O plus E VFX映画時評 2026年2月号
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視覚効果賞候補の『ロスト・バス』に続いては,長編アニメ賞部門にノミネートされた2本で,両方ともフランス製の2Dアニメーションである。同部門で米国以外から同じ国から2本がノミネートされるのは初めてのことだ。例年6月に開催されるアヌシー国際アニメ映画祭では,『ARCO/アルコ』は長編部門のグランプリ,『アメリと雨の物語』は観客賞を受賞している。フランス東部のアヌシー湖畔で開催される映画祭であるから,地元有利なのは当然だが,アカデミー賞でのノミネートで,フランスが欧州随一のアニメ大国であることを証明したと言える。商業的には日本製アニメが国際競争力を得ているが,こうした映画祭では広報力で負けてしまうようだ。
先月のGG賞アニメ賞部門には,米国からは『星つなぎのエリオ』(25年8月号)『ズートピア』(25年12月号)『KPOPガールズ! デーモン・ハンターズ』(26年1月号)の3本,日本の『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』,そして前評判通りフランス製のこの2本もノミネートされていた。結果は,米国製の『KPOP…』の受賞であった。アカデミー賞ノミネートは1本減るので,日本の『鬼滅の刃…』が外れた。その結果,米3:仏2の争いとなっている。数日前に米国LAで開催されたばかりのアニメ映画界の祭典「第53回アニー賞」の結果は,この勢い通りで,『KPOP…』が作品賞,監督賞を含む10部門受賞の圧勝であった。日本勢は『果てしなきスカーレット』『チェンソーマン レゼ編』も歯が立たず,無冠に終わった。フランスの2本はかろうじて『ARCO/アルコ』が「インディペンデント作品賞」を獲得したので,アカデミー賞でフランス勢の逆転なるかが興味の的である。
米国勢3本は既に紹介済みなので,残るフランス製の2本を今回紹介する。以下では,フランスや日本での公開順で紹介する。
パリに住む若いフランス人女性のラブストーリーを描いた『アメリ』(02年1月号)は,日本でも大ヒットしたが,それとは全く無関係だ。そもそも「アメリー(Amélie)」はフランス語圏の女性に多いファーストネームだが,この映画も音引きしていないのは,上記の女性映画の影響かも知れない。原作はベルギー人女性作家アメリー・ノートンによる自伝的小説「チューブな形而上学」(Métaphysique des tubes)で,フランス人監督のマイリス・ヴァラードとリアン=チョー・ハンがアニメ映画化した。
パリの美しい光景を期待すると全く裏切られる。父親が外交官であった原作者は,日本の神戸で生まれ,5歳まで日本に滞在し,その後,中国・ニューヨーク・バングラデシュ・ビルマ・ラオス等に住んだという。その原作者が神戸で過ごした少女時代を,美しい日本の光景と日本の伝統行事を交えて絵画化した2Dアニメが本作なのである。
映画の題名は,フランス語,英語,日本語でまるで違っていた。映画の原題『Amélie et la métaphysique des tubes』は原作の題名に主人公名を加えただけである。この「チューブ」というのは,まさに「管」の意味であり,人生は入って出るだけの存在であることを意味しているようだ。随分,哲学的で抽象的である。それが英題では『Little Amélie or the Character of Rain』となっている。小説にも映画にも登場する「雨」を,「管」(無自我)から覚醒させるきっかけと解釈し,それを映画の中心テーマ扱いしている(写真1)。さらにそれを,日本語の「雨」が少女の名前の一部の語呂合わせにしたのは,映画制作陣の独自の解釈だと思われる。
