O plus E VFX映画時評 2024年7月号掲載

映画サウンドトラック盤ガイド


■「エンドレス・サマー〜オリジナル・サウンドトラック」
(ユニバーサル・ミュージック)


従来のCDジャケット
現在の流通盤
昔のレコード盤

 2010年前後に数回に分け,サーフ・ミュージック(サーフィン・サウンド,サーフロックとも呼ばれているが,以下ではS-Musicと略す)のCD20数枚を入手したことは映画本編の紹介の中で触れた。その中で1枚だけサントラ盤であったのが,このアルバムである。なぜその時期に1960年代前半にブームがあった懐メロとも言えるS-Musicをせっせと集めたかと言えば,当時はBeach BoysやVentures以外にどんなバンドが演奏しているかの情報は殆どなかったし,日本で発売されるLP盤はごく一部であり,あっても高校生の小遣いではロクに買えなかった(小遣いの大半はBeatlesに使っていた)。
 それが1980年代の後半から90年代にかけて次々とCD化され,さらに2000年代半ばの再発ブームで一気に入手できる対象が増えた。蒐集癖のある音楽愛好家の大半はそうだと思うが,お気に入りのアーティスト毎に,入手できるもの全てを集めてしまう。それが一巡したので,Beatlesのカヴァー盤/トリビュート盤を経て,(既にもっていたBeach Boys以外の)S-Musicを物色したという訳である。もうこの頃になると,HMVやTSUTAYA DISCASでの輸入盤品揃えも増え,Amazon経由で直接個人輸入することも簡単になっていた。まだ,YouTubeで多数のアルバムを聴くことはできなかったし,現在のような定額料金での音楽視聴サービスもなかった。
 このサントラ盤から『Endless Summer』という映画があったことは分かったが,その製作年月やどんな映画であるかは調べようとしなかった(おそらく,DVDはあったのだろうが)。詳しくは後述するが,このサントラ盤は音楽的にはさほどの出来映えでなく,20数枚中の下位であった。サーフィン映画は,当映画評では『サーフズ・アップ』(07年12月号)『ソウル・サーファー』(12年6月号)等を紹介しているが,音楽的魅力は薄く,新作でない昔の映画を探してまで見る気になれなかったのである。まさか,それが世界のサーファーたちが信奉するサーフムービーの金字塔だとは思わなかった。それでも,今回のリバイバル上映のキービジュアルを見ただけで,すぐにこのサントラ盤の映画であることは分かった。アルバムのジャケットが魅力的で,しかも他でも何度か目にしていたからである。今回の映画を機に,サーフィンの魅力を再認識され,S-Musicにも関心を持たれる読者がおられると思い,以下ではアートワークから始め,サーフィン・ブーム,S-Musicのルーツやエピソードを書き綴ることにした。

【映画ポスターからポップアートのレジェンドに】
 筆者が有していたCDのジャケットは上の左の画像だったと思う。輸入盤購入だったと記憶しているが,既に手放してしまった。読み込んだiTunesライブラリのアートワークには,上記の画像が入っている。それに対して,現在入手できるものはCDでもデジタル配信でも,真ん中の画像である(なぜか画像が右寄せで左が空白だ)。映画ポスターと同じであった配色が変更されている。今回,ネット上を探したら,何と1968年の日本公開時に発売されたサントラ盤のカバー画像が見つかった(上右)。既にこの時に別の配色であったし,映画の題名も『終わりなき夏』であったことが分かる。それをDVD発売やCD化の際にカタカナの『エンドレス・サマー』に変更したようだ。  映画のポスターも探してみた。映画館掲示用,チラシ用,販売するブックレット用,後年のリバイバル上映用で少しレイアウトや配色のバリエーションはあるが,主なものは以下の3種である。


原ポスターとそのデザイナー
50周年記念再公開時(2014)
デジタルリマスター版

 様々なバリエーションが生まれるのは,このポスターが当初から逸品として話題であったからである。最初から色違いは何種類か用意されていたようだが,50周年記念は最も著名なオリジナル配色を踏襲している。そもそもこのポスターは,サーフ映画のアイコンにしようと,監督のBruce Brownがサーファー仲間であった美大生のJohn Van Hamersveldに制作依頼したという。謝金は$150だが,$1=360円時代で,東京五輪,東海道新幹線営業開始の年の54,000円は,大卒初任給2ヶ月分弱といったところである。基となった画像は,映画撮影に参加したカメラマンBob BagleyがLA郊外のデイナポイント市のソルトクリークビーチで撮った下の写真だ。左でサーフボードを頭で担いでいるのが監督で,他の2人はこの撮影用に雇われた俳優である。人物とサーフボードをシルエット風にしているのは,映画の冒頭に登場する沈む夕陽の中での逆光のシーンをイメージしているようだ。


