コンピュータイメージフロンティアIII
電脳映像空間の進化(13)最終回

サイバースペースの未来


 プロローグ  

 1年間全12回の連載の予定が,「サイバーエージェント」で2回分とってしまったため,「まとめ」が入りきらなくなってしまいました。13回というのはキリがよくないのですが,やはり総括をやって締めくくりたいと思います。
 調査・取材の都合で,連載の順序もランダムになってしまいました。このため,全体的な流れを汲み取っていただきにくかったと思います。やっている側もいささか混乱したのですから,当然ですね。
 最終回は,サイバースペースを原点に立ち戻ってこの連載を振り返ってみました。勢いあまって,ピタッと着地が決まらなかったかも知れませんが,ご容赦下さい。          (Yuko)


1. 2つのサイバースペースとその接点

 連載を振り返って

 本連載では,「電脳空間サイバースペース」と呼ばれるものに2つの用法があることを指摘し,それぞれ「第1のCS」「第2のCS」と称して対比的に論じてきた。即ち,「第1のCS」とは,バーチャルリアリティ(VR)システムが扱う3次元映像空間であり,臨場感・没入感を高めた右脳的擬似体験である。もう一方の「第2のCS」は,コンピュータネットワーク上に形成された電子化社会空間であり,左脳的機能の実践体験の場である。単純化して言えば,VR分野とインターネット分野の現状とこれからの展開を見てきたわけである。
 「第1のCS」,VR分野には基幹産業と呼べるほどのものはないが,仮想体験の面白さは,ビデオゲームやテーマパークのアトラクションに活かされている。VRは,CG技術の重要な応用分野の1つであり,仮想空間の構築・描写技法は,ゲーム分野に大きな影響を与えた。
 VR分野の先端技術の向かうところは2つある。1つはCAVEやCABINといった没入感を重視した大型ディスプレイであり,もう一つは,拡張現実・複合現実といった実世界活用型の話題である。前者は究極の没入感を模索しての産物であり,後者は人工的な没入感を捨て,現実世界との接点に新たな展開を求めるものである。この2つの流れは,一見矛盾するように見えるが,底流のどこかでしっかりと繋がっている。小さな仮想世界での名ばかりのリアリティに飽き足らず,増大するコンピューティング・パワーを別の形で発揮し始めたのだと考えられる。
 「第2のCS」,インターネット界の話題は尽きない。本シリーズでは,ブラウザの仕様やプロバイダ業の盛衰といった卑近すぎる話題は避け,サイバースペース論として取り上げるに足る話題に絞って概観してきた。それでも,約1年の連載の間には少し様相が変わってきた。
 インターネット利用者の数は増え続け,ホームページの維持・管理にかかるコストも増大している。一度使い始めたユーザーの定着率は高く,昼間勤務先での利用が,夜間や週末の個人利用に結びつき始めている。退職した女性のほとんどは,引き続き自宅で利用し続けているという。
 取り上げた話題のうち,検索エンジンの利用はもう当り前になり,その勢力分布も落ち着いてきたようだ。その一方で,同じ回に取り上げたWWWの可視化ツールはあまり進展していない。2大ブラウザに組み込まれない限り普及しないと予測したように,可視化ツールの存在すら知らない人がほとんどのようだ。もう1つの理由としては,どこのサイトもウェブ・ページの構成が分かりやすくなり,迷子にならずに全体像を把握しやすくなってきたことがあげられる。つまり,あえて可視化ツールをダウンロードして使うほどのことはないのである。
 エージェントは,人工知能にとっても分散処理にとっても恰好の話題であり,研究開発人口も増大している。WWWを対象としたエージェントも盛んで,EC(電子商取引)と絡めた話題も出てきている。ユーザーの好みを分析し,適切なガイドやコンサルタントとして働くエージェント達である。広大な情報空間の案内人として,姿・形のある擬人化エージェントがこれから次々と登場してくることだろう。しかし,本当に知的な振舞いをするエージェントが活躍するかとなると,それは怪しい。人工知能関連の技術は,期待が大きい割には実用性は低く,あまり投資効果のあるテーマではないと思える。
 インターネットで音や映像を配信するストリーミング技術は,着実に進歩しているが,爆発的な普及には結びついていない。インターネットのような帯域が保証しにくい環境では,映像配信は最も相性の悪いアプリケーションである。そもそもテキストや音声に比べて,映像は3〜4桁データ量が多い。世界中がつながった大きな電脳空間が現れたからといって,すぐにそれが可視化・映像化すると考えるのは早計すぎるようだ。
 インターネット関連ビジネスが大きくテイクオフしないのは,世の中への貢献度の割に収益構造が見えてこないからである。エンドユーザー(クライアント)にとって,通信料金以外はほとんどタダという構図ができてしまった。それが,個人で買う他のパソコン用ソフトやゲーム・ソフトと違う点である。構造的には,むしろラジオやテレビに近い。TV受像機にあたるパソコンと,局側設備にあたるサーバー・マシンだけが,WWWの登場とともに大きく伸びたのである。
 この1年の間にも,バナー広告の量はかなり増えた。インターネットは民放と同じように広告料収入だけで必要経費がまかなえるだけのメディアに育っていくのだろうか。サイバースペースの維持管理費はそう安くないので,そこで本格的な娯楽・教育,その他の社会活動ができるかどうかである。まだその明確な答えは出ていない。しかし,WWWの登場以来まだ10年も経っていないことを考えれば,ここまでの地位を占めた新しいメディアは,あと4〜5年もすればしかるべきビジネス・モデルを示していることだろう。