ごく一部で3D-CGによる造形も見られたが,このアニメ作品は基本的には伝統的な手書きの2Dアニメであった。人物の輪郭を描かない画法が採用されている(写真2)。そのタッチで描いた水彩画風の描写が頗る美しい。広い庭や池は,まるでモネの印象画であった。伝統的な和風の家屋や日本の伝統文化を映像化したのも,監督たちの独自の解釈であり,原作をかなり脚色しているようだ。題名を巡る解釈違いを知ると,かなり小難しい映画に思えてしまうが,日本人の観客はそんなことは意識せず,美しい1960年代の日本を描いた「セル調2Dアニメ」として観れば十分だと思う。
筆者は個人的に,この監督たちのスタンスを高く評価する。是非,日本人の若い世代にこのアニメを観て欲しい。日本文化に対する相当な造詣と尊敬の念がなければ,こんな映画は作れない。明示されていなかったが,伝統的日本文化に通暁した人物の協力なしには,このアニメは作れないはずだ。
【本作の概要と物語展開】
1966年生まれのアメリは,2歳になった時,地震によって目覚めて,立ち上がった。それまでの自分は植物状態で,自らを神のような存在だと意識していた。目覚めたものの,まだじっとしたままで,周囲の対応に不満を漏らしていた。1968年8月13日に世の中が激変した。アメリの2歳半の時だった。母国から日本に尋ねて来た祖母クロードがくれたホワイトチョコレートがきっかけで,一気に覚醒する(写真3)。それから家中を走り回るようになり,家族とも会話を交わすようになった(写真4)。
しばらくして祖母はベルギーに帰国し,アメリは淋しくなったが,新しい友人ができた。一家は大きな和風の家を借りて住んでいたが,大家のカシマの勧めで家政婦のニシオさんを雇うことになった。アメリはすぐにニシオさんに懐いて,さまざまな日本文化を体験する。怪談を読んで聞かせてもらったり,自分の名前にぴったりの「雨」という字も教えてもらった(写真5)。やがて,帰国した祖母の死を知り,ショックを受ける。さらに,一家で海水浴に出かけたところ,大きな波に飲み込まれて溺れそうになったが,兄アンドレに助けられ,命拾いする。
3歳の誕生日に,アメリのすべてを変えてしまう出来事が起こる。ニシオがアメリと親し過ぎること知った大家のカシマが激しく叱責したことで,ニシオさんは辞めてしまった(写真6)。さらに,まもなく家族はベルギーに帰国することを告げられ,激しく動揺したアメリは鯉にエサをやりながら,池に身を投げてしまう……。
結末を詳しく書く訳には行かないが,原作者が幼児体験を小説にした以上,アメリがこれで死んでしまうことはない。その後,ニシオさんと一緒に雪景色を満喫するシーンも登場する。それでも,幼い少女が死の意識することや自らを神でなく,人間であること自覚するという物語は,哲学的な香りするファンタジーであった。
【日本での生活や伝統文化を描いた見事な絵作り】
なぜこの映画をメイン欄で紹介したくなったかは,上述のように半世紀以上前の日本の風景を見事に描いていたからである。日本の映画業界の美術班が実写映画でこの時代を描くなら全く驚かない,フランスのアニメスタジオがこれを描いたことに感心したのである。ちなみに,このアメリの幼少期は,筆者の大学生時代であり,京都住まいであった。同じ関西圏であるので,以下では,本作の描写の正確さと疑問に感じる点を指摘しておきたい。
■ てっきり,横浜や神戸に住む外国の外交官や駐在員は洋館に住んでいるのだと思っていた。重要文化財である「神戸北野異人館」(愛称:風見鶏の館)は別格の立派さだとしても,それより小さめの機能的には似た作りの家だと想像したのだが,純和風の屋敷であった。監督は「原作者の子供時代の家は現存していなかったが,できる限りベルギー人駐在員が暮らした伝統的日本家屋を再構築した」と語っている。山の裾野の小高い丘にあるかなり大きな家である(写真7)。少し誇張されている可能性はあるが,まだこの時代にあった家屋で,筆者はもう一回り小さな家に住んでいた。庭に面した1階の縁側は広めの廊下があるのが普通で,通常,雨戸がその外側に付いている(写真8)。
■ 庭はかなり広く,大きな池もある(写真9)。一般家屋にここまで立派な庭があることは珍しい。モネのジベルニーの庭をイメージして描いたのかと思ったが,この池には蓮と睡蓮が混在している(モネの庭は睡蓮だけ)。よって,実在した日本家屋を調査し,写真を入手して描いたのだろう。季節の花の描写も概ね正確であった。
