・デス・デイ』(19年Web専用#3)等への言及があった。パロディシーンもあったのかも知れないが,展開を追うのに精一杯で,気がつかなかった。現実には有り得ない現象とはいえ,この種の映画ではループの原因が突き止められ,何とか反復を避けるのが常道である。本作のループ原因はカーリクの出自に由来していて,アッラーの神とシヴァ神が合体してしまったためだそうだ。煙に巻かれた気分で,全く先が読めないまま,何とか結末を迎えた。
 いやぁ-,楽しかった。さすが,Rotten TomatoesのPopcornmeter 100%は伊達ではない。上映時間147分はインド映画としては短い方だ。この濃密なループで観客を疲れさせないようにとの気配りだろうか。ようやく本編が終ったからといって,席を立ってはいけない。エンドロール中に流れるメイキング映像も楽しいし,ポストクレジット映像も見逃せない。

■『裏社員。-スパイやらせてもろてます-』(5月2日公開)
 こちらも上記に負けないユニークな題名である。すぐに関西が舞台で,コテコテの関西文化,関西弁横行のコメディを期待した。アイドルグループ「WEST.」の全員が主演する映画とのことだ。吉本興業のお笑い芸人でそんな名前は知らないし,聞き覚えのない集団だ。旧名「ジャニーズWEST」だった。それなら知っている。なぜ改名したかの理由も容易に想像できる。まさか,創業者の性加害の実態をスパイする映画ではないだろうが。
 舞台は大阪のミナミ。いきなり下品なお座敷芸のシーンから始まり,暴力団と建設会社の裏取引が週刊誌で暴かれる。「裏社員」とは,身分を隠して小汚い仕事を引き受ける非正規社員のことだった。成果を挙げてナンボ,失敗しても会社は知らん顔で責任を取らないという仕組みである。「宴」「宝田」「詳敷」の3人に,阿川建設の女社長(藤原紀香)から,時代遅れの「西民商店街」を壊して地上げする密命が下る。早速現地に出向いたが,既にライバル川端建設の裏社員「ジン」「チャラ」が潜入していた。ターゲットは商店街会長(竹中直人)だったが,商店街立て直しを目指す「陽一郎」や元相方の「マコト」と懇意になってしまい,目的が果たせない。そんな彼らが騙し合い,手を組み,複雑な関係になって行く…。
 監督は,『劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD』(19年Web専用#4)の瑠東東一郎だった。「WEST.」の7人が3:2:2に分かれていて,それぞれを活躍させるスター売り出し映画である。その分,物語展開にやや無理があったが,最後はハッピーな結末に着地することは自明だった。であれば,ハチャメチャで笑い転げる喜劇を期待したのだが,かなり大真面目な恋愛劇があり,派手なアクションシーンも盛り込まれていた。
「ジャニーズWEST」の名前は知っていたが,7人となると,メンバー個々の名前や顔が判らず,なかなか見分けがつかない。リーダー格で陽一郎役の重岡大毅は,既に俳優として成功していて,『ある閉ざされた雪の山荘で』(24年1月号)『35年目のラブレター』(25年3月号)等で見知っていた。本作では,宴役の桐山照史の存在感が群を抜いていた。身体能力も高そうだ。終盤の彼と元同僚・羽根田美里役の剛力彩芽との格闘シーンは迫力があった。俳優の格では竹中直人が数段上で,彼の存在だけで映画が引き締まる。ただし,「WEST.」を立てるためか,いつものような怪演ではなかった。演技よりも,個性的な衣装で何度も登場する藤原紀香が,次はどんな姿で出て来るのかが楽しみだった。