 接点はVRML

 「第1のCS」と「第2のCS」の接点はあるのだろうか。最も近いのは,前回取り上げたサイバーシティ体験だろう。その仮想空間構築は,明らかにVR技術の恩恵を受けている。コンピュータの処理能力と回線の速度が許すならば,現時点でももっと臨場感・没入感の高いVR環境でチャットやショッピングを楽しむこともできる。ただし,個人参加者でそこまでの設備を持てる人がいないだけである。  もう1つ,「第1のCS」と「第2のCS」の接点はといえば,第1回でも橋渡し役として紹介したVRML(Virtual Reality Modeling Language)だろう。既に,サイバーシティのうちいくつかはVRMLで記述されている。
 VRの名を掲げているが,本格的なVRシステムを構築するのには使われていない。立体映像,ヘッドセンサ,グローブ形対話デバイス等を備えたVRシステムからすると,まだまだレベルが低すぎるからである。
 VRMLは,WWWに3D-CGの枠組を持たせるために提案された。1994年にMark Pesceが提唱し,SGI社のOpen Inventorの外部ファイル・フォーマットをもとにVRML1.0仕様が決められた。ページ間のリンクが実装できる以外は,静的な仮想空間を定義できる程度のものであった。
 VRML2.0の仕様をめぐっては,多少政治的な動きもあった。SGIとソニーの連合軍が推すMoving Worldsと,米マイクロソフト社が提案したActive VRMLが対立し,前者が勝ち残った。VRML2.0では,アニメーション,サウンド,動画テクスチャ,インタラクション等が可能で,動的なシーンも記述できる。新しいオブジェクトの定義やスクリプト記述を許すなど,ソフトウェア・システムとしても進化した。VRML1.0とは,ほとんど別物と考えた方がいいくらいである。
 SGIはCosmo Player1),ソニーはCommunity Place Browser2)と名づけたビューワ・ソフトを世の中に提供している。1996年にVRML2.0の決戦投票の後,コンソーシアム3)が発足した。ほぼそのままの仕様が,1997年にはISOの標準VRML97として公表された。この頃には,PC版のビューワも登場し,VRML2.0で記述したウェブ・サイトもかなり増えてきた(写真1)。といっても,世の中のホームページ全体からすればまだまだ数えるほどで,広く普及しているとは言い難い。ウェブで3D仮想空間を手軽に作れるようなツールがまだ充実していないことも一因だろう。
 サイバーシティのいくつかは,VRMLで記述されていると述べたが,複数人が仮想空間を共有し,チャットできるような機能をVRML2.0が提供しているわけではない。これはVRML3.0まで待たねばならず,各仮想都市システムの設計者はVRML 2.0のデータ・フォーマットを踏襲しながらも,各々が独自の機能を付加して対処しているのである。
 VRML3.0では,立体視や空間共有の機能が入るので,もっとVRらしくなる,即ち「第2のCS」から「第1のCS」への移行が進むという声もある。PCでの3D−CG描画能力も年々向上しているので,これまでSGIマシンでしかできなかったことも順次PCの守備範囲に入ってくることは間違いない。ただし,サイバースペースとしてのWWWがVR化するというよりは,この場合もVR分野の成果がインターネット側に波及するといった方が感覚的にはピッタリくるだろう。
 VRMLは,同じ頃に話題になったJavaと比べて普及が遅れていると言われる。たまたまWWW関連の新技術の話題が2つ重なっただけであり,本来JavaとVRMLは比べるべき対象ではない。両者は,両立・併用可能である。
 普及度という点だけで見れば,プラットフォーム非依存のJavaはネットワーク時代の申し子として,あっという間に広がった。汎用言語であるだけに,支持層が増えれば強い。
 一方のVRMLは,CG分野の中で,徐々にそして着実に進化し,利用者も増えている。サイエンティフィック・ビジュリゼーションやCADの分野では,異機種のワークステーションやPC間でのデータのやり取りにVRMLが頻繁に使われているのである。例えば,SunやHPのワークステーションで画像化したデータをSGIマシンで吸い上げてCAVEで体験したり,MacでモデリングしたCGデータをNTサーバー上のウェブ・サイトにアップするといった使い方である。
 新たな政治的な動きとしては,今度はSGIとマイクロソフトが手を握り,共同で3D-CGの新API,Fahrenheit4)を作製中である。この動きが,VRMLの将来にも影響を与えそうだ。