■ 家屋内の描写はもっと正確で,よくぞここまで再現した感心し,嬉しくなった。日本家屋に住んでいる以上。駐在員といえども,玄関できちんと靴を脱いでいる(写真10)。その上部や写真8も電球照明であり,その傘(ランプシェード)は少しお洒落で,さすが裕福な家庭である。右側の柱にある「状差し」は安っぽいが,そう言えば,昔の家庭ではよく使っていた。写真11の台所の細々とした描写にはさらに感心する。冷蔵庫の上にある電気釜などは,いかにもだ。この駐在員家庭は常時米食していたのだろうか。
■ 写真12は,まだアメリが座ったままで動かない頃の居間のシーンである。固定視点での早送りアニメであるが,アメリの服を変え,時間変化や季節変化を描き込んでいる。畳の部屋に,ラグ・マットを敷き,ソファやテーブルを置いて生活しているのは,いかにも外国人の和式住宅での生活様式だ。やがて,日本人もこのスタイルを真似るようになる。写真13にはもっと驚いた。部屋の中央に見慣れた電気コタツが置かれているではないか。正方形のデコラ(メラミン合板)製の天板を置いて使う安価な家電製品であった。日本中の家庭に浸透し,全く壊れないので,筆者は20年以上も使っていた。長方形の家具調コタツに置き換わるのは,かなり先のことである。
■ 家族で出かけた海水浴の行き先は須磨海岸だろう(写真14)。アメリの母親がビキニを着ているが,さすが西洋人の女性である。この時代,日本人女性はまだビキニを着る勇気はなかった。Brian Hylandの「ビキニスタイルのお嬢さん」がヒットしたのは1960年だったが,その当時は米国人の少女とて,その姿で人前に出られなかった。アメリがモーゼのように海を2つに割るシーンはご愛嬌だろうが,さすが「神の子」である(写真15)。
■ ニシオさんから「雨の字」を教わるのは前述の通りだが,筆を使っての書道のシーンもあった(写真16)。筆順も正しい。ニシオさんに連れられてのお出かけの極め付きは,お盆の「灯籠流し」であった(写真17)。本作の中で最も美しいシーンであった。原作にはなく,監督たちが日本の伝統文化を紹介したくて,追加したようだ。これを「精霊流し」と書いている記事があったが,それは違う。さだまさし(厳密には,グレープの)ヒット曲で「精霊流し」が有名になったが,これは竹と麦藁で作った「精霊船」に供え物を積んで川に流す長崎地方の行事である。一方,同じく「精霊送り」であるが,本作のような「灯籠流し」は灯をともした灯籠だけを流す儀式で,日本各地で行われていて,神戸市では今でも毎年8月15日に多数の会場で実施されている。アメリが覚醒したのは2歳半の8月13日で,ニシオさんと出かけるのはもっと先であるから,時間軸が合わないが,それは不問にしておこう。
■ 終盤に池から助けられたアメリが,ニシオさんと一緒に庭の雪景色を楽しむシーンが登場する(写真18)。ここも,原作者の実体験と思えない。神戸に雪が降ることは滅多になく,降ってもすぐ溶けてしまい,庭一面に積もることは有り得ない。監督が美しいシーンで終わりたかったので敢えて日本庭園の雪化粧を加えたのだろう。
■ もう少し家庭内の日常生活にも言及しておこう。子供たちが食べるおやつは水羊羮やゼリーだった。ニシオさんはいつも洋服の普段着だったが,大家のカシマさんは常に凛とした和服姿であった(写真19)。部屋で流れていた音楽は,ザ・ピーナッツが歌う「恋のバカンス」だった。1963年のヒット曲であるが,5年後にラジオで流れていても不思議ではない。扇風機やTVはいかにもこの時代のもので,懐かしい。写真12&13の居間にあるTV受像機は,14型か16型で,当然アスペクト比4:3のブラウン管画面である。白黒かカラーかは不明だ。カラー放送は1964年の東京五輪時にあったが,番組数が増えるのは’68年のメキシコ五輪の頃で,19型で木目調の(当時としては)大型のカラーTV受像機が爆発的に売れたのは1970年以降であった。家庭内に冷房はなく,まだ扇風機の時代であった。家庭用は1970年代前半から普及し始めたが,「エアコン」ではなく,冷房機能だけで「クーラー」と呼ばれていた。昭和30年代は「電気洗濯機,電気冷蔵庫,テレビ」が家電製品の「三種の神器」であったが,1970年代前後は「カー,クーラー,カラーTV」の3Cが「新・三種の神器」と呼ばれ,庶民の憧れであった。本作は,この時代の生活をかなり正確に再現していた。