「西民商店街」は仮名だろうから,実際はどこで撮影したのかが,ずっと気になった。普通に考えれば,「グリコ」の大きなビルボードに近い「戎橋商店街」だろうが,こんな広い道路ではない。Google Street Viewで,なんば,天王寺,梅田界隈を探したが,いずれも該当しない。数店舗の看板を頼りに,ようやく探し当てた。G県M市のB商店街だった。せめて関西圏の中から選んで欲しかったのに,そうでなかったのだけが残念だった。

■『うぉっしゅ』(5月2日公開)
 上記2本に比べて,短くシンプルな題名だが,一体どんな映画なのかと思わせる。平かな表記のせいだろう。「ウォッシュ」だと印象が違う。それだと思い出すのは温水便座の「ウォシュレット」だ。「Wash」と英語表記されて,単に「洗う」ことだと気づく。「Tissue Paper」を略して「ティッシュ」というのは日常だが,「てぃっしゅ」とは書かない。本作が意図的に平かな表記していることで,それに見合う, ほのぼの系の映画だと想像した。
 若手個性派女優の中尾有伽とその祖母役の研ナオコのW主演作である。中尾有伽は,稲垣吾郎主演の『窓辺にて』(22年Web専用#6)に出演していたようだが,端役だったのか,全く記憶にない。勿論,研ナオコは半世紀以上前から知っていて,個性派という点では全く遜色ない。独特のけだるい歌唱が大好きで,アルバムは何枚ももっている。TVドラマの脇役やCMタレントの印象が強く,映画での記憶はない。出演作品を調べると『20世紀少年』シリーズや『PERFECT DAYS』(23年12月号)に出ていたようだが,こちらも全く覚えていない。もう祖母役なのかと思ったが,それも認知症の老祖母である。実年齢71歳で82歳の老婆を演じる訳だ。
 それで何を「洗う」のかと言えば,孫娘はソープ嬢で,夜は顧客のナニを洗い,昼は介護で祖母の身体を洗う。こんな驚くべきオリジナル脚本を書いた監督は,インディーズ系の岡﨑育之介。永六輔の孫だそうだが,監督デビュー作『安楽死のススメ』(25)は観ていない。という「3ない」状態で,この映画を観た。
 26歳のソープ嬢の加那は,ある日,母・早苗から「1週間だけお祖母ちゃんの介護をしてくれない?」と依頼される。ソープ店勤務は秘密だったので,昼は祖母宅,夜はソープ店のWワークが始まる。久々に出会った祖母・紀江は,全く加那を覚えていなかった。その後も連日「初対面」の挨拶を交わす。そのやり取りが頗る面白い。入浴や食事の世話だけでなく,祖母の髪を金髪に染めたり,車椅子でショッピングに出かけたり,2人の交流が増える中で,加那は「どうせ忘れてしまう」祖母に対して,自分を素直に打ち明けていることに気づく。口数は圧倒的に孫娘の方が多いが,飾らない祖母の軽妙な応答が印象的で,研ナオコの面目躍如であった。見事な演出のヒューマンドラマだ。
 加那宅の家政婦,祖母宅の隣人,ソープ店の同僚とのやり取りには,コメディタッチの可笑しさと人生を生きることの味わいが詰まっていた。欲を言えば,もう少しソープ嬢としての接客の生々しさを描いた方が良かったと思う。そうでないと,「洗う」という点を除いては,他業種でのバイトと変わりない。
 W主演と言いながら,加那が主,祖母が従の映画であったが,ラストの研ナオコが素晴らしい。まさに表情の演技であり,平かな表記の題名にした意図が達成されていた。この映画以降,研ナオコには老婆役のオファーが増えるだろう。中尾有伽と岡﨑育之介監督には,今後「『うぉっしゅ』(25)の……」なる修飾語がつくはずだ。

■『クィア/QUEER』(5月9日公開)
 観るべきか,素直に紹介すべきか,かなり迷った映画である。「Queer」はLGBTQのQである。ゲイやレズとどう違うのかと思うが,どうやらその総称として使ったり,当事者たちが「ゲイ」と呼ばれるよりも,自らを「クィア」と呼ぶことを好むそうだ。誤解を恐れずに言うならば,男性同性愛者の映画はもう観る気がせず,試写案内があっても避けて通っている。なぜだか,女性同士の方が抵抗感が少なく,美少年同士だとまだ許せる。中年以上の男性同士で,濃厚な性愛描写のシーンとなると目を覆いたくなる。今の時代,彼らの婚姻,相続等の法的な権利は認めても良いと思うが,その種の映画を観るか観ないか,選択の自由はこちら側にあると思っている。