2. サイバースペースのリアリティ

 日常 vs. 非日常

 Dr. SPIDER 「電脳映像空間の進化」を自分達の目で見て確認すると宣言して始めた第。部ですが,W. ギブスンの原点に戻って,いま我々が体験できる「電脳空間サイバースペース」とは何だったのかを考えてみましょう。
 Yuko 集う,おしゃべりする,ショッピングするといった機能は,一応サイバーシティ内で試みてみたのですが,大したことないですね。ゲーム感覚の域を出ず,電子化社会体験というのはおこがましいと思います。
  ズバリいうなら,リアリティが低いんでしょう。
  ビジュアルなリアリティも足りないけれど,社会体験としてのリアリティも低いと思います。
  「電脳空間サイバースペース」は,もともと視覚的であり,共感覚幻想でしたからね。どちらもダメということですか。
  VR/CG分野の進歩を見ていたら,フォトリアリティは上げられると思うんです。でも,そこまでのコストをかけるには未成熟だし,コミュニティを形成するほどには世の中に認知されていないと思います。
  その一方で,電子メールやWWWでの情報流通はどんどん伸びているし,ビデオゲームもレベルはどんどん上がっていると感じるでしょう。
  そうですね。「サイバースペース」と呼ぶのに少し抵抗はありますが,情報ベースとしてのWWWはどんどん便利になってますね。
  原点は「共感覚幻想」(consensual hallucination)なんだから,そんなに日常生活のリアリティをサイバースペースに持ち込まなくてもいいと思いますよ。
  でも,仮想体験にリアリティを感じるのは,実世界体験を反映できるからじゃないですか。
  そこが議論の分かれ目でしょう。日常の世界,現実の社会生活を写像するのと,非日常の世界,架空の世界を楽しむのとは,別の物差しで測るべきですよ。
  「日常」と「非日常」ですか。
  現実世界を模倣しようとすると,フォトリアリティは高いほどいいし,社会体験・消費生活のリアリティを入れようとすると,出店数や参加者数があるレベルに達しないと本物にならない。後者は技術の問題じゃないですよ。
 一方,架空世界,おとぎ話の世界なら,かなりデフォルメや誇張があっても構わない。むしろ,単純化して誇張する中に,非日常的な楽しさがあると思います。
 。 確かに,ゲームや映画だって,そういう2つの要素がありますね。
  『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』は非日常の架空世界で,『電車でGO!』や『パワーステークス』は現実世界の模倣でしょう。「CGにしてはよくできてるな」と。
  『バットマン』や『スター・トレック』は非日常の楽しさで,『タイタニック』はなるべく当時の様子を忠実に再現したいという願望の表れですね。
  W. ギブスンが拓いたサイバーパンク小説は非日常の典型なのに,言葉だけ借りてきて,いまのインターネットにいきなり社会生活のリアリティを求めることに無理があります。オタク雑誌はすぐにウェブに移行できても,ビデオ屋は簡単にサイバースペースに移れないんです(笑)。
  コンピュータやネットワークならではサービスの方が向いてますね。お役所の広報とか,DBの検索とか。
  いい着眼点ですね。いままでの物理世界ではやりにくかったことを電子的に実現できるなら,すぐアピールできるし,波及効果もありますね。ある意味では,それも「非日常」の事柄の実現でしょう。
  日常生活の「代行」はあらゆる意味でのリアリティがないと受け入れてもらえないのに,非日常的な行動を「誇張」「強調」するのは受け入れられやすいんですね。