早々と「概要と感想」を書いたのは,アカデミー賞授賞式に間に合わせるためだった。本作の公開までかなり時間があったので,完成版の着手も遅らせた。上記の『アメリと雨の物語』だけ先に済ませたのは,公開日が1ヶ月以上違っていたこともあるが,それ以外にもいくつも理由があった。
不思議な出来事,哲学的背景,絵画的な描写という点で両作は似ている。これはフランス製アニメの特長と言えるが,ベースとなるテーマはかなり違っていた。『アメリと雨…』は日本人に特別な意味があったので,その観点から素直に評価しやすく,日本の伝統文化をどれほど忠実に描写しているかを論じた。加えて,原作があったので,映画化で何を追加しているかにも注目した。
一方,本作の監督・脚本はウーゴ・ビアンヴニュで,『アメリと雨の…』のような原作は存在せず,彼のオリジナルストーリーである。この監督の名前は初めて知った。これが長編アニメのデビュー作というだけで,経歴もよく分からなかった。少し調べたところ,彼は1980年生まれで,パリの名門美術学校の出身であるが,アニメーター出身ではなかった。グラフィイクノベル,CM,MV等のビジュアル制作全般のディレクターとして頭角を現わし,3年間かけてストーリーボードを書き上げ,それを見せてスポンサを募ったという。完成までには計5年間を費やしている。
プロデューサーの1人にナタリー・ポートマンが入っていて,それが本作のセールスポイントとなっている。彼女は英語版の吹替にも参加しているが,オリジナル版のセリフはすべてフランス語で,そこそこ名のあるフランス映画界の俳優たちが声の出演をしている。『アメリと雨の…』は日本の批評家たちも多数俎上に乗せていたが,本作に関しては,完成版着手時に殆ど目にしなかった。このため,欧州を中心に本作がどう評価されているかを探った。その結果は後述する。この間に,解説するに足る画像をかなり入手することができた。幸い,オンライン試写を申し込んでいたので,欧州での評価を踏まえて,全編を再度見直した。以下は,それらを総合しての紹介である。
【本作の概要と物語展開】
時代は西暦2932年と2075年で,それぞれの時代に住む10歳の少年アルコと同じく10歳の少女イリスの2人が主人公である。舞台となる星の名前は明言されていないが,地球の未来のようだ。即ち,本作はSFファンタジーであり,フランスやパリは全く登場しないし,会話中でも言及されていない。
映画は2932年から始まる。少年アルコの家庭は4人家族で,両親,姉と住んでいた(写真20)。この時代,タイムトラベルが可能で,両親や姉はそれを満喫していた。恐竜の時代に行きたいアルコには,12歳になるまでそれが許されないのが不満だった。時間旅行するには,頭部に宝石(ダイヤ)を着けた特殊スーツと虹色のマントが必要であった。ある夜,アルコは姉のスーツとダイヤを盗み(写真21),虹色マントを身に着けて大空へと飛び立った(写真22)。
2075年は50年後だけあって,文明的には進化していたが,気候変動が激しくなった世界として描かれている。イリスは絵を描くのが得意で,想像力豊かな少女であった。ある日,退屈な授業を早退し,森で絵を描いていた。空を見上げると虹がかかっていたが,その虹から何かが落ちて来た(写真23)。森の中で虹色マントの少年を見つけたが,彼はすぐに倒れてしまった(写真24)。気味の悪い男性3人組が,この少年を探しに現われたので,イリスは彼を隠し,自宅に連れ帰った。