サーフボードを頭においている左の人物が監督

 監督の計算通り,いやそれ以上にこのキービジュアルはモダンアートの傑作とされ,スミソニアン博物館の国立アメリカ歴史博物館に収蔵されている。J. V. Hamersveldは一躍売れっ子デザイナーとなり,続いてBeatlesの「Magical Mystery Tour」のカバーデザインを依頼され,計300以上ものアルバムのアートワークを担当した。その後は,1984年のLA五輪の特大ポスターや様々なモダンアート作品制作プロジェクトに関与し,既に業界内の伝説的存在となっているようだ。元のドキュメンタリー映画とポスターデザインのそれぞれが語り継がれることで,相互作用を及ぼし合っているように思える。オリジナルのデザインは,下記のような商品にもなっている。


キャンバス地の壁ポスター
タペストリー
パーカー

 さて,本来のサントラ盤の内容である。何度か再発売され,国内版のCDもLPもあったことは確かだが,現在も在庫があるのかは知らない。少なくとも,輸入盤やデジタル配信で入手できることは確実である。いずれも下記の12曲収録で,ボーナストラックはない。

  1. “Scrambler”
  2. “6-Pak”
  3. “Driftin'”
  4. “Theme From ‘The Endless Summer’”
  5. “Good Greeves”
  6. “Decoy”
  7. “Out Front”
  8. “Wild As The Sea”
  9. “Trailing”
 10. “Jet Black”
 11. “Lonely Road”
 12. “TR-6”#

 演奏は全曲The Sandalsで,すべてバンドのメンバーが作った曲である。既に何曲かは作り終えていたものを,監督が気に入って採用を決めたので,録音は映画用に行ったようだ。全曲インスツルメント・ナンバーで,掛け声やスキャット程度は入っているが,歌唱曲ではない。実は,映画中には,この他にも聴きなれたS-Musicが何曲か流れていたのだが,このサントラ盤には収録されていない。最近の映画なら,エンドロールの最後に使用曲が記載されているのだが,この映画には上記12曲も含めて何も書かれていなかった。
 Venturesに触発された生まれたインスツルメントバンドであるから,当然エレキギター+ドラムの構成だが,アコースティックギターも使っている。主題曲の4.“Theme From ‘The Endless Summer’”はその典型だ。1, 7, 12の3曲の冒頭にはバイク音が聞こえるのは,S-Musicとホットロッドは一体だと証拠でもある。他にも犬の鳴き声や雷鳴を入れる工夫は見られるが,それが映画中でも流れていたかは確認していない。
 全体としての映画中での音量は低めで,いかにもBGMの扱いであり,演奏曲が前面に出てくるシーンはなかった。改めてアルバムを聴き直しても,全体に大人めであり,記憶に残るような名曲はなかった。アルバムのカバーデザインが個性的ゆえ,少し残念だ。