 監督は『君の名前で僕を呼んで』(18年3・4月号)のルカ・グァダニーノであるので,男性同士の情交シーンを真正面から描くに違いない。同名の原作があって,作者は米国のビート世代の代表作家ウィリアム・S・バロウズというから,1950年代に従来の米国の伝統文化を根底から否定し,自由主義を標榜した連中の1人だ。禁止薬物を肯定して発禁処分となった小説「裸のランチ」や自分の妻を射殺したことでも有名だ。小説「Queer」は1950年代に書き始められ,何度も中断しながら,未完に近い形で1985年に出版された自伝的小説とのことだ。当時の邦訳本の題名は「おかま」(後に「クィア」に改題)だったというから,時代の違いを感じる。
 避けたいと思いながらも,気になったのは,GG賞の主演男優賞ノミネート作品であり,その主演男優が6代目007のダニエル・クレイグであったからだ。15年間ジェームズ・ボンドを演じている合間に,積極的に他の作品に出て,様々な役を演じていた。最近では,『ナイブズ・アウト』シリーズの名探偵役で新しい魅力を見せているが,まさか主演でゲイの役を演じるとは思いもよらなかった。GG賞は逃したものの,他の映画賞は多数受賞し,繊細な演技が審査員から激賞されたという。そこまで聞くと,観ない訳には行かず,なるべくお手柔らかにと思いつつ観ることにした。
 時代はまさに1950年代,舞台はメキシコシティで,米国人駐在員のウィリアム・リー(D・クレイグ)は酒と薬に溺れ,連日酒場で若い男を物色していた。ある日,若い美男青年ユージーン・アラートン(ドリュー・スターキー)を見て,リーは一目惚れする。ストーカーのように彼を追い続け,何とか身体の関係をもつようになったが,ユージーンは女性にも興味を示していた。彼を自分だけのものにしたいリーは,人生を変える旅をしようとユージーンを南米旅行に連れ出す。薬物中毒のリーは,さらにテレパシー感じる効用があるという植物ヤケを求め,ブラジルからエクアドルに向かうが……。
 劇中で「ゲイ」という言葉も数回登場するが,大半は「クィア」で,「君はクィアか?」「僕はクィアじゃないよ」等,平気で酒場での会話で出て来る。前半のメキシコでは,なるほどゲイ同士はこうやってサインを送り合うのかと理解できた。後半では,薬物の錠剤を粉にし,それを液体化して注射する手順を見せてくれる。さすが自伝的小説の映画化だ。
 気になっていた男同士の情交シーンは,残念ながら,何度も登場した。まず相手の股間を掴むシーンに始まり,D・クレイグが何度も全裸でベッドシーンを演じる。幸い(?)スクリーン試写でなく,オンライン試写で観たので,目を覆うのでなく,早送りでスキップした。これがあの寡黙でダンディだった007なのかと嘆かわしくなる。やはり,美女を追い求めるボンドの方が似合っている。とは言うものの,女々しいまでにユージーンに恋い焦がれるシーンや,夢や幻想に身を委ねる終盤のシーンは,なるほど主演男優賞ものだと納得した(この場合,「女々しい」という言葉は不適切かも)。

■『ガール・ウィズ・ニードル』(5月16日公開)
 ここから3本は,今年のアカデミー賞のノミネート作品で,予想記事執筆のため2月後半に観終えていたが,ようやく紹介する時期になった。まずデンマーク映画の本作は,GG賞は非英語映画賞,アカデミー賞は国際長編映画賞のノミネート作品で,他の20以上の映画祭での受賞実績があり,それだけでこの映画の完成度は高いと想像できた。いずれも受賞はしなかったものの,強烈な印象を残す映画で,今でも細部を詳細に覚えている。モノクロ映画で,冒頭はある人物の顔だけを見せ,照明を換えたり、激しく変形したりの恐ろしい映像が続いた。本格的なホラー映画かと思ったのだが,歴史的大事件を描いた社会派映画の色合いも濃かった。