この3人組は,ドゥギー,ストゥィー,フランキーの3兄弟で,過去にも類似した虹色現象を見たため,その実態を解明しようと空を眺め続けていたのであった(写真25)。そこにアルコが落ちてくる姿を見たので森を探し始め,落ちていたダイヤを見つけた(写真26)。彼らはその後もアルコを確保しようとつけ狙っていたが,アルコとイリスが警察に追われた時には助けに入った。
イリスは弟のピーター,育児ロボットのミッキと暮らしていた。両親は遠隔地で仕事をしていて,ホログラム通信で顔を合わせるだけである。イリスはアルコを問い詰めて,800年以上も未来の世界からやって来たことを知る。虹色スーツは無事だったので,体力が戻ったアルコは未来に戻る飛行練習を始めたが,ダイヤをなくしていたため,光不足で加速できなかった(写真27)。
旧式ロボットのミッキの頭脳では未来人を識別できなかったため不審者だと思い,彼は警察に通報してしまった。このため,アルコとイリスは警察に追われ,学校に逃げ込む。そこまで追ってきた3兄弟からダイヤを取り返せたが,折からの山火事で町は炎に包まれた。ダイヤを得たアルコはイリスを背負って飛び立ったが,今度はイリスが重くて,山火事の中に墜落してしまった(写真28)。ピーターを連れて歩いていたミッキは,さらに2人を抱きかかえ,危険を避けるため,洞窟の中に逃げ込んだ。既に虹色マントの裾が焼けてしまっていた。果してアルコはこの洞窟を抜け出し,2932年の未来に無事帰ることができるのか……。
ストーリーの意味を余り深く考えずに観るならば,アルコとイリスのサバイバルアドベンチャーであり,子供レベルでも十分楽しめる。この種の物語は,別世界からの到来者が元の世界に帰り着くのが定番であるから,それなら『E.T.』(82)の変形版であり,SF版「かぐや姫」である。時間軸を意識して元の時代に戻ること重視するなら,『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85)的な結末を期待したくなる。一方,イリスがアルコと一緒に彼の世界に移ってしまうなら,『星つなぎのエリオ』(25年8月号)にあったパターンだ。どの結末になるかは,観てのお愉しみで,『ターミネーター』(84)『同 2』(92)のように,未来からの到来者が2075年の世界で死んでしまうことはないと言っておこう。
【海外アニメ界での評価と絵作りに関して】
上記のような童話風SFファンタジーと捉えるなら,本作は『アメリと雨…』よりもエンタメ性は高い。ところが,なぜ本作の方が映画祭での評価が高く,アヌシーで最高評価を受け,「この10年で最高のアニメーション」とまで言われているのかが理解できなかった。このため,フランスを含む欧州の批評家や観客の評価を調べることにした。
全体的な評価では,むしろ『アメリと雨…』の方が上だった。子供時代の回想や感情表現の繊細さが高い評価を受け,美術系関係者も絶賛していた。アヌシーでは「観客賞」を得たように,一般観客も好意的に捉えていて,大人寄りの観客層の支持が高かった。一方の『ARCO』は,フランス国内の理屈っぽい批評家と冒険映画好きの家族連れという両極端の支持があった。その反面,「ストーリーがやや単純」「説明不足で,分かりにくい箇所がある」といった問題点も指摘されていた。
本作に対して,フランスの批評家は以下のような観点から高い評価を与えている。
①ビジュアル表現の革新性
彼らは本作を「視覚的ポエム」と呼び,色彩表現に物語性をもたせ,虹色や光のスペクトルを象徴的に使っていることを絶賛している。手書き的な質感とデジタル処理の融合も好意的に受け止めている。
②子ども映画の枠を超えた哲学性
一見お子様映画に見せておいて,「異世界で体験する自己アイデンティティ」「他者との共存」「記憶と時間」「感情の可視化と色との対応付け」を,極めて哲学的なテーマだと解釈している。比較対象としてピクサー作品の『インサイド・ヘッド』(15年7月号)や『ソウルフル・ワールド』(20年Web専用#6)を挙げている。
③音楽・音響設計の完成度
主に「環境音と旋律の融合」「サウンドスケープによる没入感」「静寂の使い方」を優れた点とし,映像との統合にも好意的な評価であった。