  そうそう,「代行」と「強調」。画像処理もそうでしたね。人間の視覚の代行は難しいけど,見えないものを見せる可視化や強調の方がずっと易しいですね。コンピュータとAIの本質的なところに共通する問題です。
 残った話題はこの次に
  この連載では取り上げ切れなかった話題もいくつかありますね。
  Java,Flashといった,もうホームページ使われている技法は避けてきました。課金・暗号・電子透かしといった話題も,ちょっと余裕がなくて触れられませんでした。
  画像・映像に関わるのは,電子透かしくらいでしょ。日常の社会生活でのメカニズムをサイバースペースにも持ち込みたいという要求と,電子的取引ゆえにそれに以上の安全性を求める要求の両方から生じた話題ですね。個人的には,こういう必要悪のような技術には余り興味ないんです(笑)。
  「人工生命」にも触れませんでしたね。サイバースペースに住む生命体というのは夢がありますよ。
  少なくとも「必要悪」じゃないですね(笑)。生命の発生や進化のメカニズムをモデル化しようとする人工生命研究には興味はありますが,サイバースペース内の生命体というと,アバタやエージェントと区別がついていない,いい加減なものもあるでしょう。
  まだ,そういうレベルですね。
  と,いうことで,その話題は次のシリーズにとっておきましょう(笑)。

3. サイバースペースの未来

 デジタル革命は,もうすぐ折返し点

 この連載の途中までは,付録で「SFX映画時評」と「マルチメディア書評」をほぼ同等に扱ってきたが,後半は前者が優勢になってしまった。書評に取り上げるに値する本がほとんどないのである。書籍出版自体が不振だというが,ハイテク関連の書籍は特に低調だ。単行本だけでなく,新聞・雑誌でもマルチメディア,デジタル革命関連の記事はかなり減ってしまった。
 過熱報道は後遺症を残すだけで有難くないが,減りすぎる反動も困ったものである。普通なら伝わってくるべき情報まで欠落してしまうのも良くない。そこそこに刺激しあってこそ,技術の向上もあると思うのだが,ハイテク報道もまたデフレ現象を起こしているようだ。
 本シリーズの番外編では,「マルチメディア:峠の群像」という言葉を好んで使ってきた。一時期の大フィーバーは過ぎ,目新しい話題も少なくなって,いまは「中だるみ状態」であるという意味で(堺屋太一氏流に)「峠の時代」だと言ったのである。
 また,「マルチメディア革命」「デジタル革命」のもうすぐ折返し点という表現も使ってきた。この第。部を終えるにあたって,この感がますます強くなってきている。
 1990年初めに「情報スーパーハイウェイ構想」が華々しく報道され,マルチメディア革命が喧伝された。2010年頃までに,この革命が終了するという当時の報道をそのままに受け容れるならば,現在(1998年)はまさに「起承転結」の「承」の時代に当たる。競馬でいえば,第2コーナーから向う流しに移る頃,マラソンならもうすぐ折返し点の18〜19kmあたりといったところだろうか。
 いずれをとっても,一番退屈な時,報道陣にとってニュース・バリューが少ない「中だるみ状態」である。ここで,しばらくそっとしておいてくれれば,技術的にはチャージできるし,情報インフラの整備も進む。加えて今回の折返し点は,世紀の変わり目に当たっているので,たとえ中身はうすくとも,マスコミはとにかく騒ぐだろう。それが追い風になり,景気が好転するなら結構なことだ。どれだけバカ騒ぎするのか,2000年元旦,2001年元旦の新聞や,その前後のテレビ番組が今から楽しみである。
 では,その折返し点の後はどういうレース展開になるのか,かなり独断を混じえて予想してみよう。