 時代設定は第1次世界大戦直後の貧しい時代,舞台は首都コペンハーゲンである。主人公の女性カロリーネ(ヴィク・カーメン・ソネ)は,戦地に赴いたまま行方不明の夫を待ちながら,縫製工場のお針子として必死で生きていた。家賃未払いで部屋を追い出され,さらに貧しい部屋に移るが,工場の社長に見初められ,妊娠する。玉の輿かと思いきや,厳格な母親は結婚を認めず,工場からも追われる。そんな中で,顔の半分を失って戦地から戻った無惨な姿の夫と再会するが,赤子を産み落とす。
 ここまでが前半だった。後半,表向きは子供相手の菓子屋だが,闇の養子縁組斡旋業を営むダウマ(トリーネ・デュアホルム)に拾われ,カロリーネは授乳ができる乳母兼従業員として働き始める。望まない子供を抱えた若い母親たちが里親先を求めて続々とやって来た。生き甲斐を感じたカロリーネはダウマとの絆が深まって行ったが,その実態は想像を絶する恐ろしい所業だった……。
 監督は,『波紋』(15) 『スウェット』(20)で国際的注目を集めたマグヌス・フォン・ホーンで,これが長編3作目である。デンマークの歴史的汚点とされる事件の記録を国立公文書館で調べ,それを脚色して本作を恐怖映画として描いたという。貧しさや恐ろしさを表わすのに,鮮烈なモノクロ映像は打って付けであった。表題は英題のカタカナ表記だが,カロリーネが針子であったことと,公衆浴場で編み針を使って堕胎を試みることの両方を指している。さらには,19世紀以前,社会の最下層の人々は,新生児の口減らしに,頭頂部に針を刺して内出血させる方法を採っていたことも暗示しているという。げに恐ろしき映画であるが,ラストシーンは少し心が和む。

■『ノスフェラトゥ』(5月16日公開)
 続いての本作は,アカデミー賞で撮影賞,美術賞,衣装デザイン賞,メイクアップ&ヘアスタイリング賞の4部門のノミネート作である。作品賞や監督賞,俳優部門でなく,この4部門ということで,監督は美意識が強く,映像表現に強い拘りがあると察することができた。監督・脚本が,『ライトハウス』(21年Web専用#3)『ノースマン 導かれし復讐者』(23年1月号)の鬼才ロバート・エガースというので,それならあり得ると納得した。
「ノスフェラトゥ」の意味は知らなかったが,どうやらルーマニア語で「吸血鬼」の総称らしい。この監督が幼少期に最も影響を受けたのがF・W・ムルナウの『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)であり,さらに1897年出版の原典「吸血鬼ドラキュラ」にも夢中になったという。映画監督になってからは,リメイクすることが夢だったそうだ。エガース監督は1983年生まれの41歳であるから,9歳で70年以上前の映画を観て,19世紀の怪奇小説まで読み,高校生でその舞台劇まで書いたというから,尋常な少年の好奇心ではない。今回は,独自の視点を加えての再映画化というので,どんな恐ろしい幻想的な映画になっているのか,身構えてしまった。
 時代は1830年代,映画は上記『ガール…』や『ライトハウス』と同じく,モノクロ映像で始まった。少女エレン(リリー=ローズ・デップ)は孤独を癒すため,守護天使を呼び出そうとして叫び,悪魔を解放してしまった。死神に永遠の誓いを立て,至福の時間を過ごす。1838年になって,映像はカラーとなる。エレンは不動産業者のトーマス・ハッター(ニコラス・ホルト)と結婚し,ドイツのヴィスボルクに住んでいた。トーマスは,自分の城を売却したいというオルロック伯爵(ビル・スカルスガルド)の依頼で,トランシルバニアに向かう。彼の不在の間,エレンは夫の友人のフリードリヒ・ハーディング(アーロン・テイラー=ジョンソン)家に預けられるが,夜な夜な正体不明の男の幻覚に悩まされ,夢遊病者となる一方,オルロック伯爵と会ったトーマスも,吸血鬼である伯爵に恐怖心を感じるようになり,噛まれた跡から病状が悪化し,城を逃げ出そうとするが……。