④解釈の余地を残す知的構造
説明的なナレーションに頼らず,観客に解釈の余地を残すのがフランス/ベルギー系アニメの特長であり,「余白の多さ」「象徴の反復」「明確に言語化しない感情表現」を美徳としている。ハリウッド流の商業的CGアニメと一線を画すのが“芸術性の証”だとしている。
上記の内,④はアヌシーの大きな評価ポイントであり,カンヌ映画祭からの分家ならでは最高評価であることが納得できる。日本未公開の『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』(12)やスタジオジブリが参加した『レッドタートル ある島の物語』(16)は正にこの路線の作品のようだ。アンチ米国流であることを明言していることが,アカデミー賞で一定のノミネート枠を確保しているとも考えられる。ディズニー/ピクサー流のフルCGアニメに対抗意識丸出しなのは理解できるが,現在はユニバーサル傘下に入った「ミニオン」でお馴染みのイルミネーション社は,元はフランスのアニメスタジオである。米国資本ながら,今もアニメーターたちは「イルミネーション・スタジオ・パリ」で作業しているというのが皮肉に感じる。いや,イルミネーションを裏切り者と感じるゆえ,芸術性重視の2D路線に拘っているのかも知れない。
観客の好みは分かれると思うが,アニメもテーマや絵作りが多様であるから,それでもいいだろう。筆者は,個人的には,余白を残し過ぎの映画作りは好まない。特に日本語字幕版では分かりにくい。本作の「休閑」「大休閑」が何を意味するのか,なかなか分からなかった。「バブル」という言葉も,場面で全く異なり,二重の意味を持たせているようだ。純文学的と言えば,高尚に聞こえるが,製作者側の思い入れと自己陶酔ではないかと思う。言い方を変えれば,表現力に乏しい制作者の言い訳だと感じる。アニー賞で「インデペンデント作品賞」扱いとなったのは,その表われだと思う。
フランス流のアニメ絵作りに関しても言及しておこう。『アメリと雨…』はほぼ完全に2Dの手書きアニメであるが,本作は①から分かるように,デジタル技術を積極的に利用しながら,2Dのクラシックな手書きタッチに拘っている。言い換えれば,ほぼ完全に3D-CGベースでデザインし,それを意図的に「手書きライン風に加工」「ほぼ均一な色領域」「陰影は抑え気味」にし,それでいて「空間配置は3Dレイアウト」「デジタルカメラワーク」「レイヤー分解合成」「積極的にパーティクル処理や物理演算」を採用している。「CGを見せないCG」だと言える。
背景はかなり手の込んだ美しい景観で描き(写真29),登場キャラクターたちはシンプルな手書き風である(写真30)。『アメリと雨…』のような輪郭なしではなく,人物にはしっかり輪郭線が描かれている。和製2Dアニメも,最近ではピクサー流のフルCGアニメも,同じ路線であるが,本作は背景と人物の画質の差が大き過ぎる。これがフランス流だというなら仕方がないが,これも余り好きになれない。単に好みの問題だけではなく,表情表現能力が乏しいからである。そんなことまで観客の解釈に委ねるのでなく,もっとセリフを多くし,喜怒哀楽を豊かに表現した方が,ギャグやユーモアを楽しみやすくなり,感動も大きくなると思う。
【SFアニメとしての未来描写の見どころ】
いくつか欠点を指摘したが,SF映画としての未来表現には優れた点もあった。それを中心に見どころがあったシーンを解説する。
■ まずはアルコの生まれた2932年の世界からだ。何よりも印象的であったのは,空に聳える木の枝のような形状の建築物であった(写真31)。アルコの家が半球のドーム状なのはいかにも未来住宅で,周りに美しい花が咲く小さな森があった(写真32)。これが地上なら,木の枝は何を意味しているのだろうと思ったら,何と枝の端にあるお皿のような部分が,個々の住宅地であり,それこ森までついていたのであった(写真33)。気候変動で荒廃した地上に人は住めず,完全な休閑地となっていて,人は雲の上にある家に住んでいたのであった。アルコの口頭での描写だけで,イリスはすぐにこの住宅の絵を描いた(写真34)。リケジョの彼女が将来建築家となって,こうした住宅を設計することが暗示されていた。2932年の登場場面はほぼこれだけであった。