 パッケージからネットワークへ

 「マルチメディア」の話題は,当初パソコンに音声・映像が取り込めることから始まり,テレビ電話,バーチャルリアリティ,ビデオ・オン・デマンド,TVゲーム機…と映像関連の話題が続いた(それゆえ,「コンピュータイメージフロンティア」と題した本シリーズもここまで続いた)。まずは「マルチメディア革命」=「デジタル映像革命」といった感があった。
 やがて,「情報スーパーハイウェイ」から,話題がインターネット,PHS,CALS,EC…と移るにつれ,狭帯域でも利便性の高いネットワーク関連の話題が増えてきた。「デジタル通信革命」とでも呼ぶべき要因が台頭してきたのである。この,「デジタル映像革命」と「デジタル通信革命」の両方を語ったり,時には片方だけに言及するから,マルチメディア報道は中心が定まらず,捉えどころがなかったのである。
 情報蓄積と伝達の媒体の進歩がある閾値を超えた時,必ずといっていいほど「メディア論」が活発になる。その進歩があるレベルで落ち着いた時,従来扱えなかった情報の処理・加工技術が飛躍的に向上する。この10年のマルチメディア・ブームでいえば,CD-ROM,ISDN,液晶ディスプレイといったメディアやデバイスが確立して,映像のハンドリング技術が花開いた。プラットフォームが定まると,そこに盛られるコンテンツも充実してくる。
 処理や蓄積の能力でなく,運搬や操作の利便性に関する変化は,別の要因で引き金が引かれる。パッケージ系からネットワークへのシフトは,携帯電話,インターネット等の通信手段の利便性が,サービスとコストのある臨界点を超えた時になだれ現象を起こした。そこで扱えるデータ量,情報の質は低くても,利便性ゆえにその新しい(伝達)メディアが受け容れられたのである。
 広帯域のマルチメディア通信の実験が,まだその経済的価値を見出せないでいる間に,インターネットはその参入障壁が低いゆえに燎原の火のように拡がった。マルチメディア・システムとしての完成度は低くても,全世界をつないで,誰でもが情報発信・収集できる利便性が魅力であった。初期投資の割に,得られる情報価値は高かったと解釈することもできる。  WWWは,コンピュータ・ネットワークの魅力をアピールする大きな引き金となった。こうなるともうディジタル・ネットワーク抜きで,マルチメディア革命は語れない。「サイバースペース革命」という言葉が台頭してきたのも,スタンドアロンでなくネットワークは不可欠という風潮の表れだと考えられる。
   3Dは当り前の時代に  安定したプラットフォームで培われた処理技術やコンテンツは,やがて後発の新メディアにも波及する。ウェブ・ページが次第に複雑化し,音声や映像を積極的に取り入れてマルチメディア度が向上しているのは,その典型的な現象である。
 かつて,CD-ROMベースのマルチメディア・タイトルが大きな市場を形成すると思われた。そのためのオーサリング・ツールももてはやされた。ここに投資したソフトウェア・ハウスやクリエータ達が,いまホームページ・デザイン市場で一息ついている。
 サウンドやアニメーションでホームページを飾ると,次は3D-CGを使いたくなってくる。となると,VRMLはもっと普及するのだろうか?
 10数年前は,コンピュータの端末のほとんどはまだキャラクタ端末であった。やがて,ビットマップ・ディスプレイ,オーバーラッピング・ウィンドウ,アイコン等のGUIが主流となった。いまや,インターネット・ブラウザが初期メニューとなり,OSと一体となりかけている。これが3D-CG化され,空間内を移動しながら所望のタスクを実行するスタイルが一般化することも考えられる。
 なぜなら,TVゲーム機はいつの間にか3D-CG利用が当り前になっているからである。2Dでも十分と思えるロールプレイング・ゲームのキャラクタやオブジェクトまでが3D-CG化されている。そう考えると,テレビ番組を選択するのも,電子レンジを操作するのも,いまのサイバーシティ体験と同じ感覚になったとしても不思議はない。
 一旦確立したプラットフォーム上での応用は,ハードの性能が向上するにつれ,その限界性能を生かす方向へと向かう。「第1のCS」,VR分野のプラットフォームは,SGI社のグラフィック・ワークステーションである。VRの先端技術が大画面化や実世界利用へと傾斜しているのは,限界性能の追求の表れと考えられる。
 折返し点の後は,この流れが加速するだろう。そして,その技術はPCの世界へと波及してくる。なぜなら,パソコンのCPUもOSもその向上した性能の発揮しどころを,目下のところ,映像(ストリーミング・データ)と3D-CG以外に見つけられないからである。