【サーフィン・ブームとサーフ・ミュージックのルーツ】
 歴史を辿れば,4〜5世紀頃から南太平洋のポリネシアでの船や木製の板を波乗り遊びがサーフィンの起源とする説が有力で,豪州や日本の江戸時代にも例はあったという。18世紀の英国人探検家クック船長は,タヒチとハワイで原住民が波乗りをしていたと航海日誌に残していたそうだ。現在のようなフィンが付いたサーフボードを使ったマリンスポーツは,1950年代のハワイで盛んになった。本作のBruce Brown監督は,実際,1950年代のハワイ在住時代からサーフィンを体験している。
 それが米国本土に最初に伝わった先が,太平洋を挟んだ西海岸であったことは自然で,話題になり始めたのは1960年代の初めである。当時,Elvis Presleyの大ヒット映画『ブルー・ハワイ』(61)の公開も「ハワイを地上の楽園」とするキャンペーンに貢献したという。そう言えば,日本国内でトリスウィスキーのCMのキャッチコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が流行語となったのも,同じ1961年であった。筆者はまだ子供であったため,ウィスキーの瓶についていた抽選券をせっせと集めることはしなかったが,日本人にとって,ハワイが憧れの夢の観光地であると印象づけられたのは,このキャンペーンCMであった。
 閑話休題。最初,この映画の公開年の1966年はブームのピークより少し後ではないかと感じたのだが,そうではなかった。拡大一般公開が1966年であっただけで,監督と若手サーファーの3人組がアフリカに向けて出発したのは1963年11月だから,むしろブームの真っ只中である。米国人と言えども,そう簡単に海外旅行ができる時代ではなかったから,世界中のサーフィン・スポットを順に巡り,カメラに収めようという試みは挑戦的な企画であった。米国の近代文化の記録として,このドキュメンタリーが議会図書館に登録されたのも当然という気がする。流行を吹聴するマスメディアの報道が集中したのが1960年前半であっただけで,やがて東海岸や諸外国にも伝わり,その後もサーフィン人口が増え続けたのは論を待たない。日本では,神奈川県の湘南海岸と千葉県の外房海岸がサーフスポットで,第1回全国サーフィン大会は1966年に開催されている。
 S-Musicの登場と拡大は,上記のサーフィン・ブームと完全に同期していた。衆目の一致するところ,その創始者はDick Dale (1937-2019)である。東海岸のボストン出身のギタリストだが,1950年代半ばにカリフォルニアに移住し,サーフィンの虜になった。1958年にエレキバンドDick Dale & His Del-Tonesとしてデビューしたが,趣味のサーフィンの波のうねりと高揚感を伝えるS-Musicを生み出した。シングル盤のヒット曲“Miserlou”(「ミザルー」と読む)と最初のアルバム「Surfers' Choice」のリリースは1962年である。“Miserlou”は,VenturesやBeach Boysを含む他の多数のバンドもコピーして,レコードでもライヴでも演奏している。後年,映画『パルプ・フィクション』(94)や『TAXi』(96)でも使用されたことから知名度が増し,S-Musicの代表曲としての地位を確立した。Dick Daleは既に数年前に他界しているが,図らずもBruce Brown監督(1937-2017)とは同年齢であり,サーフィン文化を牽引したサーファー2人が近い時期に亡くなっている。
 S-Musicは,1950年代後半に生まれたロックンロールの一形態であり,明るく軽快な60年サウンドのフレーバーを加味したものと言える。Chuck BerryやLittle Richardのような黒人特有のシャウトでなく,当初はエレキギター中心の器楽曲が大半で,白人のエレキバンドが雨後の筍のように誕生した。サーフィンは見ていているだけでも,泳いで,砂浜で踊る若者たち(特に白人)にとって格好のソフトロック音楽であったと言える。
 以下では,バンド名の正式名称に付くTheはすべて省略する。Venturesの結成は1959年でDick Dale & His Del-Toneよりも1年後である。彼らもS-Musicの元祖扱いされているが,サーフィン自体には余り関与していない。カリフォルニア在住でもサーファーでもなく,「Surfing」と題したアルバムは1963年の発売で,彼らの7枚目のアルバムである。オリジナルメンバーのDon Wilson (1933–2022)とBob Bogle (1934–2007)は,他のバンドよりも演奏技量が圧倒的に上であったので,一目置かれ,多数のアルバムを出している。他のバンドが先に発表した曲(“Pipeline” “Wipe Out” “Cruel Sea”等)をカヴァーし,ヒットさせることに長けていたので,S-Musicの元祖と言うより,伝道師と言った方が実像に近い。日本では,ほぼVenturesのレコードしか発売されなかったので,(FENの放送を聴く以外は)我々日本人はS-Musicの器楽ヒット曲の大半は,Ventures演奏盤でしか知らなかった。Venturesが巻き起こした日本でのエレキブームは,1965年のことである。日本人はカリフォルニアから2〜3年遅れでS-Musicの洗礼を受けていたことになる。加山雄三主演の『エレキの若大将』(65)も同年の公開である。ちなみに,加山雄三もBruce Brown監督やDick Daleと同じ1937年生まれである。
 Ventures以外で,日本で大ヒットした例外はAstronautsの“Movin’”(邦題:太陽の彼方に)だ。日本では,この1曲でVenturesに継ぐ人気を得て,多数のシングルやアルバムが発売されたが,米国内のS-Musicではさほどの地位を占めていない。むしろ,Challengers, Trashmen, Chantays, Surfaris, Markettsの方が名を残していて,せいぜいT-Bones, Bel-Airs, Eddie & The Showmen等と同格レベルである。残念ながら,Sandalsはこのサントラ盤が代表作と言えるだけで,知名度は低い。筆者が集めたS-Musicの器楽曲CDには,他にEliminators, Lively Ones, Richie Allen & The Pacific Surfers等のアルバムがある。