■ イリスの両親は,ホログラムでしか登場しない。家族での食事も,母親がイリスに本を読んで寝かせるのもホログラムである(写真35)。この家庭では電話機もホログラムであった。ホログラム通信で両親とコンタクトできるなら,電話機など使う必要はない。郵便ポストもしかりで,手紙など出すことがあるのかと思う。『ランニング・マン』(26年1月号)では,主人公が手紙を投函したポスト自体が浮き上がって移動していたので,近未来にもポストがあると描きたかったのだろう。 旧式ロボットのミッキは,声優が男性であったので「執事」と呼ぶべきかと思ったが,意識不明のアルコを診断する「介護ロボット」であり,料理や育児も担当する「家事&育児ロボット」でもあった(写真36)。
■ 電話機はホログラムにしておきながら,乳児のピーターを運ぶ「育児用カプセル」は物理的に存在している設定である(写真37)。昔なら「おんぶ紐」,現在の「抱っこ紐」が,未来はこういうデザインになるという見せ方だ。未来のバイクは車輪がない球形の乗り物で,イリスは同級生のクリフォードの後に乗せて通学していた(写真38)。ヘルメットは着用しないと危ないぞと言いたくなった。故障したミッキを運ぶクルマは空を飛んでいたが,一般家庭の自家用車は地上走行のようだ。スーパーマーケットは50年後もほぼ同じ形態で,一向に進歩していない。まだ地上部分に電柱や電線が存在しているというのに呆れた。未来の描き方に一貫性がない。
■ 学校の教室が宇宙空間に描かれていたので,少し驚いた(写真39)。これを「バーチャル授業」と書いている解説があったので,生徒にビジュアル教材だけを送信し,教室は実在しないのかと思ったら,そうではなかった。教室の周りが没入型ディスプレイで,そこに教材として宇宙空間を投影しているだけであった。その証拠にイリスはバイクで学校に通っていたし,早退する時も教室のドアを開けて出て行った。没入型VRらしき表現は,イリスらが学校に逃げ込み,恐竜時代や海底体験をする場面でも登場していた(写真40)。この種の体験をさせるなら,学校でなく博物館だと思うが,この時代の学校は美術館や博物館を兼ねているのかも知れな。VR体験を描くなら,木々や森並みにもっとリアルであって欲しかったが,この部分の絵作りはプア過ぎる。
■ 2075年の家屋は,半世紀前の現代と変わらないように見えるが,それは平穏な日中だけで,夜になったり,嵐が来ると,各戸は透明な半球状の「バブル」で保護されていた(写真41)。このため,山火事が住宅地に迫っても家が燃える心配はないようだ(写真42)。ただし,バブル外は炎に包まれていて,ミッキが3人を抱えて走るシーンの炎は見応えがあった(写真43)。今月の別項の『ロスト・バス』のリアルさには及ぶべくもないが,それでも「炎の流体的な揺らぎ」「煙の立体的な回転」「光の拡散やグラデーション」等は,手書きの2Dアニメでは難しく,3D-CGベースゆえの描画であった。
■ 公開が近づくと,かなり魅力的なシーンの画像が公開されたので,明らかに3D-CGベースの描画だと分かるシーンを紹介しておこう。イリスが住む家とその前庭(写真44),洞窟を出たアルコとイリスが崖の上の移動する階段(写真45)はその典型例である。前者の窓ガラスへの映り込みや草地での散水は手書きとは思えない。後者では,階段そのものも2人が階段を登る姿勢も,3D空間でのレイアウトだと考えるのが自然だ。一方,ミッキが洞窟内に描いた壁画は手書きだろう(写真46)。この壁画が物語にどういう影響を与えるかはネタバレになるので書けないが,じっくり眺めて,その意味を考えて頂きたい。筆者は2度目に熟視するまで気付かなかった。
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