 もうこれ以上は,恐ろしくて詳しくは書けない。悪魔の吸血鬼が疫病を氾濫させたり,フリードリヒ一家を災厄に巻き込んだり,精神医学者フォン・フランツ教授(ウィレム・デフォー)がさらに物語を複雑にするとだけ言っておくので,エガース・ワールドを楽しんで頂きたい(筆者は苦手だが)。毎度豪華キャストを起用する監督であるが,核となる2人を紹介しておく。主人公エレン役のL・R・デップは,多数の映画で奇人を演じてきたジョニー・デップの娘で,これが初主演だ。一方,これがエガース監督の4作中で3度目のタッグとなるW・デフォーは,『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(00)で吸血鬼役を演じて,オスカー・ノミネートされた男優である。本作のフォン・フランツ教授は,原典でドラキュラ伯爵討伐に参加する主人公ヴァン・ヘルシングに対応しているので,見事な皮肉であると言える。
 この映画のマスコミ試写と同じ日に,『異端者の家』(25年4月号)と続けて観た。おかげで,同作を全く怖く感じなかった。本作がエガース監督の集大成&新境地であり,圧倒的な映像美,様式美で描いた見事なゴシック・ホラーであることは間違いない。ただし,ホラー好きの筆者も,『ライトハウス』と同様,この監督の語り口が好きになれない。苦手はどうやっても苦手なので,高評価はできず,平均的評価に留める。他の映画評が絶賛し,最高点をつけても不思議はないと断っておく。

■『サブスタンス』(5月16日公開)
 上記の3作品に比べると,賞獲りレースで圧倒的存在感を示した映画である。GG賞,アカデミー賞のそれぞれで作品賞,監督賞,主演女優賞を含む5部門にノミネートされ,前者でM/C部門の主演女優賞,後者ではメイクアップ&ヘアスタイリング賞(以下,メイク賞と略)のオスカーを得た。アカデミー賞予想記事は,それぞれが好き嫌い,独自の視点での評価を披露し,読者もそれを愉しむものであるから,当欄も例年そうしている。予想が当たったかどうかは,さしたる問題ではない。好みではなかった受賞作でも,大抵はなるほどと感心するものがある。改めて観て,その好さを感じることも少なくない。
 ところが本作は,なぜそんな高評価を受けているのか,オスカー獲得の最有力候補(特に主演女優賞部門)であったのか,今も理解できない。筆者の鑑識眼が鈍いのか,価値観がずれているのかも知れない。ともあれ,公開が近づいた現在も絶賛している記事は多数あるので,当欄としては,「紹介記事」「推奨作品」ではなく,素直な本音での「感想記事」として書くことにした。とりわけ,あらすじを読み,予告編を観た時点と,本編を観た後の印象の違いを述べることにする。
 称賛を浴びた主演女優は,デミ・ムーア。1990年代に数多くの恋愛映画,娯楽映画に出演した大人気女優である。なかんずく,『ゴースト/ニューヨークの幻』(90)は世界中で大ヒットし,類似作品も多数登場した。ただし,彼女には名のある映画賞の受賞歴がなく(ラジー賞には常連),「ポップコーン女優」と呼ばれていた。2000年代に入った頃から,姿を見る機会もなくなり,本作まで名前も全く忘れていた。出演歴を見ると,最近作『マッシブ・タレント』(23年3月号)は当欄で紹介していた。全く記憶にないから,かなりの端役だったのだろう。一方,監督・脚本は,フランス人女性監督のコラリー・ファルジャである。これが長編2作目のようだが,デビュー作『Revenge リベンジ』(17)は観ていないので,当欄にとっては無名の新人監督であった。