 むしろS-Musicの魅力を一気に広めたのは器楽曲でなく,ヴォーカルグループが歌う軽快な歌唱曲であったと言える。その代表曲であるBeach Boysの“Surfin’ USA”“Surfer Girl”や,Jean & Deanの “Surf City”がヒットチャートを賑わしたのは,いずれも1963年のことである。Beach Boysのシングルデビューは1961年の“Surfin’”,アルバムデビューは1962年の「Surfin' Safari」であり,グループ名からしてサーフィンを念頭においたヴォーカルグループであった。ただし,楽器の演奏もでき,当初のアルバムには器楽曲も入っている。次第にバンド演奏しながらのヴォーカル曲だけになり,自ら作詞作曲した新曲が中心で,音楽性も高くなる。この点ではBeatlesと全く同じだ。Chuck Berryが生み出したロックンロールを全米レベル,世界レベルに高めたのがElvis Presleyであるなら,Dick Daleが始めたS-Musicを全米レベル,世界レベルに広めたのはBeach BoysのリーダーのBrian Wilsonであると言って過言ではない。Brian Wilson は1942年生まれ,従兄でリードヴォーカルのMike Loveは1941年生まれで,BeatlesのJohn Lennonの1940年生まれ,Paul McCartneyの1942年生まれと,ほぼ同世代である。
 Jean & Deanは,Beach Boysと同系統で,Brian Wilsonから楽曲提供受けるなど,音楽的には1ランク下の弟分的存在に過ぎない(年齢は少し上だが)。他では,アルバム「Sunset Surf」を出したソロ歌手のGlen Campbellは一時期Beach Boysに参加していたし,「Surfin' 'Round The World」を出したBruce & TerryのBruce Johnstonは後にBeach Boysの正式メンバーになるなど,いずれもBeach Boysとの関係が深い。筆者のS-Musicのヴォーカル曲ライブラリには,Fantastic Baggys, Honeyrider, Kickstand, Knights, Super Stocks等のアルバムがあるが,いずれもミニBeach Boysの域を出ない。器楽曲バンドではVenturesの演奏力が圧倒的であったのと同様,いずれのヴァーカルグループも,歌唱力,ハーモニーの両方でBeach Boysに敵わなかった。
 ホットロッドに関しても言及しておこう。歌詞の対象をサーフィンから,クルマやバイクに替えただけで,音楽的にはS-Musicと同等か,その一部あると言ってもいい。サーフィン,海,砂浜では歌詞のネタが尽きたので,西海岸若者文化を牽引するスポーツカーやバイクを移っただけである。せいぜい波の音をエンジン音に変えた程度の工夫があるだけだ。よって,上記のグループはサーフィンもホットロッドも歌っている。
 こうしたS-Musicはポピュラー音楽の1ジャンルを形成し,1962〜64年前半まではヒットチャートやレコード売り上げでは猛威を振るっていたが,64年後半から下降線を辿り,66年以降は急速に落ち目になる。原因は明確であり,1964年にBeatlesが米国に進出して来たからだ。John Lennonの作ったバンドQuarry MenがBeatlesと名前を変えたのは1960年のことだが,西独ハンブルグでのライヴ修行を経て,英国に戻ってシングル盤デビューは1962年の“Love Me Do”/“P.S. I Love You”で,アルバムデビューは1963年の「Please Please Me」である。ところが,当初米国では一向にレコードが売れず,実質的な売り込み成功はシングル盤5枚目の“I Want to Hold Your Hand”の米国発売であり,1964年初めのことであった。瞬時に爆発的なヒットとなり,そのニュースが伝わって来て,日本のポップス/ロックのファンは約1ヶ月遅れでBeatlesを追いかけることになる(歴史的な日本公演は1966年のこと)。それを見た英国勢のRolling Stones, Dave Clark Five, Animals, Herman's Hermits, Hollies, Kinks等々が雪崩を打って米国の音楽市場に押し寄せた。1965年まではまだ持ち堪えていたが,1966年以降,S-Musicのバンドたちのレコード売り上げは壊滅状態となる。これは「British Invasion」と呼ばれている。
 売り上げはかなり落としたものの,Beach Boysだけが生き残っていた。面白いのは,Beach Boysはかなり英国で人気が高かったことである。それは今も続いている。Beach BoysやRolling StonesにはないS-Musicに軽やかさが,少し異なる音楽文化として受け容れられたのかも知れない。日本はと言えば,Beatles人気がNo.1で別格であったが,Beach BoysよりもVenturesの方がずっと人気が高かった。これは日本だけの現象のようだ。そのせいか,BeatlesやVenturesのコピーバンドは日本にも多数存在したが,Beach Boysには存在しなかった。あれだけのハーモニーは素人バンドでは実現できず,楽器だけで済ます連中が多く,エレキコンテストで覇を競っていた。プロでは,「寺内タケシとブルー・ジーンズ」は明らかにVenturesのコピーバンドであったし,Beatlesを追ったバンドは「グループサウンズ」として一大勢力となる。サーフィンは表に出さないものの,夏,海,砂浜を題材としたサマーソングは,昔も今も1ジャンルを形成している。ソロヴォーカルでは,大滝詠一,山下達郎,南佳孝の初期は明らかにS-Musicの影響が感じられ,ジャズ,フュージョンでは,松岡直也 & Wesing,T-SQUAREも夏をウリにしていた。