 次はウェアラブル

 利便性を追求するもう一つの流れは,「モバイル」(可搬型),「ウェアラブル」(装着型)な情報機器へと向こうと考えられている。両者は近い概念だが,同義語ではない。ノートPCやペン入力型の携帯情報端末は,「モバイル」であっても「ウェアラブル」ではない。一方,HMDやリストウォッチ型の「ウェアラブル」なデバイスでも,ケーブルつきで可動範囲が限られるものは「モバイル」とはいい難い。
 「ウェアラブル」(wearable)は,コンピュータの小型化,通信のワイヤレス化を想定したコンセプトである。「身につける」という感覚は,単に持って歩くというより一歩進んだ感じがする。このコンセプトは流行に乗る可能性が高い。
 昨年(1997年)10月,MITメディアラボが音頭をとり,第1回国際シンポジウム5)が開かれた。まだ技術的に実現できていない未来のウェアラブル・ファッションを,ニューヨーク,パリ,ミラノ,東京のデザイナ達と組んで発表する演出までなされた(写真2)。こうしたノリには,新しいもの好きの技術ジャーナリズムがすぐに反応し始めている。
 VRの象徴であるHMDは,「ウェアラブル」なデバイスの最たるものである。シースルーHMDをかけ,サイバースペースから流れてくる情報提示を受けながら,街を歩くなんていうのは,サイバーパンク文化そのものだ。
 W. ギブスンのサイバースペース3部作では,「皮膚電極ダームトロード」や」「ヘルメット」など身につけるものが頻繁に登場するが,いずれもケーブルがつながっている。SF作家といえど,ビジュアルなデータがワイヤレスで送受信できるとは想像できなかったのだろうか。
 ともあれ,個人用情報端末のモバイル/ウェアラブル化が進展するのは必至だろう。当初表示できるデータ量はわずかでも,これもやがて映像化,マルチメディア化が進んで本物になるに違いない。過大な期待さえしなければ,デジタル映像革命の波は着実にここまで及ぶと考えられる。
 折返し点後のレースは,誰が仕掛けるかで展開は少し変わってくるだろう。しかし,少し大局的に見れば,デジタル映像革命とデジタル通信革命が入り混じりながら着実に進行することは誰でも分かるだろう。コンピュータ・ネットワークが形成する未来の情報空間は,始祖W. ギブスンが描いた「電脳空間サイバースペース」ほど幻想的ではないかも知れないが,誰もが没入ジャックインして楽しめる世界になりそうだ。