 この映画のエッセンスは,元は大スターだった女優が容姿の衰えとともに仕事が減り,若さと美しさを回復する危険な薬物に手を出すが,その処方を守らなかったために起こる恐ろしい出来事を描いているという。それでデミ・ムーアなのかと納得した。売れなくなった元人気男優をそのものズバリのマイケル・キートンが演じた『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(15年4月号)と同工異曲に思えたが,女優ゆえに若さと美しさに拘る映画のようだ。既に還暦を超えているD・ムーアを,特殊メイクとCG/VFXのパワーで若返らせ,35年前の『ゴースト…』当時の容姿にするなら,けだし見ものである。残念ながら,この期待は叶えられず,予想は見事に外れた。
 主人公のエリザベス(D・ムーア)は50歳の元人気女優で,実年齢より10歳以上若い設定だ。脚本の意図通り,容色はかなり衰えていた。実年齢57歳のニコール・キッドマンや49歳のシャーリーズ・セロンは今もかなり美しいので,彼女らはエリザベス役に起用できない。エリザベスはかろうじてエアロビクス番組を担当していて,レオタード姿は細身に見えたが,やや垂れ気味の臀部は年齢を感じさせた。交通事故を起こして入院した際に,完璧な若さと美しさを取り戻す再生医療「サブスタンス」を知り,早速,送られてきた緑の液体を注射する。エリザベスの背中が割れて,中から若いスー(マーガレット・クアリー)が現われた。CG/VFXで若いD・ムーアを描いたのではなく,別の若手女優を起用し,2人で1人を演じさせていたのだった。
 スーには,エリザベスの身体的遺伝子だけでなく,記憶や経験も継承されている。ある種のクローンであるが、エリザベスの身体は意識不明のまま残り,1週間後に2人は入れ替わる。その度に投与する安定剤や栄養補給剤の描写は秀逸で,前半はSF映画としてよく出来ていた。若いスーはたちまち人気者になり,1週間ルールを破ったことから,エリザベスは見るも無惨な身体になる。これ以上は書かないが,予告編からは想像も出来なかったグロテスクさであり,醜悪なホラーである。思わず,監督はデヴィッド・クローネンバーグじゃなかったのかと確認した。いや,本作に比べれば,クローネンバーグなど大人しく,可愛いものだ。本作の監督が,彼の後継者として異色ホラーを目指すなら,その資質は十二分にある。徹底的にグロであるが,「メイク賞」に値する出来映えと言える。この点では,筆者は「アカデミー賞の予想」で大本命予想し,的中した。
 女性監督が,女性の若さ,美しさへの執着を皮肉たっぷりに描く意義は認めても,ここまで醜悪にする必要はなかったと思う。普通の感覚なら,こんなキワモノ映画はラジー賞の最有力候補だ。いくら売れなくなったとはいえ,D・ムーアもよくぞこんな役を引き受けたなと呆れる。彼女のGG賞主演女優賞受賞が理解できない。中盤以降の出番はM・クアリーの方が多く,終盤はほぼCG製のモンスターである。誰でも演じられる程度の演技なのに,映画祭受賞未経験の女優に初の賞を与え,感激の余り口にするスピーチを見せ物にして,上から目線で楽しんでいるとしか思えない。映画も悪趣味だが,選考委員会も本作を絶賛する批評家もかなり悪趣味だ。
 既に述べたように「サブスタンス」なる薬物の投与方法や効用はSFとしては面白い。終盤の醜悪さは,「メイク賞」のオスカーを得ただけのことはある。スチル写真にも予告編にも登場しない代物なので,その醜悪さを確認したい読者が映画館に足を運ぶことには反対しない。
 
(5月後半の公開作品は,Part 2に掲載します)

()


Page Top