【Endless Summerに関するいくつかの誤解】
 以上で,映画『エンドレス・サマー』からは,映画そのものとポスターデザインは,文化遺産として伝説的存在となったが,サントラ盤だけはそうならなかった事情が分かるだろう。もっとも,映画はコアなサーファー達にはバイブル的存在であっても,一般人にはそこまで認識されていなかったと思われる。
 筆者がドキュメンタリー映画と思わず,『アメリカン・グラフィティ』(73)のような背春ドラマだろうと思った理由を語っておこう。この映画は『スター・ウォーズ』(77)を撮る前のジョージ÷ ルーカス監督のヒット作であり,彼が過ごしたカリフォルニア州モデストを舞台に,1962年の夏の一夜の若者の生態を描いた青春群像劇である。公開当時のキャッチコピーは「1962年の夏,あなたはどこにいましたか?」であった。劇中では,ロックンロール,S-Music,ドゥーワップのヒット曲30数曲が流れ,まさに「オールディズ」であった。その締め括りのエンドソングとして,ラストシーンに被さるようにBeach Boysの“All Summer Long”が流れる。1962年でなく,1964年夏に発売された同名アルバム中の1曲であったが,歌詞がこの映画のテーマそのものであったから,採用されたのであろう。町は海岸には面しておらず,一夜の出来事なので,映画にはサーフィンのシーンは登場しない。それでも,後年の若い世代が『SWシリーズ』と接すると,『アメリカン・グラフィティ』の存在を知り,“All Summer Long”に涙するというのが定番となっていた。それゆえ,映画『エンドレス・サマー』もその類いの青春映画だと思ったのである。
 上記は筆者の思い込みに過ぎないが,さらに一般を惑わす出来事が登場する。上記の“All Summer Long”の採用に気を良くしたCapitol Recordsは,翌1974年初夏に1962〜65年のBeach Boysのアルバム7枚から選んだ全20曲を収録したLP2枚組のコンピレーションアルバムを発売する。あろうことか,その題名を「Best Of The Beach Boys」や「The Greatest His Of …」とせずに,「Endless Summer」にしたのである。1970年代前半は,Beatlesはとっくに解散し,Beach Boysは完全に低迷期にあった。ところが,この懐メロアルバムは,爆発的に売れ,Billboard誌のAlbum Chartの1位となり,Chart内には155週間もランクインし,累計300万枚以上を売り上げたという。Beach BoysのアルバムでRIAAの3× Platinum認定はこのアルバムだけで,オリジナルアルバムは高々2× Platinum認定止まりである。これはBrian Wilsonらのメンバーに断らず,版権をもつレコード会社独断の企画であったようだが,見事な営業戦略である。


All Summer Long
終わりなき夏

 このヒット以降,Beach Boysのライヴコンサートは完全に復活し,その場合にも「Endless Summer」がコンサートタイトルとして使われていたようだ。即ち,いつの間にか「Endless Summer」はBeach Boysの代名詞のようになってしまったのである。懐メロ・ライヴバンドとしての活動はその後も続き,2012年世界中で50周年記念公演を行った後も,一部メンバーが夏になると全米でライヴ公演を続けているようだ。彼らのライヴの記録映像は,VHSビデオ,DVD,Blu-rayで多数発売されている。さすがにその種の映像パッケージタイトルに「Endless Summer」は名乗っていないが,DVDやCDで「Endless Summer」となると,今回のドキュメンタリー映画やそのサントラ盤ではなく,Beach Boysの作品だと誤解する人が少なくない。
 おそらく,Capitolの営業担当はドキュメンタリー映画の存在を知っていて,「Endless Summer」と名付けたと思われる。LPレコード邦盤のタイトルは,ドキュメンタリー映画と完全に同じ「終わりなき夏」であって,「永年の夏」「限りない夏」ではないから,少なくとも日本の発売元(当時は,東芝音楽工業)の担当者は,映画やサントラ盤の存在を分かっていたはずだ。一般名詞ゆえ,Bruce Brown監督は®登録しなかったのだろう。その証拠に,音楽分野ではBeach Boysの後,1994年のDonna Summerを皮切りに,多数のアーティストが「Endless Summer」なるアルバムやシングル曲を出している。もっとも,Donna Summerの場合は,姓がSummerであるから,ある種のシャレであり,クレームがつく心配はないが…。
 今にして思えば,Bruce Brown監督がSandalsでなく,音楽にBeach Boysを採用していれば,もっとヒットしたサントラ盤になったに違いない。全曲オリジナルでなくても,半数を既存のヒット曲,残る半数を完成度の高い新曲にしていれば,さらに価値は高く,サントラ盤も文化遺産として議会図書館やスミソニアン博物館に収蔵されていた可能性が高い。もっとも,低予算映画であったから,絶頂期のBeach Boysに依頼するだけの製作費は捻出できなかっただろう。

【本作で得た知見と誤解解消】
 筆者が今回の映画で知って嬉しかったことも書いておこう。“Wipe Out”と“Pipeline”は,S-Music器楽曲の定番中の定番である。オリジナルは,前者はSurfaris,後者はChantaysで,いずれも1962年にレコーディングされ,63年にヒットしている。日本では,両方ともVenturesの曲だけがヒットした。 「Wipe Out」は何かを拭き取ることであり,それ以上は考えなかったが,この映画で波にさらわれ海に落ちることだと知った。これはサーファーなら誰でも知っているサーフィン用語だった。もっと意外だったのは「Pipeline」である。通常「テケテケテケ…」と表記されるエレキギターの「クロマチック・ラン奏法」を多用した代表曲として知られている。なぜこの曲が,石油や天然ガスを輸送する配管群や,それを模したコンピュータデータの時間差並行処理と関係があるのか,全く理解できなかった。石油やデータの滑らかな流れは,寄せては返す波の動きとはかなり違っている。
 何とこれは,サーフィンに適したスポットの地名であった。ハワイ・オアフ島のノースショア(北側海岸)を代表するレフトブレイクのサーフポイントだそうだ。荒波の名所で,相当高度なサーファーしか楽しめない難所のようである。映画の最後に登場し,監督は「悪名高いパイプライン」と呼び,「サーフポイントとは名ばかりで,まるでローマの闘技場さながらだ。ここでのワイプアウトは危険だ」と語っている。映画の中でも最も凄まじい波のシーンの連続で,実際,何人かが大怪我をしている映像が流れる。波が激しく巻き上げられ,管のような空間(チューブ)が生まれることから,この場所が「Pipeline」と名付けられたようだ。ともあれ,Chantaysの名曲“Pipeline”はハワイのこのスポットからの命名であることは間違いなく,それを知って嬉しくなった。であれば,Sandalsの演奏でいいから,ここのシーンで“Pipeline”を流して欲しかったところだ。

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